聖書学研究所 > 研究会員からの寄稿 > 第 4 稿目
《殺す人》(ホモ・ネカーンス)
          ― 《いのち》をキリスト教的に考えるための一つの視点 ―

水 垣  渉

はじめに

 京都駅近くの東本願寺の前を歩いていると、2011年に親鸞聖人の七百五十回の御遠忌を迎えることを知らせる大きな看板が塀にかかっているのが目に入る(1)。そこには、「今、いのちがあなたを生きている」という言葉が、英語の“Now, life is living you.”とともに書かれている。「いのち」自体は抽象的な言葉であるが、lifeをlive という動詞の現在進行形にし、他動詞のように用いて「今のあなたを生きているいのち」として言い表わしているところに、このテーマの眼目がある。「あなたにおいて生きているいのち」ではなく、「あなたを生きている(生かしている)いのち」には、「あなたそのものであるいのち」、「いのちそのものであるあなた」という、いのちの具体的であるとともに根源的なありかたが余すところなく表現されている。たいへん印象的で、何か思わずうなずきたくなる言葉である。無論ここには、殺生を十悪の第一とする仏教の基本的な立場を含めた浄土真宗の根本的なメッセージがあろう。

 それでは、これに対してキリスト教は何というであろうか。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)といわれているように、いのちは「神のいのちの息」としての神自身のいのちが人間の現実となったものであるから、人間が人間であるのはこのいのちによる(2)。その限り、「今、いのちがあなたを生きている」は、キリスト教的にもいいうる。

しかしキリスト教は、人間と世界の現実、しかもその最低の現実から出発する宗教である。そしてキリスト教は、この現実を広く「罪」と言い表わしてきた。「いのち」についていえば、罪という最低の現実は、いのちがいのちを「殺す」ことにある。神に源を持ついのちを殺すことは、神への反逆にほかならない。それゆえ人間としてのいのちには、それの最高の現実と最低の現実の両方が同時に認められねばならないことになる。パスカルに倣っていえば、「人間の偉大さと惨めさ」の「二重性」ということである(3)。

2008年3月の土浦駅での無差別殺人事件以来、6月の秋葉原の事件、さらにその翌月の八王子の事件など無差別の殺人事件が続き、それらの犯人が等しく「誰でもいいから殺したかった」と叫んだことは、私たちのいのちの根本に「いのちを殺す」という衝動が抑えがたく潜んでいることを示している。これが、いのちの叫びなのである。それは、「今、いのちがあなたを殺したがっている」、「今、いのちがあなたを殺している」、いいかえれば、「今、いのちがあなたを殺しながら生きている」ということにほかならない。人間のいのちは単に「死にゆくいのち」にとどまらないのである。この「殺すいのち」の現実を受け止めることは、キリスト教にとって避けえない課題となる。とくに「いのち」や「平和」が自明の最高価値とされている現代においては、それらが安易な口先だけのスローガンにおわることがないように、キリスト教こそがこの問題に取り組まなければならない。なによりも宗教に期待されるのは、人間とその世界の根本的な矛盾を明らかにし、その解決への方向を指し示すことにあるからである。

ところで、「殺す人」(ホモ・ネカーンス)いう表題は、チューリッヒ大学で長年西洋古典学の教鞭をとったヴァルター・ブルケルト(1931〜)の著書『ホモ・ネカーンス 古代ギリシアの犠牲儀礼と神話』からとった(4)。「ホモ・ネカーンス」(homo necans)はラテン語で「殺す人」の意味。「ホモ」は「人」、「ネカーンス」は「殺す」という意味の動詞「ネコー」(neco)の現在分詞である。「殺人」であれば「ホミキーディウム」(homicidium)、「殺人者」であれば「ホミキーダ」(homicida)などの言葉があるが、ブルケルトが「ホモ・ネカーンス」という句を用いたのは、「ホモ・サピエンス」(homo sapiens=知恵あるヒト)といわれる現生人類が、実は「殺す」という特性を持った「ヒト属」であることを強調したかったからだと思われる。ブルケルトは本書の第1章の冒頭で次のように述べている。

「人間の人間に対する攻撃性、暴力性は、われわれ文明の進歩のただなかにおいて露わになり、その危険は進歩とともにむしろ増大していくように思える。(中略)より深い次元で確認されることは、人間社会の秩序や支配形態がすべて制度化された暴力を基盤としている、ということである。この暴力に本質連関しているのは、コンラート・ローレンツが生物学の分野で示唆した、同種間における攻撃性の果たす根本的な役割である(5)。こうした「いわゆる悪」からの救済を宗教に全身全霊を込めて期待するならば、そこでもまたキリスト教の根底をなすものそれ自体が、ひとつの殺害であるという根本の事象に向き合うことになる。神の子の罪なき死。そして旧約のその契約の締結もまた、ほとんど実行されかけたアブラハムによる実子の供犠を前提としている。まさに宗教のただ中において、血なまぐさい暴力が魅了し、脅かす。」(6)

ここでブルケルトが「キリスト教の根底をなすものそれ自体が、ひとつの殺害である」といっているのは、もちろんイエスの十字架をさしている。これがキリスト教の根底であり、出発点であることは、誰も否定しないであろう。キリスト教はイエスの十字架上の死を人間の罪にかかわる根本的な出来事としてきたが、その死は殺しによってもたらされたものであった。「十字架」という言葉自体が殺害を意味している。それゆえ、「イエスの死」ではなく、より正確には、「イエスの殺害」である。私たちは「十字架の死」(フィリ2:8)、「イエスの死」(二コリ4:10)、「キリストの死」(ガラ2:21)といったパウロの表現に慣れているので(もっともパウロも一テサ2:15で「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく...」といっているが)、福音書と使徒言行録がいう「イエスを殺す」という表現を忘れがちである。たとえば神殿でのペトロの説教「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」(使3:15)。ユダヤ人だけではない。「異邦人は人の子を侮辱し...鞭打ったうえで殺す」(マコ10:34)。教父には「キリスト殺し」(Christophonos; Christophonia)という単語もある(7)。

十字架における救いの出来事が、人間の罪がきわまる殺しにおいて実現するというのは、殺害行為が犠牲、より正確にいえば、供犠と結びついて考えられることを示している。人柱、人身御供の場合が想起される。その限り、十字架は宗教学や文化人類学のテーマであり、またブルケルトのように、それらの学問を取り入れた古典文献学のテーマでもある。 

しかしここでは犠牲の問題には立ち入らないで、いのちと罪との関係に中心をおいて殺しについて考えてみたい。「いのち・罪・殺し」の三者関係といってもよい。イエスの十字架は、罪の最も現実的なあらわれである殺しにおいて生起し、まさにこの殺しにおいて殺しにきわまる罪の贖いが実現したことを告げる出来事である。それゆえ十字架は、殺しにおいて殺しが克服される出来事だといってよい。

このような視点には、「生と死」、「いのちと死」を取り上げる視点とは異なるところがある。これらの視点には、なお自然的な面が伴っている。死は生物の過程としての生に属している。それゆえ生の技術によって操作可能な面がある。しかし、殺しによる死は異なる。殺しによって死はその自然性を大きく奪われる。自然的な過程に反する人間の意志に基づく行為が、殺しによる死を不自然なものにする。たとえば、さまざまな大量殺戮や原爆による死を自然死と全く同じ範疇で考え、自然死に還元することはできないであろう。ここに「歴史的な死」あるいは「死の歴史」の問題が生じる。これはまた、自然そのものの問題でもある。

ヘブライ的・キリスト教的伝統では、死ははじめから自然的な事柄だとはみなされなかった。418年のカルタゴでの反ペラギウス派の教会会議では、「死は堕罪の結果ではなく、被造物のものとして与えられたもの」との主張は誤りとされた(8)。死は神により告知されたが、カインによるアベルの殺しによって現実となった。それゆえ、殺しによって死が生じ、いわば死の前に殺しがある。死に刻み込まれているのは、殺しの刻印である。そしてこの「カインのしるし」(創4:15)を担うのは生者カインである(9)。

ところが、神学では殺しの問題はあまり論じられていないように見受けられる。少なくとも現在では、生と死が神学の主要なテーマになっているのに比べるならば、その印象はぬぐえない。たとえば『聖書神学年報』の19号(2005)は、「死にもかかわらず生」(Leben trotz Tod)をテーマとした論文集であるが、そこには殺しは全くといってよいほど扱われていない(10)。本稿の目的は、殺しがキリスト教思想や神学のテーマとしてもつ意義をまずいくらかでも示そうとするところにある。

T生・死・殺

 私たちが死について考えたり、論じたり、また感じたり、恐れたりするのは、いつも生からである。生きていることが基本にあって、死への態度が問題にされる。「死への存在」(Sein zum Tode、ハイデッガー)であるのは、生のうちにある人である。

この場合、死に対する態度としては、基本的に二つの可能性、選択肢しかない。第一は、死なないようにすること、つまり死を可能な限り避けることである。不老不死とはいわないまでも、生を限りなく延長したいとの願いは普遍的である。第二は、死を避けえないものとして受け入れることである。これには多くの可能性があろうが、ここでは三つを挙げておこう。その一つは、どのような死であってもあきらめて受け入れること。二つめは、できるだけ安らかな死を求めること。三つめは、少なくとも意味のない死は避け、より意味のある死を求めること、である。

あとの二つは、しばしば自分の本来の場所で死にたいという願いになる。「今日もまた 胸に痛みあり 死ぬならば ふるさとに行きて死なむと思ふ」という石川啄木の歌は、その一例であろう。しかし一般的な人生論の立場では、第二の可能性の三つのありかたが組み合わされて論じられることが多いようである。たとえば、人間すべて死ぬのだから、これまでの自分の人生がいくらかでも人の役に立ったことに意味を認めて、最後はあきらめるのが肝心である、というふうにである。ともかくこれらはいずれも、生からの死ということで考えている。自然的な生が中心になっている。もちろんそこに宗教的な問題がないわけではない。ただ露わにはなっていないのである。

しかし、このような一般的な勧めには満足できないことがしばしばおこる。死の問題性は、そもそもそのような事前のほどほどの諦めを打ち砕いてしまうところにある。死の問題性は、人生の意味や死への態度を問うことを不可能にするところで深刻なものになる。死について何らかの意味を求めることも、死に対する態度を決めておくこともできなくするのが死である。私たちは、もう生まれてくる前から死に脅かされている。自分が死んでいたかもしれない、という可能性を誰も排除できない。不慮の事故や災害による死、たとえば原爆による死などでは、前もって死の意味を問うことも死への態度を決めておくこともできない。人に死への態度をとりえなくすることがあるのが、死というものの特徴であり、死の力である。あたかも死のほうが私たちより先にあって、生まれる前からわたしたちを待ち構えていて、私たちの生をはじめから圧倒していることがあることを、認めざるをえない。とりわけ殺しによる死は、生死についての一切の予断を無力にする。

コヘレトの言葉7:17は「どうして時も来ないのに死んでよかろう」という。「時」とは原文では「あなたの時」である。「あなたの時でないところで、どうしてあなたは死ぬのか」。自分に本来属する時としての死より前に、自分本来のものではない死が先行する。これは「死の先行性」といってよい。死は「わたしの時」を「わたしの時でないもの」(七十人訳を参考にして言い換えると、ou kairos mou = not‐my‐time)にしてしまう、ほとんど絶対的な先行性であろう。これの具体的なあらわれが「殺し」である。「殺す死」、あるいはそういう言葉があるか知らないが、「殺死」と呼んでよい死である。私たちは普通「生から死へ」という不可逆的で切り離すことができない過程において、死は生の後に、あるいは生において到来すると思っているが、事実は「生から死へ」という過程を断ち切る「殺死」が私たちの生に前もって入り込んでいる。それによって、「わたしの時」である「生から死へ」という過程とともに、その中の「私の生」と「私の死」の相と意味とは一変する。私たちが生死の意味を探ろうとするならば、この「殺死」を生死の間に入れて問わねばならない。

ところで、「私の時」と「私の死」に関して連想されるのは、ライナー・マリーア・リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926 )の『時祷書』( Das Stundenbuch  )という詩集である。時祷書というのは、カトリック教会で、日々定時にささげる祈りを書いた書物である。その中に、「おお、主よ 各人に固有の死を与えたまえ / 彼がそこで愛と意義と苦しみを持った / あの生のなかから生まれでる死を」という3行がある(11)。「おお 主よ 各人に固有の死を与えたまえ」(O Herr, gieb jedem seinen eignen Tod .)にはじまるこの詩篇はさまざまな解釈が可能であろうが、この詩人が、一人一人が送った意味のある生からその人にだけ固有の、その人のものといえる、その人なりの死が、それぞれに与えられるように、神に祈っている、ということは確かであろう。社会学者のG・ジンメルは、この三行を引いて、「死が個性的となり、「なべてのもの」が「そのものの死」を死ぬ度合いに応じて、死は生そのものに附着して、従って生の現実形式、個性となるのである」と述べている。ジンメルによれば、この場合、死は「その生自体の切っても切れない深い内在」として理解される(12)。人類がしばしばまったく無意味な死を強いられている現実を見るならば、この祈りは私たちの口からもついて出る祈りであろう。

それでは、リルケの祈りのように、私の生の意味と密着した私固有の死が実現すれば、問題は解決するであろうか。そもそもそのようなことは可能であろうか。アウグスティヌスはこういっている。「わたしがわたしの生命ではありません。/ わたしはわたしによって悪く生きていました。わたしはわたしにとって死でした。/ あなたのうちでわたしは甦ります」(13)。アウグスティヌスでは、「私のものである死」によって、私が生きている生は「悪い生」であり、「死の中の生」である。このような生からは、「復活」によらない限り、無意味性としての死しか生じない。死の先行性が真に自覚されるところからは、「私固有の死」という意味のある死は生じようがない。これは、リルケとはほとんど逆の立場である。

U 生・殺・死

 リルケがいっているような「私本来の死」は、まさに願いであって、すべての人の生にその人の「私によって」(ex me)という根源的な自己根拠性が実現されるのではない。ここに、「生と死」あるいは「生から死へ」という視点ではとらえきれない問題が浮かび上がってくる。たとえば、「私によらない」「私からではない」死、つまり「殺されることによる死」は、「私本来の死」であろうか。キリスト教の殉教者にはそう信じた人々がいたことは事実であるが、しかしそう思う人はほとんどいないであろう。そもそも私は、残りの人生で人を殺すかもしれない。一般的にいえば、それ以上に殺される可能性のほうが大きいかもしれないが、しかしいずれにしても、生と死との間には、両者の意味的な連続性と同一性を切断する「殺し」が入ってこざるをえない。これは先に死の先行性といったことにつながっている。

 創世記の初めの創造物語には、いのちとともに死が語られているが(2:17が最初)、現実に死んだ最初の人は、兄カインに殺されたアベルであった。つまり死は殺すことによって現実となったのである。「人」という意味のアダム(2:7)と「いのち」という意味の名の母エバ(3:20)とから、いのちを否定する殺しの実行者カインと殺される者アベルが生まれた。この悲劇は、象徴の域を超え出る現実的なものになる。

 「殺すために生まれる」、つまりいのちを否定し抹殺するためにいのちを持つという、いかんともしがたい矛盾がここにある。ここで「人+いのち=殺」という悲惨な方程式が成り立った。ここに死の悲劇性があらわになっている。それは、人のいのちから殺すことが起こり、それによって死が惹き起こされる、ということである。「生・殺・死」という連関においては、死はもはや自然的過程だけではなくなる。これは私たちが目を背けたくなる事態であり、通常の生命倫理では正面からは扱いきれない問題である。殺すことが生命の真相だとすれば、一体私たちはどうすればよいであろうか。生命論はこの厳しい現実の問いに直面しなければならない。

 これまでの宗教は「死んだらどうなるか」に答えようとしてきた。現代のキリスト教はこれにも答えていない、と非難されることがある。以前キリスト教学会の支部会の生命倫理に関するシンポジウムで、キリスト者ではない著名な発題者から、キリスト教はこれに答えていないから人々は新宗教や新新宗教にいってしまうのだ、といわれたことがある。しかしそれでは、「死んだら天国に行きますよ」といって答えになるであろうか。今では、キリスト教信仰とは関係なく、誰もが死んだら天国に行くと思っている。しかしこのような一般的で漠然とした答えにしてしまったことに、キリスト教の責任はないであろうか。

キリスト教は本来他のどの宗教よりも具体的に死の問題を真剣に取り上げてきた宗教であるはずである。キリスト教の福音は「生死」ではなく、「生・殺・死」にかかわっているからである。私は、キリスト教の福音と信仰は「生死」の問題を「殺し」の視点から見なければ、本物にならないと思う。なぜなら、それが聖書の視点だからである。


V 聖書における殺し

聖書では、人類の最初の殺人と死は、先に述べたカインとアベルの兄弟の間で起こった。カインは地上に現われた最初の子供であった。親にとって子供は最初の祝福である。その子供が次に生まれた弟の殺人者になった。生は死に直結した。ルターはこの意味でアダムを「死の父」(ein Vater des Todes)と呼んでいる(14)。それは結局、アダムが殺すものでもあった、ということである。

殺されたアベルの死は、たとえばアブラハムの死の描写と比較すると、違いが明瞭である。殺されたアベルの血は「土の中から主に向かって叫んでいる」(創4:10)。これに対して「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(創25:7〜8)。これは一般的な死の理想であろう。これに反して、死んでも死にきれないのがアベルの死である。日本ではこのような場合、死者は怨霊となって、いたるところに出没することになっている。菅原道真の怨霊を鎮めるために、都には多くの社が建てられ(御霊神社)、祭りが行われる。八坂神社の祇園祭も祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれ、疫病を払う祭りである。人間の霊の観念が非業の死と結びついているのは、死が人間の生の問題を解決する最終のものではないことを ― 宗教学的にも ― 示している。

理想の死を遂げたように見えるアブラハムも、神から「あなたの愛する独り子イサクをささげなさい」と命じられ、親子の間の殺しという極限状況に立たされた(創22:1〜9)。この命令に従うことによってのみ、神に従う「信仰」が成立するのである。新約のヘブライ書の著者は、この出来事を「アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました」、すなわち犠牲として殺した、といっている(11:17)(15)。「それは死者の中から返してもらったも同然です」といい、犠牲となったイサクを死者の中から取り戻したに等しいと認めている(11:19)。つまりイサクはアブラハムによって殺されたのであり、アブラハムは殺人者であったことになる。

イスラエルの民を奴隷の地エジプトから脱出させ、神の律法を受領したモーセのような偉大な人物も、同胞のヘブライ人を虐待していたエジプト人を「打ち殺した」(出2:11〜12)。あのダビデ王も殺人者であったことを聖書は隠していない。部下のウリヤの妻バト・シェバを見初めたダビデは、夫ウリヤを戦線に送って戦死させ、自分の思いを遂げた(サム下11:2〜17)。そして彼女によってソロモンをもうけた。このようなダビデは神から「殺したのはあなただ」と宣告されている(サム下12:9)。かれは「わたしの前で多くの血を流した」ゆえに、神殿を築くことは許されなかった(代上22:5〜8)。

イエス・キリストの系図も、この不義の殺人の事実を背景にして、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」といい(マタ1:6)、殺した者と殺された者の名を明記している。そのダビデの子孫がイエスであるという(マタ1:6〜16)。この系図の表題は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」である。あたかも「ダビデの子」は恥の呼び名であるかのようである。これが同時に新約冒頭の言葉なのである。新約は殺人者の系図から始まっている、といってよいかもしれない。パウロが「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と述べたとき(ロマ1:3)、そのことを全くほのめかしてはいない、といえるであろうか。 マタイの系図では、バト・シェバとマリアとが対照をなしているとも読め、したがってダビデとヨセフも対照をなしているかのようである。ダビデは自分が事実上殺したウリヤの妻によってソロモンをもうけたのに対して、ヨセフは妻を知らずに聖霊、すなわちいのちを造るもの(zoopoion、ヨハ6:63,二コリ3:6参照)によってイエスを得たからである。ヨセフは殺人者ダビデの子であるがゆえに、イエスの生に根本的にはかかわりえないのである。ダビデもいのちの主(キュリオス)ではありえない。この系図の反面にあるのは、「アブラハムはイサクをもうけ」(1:2)のように「生む」したがって「死ぬ」という、生から死へ、死からまた生へ、という継承・移行ではなく、殺しによる生の断絶であり、また転換である。つまり自然的な継承の系図ではない。転換の系図である。

異邦人伝道の使徒パウロも、殺人者であった。ガラテヤ1:13のパウロの自己証言によれば、パウロは「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」。「滅ぼす」(porthe?)は文字通り「殲滅する」であって、これは組織や制度としての教会の破壊という意味だけだと受け取ることはできない。パウロはステファノ殺害に賛成しただけでなく(使8:1)、主の弟子たちを自ら「脅迫し、殺そうと意気込んだ」(使9:1)。直訳すれば、「脅迫と殺人(phonos)に息を弾ませていた」のである。これは「殺人をいのちとして生きていた」ということにほかならない(phonosには殺意という意味はない)。ルターは一コリント15:8〜10の解釈で、パウロが聖ステファノを殺した、とはっきり書いている(16)。ユダヤ教徒サウロにとって、新しく生まれてきたキリスト者を殺すことが宗教的にも生きがいであったのである。そのかれがローマ1:29で、「ねたみ」(phthonos)に続いて「殺し」(phonos)を挙げているのは(17)、単なる語呂合わせでも、また悪徳表のありきたりの項目でもないであろう。ガラテヤ5:21の「そねみ」の後に「殺し」(phonoi)を加える写本も少なくない。ローマ7:7〜25の「わたし」は、キリスト信仰以前のパウロか、信仰に入ってからのパウロか、いずれを描いているのか、あるいは信仰者の実存の一般的な記述であるのか、解釈はさまざまであろうが、その背後にも、パウロが迫害者、ひいては殺人者であった過去が反映していると読むことは、不可能ではない。ローマ書をはじめ、パウロの手紙が朗読されるのを聴いた人々は、パウロがユダヤ教における自分の生き方が「殺し」にあったことを認めていることを(ガラ1:13)、承知していたに違いない.

このように聖書は、人間的には最もすぐれ、信仰的にも偉業を成し遂げた人々が殺人者であったことを、隠し立てせず述べている。そしてそこに救いへの入り口が開かれた、と告げようとしている。いいかえれば、この面で聖書は、殺す者、またアベルのように殺された者が生かされ、さらに生かすものになった物語である。「殺す」という、いのちがなしうる最低最悪の行為に救いのきっかけを認める。殺しの歴史が救いの歴史に転換される、というのである。それゆえ、「生・死」はどうしても「生・殺・死」でなければならない。これが聖書の現実主義、リアリズムである。

W 死の力としての殺し

 誰にも死が訪れるという死の普遍性は、殺しの普遍性でもある。ロシア生まれのユダヤ人画家マルク・シャガール(1887〜1985)は、『わが回想』でこう書いている。かれのアトリエの「画架(イーゼル)の上を勝ち誇ったように一匹の子鼠を追いかけた。すると妻は思うのだ。「この人はやはり何かは殺せるんだわ」。しかし戦争は私の上にとどろいてきた」(18)。この翻訳では分かりにくいが、すべてのものが天使のように無邪気に踊るような絵を描いたシャガールも、妻の目には、「この人はやはり何かは殺せるんだわ」と映り、それをシャガール自身も反省的に自覚していることがいわれている、と解してよい。無邪気であったかもしれない行為の中に「殺し」が潜んでいることを、シャガールは見逃していない。「この人はやはり何かは殺せるんだわ」― 誰にもどきっとする言葉である。子供の時から、何千何万という虫たちを殺してきた私には、とくにそうである。弟を殺したカインは、出会う人々から殺されないように、神から「しるし」を頂いて、エデンの東に住んだ(創4:15)が、私たちもカインのしるしのおかげで、なんとか今生きているのかもしれない。

 それでは、誰にも殺そうとする殺意が潜んでいるという殺しの普遍性は、どのようにして成り立っているのであろうか。アベルの話がそれをよく教えてくれる。殺した者は殺された者の縁者、友人、その他の関係者から命を狙われる。仇討である。「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(創4:14)と、カインはおびえる。殺した者はお尋ね者として指名手配される。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される」(創9:6)。黙示録13:10「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない」(新改訳)。殺した人は他の人によって殺され、その人もまた殺されることになるから、殺人がとめどなく続く。殺人は止めようのない殺人の連鎖になる。恐ろしい事実であるが、この殺人連鎖の法則は聖書に一貫している。ここにもきれいごとで済ませない聖書のリアリズムがある。

 それゆえ、死ですべてが終わり、その人の死でその人のすべてが完結するわけではない。「死んでお詫びする」というが、聖書的には、その人の死で責任と負い目が完済されるわけではない。かえって死は死を生む。生が生を受け渡しているとすれば、まさにそのことによって、死を受け渡しているのである。これが人の死である。「生から生へ」は「死から死へ」である。それゆえ、死んでも死はなくならない。死んだらすべてがなくなる、というのではない。死の力は残る。場合によってはその力は増すかもしれない。この意味で、死は無ではない。かえって新たな死の原理でもある ― この点については、さらに考察が必要であるが、ここに述べる余裕はない ―。ともかく、死は無ではなく、死は力であるがゆえに、ひとつの完結した死にとどまることなく、力をさらに及ぼしていく。この連鎖が断ち切られなければ、死は克服されない。真のいのちとしての真の救いはない。

それではどうして死の連鎖が起こるのであろうか。その背後には、聖書独特のものの考え方がある。死を一つの力と見るとらえ方である。旧約では、死は生の終わりの時点であるだけでなく、生の中に入り込んでいる力であり、その力の領域である。死者が赴く場所として「シェオル」があるが(冥府、陰府。新約の「ハデス」に当たる)、これは死とパラレルなものとみなされている。イザヤ28:15.18には、「我々は死と契約を結び、陰府と協定している」とある。死は支配領域をもつ力である(19)。古くはわが国でも、死は王に喩えられた。死神ともいう。仏足石歌には、「しにのおほきみ」という言葉がある。死の大王である。

新約でも、「わたしたちの内には死が働き(energeitai)」(二コリ4:12)といわれ、生と同じく、死もはたらく力(エネルゲイア)である。ヘブライ2:14は、「悪魔という、死の力を持つ者」(新改訳)という。同様の考え方は多い(黙20:6参照)。ここから死が罪と結びつく。一コリント15:56「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。むしろ、罪が殺すことになる。「罪は掟によって...わたしを殺してしまったのです」(ロマ7:11)。殺したパウロは、殺すことによって殺されたのである。

このように罪を通して死が力を発揮してくると、その影響は人間にとどまらなくなる。殺しの連鎖は人間だけでなく、被造物一般、つまり自然をも巻き込むことになる。創世記を見ると、人間は他の被造物支配が命じられた後で神に背き、神から「お前のゆえに、土は呪われたものになった」と宣告された(創3:17)。自然を呪われたものにしたのは、人間である。キリスト教が創世記1:28に基づいて自然支配を正当化したために現在のような自然破壊が起こったという人がいるが、これは聖書を読んだことのない人の言い分であろう。ルターは、被造物が滅びへの隷属状態にあり、苦しみを味わっている、というパウロのローマ8:18〜22について、全被造物が地上で誤用されたことを神に訴えている、と説明している。旧約偽典の第一エノク書は、「かれら(巨人たち、つまり巨大化した人間)は、鳥や獣や這うものに対して罪を犯し始めた。...するとそこで大地は圧制者たちに対して非難の声を上げた」という(20)。これがキリスト教的に見た現代の環境問題の根本である。

おわりに

 最初の殉教者ステファノの説教の最後に「今やあなたがたは...殺す者(phoneis)になった」という言葉がある(使7:52)。これはあたかも私たちに向けられた言葉であるかのようである。人間だけでなく、自然に対しても私たちは「殺す者」になった。死は私たちのこの「殺し」において、支配力として今もなお私たちの内に働いている。このようなところでは、より善い生を生きるとか、できるだけよく生きるということでは、問題は本質的には解決しない。また古代のギリシア人のように、人間には不死の魂があるからとか、今よくいわれるように、死んだら天国に行ける、ということでは、自然環境を含めた世界の問題は解決の糸口すら見いだせないであろう。

キリスト教では、真実に殺すことができるのは、神のみである。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ10:28)。ルターが好んで引いたのは、申命記32:39の「わたしは殺し、また生かす」であった。それゆえ「神は生かすために殺すのである」(21)。神は真実に殺さないでは、真実に生かさない。この「殺し生かす神」が聖書の神である。しかし近代人は、この神を殺そう思うことによって殺した。聖書では、そう思うことはそう実行したということにほかならない。それによって、生かす神を見失った。ただ生かすだけの神は、人間の願望の投影でしかないであろう。

キリスト教のいう復活は、イエス・キリストが十字架で殺され、死んで復活したその死と復活による、私たち自身の死と罪と、私たちを通してすべてのものに働く死と罪の力からの究極的解放である。そこには、ホモ・ネカーンスとしての私たちの救いが含まれていなければならない。ハイデルベルク信仰問答答43がいうように「われわれの古き人は、主とともに、十字架につけられ、殺され、葬られて...」(22)でなければならない。十字架は、「死ぬいのち」(vita mortis )から、否「殺すいのち」(vita necans)から、「生きるいのち」(vita vivens )へ、否「生かすいのち」(vita vivificans)への転換を実現する。聖書では、キリストは「いのちを与える霊」、文字通りには「いのちを造る霊」といわれている(一コリ15:45)。キリストは、アウグスティヌスの言葉によれば、「われらの死をしのび、そののちに死をあふれる生命によって殺した」方である(23)。つまり、「殺されて、いのちによって死を殺す者」である。このキリストによらなければ、死と殺しからの救いはない、というのがキリスト教のメッセージである(24)。この救いにおいて、「今、いのちがあなたを生きている」という言葉が実現する(25)。





(1) 本稿は2009年10月23日に関西学院大学神学部・キリスト教と文化研究センター共催の秋季学術講演会で行われた講演「《殺す人》(ホモ・ネカーンス)―《いのち》をキリスト教的に考えるとはどのようなことか ―」に基づいている。論旨に変更はないが、一部を削除し、言葉遣いを改めた。若干の注を加えたが、学術論文ではないので、限られた範囲での補足にとどまる。なお聖書からの引用は、とくに指定しない限り新共同訳による。

(2) 人間の規定としては、創世記1:26〜26の「神にかたどって創造された人」と同じく、あるいはこれ以上に、2:7の「神のいのちの息によって生きる者になった人」が神学的にも重要である。前者はキリスト教思想史においてしばしば「神の像である人間」と理解されてきた。この重要な意味を持つ誤解については、次の拙稿参照。「「神の像」と「人間」―古代キリスト教における思想形成の前提と条件について―」、『哲学研究』568号(1999)、1〜19頁、570号(2000)、1〜19頁。

(3) パスカル『パンセ』、前田陽一・由木康訳、中央公論社(中公文庫)1988 (13版)、255〜6頁。ブランシュヴィック版416、417番。しかしより現実的に言い表せば、人間はその偉大さと惨めさとの間に宙ぶらりんになって、いずれにも徹底できないあり方をしているということになろう。とくに生死についてはそうである。「死に死んで生に生きることをためらっていました」(haesitans mori morti et uitae uiuere)とアウグスティヌスがいうとおりである(『告白』第八巻11.25。山田晶訳、中央公論社1968、282頁)。このetには深い含蓄がある。

(4) 『ホモ・ネカーンス 古代ギリシアの犠牲儀礼と神話』、前野佳彦訳、法政大学出版局2008。原著、Walter Burkert, Homo Necans. Interpretation altgriechischer Opferriten und Mythen, Berlin: Walter de Gruyter, 2. um ein Nachwort erweiterte Auflage, 1997.

(5) Konrad Lorenz (1903〜89) 、オーストリアの生物学者。『攻撃―悪の自然誌』、日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房1985。

(6) ブルケルト、前野訳 9頁。

(7) Cf. G.W.H.Lampe (ed.), A Patristic Greek Lexicon, s.v.

(8) 同会議のカノン(規定)1。「最初の人アダムは死すべきものとして造られていて、そのため、罪を犯すにせよ犯さないにせよ、体において死んだ、つまりかれは罪の報いによってではなく自然本性の必然によって体から出た(=死んだ)、という人は誰でも排斥されよ」(水垣訳)。Quicumque dixerit, Adam primum hominem mortalem factum ita, ut, sive peccaret sive non peccaret, moreretur in corpore, hoc est de corpore exiret non peccati merito, sed necessitate naturae, anathema sit. H. Denzinger, Enchiridion symbolorum definitionum et declarationum de rebus fidei et morum, ed. XXXVII, P. Huenermann (ed.), Freiburg i.B., Basel, Rom, Wien: Herder 1991,*222 (p.106). Cf. K. Beyschlag, Grundriss der Dogmengeschichte, II/2, Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2000, 113f. 

(9) カインのしるしについては、さまざまの解釈があろうが、ここではその哲学的省察として注目すべき研究を一つあげておく。西村浩太郎、『カインの印―殺しの哲学―』、ビワコ・エディション2001。

(10)Jahrbuch fuer Biblische Theologie,19 (2005) , Neukirchen-Vluyn: Neukirchner .

    そもそもキッテルの『新約聖書神学辞典』はphonos; phoneuoの語を採録していない。「神学的」意義が認められていないのである。

(11)富士川英郎訳による。大山定一他訳『リルケ』、新潮世界文学32、新潮社1971、556頁。高安国世は「ああ主よ、各人に「彼自身の死」を與えたまえ」と訳し、「本當に各人がよく考え、愛し味わい、追いつめられた危機から得悟した生の果てに各人固有の死が與えられねば嘘なのだ」と説明している。『リルケ』、筑摩書房1954、54〜55頁。なお次のヴァレリーと比較した指摘参照。「リルケは死に遥かに大きな、根本的に重要な肯定的地位を与え、(中略)死者として「在る」ことを本来的な、もしくはより深い存在の状態であることと考えていたのである」(田口義弘『リルケ オルフォイスへのソネット』、河出書房新社2001、137頁)。

(12)ジンメル『レンブラント―芸術哲学的試論―』、高橋義孝訳、岩波書店1974、113頁。

(13)第十二巻10.10:non ego uita mea sim: male uixi ex me, mors mihi fui: in te reuiuesco . 宮谷宣史訳『アウグスティヌス著作集』、5/II、『告白録(下)』、教文館2007、283頁、による。ただ初行は、「私が自分の生命となってはならない」(山田晶訳、前掲書 448頁)、あるいは「私が私の生命とならないように」の意味である。

(14)D. Martin Luthers Epistel=Auslegung, hg. von E. Ellwein, Bd. 2, Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht 1968, 230, ad 1 Kor 15:22.

(15)むろん、アブラハムが「殺した」のは、かれが「殺そうと意志してその行為を実行した」からである。「献げた」(prosepheren)という「この未完了形は、アブラハムの意図を実行された行為とみなしている」(O.Michel, Der Brief an die Hebraer, KEK, Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 196011 , 267.

(16)D. Martin Luthers Epistel=Auslegung, 2.Band, 210, ad 1 Kor 15:8-10.  ここで藤井武の印象的な表現を紹介しておく。「ステパノの血の流されしとき/ 石撃つ者の衣を守りつつ/ かがやく顔を彼は見つめた。/ 刺されし心の傷堪へがたく/ ただ『殺害の奉仕』によりて/ みづから宥めんと荒び狂ふ。」「羔の婚姻」中編: 新婦、第九歌: ダマスコ、91〜96行。『藤井武全集』、第一巻、岩波書店1972、243〜244頁。

(17)ヴルガータはhomicidium, ルター訳(改訂)はMord、NRSVは murder。このようにphonosは「殺害」(killing; murder; slaughter )という意味であって、「殺意」にとどまらない。

(18)マルク・シャガール『シャガール わが回想』、三輪福松・村上陽通訳、朝日新聞社1985、176頁。

(19) Cf. H.D. Preuss, Theologie des Alten Testaments, Bd.2, Stuttgart/Berlin/Koln 1992, 156f.

(20)1Enoch7. The Old Testament Pseudepigrapha, vol.1, ed.by J.H.Charlesworth, New York: Doubleday 1985, 16による。

(21)Ideo Deus motificat, ut vivificet,…Die Vorlesung ueber den Hebraerbrief, 2:9 , WA 57/3,122,15. アウグスティヌスが「あなたは、...いやすために打ち、あなたをはなれて死ぬことのないように、私たちをうち殺したもう。」(percutis, ut sanes, et occidis nos, ne moriamur abs te. 『告白』第二巻2.4。山田晶訳、前掲書、93頁) というのも同じ趣旨である。さらに第十二巻14.17参照。

(22)訳は竹森満佐一訳、『ハイデルベルク信仰問答』、新教出版社1961、40頁、による。

(23)『告白』第四巻12.19: tulit mortem nostram et occidit eam de abundantia uitae suae ….山田晶訳、前掲書、147頁。

(24)本稿では、暴力、自殺、死刑、戦争など、主題にかかわる重大な問題には触れていない。また、前注(8)であげたバイシュラークの教理史が、三十年戦争以後ヨーロッパはもはやキリスト教的とはいえないとして、多くの殺人を列挙しているのは、教理史叙述としては異例であるが(235頁)、そのような「殺す教会」、「殺すキリスト教」の問題性にも言及していない。さらに私たちを躓かせる、旧約においておびただしい「殺す神」の問題も避けて通ることはできないであろう(「神はモーセを殺そうとされた」出4:24など)。また、本稿が総じて現象的な考察にとどまり、本質的な問題―殺しにおける「他者」の問題―に踏み込んでいないために、予備的暫定的な論述にとどまっていることも、明らかである。これらの問題は、同時に解決されることを要求しているが、ただ私には、これらは神学的にキリスト論的にのみ解決可能であるように思われる。

(25)講演の最後では、ルターが言及しているビーベラッハのマルティヌス(Martinus von Biberach,1498没)の墓碑銘を紹介したので、ここに記しておきたい。ルターにはこれのいくつかのヴァリエーションが見いだされる。

「わたしは生きている、そしていつまでか知らない。
わたしは死ぬ、そしていつかは知らない。
わたしは行く、そしてどこへか知らない。
わたしが嬉しいのは、不思議だ。」

Ich leb und waiss nit, wie lang
Ich stirb und waiss nit, wann
Ich far und waiss nit, wahin
Mich wundert, dass ich froehlich bin.
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