聖書学研究所 > 研究会員からの寄稿 > 第 5 稿目
通時的な読みと共時的な読み
私市元宏

 ここでは、聖書解釈の二つの方法、通時的な読み方と共時的な読み方について考えてみたいと思います。これの具体的な例として、ヨハネ福音書19章23〜25節で語られている十字架上のイエスに関わる二つの出来事を採りあげることにします。一つは、イエスの「衣服分け」で、もう一つは、これに続く「十字架の側の女性たち」についてです。便宜上、「女性たち」のほうを先に採りあげ、これに続けて「衣服分け」を扱うことにします。

■通時的な読み方
 四福音書には、イエスの十字架を見守っていた女性たちのことがでていますが、これらの女性たちの名は、歴史的な視点から見れば、正確に特定することが困難です。中山貴子氏によれば、彼女たちの名前は、伝承の過程でほかの「マリア」と混同されたり、同一人が違った呼び方をされたとも推定されるからです。だから、中山氏は、マルコ福音書→マタイ福音書→ルカ福音書→ヨハネ福音書という成立の順序を想定した上で、十字架の側の女性たちのリストを整理してあげていますが、それらの女性たちを総合して、実際にその場に居合わせた女性たちを特定することは避けています〔中山貴子『イエスの十字架の死:史実から物語へ』日本キリスト教団出版局(2010年)204〜205頁〕。
 このように、四福音書をその成立した年代順に沿って、それぞれの福音書の特徴を見ていく解釈を「通時的」(ディアクロニック"diachronic")な方法と言います。通時的な解釈は、それぞれの福音書が成立した年代をできるだけ正確に特定することから始めなければなりません。その上で、各福音書を文献学的に分析して、四福音書の間の異同を解明することで、それぞれの記者が置かれた歴史的な状況の下で、どのような意図を持って書かれたのか、これを突き止めようと試みるのです。このようにして、その福音書の神学を解き明かそうとするのです。
 こういう通時的な方法論では、聖書本文を「時間の軸に沿って」見ていきますから、それぞれの本文が、どのように変遷していくのか、その変化の過程に目を留めます。だから、福音書間の共通性よりも、むしろそれらの差異のほうに注目します。四つの福音書を総合して元の出来事へたどり着こうとするよりも、それぞれの福音書の伝承が「時間の軸に沿って」どのように移り変わったのか、その変遷過程のほうに着目します。したがって、こういう学問的な方法論に忠実であろうとすれば、十字架の場に居合わせた女性たちのリストが、どのようにして現在の形にいたったのか、その編集の過程を各福音書間の異同によって客観的に特定することはできますが、その過程を逆方向に向けて四福音書を総合し、四福音書が伝えている「元の出来事」へさかのぼることには慎重にならざるをえません。なぜなら、歴史的な客観性を保ちつつ「時間の軸に沿って」編集過程を見る方法論は、それぞれの福音書を歴史的な視点から細分化しますから、四福音書の全体像が見えにくくなるのは避けられないからです。
 このように現代の歴史学的な批評の視点は、聖書本文を歴史の時間的な推移に即して、編集がどのように変化してきたかを見極めようとします。こういう聖書の読み方は、聖書のテキストを「聖典」としてではなく、どこまでも「史的資料」と見なして、これを歴史学的な視点から読み解こうとするのです。中山氏はこういう方法論を忠実に実行しておられます。だから、過去の出来事にさかのぼって、そこに居合わせた女性たちは、いったいだれとだれなのか? これを文献批評によって客観的に特定することをおそらく意図的に避けておられるのです。しかし、中山氏によって長年にわたって積み重ねられた通時的な方法論の成果は、貴重な学問的業績としてわたしたちを助けてくれます。

■通時的な読み方の問題点
 上に述べた歴史学的な視点に立つ「通時的な」解釈の方法では、次の二つの点に注意しなければなりません。
(1)この方法は、言わば自然科学の現象を観察する方法と通じるところがありますから、出来事を外から「客観的に」観察し、その出来事を理論化しようとします。したがって、「神の働き」とか、「預言の成就」とか、イエスに宿る「聖霊の働き」などは、主観的な領域に属すると見なされ、それらは客観性を重視する学問的な領域「外」に属することになります。「預言の成就」や「聖霊の働き」は、例えばクロッサンの言い方を借りるなら、「希望と想像力」による「こしらえごと」だと理解されるのです。はっきり言えば、この意味での聖書の証言は、事実に基づかない「虚構」だと見なされることにもなります。
(2)このような客観的で歴史学的な方法論は、合理的で、現代のわたしたちに納得できる説明を与えてくれますから、現在の人に説得力のある合理性を具えています。ところが、まさにこのことが、この方法論の問題点なのです。なぜなら、歴史学的な方法論もその方法論が生み出す歴史学的な「事実」も、時代と共に移り変わるからです。「現在の」人には合理的で説得力があっても、時代が変われば合理的でなくなり、「遅れた」事実認識だとされる時が来るからです。したがって、歴史学的な客観性を重視するとは言え、この方法論に基づいた結論それ自体は必ずしも正確とは言い難く、時代と共に「訂正」されたり「修正」されたりしなければならないのです。
 これは、聖書解釈と自然科学との関係を振り返るとよく分かります。ヨーロッパ中世では、聖書は「科学的にも」誤りのない正しい記述だと信じられていました。ガリレオは、太陽が地球の周りを巡るのではなく、逆に地球が太陽の周辺を回っているという説を提示した時、当時の教会は、宗教裁判によって彼を有罪にしました。その結果、ガリレオは自説を撤回しましたが、「それでも地球は動いている」とつぶやいたと伝えられています。
 現在でも、アメリカのクリスチャンの一部には、創世記に書いてあるとおりに、天地が七日間で創造されたと信じている人たちがいるそうです。しかし現在の日本のクリスチャンなら、聖書に書かれてあることが、そのまま「科学的に」真理だとは思っていないでしょう。18〜19世紀には、自然科学の台頭(たいとう)によって聖書の真理が「脅かされる」と真剣に恐れた人たちがいました。しかし、科学の発達が、聖書の伝える真理を「覆す」ことも「脅かす」こともありませんでした。
 宇宙物理学や粒子物理学が発達を遂げた現在でさえも、その極微から極大にいたる宇宙論において、人類は宇宙全体の謎の5%しか解明できていないそうです。残りの95%は、まだ何も分かっていないのです。聖書の伝える霊的な世界においても同じことが言えましょう。アイザック・ニュートンの言葉を借りれば、「わたしたちは海の岸辺で貝殻を拾っている少年のような者で、その傍らには、まだ知られていない真理の大海が横たわっている」のです。それでもわたしたちは、宇宙にあっても聖書の世界にあっても、鳥のように野の花のように、生かされているのです。だから、学問的な研究とは、「何が分かったか」ではなく、「何が分からないかが分かること」なのです。
 同じように、今は歴史学的な見解と聖書の証言とが対立し矛盾するように見えているかもしれませんが、これによって、聖書が伝える真理が「脅かされたり」「廃れたり」することはありません。聖書の内容に批判的だと言われたマルクス主義でさえ、『共産党宣言』(1848年)が出てから160年ほど経った現在でも、聖書に「取って代わる」ことができませんでした。やがて、歴史学がさらに発達して、人間学としてその精神史をも包含する時代が来るならば、現在では考えられないような新たな光が、聖書の記述に当てられる時が来るでしょう。

■共時的な読み方
 上に述べた通時的な方法に対して、四福音書の証言をそのまま受けとめて、それぞれの福音書を「並列させる」こと、すなわち四福音書を並行関係に置いて観る方法を「共時的」(シンクロニック"synchronic")な解釈の方法と言います。共時的な方法は、四福音書の時期的・時間的な差異よりも、それらの同時性を重視します。四福音書は、共にエルサレムが陥落した頃から(マルコ福音書は70年頃)ほぼ20年の間に著わされているからです(ルカ福音書とヨハネ福音書は90年代)。
 共時的な解釈は、四福音書を並列関係に置くことで、並行する記述を総合しようと志すものです。この際に大事なのは、通時的な方法論による成果です。現在わたしが「共観福音書の講話と注釈」で準拠している『四福音書対観表』は、厳密で通時的な聖書本文の分析によらなければ著わされなかったでしょう。学問的なテキスト分析が進むほどに、その成果を逆にたどることで、聖書が証言する出来事それ自体へさかのぼることがより容易になるのです。だから、通時的と共時的の二つの方法論は、相互補完的に機能しますから、決して矛盾するものではありません。共時的な解釈は、通時的な方法論の帰結に基づいて、四福音書の内容を総合しようとするものです。これによって、四福音書の証言が、<全体として>どのような出来事を証ししようとしているのか、その出来事に迫ることができるからです。
 共観福音書が出来事を映し出す三面鏡だとすれば、ヨハネ福音書は鏡に向かう人の後ろ姿を写す四つめの鏡にたとえることができるかもしれません。マルコ福音書を正面として、マタイ福音書とルカ福音書とを左右に置くと、ヨハネ福音書は後ろ姿を写してくれます。振り返っても自分の後ろは見えません。前に置かれたマルコ福音書の鏡を観ると、自分の後ろの鏡に映った映像が、前の鏡に映るのです。マルコ福音書の上にヨハネ福音書が重なるのです。マルコ福音書には十字架のイエスの「栄光」の姿は描かれません。しかし、マルコ福音書の罪状書き「ユダヤ人の王」には、マルコのイエスへの「隠された」想いがこめられているのです。これに対して、ヨハネ福音書は、マルコがあえて描こうとは<しなかった>背後に潜むメシアの真相をはっきりと映し出そうとするのです。
 十字架の場に居合わせた女性たちについて言えば、四福音書が証しする人物たちは、相互に違いがありますから、四福音書の総合から得られる結論も、必ずしも客観的、歴史的に見て「確か」とは言えません。バレットが言うとおり「特定は易しいが、確認は困難」です。「小ヤコブとヨセの母」については、カトリックとプロテスタントとの間に意見の溝があります〔ヨハネ福音書講話と注釈→十字架にかけられる→注釈の19章25節→「十字架の側の女性たち」を参照〕。福音書の記者と言えども人間ですから、間違いも手違いも生じます。彼らに伝えられた伝承も、ほんらいは口伝によるものですから、当然その過程で混同も生じます。その上に、これを読み取るわたしたちのほうにも、現代という時代の制約を受けていますから、福音書の記者以上に読み込みや読み取りに間違いが入り込みます。
 それにもかかわらず、わたしたちは、あえて福音書記者たちの証言を信じ、そこに記録されている御言葉を通して、ナザレのイエスの出来事に迫り、イエスの霊性に触れることができるのです。大事なのは、このように信じ、このように解釈すること、これがわたしたちに「許されている」ことです。福音書記者をも含めて、人間はだれでも誤りを犯しますから、その業は不完全です。だからと言うべきか、わたしたちには四つもの福音書が与えられています。大事なのは、これらを通して、ナザレのイエスの出来事とその御臨在に触れることがわたしたちに許されていること、たとえ不完全であろうとも、あえて信じることが「赦される」ことなのです。
 聖書の霊的な世界も、宇宙そのものと同様に、まだまだ分からないことのほうが多いのです。しかし、たとえ宇宙の成り立ちが十分理解できなくても、わたしたちはこの地上に生きることが許されています。同様に、たとえ不完全な理解の仕方でも、わたしたちには聖書を信じることが許されているのです。恩寵の信仰は、恩寵の神学によらなければなりません。恩寵の神学は「恩寵の聖書解釈」に支えられなければならないのです。学問的な限界にもかかわらず、霊盲なわたしたちの無知にもかかわらず、聖書を解釈し、信じることが許されており、赦されること、この祈りこそが聖書解釈の基です。

■預言について
 十字架のイエスを語る聖書の証言について大切なのは、イエスの「衣服分け」が、詩編22篇19節「彼らはわたしの着物を分け/衣を取ろうとくじを引く」という預言と結びついていることです。この詩編は、ユダヤ教では、来るべきメシアが「受難の僕」であることを預言していると解釈されていました。ヨハネ福音書は、この預言がイエスにあって成就したと伝えているのです。
 ところがこの「預言」こそが、現代のわたしたちにとって「躓きの石」になります。なぜなら、歴史学的な視点に立つ文献批評家の中には、イエスの復活を信じたそれ以後の教会が、旧約聖書のこの預言をイエスの十字架の出来事に「さかのぼらせて」当てはめ、そうすることによって、あたかも預言が成就したかのように見せかけていると解釈する人たちがいるからです。この説によれば、「縫い目のない下着」は言うまでもなく、「衣服分け」の事実さえ存在しなかったことになります。彼らは「平気で嘘をつく聖書」とは言わないまでも、出来事が事実として「起こらなかった」ことを前提にすれば、ヨハネ福音書の記者が聖書の預言を信じていたことさえも、「信じるがゆえの」信仰が生み出した幻想にすぎないのであって、歴史的には事実無根であると結論することにもなります。
 裁判の場合に、被告が無罪あるいは有罪だと「信じている」人の証言は、信憑性があるのでしょうか? ないのでしょうか? 裁判に臨む証人には、ただ見たまま聞いたままの客観的な「事実」だけを証言することが求められていて、その証言の真偽そのものは陪審員に委ねられます。学問的な方法でも、「信じるがゆえに」その人の証言は、なおいっそう疑わしい。こう考える学者もいるのです。これが、歴史学的な批評によって生じる「聖書信仰への危機」なのです。フランスの物理学者であり信仰者であったパスカルが、12人もの人たちが、イエスの復活を含めて「事実起こらなかった」ことを、あたかも起こったかの如く見せかけて、そのために殉教したなどと、わたしはとうてい信じることができないと言ったのはこのことでしょう。
 ただし、学者たちの中には、この点について次のように指摘する人もいます。
「福音の伝承を保持し伝えた人たちは、イエスの伝道において何か異常なことが起こっていたことを、しかも彼らは、その出来事が、直接これを体験した人たちだけでなく、そうでないほかの人たちのためでもあることを宗教的に確信していた。これについて語る際に、彼ら自身が抱く神学的な確信を推奨しようとしたのは言うまでもない。しかし、彼らは同時に、実際に起こった出来事と(これを伝え聞く)人たちとを結びつけるのが、自分たちに課せられた責務であると考えてもいたのである。イエスが言ったり行なったりしたことは、彼らに知らされた神聖な委託として後世に伝えられるべきであって、単なる宗教的宣伝の道具ではなかったのである。それは伝達者自身も責任を負うべきもので、自分たちの好みに応じて利用すべきものではなかったのである」〔ノゥランド『マタイ福音書』13頁〕。
 だから、「縫い目のない下着」は事実かどうか? これを裁判で争うように、ここで論じ合ってもあまり意味がないと思われます。なぜなら、歴史学的な文献批評も共時的解釈も、どちらもここでは「立ち止まる」ほかないからです。ここでは、確かさ/不確かさが、どちらも同じ程度に均衡するのです。ただし、ここで確認しておきたいことがあります。それは、イエス自身が、聖書の預言を信じていたことです。もっとも、イエスが「信じていた」ことを確認したとしても、信じていた<そのこと>が、事実として起こったかどうかは別ですが。それでも、あえて繰り返しますが、イエスは、預言がほんとうに生起し成就したと信じていたこと、イエスが信じていたそのことを、イエス以後の教会も、その信仰を受け継いで、信じていたこと、これは確かです。
 以上をまとめると、(1)詩編22篇の預言とメシア預言の伝承が、旧約の時代からイエスの時代まで受け継がれていたこと、(2)この伝承をイエス自身が信じていたこと、さらに(3)この22篇のメシア伝承が、イエスとその同時代のパレスチナの人たちの間に共有されていたこと、(4)四福音書の作者たちもまた、イエスの信仰を受け継いで「この預言」が成就したと信じていたこと、この四つが大事なのです。これらが一つながりになって初めて、福音書が、ナザレのイエスの霊性を証ししていると言えるからです。旧約聖書と、イエス自身と、イエスの復活を信じた最初期のエクレシアからの伝承、そして、これらを編集し書き残した福音書記者たち、これら四つの段階が継承関係で結ばれることによって初めて、ナザレのイエスが、今もなお、御霊にあって臨在することが証しされるのです。これらすべてが、神御自身のお取りはからいであり、神の御言葉と聖霊とのお働きであることが分かるのです。

■歴史学的な視点とは?
 十字架上の描写で特に重要なのは、ヨハネ福音書も共観福音書も、ここに詩編22篇の預言の成就を見ていることです。イエスの上に旧約聖書の預言が成就したこと、すなわちイエスが、旧約で予め神の言葉によって預言されていたメシアであったと証ししていることです。ところが先に指摘したように、逆にこのことが、ここで語られている出来事(衣服をくじで決めること)がはたして事実なのかどうか、その信憑性に疑いが持たれる理由になっているのです。「聖書の預言は、本当に実現する/したのか?」という疑念が、学問的な聖書批評の側から提起されるのです。
 歴史家を刑事と一緒にするつもりはありませんが、どちらも与えられた資料や容疑者の陳述を疑うことでは共通しています。聖書を文献的に解明する過程で、多くの想定や推定や仮定が含まれます。これらを重ねることで「事実を読み解こう」とします。しかし、学問的だからと言って、そこにはっきりとした「物証」があるわけではありません。想定や推定や仮定を積み重ねることで、次第に「事実」に近づくのです。
 純粋に現代の歴史学的な視点から見るならば、イエスの「復活」はありえず、イエスは十字架刑によって無惨な死を遂げ、その遺体は犬や獣に食べられたことになりましょう〔クロッサン『イエス:あるユダヤ貧農の革命的生涯』248頁〕。「このむごたらしい真実の持つ恐怖がどのようにしてその反対のものへと、希望と想像力を通じて昇華されていったか」〔クロッサン前掲書〕が問われることにもなりましょう。マルコ福音書の伝えるイエスの死は、神に見捨てられた惨めな死と、このイエスをこともあろうに異邦人で敵側の兵士が「神の子」だと呼んだこと、この全く相容れない二つの素材を、そのまま何の加工も加えないで並べている、と見ることにもなりましょう。だとすれば、続く四福音書は、これを、マタイ福音書からルカ福音書へ、さらにヨハネ福音書へと次第に荘厳で聖なる復活の神話へと変容させていることにもなります。繰り返しますが、こういう主張が、現在、聖書信仰に「歴史学的な危機」を生じさせているのです。

■共時的と通時的との違い
 わたしが言う「共時的な」聖書解釈も同様に想定や推定や仮定の積み重ねに違いありません。しかも、今度は、歴史的な事実を解明しようとする学問的な積み重ねを基にしながらも、それとは逆の方向に向かおうとするのです。共時的な方法は、四福音書を並列関係に置いて、それらを相互に重ね合わせることで、四福音書が全体として証言している「イエスの出来事」そのものへとさかのぼろうとするものです。四福音書だけでなく、新約聖書の諸文書全体をも、「ナザレのイエスの出来事」から発するひとつの統一体と観て、<そこから>新約聖書を読み解こうとするのです。だから、文献批評のするように、新約聖書を歴史的な時間軸に沿って編集されたそれぞれの文書として観るのではなく、そういう編集過程の総合的な結果として生まれた新約聖書が、全体として何を証ししているのか?これを結果からその起源へと逆方向にさかのぼるのです。
 映画や芝居を見る時に、それぞれの場面は、一連の出来事として、時間の経過に沿って物語が展開します。しかし、これを<見終わった>段階では、今度は今までとは全く異なる視点が見えてきます。それまでは、言わば音楽のように、時の流れの中で体験してきたことが、今度は一枚の絵画のように、その作品が<全体として>立ち現われるのです。そこで初めて、その映画や芝居が何を伝えようとしているのかが、全体像として観客に提示されるのです。これこそが、その映画や芝居を制作した人たちの目指していることにほかなりません。この意味で、通時的な方法と共時的な方法とは、方向が全く逆になるのです。
 さらに、共時的な方法が通時的な方法とは異なる<もう一つの>重要が違いがあります。共時的な聖書解釈は、文献批評の方法による想定や推定によって、<歴史的な事実>を確定することを求めようとするのではありません。言い換えると、客観的な物証に基づき、出来事が歴史的な事実であることを推論することでは<ない>のです。では、共時的な方法は、いったい何を目指すのでしょうか? 通時的な方法とは、求める内容のどこが異なるのでしょうか?
 共時的な方法は、聖書の記者たちが伝えようとしているのが、ナザレのイエスを通して啓示される「霊的な出来事」であることに注目します。しかも聖書が、その全体において<一貫して>この出来事を証ししている。このように観るのです。この解釈は、聖書が証ししている出来事が、神の御言葉から発した出来事であって、それは聖霊のお働きにほかならないことを悟り、これが<啓示される>方向へ道を開こうとします。その啓示の根源に潜むのは、イエスの出来事、すなわちナザレのイエスを通して働いたイエスの霊性です。
 このようなことを現在の文献的な批評や歴史学的な方法によって解明することは不可能です。なぜでしょうか? それは、歴史的・学問的な訓練を受けた者なら直ぐに分かります。ちょうど、医学生が人体の解剖に携わる場合に、その体には霊魂が宿るという見方とは全く異なる視点、肉体をば、その「霊的な意味」からは完全に切り離された物質的な存在として人体を扱うように訓練されるのと同じです。このような肉体的物質的な<事実解明>が医学にとって大事なのは言うまでもありません。しかしながら、聖書が伝えようとしている霊的な出来事とは、こういう価値観とは全く異なる価値観から、「人のからだ」を、言い換えると「イエスの出来事」を観ようとするのです。
 では、通時的と共時的との違いは、いったい<どこから>生じるのでしょうか? それはすでに指摘したこと、共時的な解釈が扱う聖書が「預言成就」の書だからです。神の御言葉が「語られた」こと、その御言葉が「時の中で」成就したこと、このような出来事は、霊的な次元に属する問題であって、外から客観的に歴史的に証明しようとする方法論とは根本的に相容れない性質の事柄に属するのです。
 だから共時的な解釈は通時的な解釈と全く異なる原理に基づいています。福音書は「イエスが預言を信じた」ことを当然の前提にしています。けれども福音書は、「イエスが預言を信じた」そのことを証ししているのでもありません。イエスが旧約の預言を「信じていた」という<そのこと>だけなら、歴史的に見ても客観的な<事実>だと認めることができます。けれども福音書が証ししているのは、「信じていたこと」それ自体を外から見て事実だと認定することではありません。そうではなく、旧約聖書で預言されていた神の御言葉が、イエスにあって<現実に成就した>ことなのです。だから四福音書は、神の御言葉がイエスにあって成就したこと、それゆえに、この出来事をもたらした御言葉は、福音書記者たちの時代でも、現在でも、なお成就すべく働き続けていること、<このこと>を証ししているのです。
 だから聖書の読者は、聖書の証言が、いわゆる歴史学的な批評の方法とは全く異なる次元の世界を証ししていることに気づかなければなりません。わたしが「霊的な出来事」と呼んでいるのがこれです。神の御言葉が語られたこと。それが現実に成就したこと。そして今もなお成就し続けていること。これらのことは<啓示される>ことで初めて信じることができるからです。
 このような啓示伝承を現在の段階の学問的方法論で客観的に解明したり立証したりすることはできません。歴史的な方法論から見るなら、四福音書はイエスの死と復活を<旧約の預言の成就>だと見なして、その立場から書いていることになります。だから、これは預言がほんとうに実現したかどうかではなく、預言されたことが、<あたかも起こった事実であるかのように>伝えているという見解に傾くのです。すでに起こった出来事を、後になって、「その出来事は前もって預言されていた」と言うことを<事後預言>と言いますが、こういう懐疑的な視点は、聖書の証言が、このような「事後預言」でさえもなく、ありもしない架空の出来事を、聖書の預言にあてはめて起こったかのように証言している。このように見るのです。預言<が>事実になったのではなく、預言<を>事実としている。こう考えるのです。こういう聖書解釈は、聖書の語ることが<偽りの虚構>にすぎないとする見方に道を開きます。歴史的な文献批評がもたらした「信仰の危機」の理由がこれです。

■神癒体験の意義
 私がかつて通訳をしていたT・L・オズボーン師が、京都や四国の松山で神癒の伝道をした時に、松葉杖をついてきた人が祈りによって歩けるようになったために、その松葉杖を置いていくと、オズボーン師はこれを野外の講壇の上に張ってある電灯線にぶら下げていました。私が目撃した限りでは、京都で1件、松山で1件、松葉杖がぶら下がっていたのを覚えています。
 オズボーン師はマルコ福音書2章の中風の男がイエスによって癒やされた物語を語り、その後で、病人に手を置いて祈るのですが、癒やされたその人は、おそらく自分が癒やされた体験を語る時に、きっとマルコ福音書2章の癒しの記事を引き合いに出して、自分にもこれと<同じこと>が起こったと証言するでしょう。
 ところが、歴史学的な批判に立って見る人がこの証言を聞くと、証ししている人物は、聖書の物語をそのまま自分に当てはめて語っているに違いない、<したがって>彼の証言は事実である<はずがない>と判断するでしょう。歴史的で合理的な判断からすれば、(1)祈りで病気が治ることはありえない。(2)2000年前の聖書の言葉が現在でもそのままの出来事を生じさせることなどありえない。この二つの「ありえない」から、このような判断を下すに<違いない>のです。
 多くの場合、このような批判的な人たちは、自分で直接現状へ出向いて事の真偽を確かめようとはせずに、本を読んだり、人づてに聞いたりするだけで、「文献的な」根拠に基づいてこのように判断する傾向があります。自分と同時代に起こっている出来事でさえも、そうであるのなら、出来事が起こってから2000年近く経っている現在の時点では、聖書の言葉が、その証言どおりに実現していると、いくら語ってみたところで、とうてい通用するはずがないのはごく自然でしょう。
 神癒伝道において、癒しの奇跡がほんとうに起こるのかどうかが、ここでとても重要な意義を帯びてきます。福音書が伝える言葉の通りに信じることで、そこで語られていることが<現在でも>実現するのならば、過去に語られた言葉が、未来において現実に働いて、出来事が実現することの「しるし」になるからです。このことが、現在行なわれている神癒伝道に含まれている最も大事な意義です。

■聖書の言葉と預言成就
 だから、聖書の伝える預言成就が、聖書解釈においてきわめて重要な意味を持つことが分かります。イエスの出来事の意味を四福音書からだけでなく、さらに旧約聖書の預言とも関連づけて読み解こうとする方法は、「タイポロジー的」"typological"な解釈法と呼ばれています。
 ヨハネ福音書19章24節に、これらのことが起こったのは「聖書が実現するためであった」とあります。わたしたちは、今この証言の意味を正しく理解することができます。ヨハネ福音書は、衣服分けや縫い目のことだけを指して「聖書が実現する」と言っているのではありません。イエスの十字架の出来事全体を指して「聖書が実現するためであった」と証言しているのです。これは、旧約で語られた神の御言葉が、イエスにあって成就したという意味です。聖書の歴史観は「預言成就の歴史」です。新約聖書は旧約預言の成就によって成り立っています。先ず神の御言葉が語られる。その言葉が成就する。そこに生じるのが「聖なる歴史」です。こういう歴史観は、現代の歴史観とは根本的に相容れない前提に立つものです。このことに気づく時に、人は初めて、リヴァイヴァルの入り口に立つことになります。聖書を通してこの啓示に与ることで、「たった一人のリヴァイヴァル」が始まるからです。大勢の人たちが、自分で聖書の御言葉を祈りをこめて読み、そうすることで、自分なりの「たった一人のリヴァイヴァル」に与るなら、日本に本当の意味でリヴァイヴァルが起こります。
 以上わたしたちは、ヨハネ福音書19章の「衣服分け」や「十字架の側の女性たち」を例にして、通時的から共時的な聖書解釈へいたる方法を見てきました。通時的な方法論もまだまだ不完全であって、四福音書間の食い違いを十分解明するにはいたっていません。けれどもわたしたちには、達し得たところを基にした上で、共時的な解釈によって、イエスの出来事に迫ることが「許され、赦されている」のです。聖書が証しする伝承の本当の意義が、「神の御言葉が実現するためであった」ことを知ることが許されているのです。
(この小論は季刊『コイノニア』73号2011年春号に掲載されたものです。)
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