聖書学研究所 > 研究会員からの寄稿 > 第 6 稿目
『ローマ人への手紙』のもう一つの救済
久野晉良

 欧米型キリスト教は,律法を基にして組み立てられたキリスト教の一流派である。道徳律法を神の意志と考える欧米人は,律法を知らない民,律法を犯す者は呪われていると考える。こういう罪人たちを救うために,罪の赦しの信仰が生まれた。

 罪の赦しの信仰は洗礼者ヨハネが創始したものであるが,キリスト信仰の中に入ってきて,主流を占めるにいたった。悔い改めてキリストの十字架を信じる者は,罪が赦されるという信仰である。これは,ルカ文書によって,後世に伝わったと思われる。この思想が極端になると,キリストの十字架は,人間の罪の身代わりであるという事になる。

 ここで言えることは,欧米キリスト教が約束する罪の赦しは,律法なしには成立しないということである。何故なら,赦しは律法あっての赦しだからである。たとえキリストが罪の罰を受けて下さったのだとしても,律法を神の意志と考えるかぎり,律法の支配を免れない。律法のあるところ,必ず罪の意識が生じる。使徒パウロも言っている通り,律法によっては,罪の自覚しか生じないからである。

 律法を神の意志と考える欧米人は,律法の支配しない立場があるのを知らない。罪の赦しの信仰では,信じて罪赦された筈なのに,また罪の意識が戻ってくる。そういう矛盾に悩みながら,罪の赦しに満足する他なかった。

 使徒パウロは違う。信仰による義を,『ロマ書』1章〜5章前半 において論じた。後の人はこの義を罪の赦しと同一視したが,誤解である。さらに,5章後半〜7章 において,律法と罪からの自由を説いた。前段から後段に移るところで,こう書いている。

わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから,(5:9a)・・・

 御子の命によって救われるのはなおさらです。(5:10b)


 これによって見ると,救いにはキリストの血によって義とされることと,その命によって救われることとの二つがあり,後者は前者より優れた救いであると読める。

 キリストの血の注ぎが神の義であり,その血を信じる者が神の義を受ける。この信仰による義はパウロ神学の中心に据えられ,救いそのものと看做された。罪の赦しを第一義とする欧米キリスト教としては,そう考えるのは自然であろう。しかし,パウロ神学としては救いの前段階に過ぎない。この義を通って,さらに奧深い救いへ導かれる。即ち御子の命による自由である。この命の信仰によって律法と罪意識から解放される。

 御子の命による救いは,信仰による義が重視されるあまり,やや軽く扱われてきた嫌いがあるが,パウロが伝えたかった福音は当にこれである。それにも拘らず,この信仰が見過ごされてきたのは,その難解さの故である。普通の知力では解らない。パウロ自身もこれを啓示によって知った(ガラテヤ1:12)と言っている。『ロマ書』では,啓示を表面に出さずに説明しようとしているので,却って,この思想の重要性に気付き難くしている。

 パウロは突然,あなたがたは知らないのか(6:3) と,知っていて当然と言わんばかりの口調で問い掛けてくる。キリストを信じる者はキリストと一つになり,キリストと共に死に,キリストの復活の命に生きる。このことを知らないのかというのである。こうして読む者の意表をついておいて信仰の秘儀を語る。パウロが洗礼と一緒に信仰を語ったのは,当時,洗礼を受ける者は,キリストと一つの体に成るのを信じて受洗したからであろう。洗礼に対する信仰があったのである。重要なのは信仰であるから,洗礼が形式化した現代では,パウロのいう洗礼を信仰として受取るのが,正しい解釈ではなかろうか。

 『ロマ書』6章3節から11節までが,洗礼と信仰の問題である。要するに,キリストと一つになるために洗礼を受けてその死に与った者は,キリストと共に生きる,ということである。人々はこれを神秘主義と言うかもしれないが,所謂神秘主義とは異質であって,強いていうならば,信仰神秘主義とでもいうべきものである。
 
「イエス・キリストの中に洗礼されたわれわれは皆」その死に与った,とあるが,この場合の洗礼は信仰と同義であろう。キリストを信じて洗礼されたのであれば,われわれの古い自分はキリストと共に十字架に付けられて死んだのであり,罪に支配されていた体は滅ぼされ,もはや罪の奴隷ではなくなったのである。キリストを信じる者は,キリストと共に死んで,キリストと共に生きる。

 キリストを信じて死ぬ,この信仰を,パウロは繰り返し語る。「信じて」と「死ぬ」と言葉は二つに分かれるが,信じると死ぬとは同一の事柄である。キリストを信じることはキリストと共に死ぬことである。パウロはキリスト信仰をそのように理解した。

 死んだ者は律法にも罪にも支配されない。罪を意識しない。パウロが目指したのはこういう救済であった。パウロは罪の赦しを宣べ伝えたのではない。

 ところで上の叙述から,律法を信仰にとって邪魔なものと誤解してはならない。
 律法は神の永遠の意志であり聖なるものである。勝手に改廃することは出来ない。だから,律法から人を救出するには,キリストの十字架によるほか道は無いのである。

 このキリストとの一致は,パウロ独りの特殊な体験と考えては困る。信じる者総てに起る事柄である。しかし,信仰によってキリストの死に与ることと,その事実を知ることとは別である。その知は人間の能力(理性)を超えている。神の助けを必要とするだろう。 パウロの場合は啓示によった。かれが「円熟した者の間で語られる知恵」というのは,こういう類の知恵を指しているのではなかろうか。この世の知恵(理性)ではないから,人の頭では解らない。これが難解の理由である。Tコリント2:6〜16に,この知恵の素晴らしさ が詳しく語られている。

 以上,パウロの救済思想の核心を簡単に説明した。仮令それが人知を超える思想であっても,必ず到達できると信じる。パウロはあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが,キリスト・イエスに結ばれて,神に対して生きていると考えなさいと,『ロマ書』6:11に記しているが,この言葉こそ真理を悟るに至る道である。

 パウロの救済の神学は,二段階を踏んで進行し,8章で聖霊の働きとして総合されている。これらを一貫して変わらぬものは信仰である。パウロは言っている,神の義は信じる者の中に信仰から信仰へ啓示される(ロマ1:17)。

                       (2015年7月12日 完成 12月11日 修正完了)

Top