聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 5 講
(5)一人の新しい人へ    エフェソ2章15節

 「一人の新しい人へと」"into one new human being" というこの句は、これに先立つ「二つのものを一つに造り」、「隔ての壁を壊し」、「律法を破棄し」という三つの分詞節を受けている。しかもこれらの分詞節は、「双方をご自分に(キリスト)おいて一人の新しい人へと創造するため」と「両者を一つの体として神と和解させるため」へとつながる。ここは構文上、一つの目的節になっているが、内容的には二つの目的が表わされている(2章16節)。なお、キリストは「一人の新しい人」を創造するとあるが、この「一人」(男性形)は、先立つ「一つ(中性)に造り」と対応するから、ここで中性から男性へと移行していることも注目されている。
 体が頭とが結びつき、女が男と結びつくように、教会はキリストと結びついているというのが、2章14〜16節の一般的な理解であろう〔シュナケンブルク『エペソ人への手紙』〕。ただし、「からだ」の類比は、この段階ではまだ不十分であろう。なぜなら、ここで言う「一人の<人>」が、キリストの体として集合的に教会(エクレシア)を指しているとしても、教会のそれぞれのメンバーたちすべてが、それぞれに到達すべき「成熟した人」(4章13節)であることも同時に語られているからである。
 こういうわけで、この「一人の新しい人」とは、(1)ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが、新しい人間性を具えた個人個人へと造り変えられることを意味するのか? それとも、(2)これを集合的に理解して、一人の新しい人体の隠喩としての共同体を指すのか? ということがここで問われることになる。この問いの答えをベストの解説を参照してまとめると以下のようになろう〔Ernest Best, Ephesians. International Critical Commentary (1998). 261〜63〕。
 (1)の個人説を支持する根拠としては、次のような指摘がなされている。集合的に理解されているのなら、中性から男性へ移行する必要がない。新たな集合体が形成されるのなら、「一人の」は不要である。「一つ」(14節)と「一人」(15節)、「二つ」(14節)と「双方」(15節)とが対応しているのだから、キリスト教共同体において、キリストの人間性が個人個人を形成することを意味する。この句は「神にかたどって造られる新しい人を(一人一人が)身にまとう」(4章24節)ことへとつながる。キリスト者それぞれを「新たに創造された人」と見るのはパウロ的である(ガラテヤ6章15節/第二コリント5章17節)。
 これに対して(2)の集合説を支持する理由は次のようである。5章22〜33節では、新たなキリスト教共同体が、「一人の」花嫁と見なされている。4章13節の「成熟した人へ(成長する)」とあるのも集合的に一人の人を意味する。エフェソ人への手紙の作者は、ここでガラテヤ人への手紙3章28節「あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つである」を踏襲している。2章16節の「一つの体」は集合的に教会を指している。この句の背後には、パウロの言う「新しいアダム」に基づくキリスト論がある。
 なお、16節の結びの句「彼/それによって敵意を滅ぼした」の「彼/それ」は、「十字架によって」〔新共同〕[REB]という解釈と「ご自身(キリスト)によって」とのふたとおりの理解の仕方があるが、ベストはパウロの「キリストにあって」という言い方をここに読み取っているようである。
 このように、ここでの「人」については、これを個人と理解するのか、それともエクレシア共同体全体を表わすと見るのかが問われることになる。ベストは(1)の個人説を支持しているようであるが、リンカーンは「この文脈では、一人の新しい人間性が、集団的な全体を表わしている」と理解しているから(2)の集合説に近いだろう〔Andrew T. Lincoln, Ephesians. Word Biblical Commentary (1990).〕。
 ここで興味深いのは、リンカーンが、パウロのアダム的キリスト論をこの句の背景に想定していることである(第一コリント15章22節/同45〜49節/ローマ12章5節/コロサイ3章10〜11節)。リンカーンによれば、キリストが、彼に属する信仰者全体の代表として、集合的に新しい人間性を形成するのであって、「これは、人間のレベルでの新しい創造を体現しており、(キリストが)すべてを一つに統括するという作者の見通しに立つものである(1章10節)」ことになる。
 リンカーンが「一人の新しい人へと」について指摘するパウロ的なアダム=キリスト論が興味深いのは、パウロのアダム=キリスト論が、原初キリスト教の「人の子」思想に由来すると考えられるからである(ここではこの点に立ち入ることは控えたい)。しかも、共観福音書の「人の子」言葉は、イエスにさかのぼると見ることができる。そうだとすれば、イエスの「人の子」用法がすでに帯びていた個人性と集合性という二重の性格が、この「一人の新しい人へと」にも受け継がれていることになろう。この二重性は、エフェソ人への手紙のエクレシア観を理解する上で大事な視点を与えていると思う。
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