聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 7 講
(7)キリストの降下     エフェソ4章8節

 4章8節の引用は詩編68篇19節からであるが、この詩編はテキストが乱れているために難解である。私訳を以下にあげる。

あなたは高みへ上った
  捕虜を捕らえて。
人々から多くの貢ぎ物を取った
 背く者どもからさえも
神ヤハの住まう所において。

 You ascended to the heights with captives,
you received gifts from mankind;
even from those who rebel at the settling down
of the God Yah. [NRSV]

 詩編68篇19節からのこの引用は、同17〜18節からの続きで、そこでは古代の王が、征服した捕虜たちを引き連れて王座に上り、支配下にあるもろもろの民から多くの貢ぎ物を受け取る様子を描いている。しかもその中には、王に反逆した民さえも、ついには神ヤハの住まう王座に敵対することができずに、服従のしるしとして貢ぎを差し出す様子も含まれている。この節の描く状景を七十人訳は「人々の<間で>」と訳している。しかし、イスラエルの神ヤハが王座に座る姿を、「服(まつろ)わぬ者ども」を征服して王座に上り諸国民<から>貢ぎを受ける王の威風にたとえていることに変わりはないであろう。
 エフェソ人への手紙の作者の引用では、ヘブライ語の原文あるいは七十人訳の「人々<から>貢ぎを受け取る」が、逆に「人々<に>賜を与える」となっている点が最大の違いである。ただしこれは作者の書き換えではなく、アラム語訳「タルグム」の詩編68篇の注釈の段階でそうなっているようである〔Lincoln, Ephesians:4:8. WBC 〕〔Best, Ephesians. 379〕。タルグムの内容は次のようである。

 預言者モーセよ。あなた天空に上り
   虜を捕らえた。
 あなたは律法の言葉を学び、
それらを人の子らに賜として与えた。
            〔Best, Ephesians. 380.〕

 もしもエフェソ人への手紙の作者がユダヤ人であったとすれば、「タルグム」を知っていたとも考えられよう。しかし、書簡の受け手であるエフェソ人への手紙の読者たちはユダヤ人キリスト教徒だけではなかったから、アラム語の知識は言うに及ばず、聞く側にはこの引用が詩編からだとは理解されなかったかもしれない。そもそも、作者自身が、自分に伝えられていた(と思われる)この言葉が、詩編からの引用であることを自覚していたかどうかさえも怪しい〔Best, Ephesians. 381.〕。
 しかし、ほんとうに大事なことは、これを引用した作者が意識していたかどうかにはかかわりなく、引用がたとえ変容されていても、それがほんらい内蔵していた意味が失われてしまうことなく伝えられる、ということのほうにある。この事情は、ある言葉が時代と共に変容しても、言葉がかつて内蔵していた意味は決して失われずに何時までも原義を潜めているのと変わりない。
 このように言うのは、われわれのエフェソ人への手紙4章7節以下では、「多様性にある一致」の問題が扱われているからである。この点を考慮に入れると、ここで引用されている文言が、ほんらいは自分に敵対する者たちさえも征服することによって統一を成し遂げた神の偉業をたたえる言葉であったことを心の留めておくべきだろう。たとえ引用する当事者さえも、もはやそのことに気づいていなかったとしてもである。
 なぜなら作者は、この引用を踏まえた上で、今度は「『上った』というのなら、低い所、地上に降りて来たに違いない」と独自の結論を引き出すからである。作者の頭には「タルグム」のモーセではなくキリストがあるのは間違いない。だとすれば、「低い所、地上に降りる」とは、どういう意味なのか、がここで問われることになる。ここは(1)初代教父以来、「地の中のさらに低い所」と解釈されて、使徒信条にもでてくる「キリストの陰府降り」を指すという説、(2)キリスト復活以後の聖霊降臨説、(3)キリストが天から地上に降誕した受肉説と、これら三つに大別して考えられている。
 現在では(3)の受肉説がほぼ定説となっているようであるが、わたしはこのような場合に、ある特定の解釈のみに限定して、他の選択肢を排除するのは好ましくないと考えている。優先順位をつけるのであれば、第一義的な意味として受肉説を採ることも正しいであろう。しかしながら、もしもそのことが、「陰府降り」をも「聖霊降臨」をも意味して<いない>とする判断へ向かうとすれば、聖書のような霊的なテキストを扱う姿勢として適切ではないであろう。このような場合、第一義的な意味だけでなく、第二、第三の意味を含めて考えるほうが霊的な意味へのより確かな理解につながると思う。先に、1章10節の「アナケファライオーサスタイ(総括する)」の解釈でも指摘したように、幾つかの解釈が可能な場合には、その「どれか」に意味づけを限定することは避けて、それら複数の選択肢が囲む範囲の内で、その語義が流動的に動いている様相こそが大事であり、これを強いて特定の意味だけに限るならば、論旨の明快性は保たれるかもしれないが、複雑で内容の深い霊的な現実を汲み上げる釈義としては大きな損失となるであろう。
 われわれの箇所でも、キリストが地上に降ったことを言うのであれば、そのこと自体が、「陰府降り」と「聖霊降臨」へと連動することを忘れてはならないであろう。語義のこの流動性こそ聖書解釈において考慮されなければならない。キリストの賜が、教会の全メンバーに与えられるのか、それとも特別の役職にある者たちだけに限定されるのか、という二者択一でも同様のことが言える。シュナケンブルクが、フィロンの「プレローマ(満たす)」の解釈を引いて、この語の「動的な意味」に注目しているのも同様の主旨であろう〔シュナケンブルク『エペソ人への手紙』218頁〕。
 「多様性にある一致」の問題に戻ると、ここでは、キリストの受肉だけではなく、聖霊降臨の結果として与えられる「キリストのもろもろの賜」が、作者の大事なテーマになっているのは間違いない。またその賜も特定に役職に関連づけられるだけでなく、地域ごとの教会の個々のメンバーたちそれぞれに関連して解釈されなければならないだろう。この場合特に、自分に敵対する者たちをも服従させるという原義が、「多様性の一致」に大事な光を当ててくれるのを見出す。エフェソ人への手紙4章8節を受けて9節では、作者自身の言葉で、「上ったのなら、その前に降りたハズではないか?」と問うている。すなわち、キリストにある世界の支配とは、まず最初に、上から成就すべきことではなく、その前にまず、上から下へ「降下」して、地上への降下以後に初めて、上へ向かうべきことをこれらの節は教えているが、キリストが地上のイエスとして歩んだのは、まさにこのことを指すのであろう。「各自がキリストの支配権の賜に与る」とは、このようなキリストのことである。だから、まず最初に地上における「各個人」から始めて、上へと上る道筋こそが、エフェソ人への手紙の主キリストの統治の有り様であることを示すものではないだろうか。
 パウロは、キリストにある者たちはキリストの「からだ」のメンバー(肢体)であると説いて、主の御霊にある「一致」を求めた。コロサイ人への手紙の作者は、ユダヤ教の律法だけでなく、もろもろの宗教的な束縛を伴う掟や規則をキリストにあって破棄されたもの見なして、キリストにある一致を説いた。ただし、エフェソ人への手紙の作者は、そのような対立関係をはっきりとは表に出さず、引用の形で示唆しつつ、宇宙の支配者であるキリストにある一致を勧めるのである。
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