聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 9 講
(9)エフェソ書が描く「異教世界」     エフェソ4章17〜18節

■エフェソ人への手紙の「異教世界」
 4章17〜24節は、書簡の前半部で語られる異邦人キリスト教徒たちのかつての生活ぶりを想起させることによって、キリストにあるエクレシアの民と「異教の民」とを鋭く対比させている。著者はおそらく、エクレシアのメンバーの中に、かつての「異教的な生活」へ逆戻りする危険性を感じたのであろう。この書簡での作者の意図は、コロサイ人への手紙3章1〜4節「上にあるものを求めて、キリストの命に歩む」ことを踏まえつつ、エフェソのエクレシアを「イエスにある真理」(4章21節)にあって歩ませることにある。したがって、4章17〜24節はそこへ至るための「挿入部」と見ることができよう。
 ただし、ヘレニズムの「異邦世界」に向けられる作者の視点は、ユダヤ人(ユダヤ教徒)のそれとも重なるところがある。もっとも、エフェソのエクレシアには、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが共存しているわけだから、作者の観点は、ユダヤ教の側から観た「異邦の諸民族」に対する否定的な見解と全く同じではない。ここで作者が言う「異邦人=諸民族」とは、キリスト教徒のエクレシアと対比されているのだから、むしろ「異教徒」の意味に近いだろう(かつての日本のキリシタンの「ジェンツ=異教徒」がこれにあたる)。ただし、この対比も絶対的なものではなく、作者が説く「キリストにある歩み」は、「多くの異教の哲学者たちの教えから、それほどはずれているわけでもない」とも指摘されている〔Best, Ephesians. 415.〕。

17そこで、主にあってこう言明し証しする。
もはや、あなたたちの歩みは、
異邦人と同じ歩みであってはならない。
彼らの知性は虚偽であり、
18その想いは暗くされた状態にあり
神の命から切り離されている
彼らの中にある無知のゆえに
またその心のかたくなさのゆえに。

 4章17節は、異邦人/異教徒の「知性が虚偽である」という指摘で終わるが、ここでいう「虚偽」(マタイオテース)とは、「移ろいやすいこと」「空疎なこと」と共に「当てにならない虚偽」の意味をも含んでいる。七十人訳に「主は、人間の計らい(ディアロギスムース)を虚しい(マタイオイ)と知っている」(詩編94篇11節)とあるように、この語には「移ろいやすい」と「欺瞞的な」の両方の意味が含まれていて、知恵の書13章(1節/9節/14節/18節)では、この「虚しい」が自然崇拝と偶像礼拝の縁語となっている(ローマ1章19〜21節をも参照)。
 「わたしは主にあって証しする」という厳かな誓いに続いて、18節に入ると、「異邦人/異教徒」の生活に注意するよう警告がなされる。続く「暗くされている」と「切り離されている」という二つの完了受動分詞は並列していて、二つの分詞に挟まれてでてくる「である」は、その前後二つの分詞を受けて「現にそうなっている」ことを確認させる。だから、これらの完了分詞は人間の知性と心構えの全人格的な有り様に関係している〔Best, Ephesians. 417〕。そこには、異教的な振舞いや行動だけでなく、異教的な学識や考え方それ自体に向けられる批判がこめられている。この意味で作者の視点は、ユダヤ教の異教批判と共通するところがあろう〔Best, Ephesians. 418.〕。先に指摘したように、17節の「愚か/無価値/虚偽」は「偶像」に関連する用語であるが(使徒14章15節)、18節では、この語が、偶像だけでなく「異教的」な生活全般を含むまで拡大される(第一ペトロ1章18節/ヤコブ1章26節)。
 だから18節後半の「無知」は、「暗くされてしまった知性/理性」のゆえに、「神の命」から疎外されていることを根拠づけ、この「無知」と並列する「心の頑なさ」は、神から切り離された異教的人間の全素質とその生活全般に該当する。「無知」とは人間が「神を知っていたのに神として崇めなかった」ことであり(ローマ1章21節)、これこそが「異教世界の一つの特徴なのである」〔シュナケンブルク『エフェソ人への手紙』242頁〕。なお「頑な」とあるのは、偶像との縁語で「盲目」の意味にとるほうがより適切であろう(詩編135篇16節/イザヤ書42章7節)〔Best, Ephesians.421.〕。「想い/思考が暗くされている」とある「想い/思考」とは、認識と理解の基となる思考能力/思考様式のことで、この語はしばしば「心」と同義語で用いられる(ヘブライ8章10節)。このようにエフェソ人への手紙の作者は、異教思想が神を認めず、その生活は、神への信仰に基づく価値観が欠如しているゆえに無価値であり虚偽であると断定する。
 異教徒のこの「無知」と「盲目」は、彼らの知恵の有り様そのものに起源する(知恵の書13章1節)。このような「無知」と「盲目」は、18節の後半では、「神の命」(ここでは永遠の命を指す)から切り離されていて、「罪に死んだ状態」(エフェソ2章1節)へと結びつく。異教徒は光に照らされていないのである(ヤコブ2章19節)。「理性(ディアノイア)の暗さ」と「神の命からの離反」とは手を携えて「悟りのない心」を生じさせ、これが「人間の精神的・人格的中心を決断力もろともに狂わせ、完全な方向違いと道徳的過ちへといたらせ、愚かにも不変の神から顔をそむけ、その代わりに移ろいやすい被造物に仕えることになった(4章23節)」のである〔シュナケンブルク前掲書240〜41頁〕。したがって、エクレシアの外の異教徒たちへの作者のこの視点は、キリスト教徒以外の異教の民全般に無条件に適用される。もっとも聖書は、同じ「盲目」と「無知」をユダヤの民にも適用しているのを忘れてはならないだろうが〔Best, Ephesians. 421.〕。
■東洋の仏教と「異教世界」
 エフェソ人への手紙の作者の観点からは、エクレシアの外に広がる異教世界が、17節の「愚かさ/無価値な虚偽」と18節の「無知頑迷」によって、その思考様式と生活全般とが特徴づけられている。「つかの間のはかなさ」と「欺瞞的な虚偽」とが偶像礼拝の本質を形成していて、それが、異教世界を支配しているという観点がここにある。
 しかしながら、この手紙の作者の「異教世界」への観点は、ここで一つの限界に出逢う。すでにコヘレトの言葉の時代(前3世紀)に、インドから仏教が、かつてのペルシア帝国に伝えられていて、おそらくパレスチナを経てエジプトのアレクサンドリアにも仏教が知られていたからである。仏教の「虚空」(こくう)とは、「いっさいのものがなんの礙(さまたげ)もなく自由に存在し運動し変化し得る」領域を意味する。こういう「無礙」(むげ)の世界は、インド人やギリシア人の、地水火風の四大元素にその活動の場を提供している空間のことであるが、仏教では、「虚空」のほかに「空」があり、これは万象の実在性に向けられる厳しい否定を表わす。「空」とは、いっさいの固定観念を排除し尽くすまで働く論理を指す。したがって、「空は有(う)でもなく、しかも有であり無であるという、一見パラドックスにあるが、これは存在・ことば・現実・人間・世界そのものが免れ得ない限界性と自己矛盾をそのまま反映している」ことになる〔『仏教辞典』岩波書店264頁〕。
 エフェソ人への手紙の作者は、エクレシアの外の異教世界を、欺瞞的な虚偽に根ざす偶像礼拝だと特徴づけている。けれども、この手紙が書かれた時代には、すでにオリエントから東方の東洋世界では、高度に発達した「虚空」と「空」の思想が広がっていた。「虚心」という言葉が意味するように、この「虚」は、何者にも妨げられないで、いっさいの偏見に左右されることなく、自由にものを観たり思考する心の有り様のことである。
 「偽り」と「欺瞞」を排除して、あるがままに観るというこの東洋的な「異教思想」をエフェソ人への手紙の作者は、はたして「暗い知性」と呼ぶことができるのだろうか? さらには、「神を信じない思想」と言うが、もしも、人間的な虚偽性を帯びた神概念を絶対化するならば、それこそ、最も恐ろしい欺瞞的な神概念へと人を陥れることにならないだろうか? わたしたちは、ここでこのような疑問を抱くことになる。ベストによれば、作者は、この4章18節で、キリストにある新たな積極的な命の有り様を読み取ろうとしている。「否定」を超える「肯定的な」命の有り様が、「無明の愚かさ」を脱却し虚偽の神概念から自由にされた霊性へと向かうことであり、手紙の作者がこのことを志向するのであれば、「愚かさ/欺瞞」を脱却し、「虚偽の偶像」を排除する東洋思想と、キリストにある「ディアノイア」とは、相互にどのように関係するのか? エフェソ人への手紙の言う「異教世界」が、わたしたちに提起してくれるのはこのような課題である。
 この手紙の作者が、当時のオリエントの遙か東方に広がる東洋の「異教世界」にまで思いをはせるはずもなく、作者は、自分の周辺に存在するヘレニズム世界の享楽と放縦を目にしながら、キリストにあるエクレシアとこの世界とを対比させているにすぎない、という見方もできるだろう。手紙を一つの歴史的文書と見なせば、この見解は至極もっともである。だから、歴史的な制約に置かれた作者に、東洋の仏教思想を持ち出すのは、お門違いだと言えなくもない。
 しかしながら、21世紀のわたしたちがエフェソ人への手紙を読み解く場合には、この手紙の作者の「エフェソ中心主義」から完全に抜け落ちている世界が、アレクサンー大王の東方遠征(前333年)以前から存在していたことを確認しておく必要があろう。この書簡のはるか以前から、東洋の「異教世界」は、「無明の諸相」を照らす「知恵の光輪」が存在することを知っていた。エフェソ人への手紙を単なる歴史的な文書としてではなく、そこに含まれる霊的な深さにおいて現在のわたしたちがこれを読み解こうとするのであれば、こういう視野を除外することは許されないであろう。
■コヘレトの言葉の「空」
 ここで、コヘレトの言葉における「空」に触れることで、仏教とユダヤ教との出合いついて触れてみたい。この文書が提示するイスラエルの知恵思想は、それ以後のユダヤ教、例えばシラ書の作者に影響を与えているだけでなく、新約の知恵思想にもその影響を及ぼしているからである。コヘレトの言葉の思想には、仏教の伝来さえ読み取ることができる。インドのアショカ王が、仏教の僧侶を前3世紀のセレウコス王朝とエジプトのプトレマイオス王朝に派遣したことが記録されていて、このことから、遅くとも前205年には、コヘレトの言葉の作者も、エルサレムで仏教に触れる機会があったと推定されている〔George Burton, The Book of Ecclesiastes. ICC. Edinburgh T&T Clark(1912/1980).27.〕。
 コヘレトの言葉の「空」にあたるヘブライ語は「ヘヴェル」である。この語は、旧約聖書中で73回ほどでてくるが、そのうちのほぼ半分の38回がコヘレトの言葉にでている〔TDOT(3)313〕。初出はイザヤ書30章7節「エジプトの助けは空しくはかない」であろうか。このユダヤ系アラム(バビロニア)語には、「暖かい息」「微風」「湯気」の意味があり、転じてこの語は、人間や事物の「はかなさ」「頼りなさ」を意味するようになった。類語の「ルアハ」(息/霊)に比べると見える姿が「移ろう」という意味が強く、これが「虚栄」をも意味するようになった〔TDOT(3)317〕。
 コヘレトの言葉には、「空」(ヘヴェル)に含まれるほとんどすべての意味が表われる。この語は、「空しく風を追う」とある「風/霊」と共に用いられ(1章14節)、人と動物の霊の空しさ(3章19節)、若さと青春の空しさ(11章10節)、影のような人生それ自体(6章12節)、太陽の下に生じるすべての事象(2章17節)、善(人)と悪(人)との価値観の空しさ(8章14節)など、「空」はこの世界全体を規定している。このような空は、人知の及ばない「理解不可能」な神の謎をも思わせる。したがって、この「空」は、人間の「言葉の空しさ」にも及ぶ(5章1節/6節)。このように「空」には、ある種の「暗さ/曖昧さ/不可解さ」が伴う。
 このような「空」に対置されるのが「利得」であり、人の業による「業績/結果」であり、「報酬」(2章10節)であり、「善いこと/幸せ」(2章3節)である。そこには知恵そのものの「空しさ」さえ語られる(2章15〜16節)。ここには、「すべてのこと」に向けられる価値観、と言うより「無価値」観がある〔TDOT(3)319〕。この空は、伝統的なすべての価値体系と「知恵」を破壊し、人生の目的それ自体の喪失の危機さえ招きかねない。コヘレトの言葉の作者のこの透徹した洞察が行き着くところは、「空である」という叙述形式そのものさえも消えて、ただ「空」のみという事態に達する〔TDOT(3)320〕。
 イスラエルの思想で、ここまで徹底してこの世の営みをその根底において否定し相対化した文書はない。このような透徹した「空」思想は、東洋的な無常思想へつながるのか、それとも、この世のすべての価値体系を全く新たに創造し直す「神の裁き」へ向かうのか、そのどちらにも方向付けられるであろう。
 「神の裁き」がもたらすのは、人間と人間の営みそのものを根底的に脅かす終末的な神の裁定である。イエスが伝えた「神の国」思想もまた、現存する宗教を含むこの世の営みのいっさいを根源的に脅かすほどに透徹した「価値観の逆転」をもたらした。これほどまで現世の価値観を脅かす思想の背後に、わたしたちはコヘレトの言葉とイスラエルの知恵思想の伝承を想定することができるだろう。コヘレトの言葉は、この意味において、イエスの神の国思想へ道を開く素地となったのではないだろうか。
■この書簡が提示する課題
 以上見てきたように、エフェソ人への手紙の作者が「異教世界の特徴」としてあげている「つかの間の偽りに惑わされて官能を追い求める」生活も、「虚偽に惑わされて暗くされた知性」も、これらを仏教的な「異教世界」に適用することは必ずしも正しくない。しかも、これに匹敵するイスラエルの思想が、コヘレトの言葉の「空」思想であることをわたしたちは確認した。おそらく、イスラエルのこのような「空」の知恵思想は、パウロとこれに続くエフェソ人への手紙の作者による異教世界批判の底流にもあるのだろう。もしも、コヘレトの言葉の空思想が仏教の影響を受けているとすれば、エフェソ人への手紙で語られる「異教世界」批判さえ、仏教的な「空」に支えられていることになろう。
 エフェソ人への手紙が、紀元1世紀の小アジアのキリスト教徒たちに宛てられた巡回書簡であり、この文書が彼らの思想を反映しているのはそのとおりである。しかしこの書簡は、現在においてもなお、単なる歴史的な文書として扱われているだけではない。「エフェソ人への手紙が提示する(宇宙的な規模において勝利した)キリスト論は、この書簡の神学的な解釈における最も実り多い分野であり、それはキリスト論とエクレシア論との相互関係に関わるものである」〔R.J.Coggins& J.L. Houlden eds. A Dictionary of Biblical Interpretation. SCM Press (1990). 195.〕というのが、現在もなおこの書簡への有効な評価である。コロサイ人への手紙の価値は、エフェソ人への手紙を産み出したことにあると極論する説さえある〔前掲書同頁〕。わたしの手元にあるシュナッケンブルクやベストのエフェソ人への手紙への注解もまさにこのような評価に基づいている。少なくともこの書簡が、現代におけるキリスト教のエクレシア論の起源として重要な文書であることは間違いない。
 現代の聖書学は、エフェソ人への手紙を一つの歴史的な文書として扱うことを知っているが、それだけでなく、この文書に現代のエクレシアに向けられたメッセージを読み取ることをも意図している。この書簡はそれだけの霊的な深みを帯びているからである。だから、21世紀の現在において、歴史的に制約された単なる一つの文書以上のものとしてこの書簡を読み解くのであれば、ここで語られる「異教世界」をそのままの形で受け容れることはもはや不可能であることをわたしたちは洞察しなければならない。エフェソ人への手紙のみならず、新約聖書が伝えている「エクレシア」の内と外との境界を再定義する時期に来ていることをこの書簡はわたしたちに提示しているのである。
 エクレシアから「異教世界」をどのようにとらえ直すのか? 日本のキリスト教界も、まして欧米のキリスト教界も、従来の「エクレシア」観と対比させられる「異教世界」観を今なお自明のものと見ているようである。しかし、エクレシアの内と外とをキリストの啓示と無知蒙昧な異教のように単純に割り切ることがもはやできない段階にきているように思う。イエス・キリストによる啓示と仏教の悟りの世界や儒教の礼の有り様との相互関係、この問題は、日本や韓国だけでなく、近い将来、中国のキリスト教徒が激増するにつれて、アジアのキリスト教世界において必ず浮上してくるに違いない。エクレシアと異教世界との再定義は、欧米のキリスト教と対照されるアジアのキリスト教を将来特長づける要素となるかもしれない。
 4章18節の中心には「神の命から切り離された」状態がでているが、言うまでもなく、ここで言う「神の命」とは、イエス・キリストにある命のことであり、復活したナザレのイエスの御霊にある命のことである。これがエクレシアの存在価値を形成する。だが、そのようなエクレシアの命を「〜である」と肯定的に定義するのは難しく、おそらくこの命は、「そうでない」世界と対比させられることによって初めてより明らかになるのであろう。このように、わたしたちは、「異教世界」だけでなく、エクレシアそのものを再定義する必要に迫られている。おそらくこの指標となるのが4章20〜24節であり、とりわけ「あなたがたの霊的な知性によって新たにされる」(23節)ことであろう。
 イスラエルが異教世界の特徴として伝統的にあげてきた罪は、「流血と暴力を含む暴虐」であり、「性的な退廃を含む放縦」であり、「偽りの神を拝む偶像礼拝」である。4章18節に続く19節には、特に「放縦」が採りあげられているが、これは他の二つの罪をも示唆していると解釈してよいであろう。「流血」と「性的退廃」と「偶像礼拝」に対比されるのは、「命」と「愛」と「真理」であることを思えば、ヨハネ福音書やパウロ書簡がこれらを大事な御霊の働きだと証ししているのは示唆深い。
Top