聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 12 講
(12)諸天にいる悪霊と闘う     エフェソ6章10〜12節

最後に言う。主にあって、
  彼の全能の力に強められなさい。
神の武具を身にまといなさい。
あなたたちがしっかりと立ち
悪魔のもろもろの策略に対抗できるために。
わたしたちには、血肉との格闘などではなく
諸支配と諸権威、
暗闇の世界の諸力、
諸天にいる悪の諸霊との
戦いがあるのだから。
     (エフェソ6章10〜12節)

■キリスト者の戦い
 ここで語られているのは、いわゆる「闘うキリスト者」"militant Christians" のことである。エフェソ人への手紙の作者は、まず、この闘いが、「血肉」すなわち地上の人間たちを相手にするものではないと明言する。だからここには、「もろもろの天にいたる」悪の諸霊が存在していて、闘いはそのような諸勢力との間で行なわれるという作者の宇宙観がある。これを「神話的」だと一蹴するのは、現代のわたしたちの驕りと偏見であって、そのような解釈では、作者が何を語ろうとしているのか、その実体を正しく理解することができない。
 作者が見ているのは、エクレシアの有り様と(5章1〜20節)、夫と妻との交わりの有り様と(5章21〜33節)、親子の有り様と(6章1〜4節)、奴隷と主人との有り様など(6章5〜9節)、宗教的、家庭的、社会的な諸分野を総合する世界であって、これらすべてを含めた上で、最後に(10節の冒頭は「これ以後は」ではなく「最後に」という読み方をとるほうがよい)人間の営みのいっさいを包含しようとする「悪霊ども」が存在していることである。
 「血肉」ではない悪霊どもとの「霊的な」闘いは、すでにパウロ書簡でも語られており(第二コリント10章4節/ローマ13章12節)、エフェソ人への手紙とつながるコロサイ人への手紙にも表われている(コロサイ1章11節/2章13〜15節)。ただし、そこではまだ、それらの悪霊の働きが、「人間存在」と関連づけられていて、自分と他人とを含む人を通じて現われる悪との「格闘」としてとらえられている(フィリピ1章30節/第二コリント7章5節/ローマ7章23節)。しかし、ここエフェソ人への手紙6章では、「血肉」との戦いではないと明言されることによって、人間を超えた宇宙論的な範疇でとられえられているのが特徴である。
 したがって、エフェソ人への手紙で言う「戦い」「格闘」は、人間同士の争いや競い合いのことではない。すでにパウロはガラテヤ5章20節で「エリス=競い合い」を肉の働きとして戒めている。パウロがフィリピ1章30節で「アゴーン=苦闘/競技」と正しく言い表わしている通り、キリストにあって神の前で行なう自己との「格闘」のことである(フィリピ3章14節)。「アゴーン」の精神は古代オリンピック(前776年頃)にさかのぼるから、ギリシアのペロポネソス半島の西部オリンピアのゼウス神殿の聖域で行なわれたオリンピックでは、賄賂で審判を買収するなど、勝つために手段を選ばなかった者は、神殿の北側から競技場の入り口までの間にその者たちの彫像が並べられて、彼らは末代までもその恥を曝すことになった。

■天使論の形成
 最古のイスラエルでは、ヤハウェが神々の王であって、天ではヤハウェによる「神々の会議」が開かれていた(詩編82篇1節/エレミヤ書23章18節)。それらの神々は言わばヤハウェの手下であり、「ヤハウェの遣い/天からのみ使い」として人間世界で様々な働きを行なっていた(創世記21章17節/同22章11節/申命記32章8節/士師記6章11節)。だから天使たちは、ヤハウェの代理であり、ヤハウェ自身とも受け取られたのである(創世記18章1〜2節/出エジプト記3章2節)。この時期のみ使いたちには、天の宮廷に仕える集団としてまだ名前も与えられていない。
 これらの天使たちが組織化された天使団の形を採り始めるのは、北王国滅亡以後の7世紀後半から捕囚期(前6世紀頃)にかけてである(イザヤ書37章1節:この章は前640年以後/エゼキエル書1章5〜6節/同9章1〜3節/ゼカリヤ書1章8〜12節/同6章4〜6節)。さらに、イスラエルでこれらの天使たちが固有名詞を与えられ、はっきりした位階を形成し始めるのは、前3世紀半ば頃のプトレマイオス朝支配の時代である。おそらくこれには、バビロニアとペルシアの天文・宗教の影響があるが、その影響は比較的限られていて、むしろイスラエル独自の天使論が形成されたと見るほうが正しい。
 この時代を代表する天使論は『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)の中の「寝ずの番人の書」(前250〜200年頃)や『ヨベル書』(前3世紀)、それにダニエル書(前2世紀中頃)などである。「寝ずの番人たちの書」には、ミカエル、ガブリエル、ウリエルとラファエルの四大天使が登場して、彼らには、天のヤハウェに逆らう堕天使どもや地上の悪人たちを告発し、それらを裁く権限が与えられている(『第一エノク書』9章1節/『ヨベル書』1章27節/同2章1節以下)。また、四大天使たちの役割も明確に記されており、さらにラグエルとサラカエルという天使たちも登場する(『第一エノク書』20章)。ダニエル書では、これらの天使軍と地上を支配する高慢な権力(とこれを支える霊力)との間に激しい戦いが行なわれる(ダニエル書8章9〜14節/同12章1節)。特に、人の姿をした「人の子」が、天から権能を与えられて登場するのもダニエル書である(同7章9〜14節)。天使の軍勢と悪の軍勢とのこのような戦いは、クムラン文書の『戦いの書』(前2世紀半ば頃)において、さらにはっきりとした形を採り(同4章)、新約時代へ受け継がれることになる。

■新約時代の天使
 新約聖書には組織だった天使論は表われないが、新約時代の天使は旧約時代の伝承を受けて、天において神に仕える存在であることに変わりない(マルコ12章25節/同13章32節/ルカ15章10節/同20章36節)。したがって、主なる神のみ使いとして地上の人間たちに様々の働きかけを行なう。しかし彼らの役割は、イエス・キリストを通して顕わされる神の救いの計画に沿う機能にほぼ限定されるから、天使は、地上のイエスに付き添い、その救済史的な働きを補助することになる(マルコ1章13節/マタイ26章53節/ルカ22章43節/ヘブライ1章14節など)。
 福音書において天使の働きが特に顕著なのは、イエスの誕生の場と(マタイ1章20節/同24節/2章13節/同19節/ルカ1章26節/同2章13節など)、その復活の場においてである(マタイ28章2節/同5節/ルカ24章23節)。これらが、イエス自身の力の及ばない事態であることを思えば当然であろう。
 さらに、イエスが天使を伴うのが終末の裁きの場である(マタイ13章39節/同49節/16章27節/マルコ13章27節/ルカ9章26節/第一テサロニケ4章16節など)。ここでは、イエス・キリストが天使たちを「従えて」顕現する。ここにはおそらく、天において大きな権能を授与されたダニエル書の「人の子」(7章13〜14節)伝承が受け継がれているのであろう。ヨハネ黙示録においては、天使たちが終始重要な役割を果たすが、これも黙示思想における終末との関連を考えれば理解できよう。このことは、旧新約中間期のユダヤ教において、メシアと天使とがほとんど接触しないことと比較して興味深い。
 イエスに付き添った天使たちの働きは、使徒たちや弟子たちにも受け継がれて、使徒や弟子たちの救済史的な働きを補助する(使徒5章19節/同8章26節/同12章7節/第一テモテ5章21節など)。ちなみにこれらの天使たちで、固有名がでてくるのはガブリエル(ルカ1章26節)とミカエル(ユダ9節)だけで、それ以外はほぼ無名である。興味深いのはガラテヤ人への手紙3章19節の場合である。ここでは天使たちの手を通じて与えられた律法が、神から直接に与えられる約束と対比されるから、天使の仲介は一段低いものとされている。パウロにあっては、天使はもはや霊能においてキリストに及ぶ存在ではなくなっているのである(ガラテヤ1章3節)。

■中世の天使の位階
 新約聖書の時代には、まだ発達した天使の位階は見られない。しかし、中世のカトリック神学においては天使の位階が成立していて、この位階は、17世紀のイギリスでは、イングランド国教会にも、ミルトンのようなピューリタン詩人にも受け容れられていた。参考までにこれをあげると次のようになる。
第一の位
熾天使(Seraphim)
智天使(Cherubim)
座天使(Thrones)
第二の位
主天使(Dominions)
力天使(Virtues)
能天使(Powers)
第三の位
権天使(Princes/Principalities)
大天使(Archangels)
守護天使(Guardian Angels)
 
 最高位の二人は、ほんらい火力と風力とをそれぞれ表わすセラフィームとケルビームであるが、彼らは神と共に安息に与る熾天使と、神のご計画に参与する智天使として主なる神に仕える最高位にある。また、座天使(Thrones)は四匹の生き物に似ており(エゼキエル書1章)、主天使(Dominions)は森羅万象を司り、力天使(Virtues)は正義の人を守り、能天使(Powers)は自然界の法則を司り、権天使(Princes/Principalities)には国々の存亡を支配する権能が与えられている。しかし、旧約時代から新約時代にかけて高位を誇っていた大天使たち(Archangels)が下位に落とされているのはどういうわけだろう。おそらく、神の宮廷に仕えていた大天使たちの中から、神に反逆する者たちが出て、反逆の天使団を組織したことが原因であろう。守護天使(Guardion Angels)たちは無数にいて、ユダヤ世界だけでなくヘレニズム世界に昔からなじみの家族や個人の善い守護神である(逆に悪い個人霊もあるが)。

■堕天使伝承の起源
 ここでわたしたちは、神に仕えるこれら天使たちの位階に対抗して、彼らの業を妨げようとする悪魔(Devil/Satan)の手下共にも目を向けなければならない。これら堕天使たちの位階は、神の宮廷のそれに対応している。堕天使伝承は、二元論的な宇宙観から生じたと思われるから、イスラエルを捕囚から解放したペルシア帝国の思想的影響から生じたと考えられていた。ペルシアの宗教(ゾロアスター教)には、宇宙・倫理・宗教での二元論、救世主神話、高度で楽天的な終末観、善の究極的勝利と宇宙の救済、死者の復活などが見られる〔エリアーデ(1)350頁〕。しかし現在では、ペルシアの影響は限られていて、黙示思想の光と闇の二元性や堕天使伝承は、むしろ捕囚以後のユダヤ思想の中で芽生えてきたもので、イスラエル独自のものだと見なされるようになった〔TDNT(9)317 / 325〜26〕。
黙示思想の発端となる「悪の起源」は、特に天使たちの堕罪と、その結果として生まれた悪霊どもに結びついていて、わたしたちはこの伝承を『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)に見ることができる。これの聖書的な言及は、創世記6章1〜6節にある。ただし聖書のこの箇所は、ほんらい天使たちの堕罪を記した記事ではない。むしろ、「大昔の名高い英雄たち」(6章4節)に言及している。しかし、この部分が「天使の堕罪」と関連づけられるようになったのは、ここがノアの洪水の直前に置かれていることと深く関係している。『第一エノク書』で特に天使たちの堕罪と彼らへの裁きを中心に扱っているのは「見張りの天使たちの書」(6〜36章)で、中でも、天使たちの堕罪に直接関わるのは6〜8章である。
 見張りの天使たちは、ほんらい人間の見張り役であったが、人間の女たちと通じて巨人たちを生むことによって堕罪した。彼らはほんらい人間を教え監督する「見張り役」だったのだが、女たちに魅せられて、肉である人間と通じて、その結果、人間に伝えてはならないと禁じられていた知識、すなわち金属(武器など)、染料、医術(薬草)、装飾品、天体のしるしを観る占星術や天文の知識を人間に伝えた。『第一エノク書』には、楽園を脅かす蛇はでてこないが、その代わりに堕天使の頭目アサエルとシェミハザが登場し、彼らを初め、200名の天使を率いる20名の首長たちの名があげられている。彼らと女たちから生まれたネフィリム(巨人)たちは、お互いの血をすすり、人間たちを食らい、これらネフィリムたちによる暴虐が地に満ちる。ガブリエルとミカエルとラファエルたちがこの有様を主なる神に報告すると、神は、大洪水が起こり地の終わりが来ると告げることになる。
 『第一エノク書』の堕天使伝承の特徴をあげると次のようになる。
(1)巨人たちは、半~半人で野獣のような暴虐を行ない、人間とは区別された悪霊の元凶とされているから、人間は罪の違反者というよりは、罪を作り出すための手段と見なされている(15章7〜10節)。
(2)堕落天使たちとその子孫は、肉欲的な淫行と神への反逆を人間をも含む子孫へ伝え、これを通じて自然と大地を汚染する。
(3)堕落天使たちのもたらした罪の結果は、人間が制御することのできない領域に属し、人間は罪と暴虐に対しては全く無力である。ただし、「見張りの天使たちの書」の最終局面では、天での反逆よりも人間の責任を重く観るようになり、エノクは天の旅において、義人と悪人に対する報いを目撃することになる(22〜27章)。
(4)シェミハザ伝承では、堕天使たちが、人間と性的な交わりをもつことで天と地との境界を侵す。このために暴虐を惹起させ(15章3〜7節)、また天に属する秘密を明かすことで、武器製造のための金属と鉱石、性的誘惑のための化粧品と宝石類などを人間に教える。さらに、魔術によって未来を変えようとする力を人間に吹き込む。
(5)アサエルは、見張りの天使たちによる謀反と反逆の首謀者の一人であるが、彼はシェミハザをも凌ぐ存在として、反逆への事実上の指導者になる(8章1節/9章6節/10章4〜8節)。

■堕天使たちの名前
 『第一エノク書』6章7節以下には、堕天使の首領たちの名があげられている(以下の名前の読みはNickelsburg, 1 Enoch. による)。彼らの頭目であるシェミハザ、その名前は「わたしの神は観た」を意味すると解釈されるから、これには、堕天使たちの悪事が神の目から隠れることがないという皮肉がこめられている〔Nickelsburg(4)179〕。2番目に続くのはアルテコフで、天に現われるさまざまなしるしの吉凶を見分ける。3番目のレマシェルと4番目のコカベルは、人の運命を左右する天の星星の運行を司る。
 5番目のアルムマヘルは「神の分別/神の天使」を意味するから、本来この天使は神に属する分別を具えいたのに、堕罪のためにその天使に具わる聖なる分別/識別が失われて、「聖なる知恵」が「汚れた誤りの分別/識別力」へと転じたことを示唆する。6番目のラメル(神の雷/神は雷)は、雷を司る天使(雷神)の意味であろう。古代のカナンでも古代中国でも日本でも「風神・雷神」として崇拝された。風神・雷神図は敦煌の洞窟にも描かれているから、日本に伝わる「雷神」は『第一エノク書』のラメル/ラメエルと何らかのつながりがあるのかもしれない。
 7番目はダニエル(神はわたしの裁き)。エゼキエル書に「ノア、ダニエル、ヨブ」の3人の賢者の一人としてでてくる(エゼキエル14章14節/同20節)。ただし、エゼキエル書のダニエルは、イスラエルの人ではなく、ウガリット文書群(前1400〜1200年)の一つで『アクハト』の物語にでてくるダニルウ(ダニエル)のこと〔『古代オリエント集』313頁〕。ダニルウは賢明な王であると同時に地上の豊穣を司る半~半人の伝説的な人物である。ただしここでは、この名前が堕天使につけられているから、「神の裁き」とは「神が裁く」ことであり、この名前も堕天使が神によって裁かれることを意図してつけられた皮肉と見ることができる〔Nickelsburg(4)180〕。この名前は、5番目のアルムマヘルと同じように、神に属する聖なる判別の働きが、汚されてその~性を失ったことを示している。
 8番目のジケルは、ギリシア語訳から推定したヘブライ語名は「ヅィキーエール」(神の流星)である。ほんらい彗星あるいは流星を意味するが、それだけでなく空を明るく照らす様々な現象をも含む。『第一エノク書』8章3節では、彼は人間に流星のしるしを教えたとある〔Nickelsburg(3)25〕。9番目はバラケルで、そのヘブライ語名は「バラクエール」(雷光の神)である。彼は6番目のラメルと関連するのであろう。『第一エノク書』8章3節に、彼は人間に彗星や流星など空を照らすしるし(「占星術」〔村岡訳〕)を教えたとあるから、この堕天使の役目は8番目の堕天使とも関連する。
 10番目はアサエル。ヘブライ語名は「アサエール」(神は造った/行なった)。「アサエル」は、フェニキアやアラム語圏でも用いられた名前だから、この堕天使名がヘブライ起源とは限らない。問題は、彼が8章1節/9章6節にもでてきて、しかもそこでは(特に9章6節では)、彼は他の堕天使たちに優越する地位を与えられていることである。しかも、8章1節の「アサエル」には、ギリシア語訳では「アザエール」あるいは「アザゼル」"Azazel"とも読む複数のパピルス資料がある〔Nickelsburg(4)188〕。6章のアサエルと8章1節/9章6節の堕天使が同一であれば、アサエルは、6章のリストの10番目から8章ではリストの1番目に移されていることになる〔Nickelsburg(3) 24〜25〕。6章のリストのほうが、8章あるいは69章の天使たちのリストに比べると古いと考えられるから、この食い違いは、6章から8章以下への伝承過程で名前が変容して、「アサエル」が、レビ記16章10節にでてくる悪霊「アザゼル」と結びつき、両者が同一視されたためと考えられる〔Nickelsburg(4)180〕。村岡訳『エチオピア語エノク書』では、この頭目の名前は「アザゼル」になるが、英訳では「アサエル」。
 11番目はヘルマニ。このヘブライ語名は「ヘルモンの者」。この名前はおそらく、堕天使伝承が、ガリラヤ北部のヘルモン山の周辺に起源を持つことから来ている。8章3節で彼は呪縛や魔術の業を解く(無効にする)呪文や呪術を人間に教えたとある。
 12番目はマタレル。ヘブライ語名は「マータールエール」(神の雨)。以下に「雨」と「雲」と「冬」(雨の多い季節)の気象/季節に関わる三堕天使の名前が続く。13番目アナネルのヘブライ語名は「アーナーネール」(神の雲)。14番目のセタウエルのヘブライ語名は「セターウエール」(神の冬/雨期)である。
 15番目はサムシエル。ヘブライ語名は「サムシエール」(神の太陽)。雨期を表わす天使たちに続いて、空を照らす太陽と月の天使名が来る。彼は「太陽のしるし」を人間に教えた(8章3節)とあるから、具体的には太陽暦に関することなのか。16番目はサハリエルで、ヘブライ語名は「サハリエール」(神の月)。ヘブライ語では「月」は通常複数で用いられるから、ここでは太陰暦に関わる事象のことであろう。
 17番目はトゥミエルで、ヘブライ語名は「トゥミエール」(神の完成)で、この名前はヘブライ語「トゥーム」(完全/完成/廉直)から。神の創造した被造物全体が完全であることを指すが、この名が堕天使に用いられていることで、人間の堕罪と同時に、被造物全体がその完全性を失ったと考えられている。
 18番目はトゥリエルで、ヘブライ語名は「トゥリーエール」(神の山)。ここで「山」と「海」に関わる堕天使たちがでてくる。19番目はヤミエル。ヘブライ語名は「ヤミエール」(神の海)あるいは「ヨーミエール」(神の日)。ふたとおりのヘブライ語名が可能であるが、「山」と並んで「海」のほうを指すと考えられる。 最後に20番目のイェハディエルが来る。ヘブライ語名は「イェハディエール」(神は導く)である。
 以上が10名組の堕天使たちの首長たちである。20名の首領が、それぞれに10名を率いているので全部で200名になる。この分け方は、第二神殿時代よりも以前のイスラエルの軍隊組織に対応しているのかもしれない〔Nickelsburg(4)181〕。
 なおシェミハザは堕天使たちの頭とされているが、堕天使たちの頭については、ヨハネ黙示録に、竜(サタンの表象)が、その尾によって「天の星の3分の1を掃き寄せて、地上に投げつけた」(黙示録12章4節)と記されていて、これに続く12章7〜8節では、天において戦いが起こり、ミカエルとその他の天使たちが竜と戦いを挑み、その結果「もはや天使(たち)にはその居場所がなくなった」とある(黙示録12章8節)。もしもヨハネ黙示録12章のこれらの「天の星」が、サタンの手下/天使たち("Satan's angels")を指しているとすれば、ヨハネ黙示録のこの箇所は、終末の出来事であると同時に、創世記6章が示唆する原初における天使の堕罪をも含むことになろう〔Beale, The Book of Revelation. 636〕。
 ダニエル書でも同様で、西(ギリシア)から現われた雄山羊が、やがて強大な角を生やして、「天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、すなわち星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった」(ダニエル8章10節)とある。ダニエル書がここで言う「雄山羊の角」は、歴史的に解釈すると、ユダヤ教の礼拝を激しく弾圧したアンティオコス4世のことを象徴しているから、ここでの「星」は迫害された聖徒たちを指すことになる。このように見ると、ヨハネ黙示録の「地上へ投げ落とされた天の星」も、この世の権力に迫害される聖徒たちの表象ともなり、地上の聖徒たちと聖なる天使たちは、共に「天の星星」として重ねられていると見るべきであろう。言い換えると、『第一エノク書』でもダニエル書でも、さらに時代が降ってヨハネ黙示録でも、天の領域に住む天使たちと地上にいる神の聖徒たちとの間には、明確な区別がつけられていないこと、両者が互いに共存する観方が存在しえることを意味する。
 『第一エノク書』6章7節の堕天使たちの名前から判断すると、それらは二つに大別される。一つは、創造、思慮/分別、裁き/判定、被造物の秩序/完全性、導き、などを意味する名前で、これらはすべて神の御心/御意志に関わる内容を持つ名前である。もう一つは、気象、太陽、月、星星、海と山、季節など被造物全体に関わる名前である。すなわち、神の創造した秩序と、この秩序に働く神の御心、これらに対応するように堕天使たちの名前が割り当てられているのが分かる。だから彼ら堕天使たちは、神のみ心と神の創造の秩序、この全体を自分たちの支配の下に置き、そうすることで、神の創造の御業全体に「取って代わろう」とする者たちであり、ここにでてくる堕天使たちの名前は、このようなもろもろの霊力を表象していると考えられる。『第一エノク書』8章では、これらの堕天使たちが、それぞれの名前に応じた知力と知識を人間に教えこむ。言い換えると、人間は、人間を超えた霊的な力によって、自分たちの知力と知識とが支配されている、というのが、これら堕天使の名前が告げていることである。
 『第一エノク書』では、これらもろもろの悪霊共によって形成されている「悪魔の支配する世界・宇宙(コスモロジー)」は、さらにその上に君臨する神とそのみ使いたちによって制御され、終末での裁きを待つことになる。だからエノクは、その黙示的な天の旅において、悪霊共とこれに支配される悪人たちのいる場所だけでなく、神と天使たち、および、彼らに仕える義人たちの祝福に満ちた世界をも俯瞰(ふかん)する。それらは例えば、1章の裁きの幻/5章の選ばれた知恵の義人たちと呪われた罪人たちとの対比/14章の天の王座/18章の太陽と星星の運行/32章の義の園と知恵の樹/33〜36章の寒さ、雹、霜、雪、雨などの諸現象を開く諸門/38章の選ばれた義人の宗団/49章の知恵の霊/72〜82章の太陽・月・季節とこれらを司る天体の運行などなどである。

■エフェソ6章12節の堕天使たち
 わたしたちはここで初めて、エフェソ人への手紙6章12節にでてくる<反逆の天使たち>について考えることができる。エフェソ人への手紙のこの節は、神の天使たちの位階さえまだ十分発達していなかった1世紀に、悪魔の天使団の組織を示唆している点で注目に値する。
 作者は、エクレシアに属するクリスチャンたちの戦いが、人間の力を超えるもろもろの霊力との戦いだから、われわれも自力に頼ることをせず、人間を超えた「神からの武具」を身にまとうように警告する。だから、この闘い/格闘/葛藤は、個人の自己分析や自己反省によって解決できる問題ではなく、また、エクレシア全体としての人間の組織力によるものでもない。
 作者は、エクレシア全体であれ個人であれ、闘うべき相手の霊力として「諸支配(the principalities)と諸権威(the powers)/暗闇の世界の諸力(the world rulers of this present darkness )/諸天にいる悪の諸霊(the spiritual hosts of wickedness in the heavenly places)」をあげる。英訳はthe Revised Standard Version (2nd edition) からである〔Nestle-Aland, Greek-English New Testament. Deutsche Bibelgesellshaft (1998).513-14.〕。この英訳は、1611年の欽定訳(Authorized Version)とほぼ一致しているが、欽定訳では、"the world rulers of this present darkness" が "the rulers of the darkness of this world" とあり、"the heavenly places" が "in high places" となっていて、横に "Or, heuenly" と異読があげてある〔The Holy Bible. A Reprint of the Edition of 1611. Oxford.〕。これが The New Revised Standard Version (1989) になると、"the rulers / the authorities / the cosmic powers of this present darkness / the spiritual forces of evil in the heavenly places" となる。
 言うまでもなく、これは、神の天使たちに対立/対応する悪魔の諸力である。初めの二つ、「諸支配」(the principalities)と「諸権威」(the powers)は、すでにエフェソ1章21節と3章10節にもでていて、それらの霊力は、復活したキリストの支配の下に置かれており(1章21節)、「わたしたちの主キリスト・イエスにある神の知恵」によって制御可能である(3章10節)。これらの堕天使どもは、その名を中世における神の天使の位階に照らしてみても、それほど高位の霊力とは思われない。作者はおそらく、これらの堕天使たちによって、人間世界と天との中間に介在する悪の諸霊力「かの空中に勢力を持つ者」(2章2節)を指しているのであろう。
 問題はこれに続く「暗闇の世界の諸力」と「諸天にいる悪の諸霊」である。これら後半の二つを前半の二つの説明だと考えることはできない。彼らは惑星にかかわる天文/占星に登場する堕天使どもを指すからである〔Best, Ephesians. 593.〕。これらの堕天使は、エフェソ人への手紙の作者のはるか以前から知られ伝えられている存在であり、この書簡の読者/聴衆にも知られていたのであろう。だから彼らは、地上の目に見える支配者たちや権威を直接に指しているのではない。「直接に」と言うのは、人間世界の支配者たちは、彼ら堕天使どもに操られてその悪しき策略に与し、神に逆らう場合が少なくないからである。
 三つ目の「コスモクラトールたち」(暗闇の世界の諸力)とは、ここだけに表われる用語である。もともとは天体が運行する「圏」"sphere"を司る力を指すギリシア語であって、これらが人間の運命を左右すると信じられた。エフェソ人への手紙でこの用語が表わす霊力が、時代・時期的な支配のことなのか、空間的な領域に属するのかは、すでに『第一エノク書』の堕天使伝承から見れば明らかで、彼らは神の裁きを「すでに予告されていて」最終的な審判を待つ者たちのことである("the cosmic powers of this present darkness"〔NRSV〕。欽定訳"the rulers of the darkness of this world" と比較せよ)。現存する「闇の世」" this world"が、堕天使ども悪霊の跋扈(ばっこ)する世界を指し、彼らの頂点に立つのが「サタン」すなわち6章11節の「ディアボロス」(悪魔)である。堕天使伝承に照らすなら、サタンのこの支配権は比較的新しい(前2世紀の頃から)。彼の威力と互角に戦えるのは大天使ミカエルであるから(ユダ9節/ヨハネ黙示録12章7節)、その威力は中世の天使の位階に照らせば第三位の「座天使」級なのだろうか。
 「闇の天使たち」はクムラン文書では「ベリアルの軍勢」として登場するが、クムラン文書では、堕天使どもの力は彼らに支配された人間と結びついていて、「闇の子ら」として表われる〔『戦いの書』1章1節〕。彼らは神に選ばれた「光の子ら」と戦うが、クムランでは「光の子」とは、イスラエルの会衆の中から特に神に選ばれて「契約に忠実な」者たちに限定される。したがって、「光の子」は、彼ら以外のイスラエルの民と異教世界を含む「闇の子」と厳しく区別されているから、この点で、新約聖書の「光の子/闇の子」、特にヨハネ福音書に表われる「光」と「闇」とはかなり内容が違っている。
 単数の「コスモクラトール」(世の支配者)は、七十人訳にもでてこないが、これに対して単数の「パントクラトール」(全能者)は、ヘブライ語の「シャダイ」(全能/力)と「ツィヴァオート」(軍勢:特に天使の軍勢)の訳語として七十人訳にも新約聖書にもしばしばでてくる〔TDNT(3)914.〕。例をあげると、ヨブ記5章17節の「全能者」、アモス3章13節〔七十人訳14節〕の「主なるヤハウェ、万軍(パントクラトール)の神」がある。アモス書のように全部を網羅した名称は外に例がないが、ここをパウロは、第二コリント6章18節で「全能(パントクラトール)の主」として引用している。また、知恵の書7章25節の「<全能者>の栄光」、シラ書42章17節の「<全能者>なる主」がある。ヨハネ黙示録1章8節には「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、<全能者>がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」や同4章8節「<全能者>である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」などがある。ちなみに、この「パントクラトールなるキリスト」は、東方正教会では特に重要で、ギリシア正教の聖堂や修道院の礼拝堂を覆うドーム型の天井の頂点には、パントクラトールとしてのキリスト像が描かれている。
 パウロとパウロ系の書簡では、第二コリント人への手紙の6章18節の「パントクラトール」が注目に値する。ここでパウロは、「キリストとベリアル」を「光と闇」との対照においてとらえている。「全能の主」とあるのは、ここではキリストを指すのであろうから、これに敵対する「闇の主」としてパウロはサタンと並ぶベリアルを念頭に置いている。アモス書では「パントクラトール」が天使の軍団を意味しているが、パウロが「パントクラトール(全能者)である主」と言う時に、はたして天使の万軍を率いるキリストを意味しているのかどうか確かではない。しかし、イエスも天使の軍団を率いることができると明言しているから(マタイ26章53節)、おそらくパウロも、コリントのクリスチャンたちを「汚そうとする」ベリアル(=サタン)配下の諸霊力の手管を避けて、全能のキリストの名によって身を聖く保つように教えていると見ていいであろう。 
 最後に出てくるのは「諸天にいる悪の諸霊」である。言うまでもなくここで言う「諸霊」とは堕天使の働きであるが、問題は「諸天」にある。天上にも悪霊が働くのか?という疑問が初代の教父たちを悩ませたようである。このためか「諸天にいる」を省いた異読もあるが、残念ながらこれはごく限られている。これを「諸天の<下にいる>」と読もうとした教父たちもいるが、これは無理であろう〔Best, Ephesians. 594.〕。欽定訳もこの辺を配慮してか"in high places" となっていて、横に "Or, heuenly" と異読があげてある。現代の英訳は"in the heavenly places"〔RSV〕〔NRSV〕と欽定訳の異読のほうを採っている。
 サタン/アサエルの率いる堕天使たちが<もともとは>天にいたという伝承はすでに『第一エノク書』にでていて、「天の諸霊たち、彼らの住まいは天にある。だが今や、これらの諸霊と肉(人間の女性)との間に生まれた巨人たち(ネフィリム)は、地上の悪霊と呼ばれる。彼ら(巨人たち)の住まいは地上にあるのだから」(『第一エノク書』15章7〜8節)とある。これで見ると、堕天使である悪霊どもは人間の女性と交わって巨人を産み、そこから出た悪霊どもが地上で働くことになるから〔『エチオピア語エノク書』村岡訳〕、堕天使たち自身は一体どこに住んでいるのかがはっきりしない。それだけにエフェソ人への手紙の6章12節がいっそう注目されることになろう。
 ところが、『預言者イザヤの殉教と昇天』(紀元1世紀末頃?)では、イザヤが栄光の天使に導かれて「わたし(イザヤ)と彼(天使)は大空に昇ったが、そこにわたしはサマエルと彼の軍勢を見た。また、そこでは大がかりな殺し合いが行なわれていて、サタンの天使たちはたがいにそねみ合っていた。地上も上界と同じである。大空で行なわれていることと似たようなことは、ここ地上でも行なわれる」(村岡崇光訳「預言者イザヤの殉教と昇天」7章9〜11節)とある〔『聖書外典偽典別巻』補遺U191頁〕。この文書の後半(6〜11章)はキリスト教起源である。これから判断すると、「諸天にいる悪霊ども」という見方は、ユダヤ教の黙示思想を受け継いだキリスト教の黙示思想において現われたと言えるかもしれない。ただし、以後のキリスト教では、「上位の諸天」と「下位の諸天」との区別がなされるようになった〔Best, Ephesians. 595.〕。
 以上見てきたように、ここで展開されている堕天使の世界は、それなりに長期の伝承を背景にしている。これを「古代の神話」だときめつけて、現代的でより合理的な解釈で処理したいという誘惑は分からなくもないが、事はそれほど容易ではなさそうである。
「こうして(エフェソ人への手紙の)著者は当時の支配的な存在感情を取り上げる。それはあの世界不安であり、心を麻痺させる運命信仰と悪霊恐怖の中に表われ、魔術的実践への逃避において、あるいは密儀における献身へのもしくはグノーシス的自己発見への衝動の中に逃げ場をもとめることになる(ことを著者は採りあげている)」〔シュナケンブルク『エペソ人への手紙』334頁〕。このように説明してもらっても、これで現在のわたしたちの置かれた状況への的確な解釈が見えてくるわけではない。
 ここに展開されているのは、地上の人間に向けられた「存在の無力性」である。それは、個人としての人間だけでなく、組織化された人間においても、その無力さにおいて変わるところがない。だから、うっかりすると、ここでの堕天使論は、個人にせよ、組織にせよ、人間の道徳的、倫理的な責任を無意味にしてしまいかねない。たとえここで、個人の実存を持ち出しても、あるいは、なんらかの社会的、政治的な組織や運動を持ち出しても、またそれらが、宗派・宗団のような宗教的な組織であっても、ここでエフェソ人への手紙の作者がわたしたちに提起している問題に「より良い答え」が出せたと誇るわけにはいかないだろう。「人間の力を超えた霊力」に代わる、より透徹した概念を現代の心理学や倫理学や神学が保証してくれるわけではない。
 わたしに言わせるなら、ここに示されている堕天使論の実態を解明するには、まだまだ分からないことが多すぎる。いったいこの作者たちが、どういう霊的な実態を見据えてこのように語り、このように考えているのか? これについて未解決の問題が多すぎるのである。事は神学だけでなく、神話学や、宗教学に属する心霊学などの領域に入るのだろうが、これらの諸学問が、堕天使に由来する悪霊論を現代的な視点から解き明かしてくれるとは、残念ながら期待できない。せいぜい社会学の一分野である「カリスマ共同体論」が、この問題に示唆を与えてくれる程度である。だから、「エペソの著者は終末的黙示的概念をあいまいな形で用いているので、終末の前の先鋭化した状況を伴う最後の時点を本当に考えているかは不確かである」〔シュナケンブルク『エペソ人への手紙』335頁〕という解釈では片付かない。「終末的黙示的概念をあいまいな形で用いている」のは、作者よりも、むしろわたしたちのほうにあるのだろうから。
 むしろエフェソ人への手紙の作者は、わたしたちに、この悪霊論への明確な答えを用意してくれている。それは「天にあるものも地にあるものも一つに統括するキリスト」(1章10節)である。エイレナイオスは、この「統括」(アナケファライオーサスタイ)の内にサタンをも含めることで、正しくもその答えを洞察していた。
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