市川喜一著作集 > 推薦の辞

<市川喜一著作集 保 存 版 推 薦 の 辞>

市川神学を読む    私市元宏(甲南女子大学名誉教授・コイノニア会代表)

 今回、市川さんの22巻に及ぶその著作がハード・カバーで出版されることになりました。この厖大な諸作を読むのは、それ自体で一つの立派な仕事だと思いますが、その際に、市川さんの著作をわたしなりにどう読んできたかをお伝えすることで、その著作を読まれる方のご参考にしていただければ幸いです。
 市川さんの著作を読む場合の鍵語の一つが「復活者キリスト」です。読者は、先ず、市川さんが言う「復活者キリスト」とは、どういう意味かを理解することから彼の著作を読み始めることをお勧めします。福音書を始め、新約聖書がどのような目的で書かれたか、「復活者キリスト」がどのようにして歴史上に存在するにいたったのか、読者はその歴史的な過程を知らされることになります。キリスト教を深く知る読者なら、「復活者キリスト」とは福音書の作者よりも、むしろパウロの用語にふさわしいことに気がつくでしょう。
 次に、市川さんの著作を読む際の鍵語は「恩恵の神学」です。市川さんの「恩恵の神学」は、キリスト教がどのようにしてユダヤ教から分かれて独立するにいたったか?という彼の新約聖書に関する著作全体を一貫する主題と結びついています。もしもわたしの理解が誤りでなければ、この視点は、市川さんのキリスト教理解だけでなく、さらには人類の「宗教」それ自体への理解をも導き出そうとする野心的な視野であり、こういう壮大な視点でその著作活動が行なわれていることを読者は知ることができるでしょう。



キリストの福音の救済的真義    水垣渉(京都大学名誉教授・元キリスト教学会理事長)


 キリストの福音を「宗教としてのキリスト教」から区別することによって、その普遍的な意義、つまり救済的真義を明らかにしようとした著者の長年の努力は、ここに一つの全体像として結実した。著者が新約全体にわたって歴史的学問的にも丁寧に解釈したなかから教えられることは多い。たとえばローマ書の講解などは「この国で著されてきた多くのローマ書の注解や講解のなかでも、もっともすぐれたものの一つ」と言える。しかしそれ以上に、個々の解釈を越えて初めて開かれてくるキリストの福音の深く大きな霊的視野に導かれることは、なににも代えがたい幸いである。



市川喜一著作集保存版への推薦文   奥田昌道(京都大学名誉教授・京都キリスト召団代表)


 人生の深い暗闇の中で呻吟していた私を内に輝くキリストの光で主キリストへと導いて下さったのが、大学院法学研究科に在籍中の市川喜一兄であった。兄はその直後、大学を去って福音伝道の道へと転身されたが、その後も終始主にある変らぬ愛と誠をもって未熟な私の信仰の歩みを支えていただいた。今座右にある『天旅』2012年3号の「イエスの復活」の講解39頁には、兄が「独立伝道に乗り出した後、大学に残った兄弟と協力して出身大学に聖書研究会を始めましたが、その聖書研究会を『エマオ会』と名付けました」と記されている。私は兄の志を受け継いで京大法学部を定年で退職するまで「エマオ会」を継続してきた。同誌の「イエスの復活」と「キリスト教を相対化する福音」は白眉の論稿であり、兄の著作の基底をなすものとして、深い共感の思いを抱かせる。兄は若き日に聖霊のバプテスマを体験しておられるが、その生々しい体験が、学問的な厳密さと緻密さを具えながら、なお霊的生命に溢れた著作を支えているものと確信している。このたび、私の信仰の道の第一の恩人である市川喜一兄の著作集の保存版が世に送られることを心から喜びたい。



原典への忠実さと聖霊の働き     田辺明子(プール学院大学名誉教授)


新約原典研究会は毎月一回、市川先生の開会の祈祷で始まる。それは必ず「お父さま」という呼びかけで始められる。これはマタイよりも短い、ルカの主の祈りの呼びかけに基づいるように思われ、イエスが祈ったもとの形に近いのだろうか。毎月一度耳にする市川先生の「お父さま」という呼びかけに、以前はそれが稀有であることに感じ入っていたが、最近はそれだけでなく、他では耳のすることがない「温かさ」「親しさ」を感じるようになった。また「お父さま」に続く市川先生の祈りの言葉の端々に、私は最近聖霊の働きを感じるようになった。
 聖書原典に忠実であること、また聖霊ということ、そしてこの二つが別々ではなく一つに結合しているということ―これが新約原典研究会に入会させていただいて五年目にして私が気がついたことです。今回、この研究会を母体として書き進められてきた市川先生の新約聖書講解の著作集が、上製の保存版の形で刊行されることをお喜びして、信仰を追い求める諸兄姉にお勧めする次第です。



証言と推薦の辞   畑野栄一(日本聖公会大阪教区芦屋聖マルコ教会、元小児科医)


 一介の平信徒である私が市川喜一先生の著書を推薦するなど分を過ぎたことですが、証しとして魂に得た所を記してみます。ご著書の中の感銘を受けた字句が中心になります。私が「天旅」を読み始め、自分勝手に先生を恩師と敬愛し始めたのは、私が難聴となり医業をやめた74歳以後の事です。
 まず、イエスの「神の国」と「神の支配」が同じ事態を示していることです。主イエスが来られたことで神の支配がどのようなものか世に明らかにされ、それが「終わりの時の始まりであり」、旧約聖書で「神さまが約束された」救いの成就であり、従って祝福そのものであることが分かりました。私が感懐を以て教えられた事は沢山ありますが、「天旅」2005年3号巻頭言「ゼロの場に生きる」の、「今私たちがキリストにあって得ている救いの祝福 ― それは信仰と愛と希望です ― は、私たちの資質と価値に応じて与えられるものではありません。働きも資格もない者に与えられた絶対無条件の恩恵の賜物です」に始まり、三・四の例を引くと、信仰が「神の義」であること。「主キリストにあって」とか「ピステイス・クリストウ(キリストの信仰)」というのは、キリストを対象とした信仰ではなく、キリストに合わせられて生きる信仰であること。「愛の賛歌」の内容。現在私たちが見ている『十字架のキリストの相』と『復活のキリストの相』との二重写し(私たちはキリストの十字架を見ている時、同時に主の復活を認識していると云う事)等に惹かれました。
 私は特に、御言葉の極意を、ご聖霊に関する先生の解説から感受しましたが、勿論先生のご著作を読まれる方は、「信仰、希望、愛」の極意と思われるものを感じ取られ、或いは教会を創設する大切な賜物をご自分の中に見つけ出されて、大いなる歓喜にむせぶと云った、貴重な体験をされるに違いないと確信し、且つ希望しています。殊に今度の著作集は「保存版」ですから、旧著作集後に編集発行されて私も十分読んでいない文集もあると思われますので、私はその部門に対しても、大きな期待と興味をもって待っています。私は今94歳ですが、御言葉を読み霊知を与えられると云う事は、年令に関わらず、嬉しくて、有益なことです。



市川喜一氏新約聖書講解の完結を喜ぶ     天旅ホームページ読者からの投稿


京都在住のキリスト教独立伝道者、市川喜一氏が、四半世紀に亙って書き継いでこられた新約聖書の講解が、このほど完結した。わたしは、市川氏に面識も縁故もないが、10年余り前から、市川氏の講解を読み始め、その完結を願ってきた。こころから「おめでとうございます」と申し上げたい。日本人は、新約聖書に対する得難い手引きを手に入れたと考える。市川氏の講解は、以下の点を兼ね備える稀有のものと考える。
第一に、ギリシア語原典の緻密な読みに裏づけられている。既存の翻訳は、いずれも工夫が凝らされているが、ギリシア語の表現の外延と内包を正確に日本語に移し替えることは不可能に近い。しかし市川氏や内村鑑三の講解は、ギリシア語原典にきちんと規律されているため原典と併せ読んで違和感がなく、イメージも論旨も極めて明快である。
 第二に、市川氏自身の深い信仰に裏づけられている。市川氏自身の聖霊体験が、読者がイエス様やパウロを生き生きと思い描くことを助けてくれる。また、紙背に覗く市川氏の、堂々として敬虔な、うつくしい人柄が、この長大な講解を読み続ける支えとなる。
 第三に、福音の史的展開が事実に即して、論理的に把握されていることである。イエス様に発する福音は、歴史の中で、様々な人々に担われて展開し、その各段階の姿が新約聖書の諸文書として残されている。諸文書を、広く内外の歴史的な研究に照らして読み解き、一定の歴史的な環境の下での福音の史的展開の姿を正確に描き出すことによって、その向こうに、光源としてのイエス様がくっきりと浮かび上がってくる。
 この3つを実現するための資質と努力を、一つの人格の中で鼎立させ持続させることの難しさは想像に余りある。市川氏は、「天旅」誌の終刊の辞で、「この国において聖霊体験に基づく聖書信仰と学問的な神学研究が橋渡しができないで分裂している現状を憂い、その淵を越えて両者を統合することを志し」た、と書いておられる。その志は、このたび、見事に成就したと思う。このたびのことは、日本人の精神史における大きな出来事だと考える。




 この度、市川喜一著作集保存版の刊行にあたり、学会、教会、無教会と幅広い分野の各氏から懇切な推薦のお言葉をいただき感激しています。まことに有難うございました。 

                         刊行会一同