市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第8講

8 新しい人間

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。

(コリント人への第二の手紙 五章一七節)


 むかしイスラエルの知者は「日の下で人が行なうすべてのわざを見た」が、その結果はみな風をとらえるように空しくて、「空の空、空の空、いっさいは空である」と嘆かざるをえなかった。それは「先にあったことは、また後にもある。先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない」からである(伝道の書一章)。
 現代は革新の時代といわれる。次々に新しいものがわたしたちの目の前に現われる。新聞は毎日のように新しい製品の出現を報じている。品物だけではない。新しい考え、新しい思想がどんどん現われて、時代は確実に新しくなっていくように見える。「日の下には新しいものはない」と断じたあのイスラエルの知者の嘆きは、現代には無縁であろうか。
 たしかに、わたしたちは新しいものへの対応に忙殺されて、人間自身を見ることを忘れているのではなかろうか。ひとたび人間自身に目を止めると、現代の人間も昔の人間と全く同じ事をしていることに気づく。愛したり憎んだり、泣いたり笑ったり、生活に苦労したり快楽に耽ったりして、病み、老い、そして死んで行く。現代人が体験している事はみな、古代の人も同じように体験していたのである。人間の本質は変わっていない。「『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか。それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである」。
 このような人の世に、全く新しいことが起こった。キリストが死人の中から復活されたのである。それは前の世にはなかったことである。伝説はあった。約束と待望はあった。しかし現実に墓に葬られた人が復活して、地上の人々に顕れたのはかってなかったことである。また、死人の復活は人間にとって終局的な事態であるから、後にさらに新しいことが起こって古いものになってしまうことが絶対にないものである。復活こそ「見よ、これは新しいものだ」といつも言えることである。人類がこの地上にある限り、先にもなく、後にもない全く新しい事態である。キリストは「終わりのアダム」、終局的な意味で「新しい人類」そのものである。終末が歴史の中に突入してきているのである。
 キリストの復活という新しい出来事により、地上の人類にも新しいことが起こった。地上の死ぬべき人間が、復活されたキリストに出会い、復活者と結ばれてその生命にあずかり、死人の復活という終局を現在に宿して生きることができるようになった。これは前の世にはなかった新しい人間の姿である。復活者キリストにある者は新しく造られた者である。新しい人間、新しい人類が始まったのである。この「キリストにあって」見る時、限りなく同じことを繰り返し、それを死の暗闇の中に呑み込んで、いっさいを空なるものにする古い世は過ぎ去り、すべてが新しい意義を担って輝いているのが見えてくる。「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。

                              (一九八七年四号)