市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第11講

11 死よ、おまえの勝利はどこにあるのか

「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」。

(ヨハネ福音書 一一章一一節)


 会堂司ヤイロの娘が死んだ時、イエスは彼に「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ、泣き叫ぶ人々に「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」と言われた。呼吸は停止し、心臓は止まり、冷たくなっている子供の前で、「子供は眠っているのである」と言われるイエスを人々はあざ笑った。それも当然である。イエスが言われることはあまりにも人間の常識を超えている。
 イエスも周囲の人々も同じ事実を見ている。しかし、イエスの中にある生命と他の人々の中にある生命とは質が違うのである。その違いが同じ事実をまったく違ったふうに見させる。人々はそれを「死」と呼んで、人間としての存在がなくなってしまったものと諦めてしまう。それに対して、イエスは「眠り」と呼ばれる。われわれ生まれながらの人間の中にある生命は死によって滅びる。死に支配され、死に負けている。ところが、イエスの中に来ている生命、神の霊による新しい生命は死に打ち勝っている。死という冷厳な事実を、さらに勝るからだをもって生きるようになる時までの、休みつつ待つ期間としてしまっている。イエスはこのような質の生命が来ていることを示す「しるし」として、「娘よ、起きよ」の一言で彼女を生き返らされるのである。ラザロの場合も同じである。「ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と言って、死んで四日もたつラザロを生き返らされるのである。
 このイエスの中の生命は神の御霊によるものである。イエスが十字架されて殺された時、この神の御霊がイエスを死人の中から復活させたのである。そして、復活されたイエス・キリストを信じた者たちは、その十字架の死による贖いにあずかり、約束の聖霊を受けて、上よりの新しい生命に生きるようになった。この御霊によって新しく賜った生命をもって生き始める時、死は主が起こしに来て下さる時までのしばしの眠りの時であることが見えてくる。彼らもイエスと同じように、死を「眠り」と呼ぶようになる。石で打ち殺されたステパノは「眠りについた」と言われる。パウロは先に亡くなった信徒たちについて、「眠っている人々については、無知でいてもらいたくない」と書いている。
 「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるようになるためである」。地上に生きている時も、死後の世界でも同じ主と共に生きるのである。この主と共に生きることの素晴らしさのゆえに、地上にいるか、この体を脱ぎ捨てた世界にいるかは、どちらでもよいものになる。死という現象は相対化される。死は不安とか絶望ではなくなる。死はその刺を抜かれている。たしかに、朽ちない霊のからだを与えられる時はじめて、死に対する勝利は完成する。しかし、キリストにある者は御霊を賜り、今すでに復活に至る質の生命を生きている。この生命はすでに死に勝利している。わたしたちはなお冷厳な死の現実の中にありながら、この生命によって「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」と叫ぶことができるのである。

                              (一九八七年七号)