市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第24講

24 からし種一粒の信仰があれば

 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。

(ルカ福音書 一七章六節


 これは弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言った時に、イエスが答えて言われた言葉である。わたしたちも自分の信仰が増し加えられるように、いつも祈り求めている。義とされ救われることも、聖霊の賜物を受け、復活の希望に生きることも、すべて信仰に基づくことであるから、神との関わりがますます確かになるために、自分の信仰が増すことを切に願い求めている。そのような願いに対するイエスのこのお言葉は、そのような願いが出てくる立場とか信仰理解を根底から粉砕する。わたしたちは信仰を何か自分の中にある能力のように考えて、それが神から賜物として与えられるにせよ、または自分の努力によるにせよ、その能力が増し加えられることを願っている。ところが、イエスのこの言葉はわたしたちの中にはからし種一粒ほどの信仰もないことを暴露する。このような言葉を聞くと、わたしたちの信仰は動揺し、途方にくれる。
 いったい信仰とは何なのか。わたしたちはどうすればよいのか。この疑問に対してイエスは主人と僕の譬を語られる。畑から帰ってきたばかりの僕に、主人は夕食の世話をするように命じても当然ではないか。僕は命じられたことをみな果たしても、主人に特別に恩を売ったことにはならない。「あなたがたも同じことだ。命じられたことをみな果たした時、『わたしたちは無益な僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とイエスは言っておられる(ルカ一七・七〜一〇)。
 信仰とはこの僕と同じ立場で生きることである。主の御言葉を、ただそれが主の御言葉であるからという理由だけで、無条件に行なうことである。その御言葉を行なうに値すると自分が判断したからではなく、また自分の誠意や確信から行なうのでもない。そうであれば、それは自分の能力や価値から出た行為であって、誇ることができる。ただそれが主の御言葉であるから、主の信実、主の誠だけに頼って御言葉を行なう時、自分の能力や価値は何も関与していない。この時、この譬の僕と同じ立場で、自分を無とし、主を主として生きていることになる。
 信仰とは増加したり減少したりするような、人間の中にある能力ではない。それは「信じる」という行為、すなわち無条件に御言葉を「行なう」という行為であって、行なうか行なわないか、信じるか信じないかの別があるだけである。その際、御言葉を「行なう」とは、御言葉にかなった個々の行為を言っているのではない。信仰とは人間の全存在をかけた激しい行為である。人間としての在り方のすべて、人生のすべてを無条件に御言葉にかけていく激しい行為である。そして、このような意味で「信じる」とき、その「信じる」という行為には不可能なことはない、とイエスは言っておられるのである。桑の木が抜け出して海に根を下ろすというような人間の目には不可能なことも、「信じる」という行為を妨げることはできない。御言葉の背後には、御自身の言葉を実現しないではおかない、神の限りない信実と御力があるからである。

                              (一九八九年三号)