市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第26講

26 沈黙

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。

(詩編 六二編二節)


 魂の活動とは何らかの対象との対話である。魂は語りかけてくる人格と対話したり、事物や理念を手がかりにして他者や自己自身と対話する。このような魂の活動で構成される人間世界はなんと饒舌なことであろう。テレビやラジオは昼も夜も世界の果てから言葉を送ってきており、書店に満ち溢れる新刊書はあらゆる分野で語りかけ、対話を求めてくる。われわれの魂はその応対に疲れ果てる。
 魂がこのような人間界の対話に忙殺されている限り、神と対話することはできない。魂が神に向かう時は、人間界の対話は一切打ち切られ、魂が沈黙していなければならない。人間界の対話がもたらすものは所詮この世のものであって、永遠なるものではない。魂がおのが故郷である永遠界を求めて神に向かう時、一切の人間界の対話が果てるところで、沈黙の中に神に向かわねばならない。
 では、人間界の対話において沈黙すれば、魂は神と対話ができるのであろうか。魂が沈黙してひたすら神に向かう時、魂はより深い沈黙に直面する。魂は語りかける対象である神について何も知らないので、対話することができないのである。魂は神を見ることができないから、暗闇の中にいる。魂は神に向かう時、沈黙せざるをえないのである。この沈黙を知らない魂は、まことの祈りを知らない魂である。この深い沈黙と暗闇に耐えられない魂は、虚空に向かって叫びだして、虚空に反響する自分の声を神の声と聞き違える。
 魂はこの深い沈黙の中で神を信頼する。「神こそ、わたしの岩、わたしの救い」と神に縋る。生まれたばかりの赤子は親と対話はしない。けれども、その全存在をもって親に縋っている。この沈黙の中での信頼こそ、全存在が発する根源的な祈りである。祈りは、根源的には、この沈黙の中で、人間の感覚には現れない実在者に自己を委ねる行為である。このような沈黙の中の祈り、根源的な祈りがないところでは、口にする祈りの言葉は、魂の単なる願望の吐露に終わるであろう。
 魂がこのような沈黙の中でひたすら神に信頼して生きるとき、魂はついに神が語りかけてくださるのを聞くであろう。神はいつも同一の根源現実を語られるが、聞く人間の側の状況や時期によって、さまざまな内容が聞かれる。この詩人は、「ひとつのことを神は語り、二つのことをわたしは聞いた。力は神のものであり、慈しみはあなたのものである」(一二節)と歌っている。いま終わりの時に生きるわたしたちは、キリストにあって一切の人間界の饒舌から離れ、魂が自己から出るものを一切放棄して神の前に沈黙する時、魂はキリストを通して語られる神の言葉を聞く。十字架は神の愛であり、復活は神の救いの力であると。魂の暗闇と沈黙の中で、ただ一箇所、キリストという場だけが永遠の光を放ち、根源の言葉を響かせている。神はキリストにおいて「ひとつのことを語り」、われわれ人間はここで、十字架の愛と復活の力という「ふたつのことを聞いた」のである。

                              (一九八九年五号)