市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第33講

33 無代価の世界

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。

(マタイ福音書 一〇章八節)


 これはイエスが弟子たちを宣教に送り出すときに語られたお言葉である。弟子たちに神の国を宣べ伝え、病人を癒やし、悪霊を追い出すように命じられたとき、その働きに対して代価や報酬を求めないようにと言われた言葉である。この国では、霊的な現象や能力を売り物にして、たくみに高額の代価を要求する「宗教」を身近に見ることが多いので、その度に新鮮な驚きをもって思い起こすお言葉である。
 ここで「ただで」と訳されている用語は、「賜物として」とか「無代価で」という意味の語である。わたしたちが神の国の喜びや希望、また病人を癒やし悪霊を追い出すという霊的能力を持つとしても、それはすべて神から「賜物として」、「無代価で」与えられたものである。この事実を徹底的に自覚しておれば、それを他人に与えるときに、代価や報酬はとうてい要求することはできなくなる。魚が水の中だけで生きていけるように、「神の国」という生命体は、このような無代価・無条件の場においてのみ、成立し、伝えられ、広がっていくものである。
 宗教家がその霊的働きに対して代価を要求するならば、それは偽り者のしるしである。イエスはいつも神からのよきものを無代価で与えておられた。そして、ご自分がしておられることを譬で語られた(ルカ一四・一二〜一四)。すなわち、宴席には返礼を期待できる友人や金持ちは招かないで、返礼ができない貧乏人や障害者を招くように勧めておられる。この譬は「ただで与えよ」という勧めの面だけを語っている。しかし、その背後に「ただで受けたのだから」という根拠があることを聞き逃してはならない。この譬はイエスが生きておられる無代価・無条件の世界、すなわち神の恩恵の世界の提示であり、その世界に生きるようにとの招きである。神は神のよきものを、それを受ける資格のない者、返礼ができない者、代価を払うことができない者に、無条件で与えておられる。このように無代価で受けたのであるから、それを無代価で与えるとき、われわれは無代価・無条件の世界に生きていることを実感して、喜びに溢れるようになる。これが「ただで与える」者が受ける祝福である。
 パウロも救いを語るときに、この語を用いている。人はすべて「無代価で、神の恩恵により、キリスト・イエスにあるあがないによって義とされるのである」と、福音の真理を語る最も中心的な箇所(ローマ三・二四)でこの語を用いている。「義とされる」とか「救われる」ということは、受ける人間の側の資格とか価値にはまったく関係のない、徹底的に無代価・恩恵の世界の出来事である。救いを「ただで受けた」者だけが、「ただで与える」生き方に徹することができ、そうすることによって、神の恩恵の世界の確かさと喜びに溢れるのである。すべて代価と報酬の原理で動いている世界の中で、このような無代価の世界を知り、そこに生きる者は幸いである。

                              (一九九〇年五号)