市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第47講

47 墓から贖う神

わたしの魂よ、主をたたえよ。
主はお前の…命を墓から贖い出してくださる。

(詩編 一〇三編二〜四節)


 地下深く何層にも迷路のように張りめぐらされた通路は、人ひとりがやっと通れる狭い暗闇のトンネルで、その両側には遺体を埋葬した横長の窪みが数段ぎっしり掘られている。所々に貴族の墓所であろうか、やや広い場所がある。ローマの地下墓所(カタコンベ)に立つと、千九百年ほども前にそこで灯火の回りに集まって賛美を歌い切に祈った初代のキリスト者の姿が偲ばれ、彼らの祈りが迫ってくるように感じられる。そのとき彼らの中の誰が、二三百年後に彼らの信仰が世界の支配者ローマ帝国の国教になり、やがてはその首都にペテロの名を冠した壮大な聖堂が建ち、その華麗なドームが陽光に燦然と輝くようになることを想像しえたであろうか。
 世界を征服したローマの武力に対して、地下の墓所に押し込められていた僅かの者たちの信仰が打ち勝ったのである。それは彼らの信仰が死者を復活させる神への信仰であったからである。彼らは死者の国に置かれても希望を失うことはなかった。彼らの神はイエスを死人の中から復活させた神であり、その神が自分たちをも墓から救い出してくださると信じることができたからである。
 救い主である神の子イエス・キリストを指す記号として魚の画をカタコンベの土壁に刻んだとき、彼らは大魚の腹の中に三日三晩閉じこめられていたヨナの物語を思い浮べていたのではなかろうか。神はイエスを三日目に地下の暗闇から栄光の国へと引き上げてくださった。その神はイエスと結ばれている自分たちをも、この地下の暗闇からやがて命の光が溢れる領域へと引き上げてくださることを信じて疑わなかったのである。
 わたしたちは人生の終点が墓であることを知っている。そして人生の途上においても、終局を予感するように自分が死の暗闇に閉じ込められていると感じるときがある。そのような時にわたしたちを支えるものは復活の信仰である。死者を復活させてくださる神への信仰である。カタコンベの暗闇で祈った信徒たちと同じ信仰である。彼らがその回りに集まった灯火のように、わたしたちは復活の希望という灯火のもとに集まり、支え合う。

                              (一九九二年六号)