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54 苦難の現場にいます神

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

(新共同訳 詩編 四六編二節)


 苦しみのない人生はない。人は生まれ、苦しみ、死ぬ。これが人生である、と古来から言われてきました。病気の苦痛、仕事の苦労、生活苦、他人からの敵意など、人生には苦しみの種はつきません。本来人生を豊かにするはずの愛情さえ、裏切りや嫉妬によって耐え難い苦悩に変わります。その上、内面の奥底に沈澱する孤独や不安は、人生に消しがたい苦の色彩を与えています。
 人生の苦しみにどのように対応するか。この問いから宗教が生まれた、といえる面があります。苦難にさいして人が心の拠り所とし身を寄せることができる対象、それが神と呼ばれ、仏とされたとも言えます。世界の民族はそれぞれの名で、その対象を呼んできました。イスラエルの民も、詩編に歌われているように、ヤーウェの名を呼び、その神を苦難の時の避けどころ、敵対する力から身を守る砦としてきました。
 しかし、神を苦難のときの助けとして賛美できるのは、苦難が過ぎ去って、すこしでも自分の体験を第三者の立場から見ることができるようになった時です。自分が苦難の真っ直中にいるとき、その苦難の現場では、苦しみが全存在を圧倒して、神を呼び求めることすらできないのが普通です。自分が神から見捨てられているという恐れに呑み込まれ、苦しみに埋没してしまいます。それが苦難が苦難であるゆえんです。
 イエスも十字架の上でこの苦しみを極限まで味われました。しかし、神は「そこにいます」のです。苦しみを共にされる神がそこにいますのです。神はイエスを死から復活させて、十字架のイエスと共にいましたことを示されました。
 わたしたちも神から見捨てられたような苦難の中にあるとき、神は「そこにいます」のです。苦難の現場にこそ、人間の苦しみを共にされる神がいますのです。その神が与えてくださる助けがどのような結果にいたるかは、その神に委ねるのみです。十字架されたイエスを復活者キリストと信じるとは、このような苦難の現場にいます神を信じるということなのです。

                              (一九九四年一号)