市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第58講

58 軛と自由

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを
自由の身にしてくださったのです。だから、しっかり
しなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

(ガラテヤの信徒への手紙 五章一節)


 今回イスラエルに旅して、ヨハネが叫んだユダの荒野を見、イエスが神の国を説かれたガリラヤの湖畔に立ち、イエスが十字架を負って歩まれたエルサレムの街を歩み、深い感動を覚えました。しかし、それ以上に印象的であったのは、ユダヤ教の軛の強さでした。エルサレムの街路のいたるところで、夏のような暑さの中でも黒い服に黒い帽子のユダヤ教徒が多く見かけられ、バスの中でも聖書を読み、嘆きの壁の前ではそのような姿のユダヤ教徒の群れが熱心に祈っていました。訪れる名所や記念館や博物館などでは、この国をユダヤ教の土台の上に建てようとする強固な意志をひしひしと感じました。
 イエスと使徒たちの時代も今以上にユダヤ教の支配は強固であったはずです。このような強大なユダヤ教の軛を打ち破って、あの無条件の恩恵の支配を宣べ伝えたイエス、また律法(ユダヤ教)から自由な福音を宣べ伝えたパウロの中には、どのように大きな神の力が働いたのであろうかという思いを、改めて深くしました。イエスにとってもパウロにとっても、それは命をかけなければならないことであることが、よく分かりました。
 福音がユダヤ教の遺産の上に成り立っていることもよく分かります。それだけに、わたしたちが今キリストにあって「律法の下にいるのではなく、恩恵の下にいる」という事実の有り難さを強く感じます。わたしたちはユダヤ教から遠いところにいるので、その軛の強さは実感しにくいのですが、それでも人間本性の中にユダヤ教的な律法主義が忍び込む危険はいつもあります。
 イエスが十字架の死によって贖いとってくださった自由、使徒パウロが命がけで宣べ伝えた自由、これは自然にあるものではなく、いつも危険にさらされています。この自由は一人一人がキリストにしっかりと結びつくことによって、戦い取り、保持しなければならないものです。信仰も希望も愛も、このキリストにおける御霊の自由の場に生きるものであることを思うとき、使徒パウロが「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と言ったことの重さを痛感します。

                              (一九九四年五号)