市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第7講

第二部 信仰の諸相

     第三講 キリスト体験としての信仰

キリスト信仰

復活者イエスの告白

 これまでの二講で、福音において「信仰」とはどういう事態であるのかを、人間の宗教的な営みの姿と対比して見てきました。第一講で見たように、福音においては、信仰とは神の言葉が聴く者に引き起こす事態であり、神の言葉の出来事でありました。第二講では、信仰とは人が神の無条件絶対の恩恵の支配の下にある事態であることを見ました。そして同時に、キリストこそ神の最終的な語りかけの言葉であること、またキリストこそ神の絶対の恩恵に他ならないことを見たわけです。ですから、福音において、信仰とは結局神の言葉であるキリスト、神の恩恵そのものであるキリストを、全存在をもって受け入れることになります。信仰とは神の言葉であるキリストが人と一つになっている事態であり、神の恩恵であるキリストが人を圧倒している事態であると言えます。
 神は、十字架につけられて殺されたナザレのイエスを、死人の中から復活させてキリストとされたのです。キリストとは復活された方のことです。復活して、今も生きておられる方のことです。もともと「キリスト」とは、ヘブライ語の「メシア」(油注がれた者)に相当するギリシャ語ですが、いまその内容にふさわしい称号として、それを日本語で表現するとすれば、「復活者」とすべきでしょう。「イエス・キリスト」というのは、「復活者イエス」ということです。
 復活していない者はキリストではありません。人間の思い出や知識の中だけにいるイエスはキリストではありません。同時に、人間の期待や思想の中だけに描かれている未来の救済者もキリストではありません。現実に地上に生きられたナザレのイエスが、ひと度死んだ後、復活してキリストとなっておられるのです。だから、イエスの働きを語ることがキリストを告げ知らせることになるのです。福音が「イエス・キリスト」と呼ぶ方、あるいはただ「キリスト」と呼んでいる方は、じつにこのような「復活者イエス」のことなのです。福音はこう告げています。

「口でイエスは主(キュリオス)であると公に言い表し、心で神がイエスを
死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。
(ローマ一〇・九)

 「口で公に言い表し、心で信じる」とは、人がその事実を信じて、それに全存在を委ねて生きることを指しています。神がイエスを死者の中から復活させて、天にあるもの地にあるもの一切の主、またこの世と来るべき世の主とされたという事実を信じて、それに全存在をかけて生きるとき、人は「救われる」のです。それは、このイエスの十字架と復活の出来事こそ、神が人間を救うために成し遂げられた最終的・決定的な業だからです。
 ここで信仰は、「イエスは主(キュリオス)であると公に言い表し、神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことであると、その内容が示されています。それを一言で表現すると、「主イエス・キリスト」(キュリオス・イエスース・クリストス)という告白になるのです。「キリスト」を復活者の称号であると理解すると、この御名は「主であり、復活者であるイエス」ということになり、この信仰告白の要約であることがよく分かります。この「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです(ローマ一〇・一三)。この信仰告白はすでにパウロ以前の初代の教会において(とくにヘレニズム世界の諸教会において)広く用いられていたようです。当時、キリスト信徒は「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」と呼ばれていました(コリントT一・二)。パウロはその告白の形式を当然のこととして前提し、ここでそれを引用しているわけです。

「ピスティス・クリストゥ」

 ところで、パウロはこのような内容の信仰のことを、引用ではなく自分の言葉で語るとき、「キリストの信仰」、または「イエス・キリストの信仰」という表現をよく用いています。そして、「救われる」という表現よりも「義とされる」という表現を好んで用います。これは、神と人との関わりを義という用語で語る聖書(旧約)の世界に生きていたパウロにとっては自然なことであったのでしょう。それで、パウロが福音を語るときは、「キリストの信仰によって義とされる」という表現になるのです。
 ところが、この「キリストの信仰」という表現は、このままの日本語では分かりにくいので、「キリストを信じる信仰」、「キリストに対する信仰」(口語訳)とか、「キリストへの信仰」、「キリストを信じること」(新共同訳)と訳されています。ガラテヤ書二章一六節と二〇節、三章二二節、ローマ書三章二二節、ピリピ書三章九節というような、福音の核心を語る重要な箇所で用いられているこれらの訳語の原語は、みな「ピスティス・クリストゥ(キリストの信仰)」です。もちろん、このような日本語訳に用いられている表現が間違っているわけではありません。しかし、このような表現では、パウロのいう「キリストの信仰」の全体を捉えず、その一面しか捉えられないのではないかと思われるのです。これらの日本語訳の表現では、信仰とはキリストという外なる対象に向かう人間の態度ということになります。けれども、パウロが「キリストの信仰」(ピスティス・クリストゥ)と言う時には、それ以上の内容が意味されているのです。
 この「キリストの」という属格(所有格)が何を意味するのかについて、多くの議論があります。第一に考えられるのは、これを目的格的属格と理解することです。すなわち、「キリストを」対象とするという意味に理解することです。普通はこう理解して、先に挙げたような日本語訳がつけられることになるわけです。しかし、属格には主格的属格もあります。すなわち、「キリストが」持っておられるピスティスという意味です。たとえば、「神の愛」と言う時、「神を」愛する人の愛だけでなく、「神が」持っておられる愛という意味もあります。むしろこの意味の方が普通でしょう。キリストが持っておられるピスティスと理解する場合、「ピスティス」は信仰ではなく、誠実とか真実という意味になります。
 「ピスティス」を信仰と訳してしまうと、神に対する人間の態度という意味に限定されてしまいますが、「ピスティス」は本来もっと広い意味の語で、神が人に示される「ピスティス」という用法もあるのです。たとえば、ローマ三・三ではピスティスは「神の誠実」であり、コリント1一・九では、「神は真実な方(ピストス)です」と言われています(ともに新共同訳)。バルトが、時代を画する書となった「ローマ書」において、ローマ書三章二二節の「キリストのピスティス」を、「キリストにおいて現された神の真実」と理解すべきであると主張した時、キリスト教会は衝撃を受けたのです。たしかにキリストは神の真実の顕現なのです(ローマ一五・八)。(なお、最近出た新改訂標準訳英語聖書NRSVも欄外で、主格的な理解が可能なことを示唆しています。)
 わたしも信仰に入った若い頃、信仰をあくまでキリストに対する自分の側の態度と理解して、信仰を維持し深めるために努力し苦闘しました。しかし、自分の愚かさや弱さに直面して絶望し、挫折しました。その時、聖書(とくに旧約聖書)を通して、神と自分の関係は、わたしの信仰の上に成り立っているのではなく、神の誠実の上に成り立っているのだと気づいたのです。いま「信」という語を、「人が言葉にたがわぬこと」という本来の意味で用いると(これはほとんど誠と同じ意味ですが)、神と私の関わりは「わたしの信」の上に成り立っているのではなく、「神の信」によって成立しているのだと言うことができます。このことに気づいたことは、わたしの信仰にとってコペルニクス的転換でした。わたしは自分の信に絶して、岩のように確かな神の永遠の信に自分の全存在を委ねることができたのです。ですから、それによって自分が義とされ救われる「信仰」を、「キリストに対する信仰」というような、キリストを対象とする自分の態度に限定するような理解には満足することはできないのです。
 では、「キリストのピスティス」を「キリストの誠実」とか「キリストの信」と訳すことはできるでしょうか。これも、この句の意味を狭く限定することになり、問題があります。パウロはしばしば、「キリストの」をつけないで、ただ「ピスティス」という語を用いて、「ピスティスによって」義とされるとか、救われるとか、子とされると言っています。その際、「ピスティス」は一般的な誠実とか信ではなく、キリストを告白し、キリストと結ばれて生きる人間の在り方全体を指しているわけですから、同じ語で表現しようとすればやはり、そのような内容を込めることができる「信仰」とすべきでしょう。
 パウロが「ピスティス」という語で、このようにキリストを告白し、キリストと結ばれて生きる人間の在り方全体を指していることは、たとえばガラテヤ書三章二三〜二五節での「ピスティス」の用法からも明かです。そこではこう言われています。

「ピスティスが現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、このピスティスが啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちがピスティスによって義とされるためです。しかし、ピスティスが現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、ピスティスにより、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。 (新共同訳)

 ここで「ピスティス」は、一般的な誠実とか信ではなく、最終的に啓示された神の言葉であり神の恩恵であるキリストに合わせられて生きる人間の在り方全体が意味されていることは明かです。とくに最後の文(二六節)がそれを明確に表現しています。そこでは、「ピスティスにより」と「キリストに結ばれて(エン・クリストー)」が同じ事態を表現する同格の句として用いられています(口語訳の「キリストにある信仰によって」という訳はギリシャ語の用語法からみて無理があるので、この新共同訳の方が適切です)。このようにパウロが、「信仰によって」受ける義とか生命とか救いという現実を、「キリストにあって(エン・クリストー)」という表現で語る例は他にも多くあります。「信仰」は「エン・クリストー」と同じ現実を指しているのです。

キリストに合わせられて

 このように、パウロが「信仰」という時、それはすでに「キリストにある」人間の在り方全体を指しているのですから、さらにその内容を示す「キリストの」という句をつけた「キリストの信仰」という表現の意味はおのずから明かです。それは今見たような「キリストに結ばれた」人間の在り方全体を指しているのです。福音が告知する「主であり、復活者であるイエス、すなわち主イエス・キリスト」を告白し、その方に自分を投入れ、その方だけを拠り所とし、その方に合わせられて生きる人間の在り方全体です。
 ところで、この最後の「キリストに合わせられて生きる」という現実は、人間の態度とか姿勢だけでは実現しません。キリストを告白する者に与えると約束されている聖霊を受けることによって、はじめて現実になるのです。その間の消息はガラテヤ書三章(一〜一四節)に詳しく語られています。たしかにそこでは、律法を行う行為に対して、福音を全存在をもって聴くことが「信仰」と呼ばれています。しかし、その信仰は人間の側の態度だけに終わるものではありません。約束された聖霊を受けることによって、キリストを体験し、キリストとの交わりに入らせるのです。福音を聴く者が、律法の定めをどれだけ行っているかには無関係に、いやむしろ律法の原理からすれば呪われた者でしかない人間が、ありのままの姿で、信仰によって聖霊を受けることができるようになるために、キリストが十字架の上に呪いを受けて死んでくださったのです。その結果、信じる者が約束の聖霊を受けて、復活者キリストの現実を体験することができるようになるのです。
 「あれほどのことを体験をした」(四節)というのは、何らかの形でキリストを体験したことです。いま「体験」という言葉を、一時的な出来事の体験だけでなく、広くその人の現実の生き方全体を意味する語として用いると、「キリストに結ばれて」とか「キリストに合わせられて」生きることは、キリストを体験することであると言ってもよいと思います。そうすると、福音でいう「信仰」とはキリスト体験であるとも言えます。体験という言葉を用いるのは、信仰が頭の中の考え方や思想の問題ではなく、人間の在り方全体にかかわる現実の出来事であることを強調するためです。福音の世界においては、信仰とはキリストを内容とする体験、キリスト体験以下のことではありません。この体験は深められると、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ二・一九)というところまで来ます。
 「キリストの信仰」という表現が、このようなキリスト体験を指しているのであれば、このような内容を表現する日本語としては、「キリスト信仰」とすればよいのではないかとわたしは考えております。名詞を二つ並べただけの表現は、その二つの事柄の間の関係が明確な言葉で規定されていないので曖昧ですが、その分広い範囲の関係を含むことができます。わたしたちの「信仰」は、キリストが現された神の信(誠実、真実)と恩恵に基づいて、主イエス・キリストを告白することによって賜る聖霊により、十字架・復活のキリストとの交わりに生きる体験であるわけですから、このように内容豊かなキリストとの関わりを表現するには、二つの名詞を並べただけの表現を用いる他はないと思うのです。二つの名詞の間にどのような語を入れてみても、キリストとの関わりの内容を狭く限定することになってしまいます。パウロが「ピスティス・クリストゥ」と言った時、このような内容豊かな「キリスト信仰」を指していたと思うのです。人はこの「キリスト信仰」によって真実に生きるようになるのです。

キリスト信仰と仏教

仏教における救い

 さて、わたしたちの日常生活でいちばん身近な宗教は仏教ですが、その仏教信仰に対してこの「キリスト信仰」がどのような意義を持っているのか、ここで簡単に見ておきましょう。
 一口に仏教と言いましても、現在の日本の仏教は釈迦の教え以来二千数百年、その間さまざまな要素が入ってきており、実に複雑な宗教現象です。日本古来の固有の宗教が、第一講で見たように、アニミズムやシャマニズムや祖霊崇拝のような諸霊をマツル宗教であったのに対して、外から入ってきた仏教は、普遍的な人間理解に基づき、苦悩からの人間の解放を目指す高度に合理的な宗教であったわけです。
 仏教は、人間存在の根源的な不安と苦悩を正面から見据え、その解決を外なる神々や諸霊に求めないで、あくまで人間の内側の悟りに求めたのです。仏教の基本教理は、
  一「諸行無常」
  二「一切皆苦」
  三「諸法無我」
  四「涅槃寂静」
の四句にまとめられると言われています。これは、(一)一切の現象は無常であって変化してやまず、(二)そのため人に苦をもたらす(たとえば、最大の苦である死は無常の代表)。人生は苦そのものである。(三)本来、一切の現象は自我でもなく、自己の所有でもない。それを我と思い、わがものと思って執着するところから苦が生じる。(四)それで、この実相を悟って、執着欲望の炎を消すことによって苦が滅し、寂静の境地が実現する、ということです。
 「涅槃」(ニルヴァーナ)とは炎が消えた状態のことです。存在の実相についての根源的な無知(無明)が執着や煩悩を引き起こし、これが苦の原因になるのだから、苦を滅するためには、「縁起」という因果の理法を明らかに観じて、無明を克服し、執着煩悩を絶たなければならない、という教えです。
 そして同時に、その境地に到達するために実践すべき八つの正しい道(八正道)が説かれます。正見、正思、正語、正業、正命(正しい生活)、正精進、正念、正定(正しい禅定)の八つです。このように、仏教はあくまで人間の側の修行精進によって悟りの境地を追求し、人間の内面の悟りによって存在の苦悩を克服しようとするものです。
 釈迦によってこのような基本的な方向が定められて以来、それに従う多くの人たちの求道の成果が、じつに多様多彩な経典となって出現しました。存在の理法についての思索、人間の現状や心理についての分析、修業の方法などについての議論は、時とともにますます精緻をきわめ、それぞれの立場や考えの違いから、さまざまな宗派を生み出してゆきます。第二講で見たような戒律を守ることによって覚者になろうとする戒律仏教、秘密の象徴的儀礼ないし観修法によって宗教的理想を達成しようとする密教、ひたすら阿弥陀仏の本願にすがる浄土系の仏教、教義を立てず禅定によって直覚的に悟りを得ようとする禅仏教など、その間の違いは大きくて、同じ宗教として扱うのに困難を感じるほどです。しかし、その多様性の底に共通する仏教としての基本的性格があります。仏教は、神を立てないで人間の内面の認識や知恵で、人間存在の根源的な不安と苦悩を克服しようとする哲学的宗教の典型であり、その様々な形態の集大成であると言えます。

福音と仏教

 このような性格の仏教と、福音的な信仰の違いは明らかです。福音において、信仰は人間の内面の悟りではなく、あくまで神から恩恵として賜る聖霊によって与えられるキリスト体験であります。これは福音を聴いて信受する者には誰にでも与えられる体験です。悟りを開くような機根のない者、それに至る精進をすることができないような者、道徳、品性、学識教養において劣る者、どのような者であっても、求める者は誰でも与えられる恩恵の出来事です。
 それに対して、仏教はもともと選ばれた少数者に救済の道を説く宗教です。厳しい修道の彼方にある涅槃に達するのは選ばれた少数者だけです。そのような仏教の中に、凡夫の救済を約束する浄土系の信仰が現われたことは意義深いことです。それは、人間の内側から出る宗教性においても、すべての人の救済の土台となるためには、人間を超えた恩恵が必要であることを直感していることを示しているからです。
 ところで、福音における信仰と仏教の関係は、このような相違からくる対立だけでなく、積極的な面もあります。仏教が人間の現実を誠実に見つめ、根源的な苦からの解放を志すものである以上、そして、福音が現実の人間に救済を与える力である限り、福音的信仰は、仏教に敵対し廃棄するものではなく、仏教を成就するものであると言えます。その際、仏教の中に含まれている呪力的宗教、祖霊崇拝、戒律主義など、仏教本来のものでない要素は克服して廃棄します。福音は、本来の仏教が目指していた境地を、すべての人に成就実現する力なのです。キリストに合わせられて、十字架の贖罪の現実と復活の生命に生きる者は、仏教が目指していた境地に生きているのです。それは、人の知恵には思いがけない仕方での成就です。キリストの現実に生きる者は、その身分とか学識においては貧しく小さな者であっても、仏教の世界の高僧たちよりも偉大な霊的現実に生きているのです。その意味で、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ一一・一一)という言葉は、仏教と福音の関係においても妥当するのです。
 福音がヘレニズム世界に入って行った時、その世界は宗教的にも文化的にも成熟した世界でした。そこには、原始的な宗教形態を脱却した高度な哲学的宗教が普及していました。彼らの哲学はたんなる理論ではなく、世界の認識とそれに基づく人間理解、それから得られる人の生き方全体の知恵を追い求める営みであって、彼らにとっては宗教そのものであったのです。このような世界に入って行った福音は、「十字架の言」がそれらの人間の知恵である哲学とは異なり、神の知恵であり力であることを強調しなければなりませんでした(コリントT一・一八〜二五参照)。しかし一方、福音はこのヘレニズム世界に浸透していく過程で、この世界のギリシャ諸哲学がもっていた世界と人間にかかわる認識と知恵を吸収して、その用語や方法を用いて自分の信仰内容を自覚し表現するようになってゆきます。これが福音の「ヘレニズム化」と言われる過程です。これによって、ヘブライの信仰が「キリスト教」という世界的な宗教になったのです。この「ヘレニズム化」によって、福音はその霊的体験的側面と終末論的性格を希薄にするなど、失った面も多くありますが、当時の地中海世界に広く受け入れられる「世界宗教」となり、ローマ帝国の国教となることができたのです。
 いま福音がアジアに入ろうとする時、福音はこのアジアの支配的な宗教である仏教と関わりをもたざるをえません。その関わり方を考える時、福音がヘレニズム世界に入っていった時のギリシャ哲学との関わり方が先例を提供してくれています。福音はギリシャ哲学の知恵を吸収包摂し、それを成就完成する神の力として、当時の地中海世界の「世界宗教」になりました。いま福音の歴史的展開の最後の段階で、福音がアジアにおいて、仏教がもつ人間理解の知恵を吸収包摂して、神の霊の知恵と力により仏教が目指す境地を成就実現する信仰であることを示すことができれば、地球規模の「世界宗教」を生み出すことになるはずです。それが、現代のアジアに生きるキリスト者の使命ではないかと思うのです。
 すでにキリスト者の側からも仏教との対話の努力が多く試みられております。しかし、現在までの「キリスト教と仏教の対話」を見るかぎり、人間の知恵や思想となったキリスト教と仏教の対話、すなわち人間の内面の悟りを基盤とする仏教の土俵での対話であることが多いように、わたしには思われます。福音が仏教と関わる時、まず第一に必要なことは、ヘレニズム化される以前の福音、人間の思想となる前の生の福音、神の霊によって復活者キリストに合わせられて生きる「キリスト信仰」の回復ではないかと思います。その上で、仏教の人間理解の知恵を吸収するのでなければ、福音が仏教を成就するのではなく、キリスト教を、用語はそのままで、仏教と同じ基盤に立つ宗教にしてしまいます。それはキリスト教の仏教化にほかなりません。わたしたちが目指すのは、福音による仏教の成就完成なのです。

信仰と人生

 これまで三講にわたって、福音においては信仰とはどういう事態であるのかを見てきました。その内容はあまりにも豊かであって、とうてい三回の講話で語り尽くすことはできません。今回は、人間の一般的な宗教的営みと対比して、信仰の諸相のうち主要な三つの面を取り上げてお話ししました。一般に信仰とか宗教と言われているものと、福音における信仰がどう違うのかを明かにして、その質を理解しようとしたわけです。最後に、このような信仰によって生きる時、人生はどのような姿をとるのか、簡単にまとめて今回の講話の結びとします。
 第一に、信仰とは神の言葉の出来事ですから、信仰によって生きる者は、神の言葉だけを人生の拠り所として生きるようになります。人生で神の言葉に基づかない部分があれば、それは無意味で空しい部分です。それは時の流れと共に過ぎ去り、滅びに帰してゆきます。信仰はすでに神の言葉を聴いております。キリストの十字架と復活の出来事において神が語り出された永遠の言葉を聴いております。その言葉に基づいて生きる人生だけが、永遠の意味と価値を持っていることを知っています。永遠の言葉は、時の流れの中で聴く人間にとっては常に約束の相を帯びています。信仰はその将来の約束を現実として生きます。初穂であるキリストの復活によって約束された来るべき復活を、現実の人生の確かな拠り所として生きます。死という見える現実の中で、復活という見えない将来を生きるのです(ヘブル書一一章)。
 第二に、信仰とは恩恵の支配の下にあることですから、信仰に生きる者は恩恵の場にしか生きられません。信仰はキリストの十字架に現された神の恩恵に圧倒され、全存在が十字架の愛に捕らえられている人間の在り方ですから、自らも無条件で相手を赦し、受け入れる愛に生きるようになるのです。そのような愛の場から外れることは、自分を神の恩恵の場から引きずり降ろすことです。十字架において神の愛を体験していますから、「父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者であれ」という言葉や、「敵を愛しなさい」という言葉が、現実に人生を導く言葉になるのです。
 第三に、信仰はキリスト体験ですから、信仰に生きる者は聖霊を求める祈りに貫かれた人生になります。わたしたちは復活の約束を聴いていても、現実には死に定められた体の中に生きていること、したがって病気や様々な弱さの中で苦しまなければならないことを知っています。また神の愛を知っていても、現実の世界は自我と自我が戦う戦場であること、わたし自身も自我中心の本性の中にあることを痛感しています。このようなわたしたちが復活の約束に生き、十字架の愛を生きるようになるのは、聖霊によって復活者であるキリスト、愛の生命そのものであるキリストが現実にわたしたちの中に生きてくださる時です。
 信仰によって生きる者は、キリストを体験すればするほど、自分の弱さや罪の本性を深く自覚して、聖霊によってキリストが内に働いてくださることを求めないではおれないのです。古い我、生まれながらの自分が、十字架のキリストに合わせられて死に、復活のキリストがわたしの中に生きてくださるようになることを、人生の唯一の祈りとしないではおれないのです。聖霊によってキリストを体験する時、苦難と不条理に満ちたこの人生も、希望と歓びをもって貫くことができるようになるのです。
 このように人間は「信仰によって生きる」のです。神の生命の次元を生きるようになるのです。復活の生命を生きるのです。神の愛の命を生きるのです。このように人が「信仰によって生きる」時、人類がその発生以来もっていた宗教、あるいは人間の本源的な宗教性がその目標地点に到達するのです。