市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第6講

6 四人の漁師の召命  1章 16〜20節

16 それから、イエスはガリラヤの海に沿って進んで行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレが海で網を投げているのを見られた。彼らは漁師であった。 17 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしのあとについて来なさい。そうすれば、わたしはあなたがたを人間をとる漁師になるようにしよう」。 18 するとただちに、彼らは網を捨てて、イエスに従って行った。 19 また少し進んで行かれて、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとをごらんになった。彼らは舟の中にいて、網を繕っていた。 20 そこでただちに、イエスは彼らを呼び寄せられた。すると彼らは父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟の中に残し、イエスのあとに従って行った。

イエスとの出会い

 ここまで、マルコはきわめて簡潔な筆致で、イエスの中に何が始まったのかを語ってきた。今、イエスがガリラヤで始められた「神の国」の福音を宣べ伝える活動を語ろうとするにあたって、マルコが最初に置く記事がこれである。イエスがガリラヤの四人の漁師と出会い彼らを召されたことが、何よりも先に置かれている。このことに、マルコのマルコらしさが、そしてひいては福音書の特質というものがよく出ている。福音は教えではなく出来事である。イエスの教えの内容よりも先ず、イエスの中に来ている「神の支配」がこの世界に直面する時どういう事が起こるのかを、マルコは単刀直入に述べる。「神の支配」はそれに出会う人間の全存在を捉えてしまうのである。
 他の福音書によると、シモンたちがイエスに出会ったのはこの時が最初ではない。ヨハネ福音書によると、イエスはガリラヤで宣教活動を始められる前、ユダヤでヨハネと共にバプテスマ活動をされた時期があったが、すでにその時期にシモンとアンデレの兄弟やフィリポ、ナタナエルというようなガリラヤ出身者を数人弟子としておられる。その中にはヤコブ、ヨハネの兄弟が含まれている可能性もある。さらにルカ福音書によると、この海辺の出会いの前に、シモンは自分の家にイエスを迎え、彼の姑の病を癒していただいている(マルコとマタイでは姑の癒しは海辺の出会いの後になっている)。さらに、シモン(おそらく兄弟のアンデレも)とヤコブ、ヨハネの兄弟はイエスに従って行く前に、一晩中漁をして何も取れなかったのに、イエスが指示される所に網をおろすと、舟が沈みそうになるほどの魚が取れたという出来事を体験している。
 マルコはこのような事を知らないわけではない、と考えられる。知っていながらあえてそれら一切の事情を切り捨て、イエスに出会うというのはどういう事なのか、その核心部分だけを描きだしてみせるのである。イエスの中に来ている「神の支配」は、そのリアリティ(現実)をもって人間に出会うとき、圧倒的な力をもって人間を捉え、イエスと一緒に歩むようにしてしまうのである。人間の側の熟慮、判断、計画、決断というようなものがその間に入って来る余地はない。マルコ特愛の「するとただちに」がこの間の消息を語っている。イエスがシモンとアンデレとに出会って、「わたしのあとについて来なさい」と招かれる。「するとただちに、彼らは網を捨てて、イエスに従って行った」のである。
 「神の支配」は各人の生活の場でその人に出会う。彼らは「海で網を投げ」、「舟の中にいて網を繕っていた」。「彼らは漁師であった」から、それが彼らの日常の生活の場である。そこにイエスが入って来られ、彼らに出会い、彼らを召される。今も我々が復活されたイエスに出会うのに、特定の宗教施設や団体に入ったり、特別の宗教行事に参加したりする必要はない。普通の日常生活の場で、福音を信じることによって聖霊を受け、復活者キリストに会うことができる。しかしこのことは、「イエスに出会う」ことが日常生活の一部として片隅に置いておくことができるような性質のものであることを意味しているのではない。逆である。「生活の場でイエスに出会う」ということは、我々の現実の生活全体、我々の全人生が捉えられ、ひっくりかえされてしまう質の出来事であることを意味している。彼らは「網を捨て」、「父を雇人たちと一緒に舟の中に残し」、イエスに従って行った。彼らはイエスと行動を共にするため、家業を捨て、家族から別れたのである。「神の支配」はこのように人の全生活・全人生を「ただちに」変えてしまうのである。
 彼らは地上に現れた神の子の出来事の目撃者として、それを証言し世界に伝えるという特別の使命があった。これは他の時代の何人も代わることができない特別の立場である。その使命を果たすには、彼らはいつもイエスと一緒にいて、イエスの業を見、その言葉を聞く必要があった。そのため彼らは家業を捨て家族と別れ、各地を巡回されるイエスに従って行ったのであった。いま我々がイエスに出会う時、我々の立場は彼らとは異なるため、彼らと同じような形で従うことが求められるとは限らない。むしろ現在の職業に留まり、家族の中で暮らしながら福音の証人となるように求められるのが普通である(コリント人への第一の手紙七章、とくに一七〜二四節参照)。しかし、イエスに従うさいの形は異なっていても、イエスに従うことが人生の最大事である点は同じである。イエスよりも職業や家族や金銭を大切にする者は「神の支配」にふさわしくない。福音の証のために求められる時にはいつでも捧げる覚悟をもってその中にいるのである。現実にイエスに出会った者は、職業や家族や金銭をもはや「自分のもの」として所有していない。それらは一旦捨てられたものである。我々も「網を捨てて」イエスに従って行く。いま我々が自分の職業や家族の中に留まっているのは、その中に遣わされているのである。イエスに従う者は、神の恩恵の証人として遣わされて、職場や家族を担って行く。

人間をとる漁師

 イエスはシモンたちに「わたしはあなたがたを人間をとる漁師になるようにしよう」と言っておられる。イエスに出会うまでのシモンたちの仕事は魚をとることであった。これも長年の経験と熟練を要する難しい仕事であった。しかし「人間をとる漁師になる」ことははるかに難しいことである。「人間をとる」ためには人間の心を獲得しなければならない。これは至難の業である。技術や経験や熟練でできることではない。イエスが「わたしがそうしよう」と言って下さるのでなければ、不可能なことである。
 「彼らは漁師であった」から、イエスは彼らに「人間をとる漁師になるようにしよう」と言われた。もし彼らが農夫であれば、「神の畑の収穫を刈り取る者にしよう」と言われたであろう。もし彼らが大工であれば、「神の家を建てる者にしよう」と言われたかもしれない。その意味で、イエスのこの言葉は彼らの生活の現実に即した呼び掛けの表現であった。しかし、「人間をとる漁師」という表現には、さらに終末的な響きがある。すでに預言者たちは終わりの日の出来事を漁の譬をもって表現していた。

 「主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、またそののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。わたしの目は彼らのすべての道を見ているからである。みなわたしに隠れてはいない。またその悪はわたしの目に隠れることはない」。(エレミヤ書一六章一六〜一七節)

 「おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。すなどる者が海のかたわらに立ち、エン・ゲディからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い」。(エゼキエル書四七章九〜一〇節)

終わりの日には神の審判を経て、神に属する民が集められることが、漁の譬をもって描き出されている。イエスご自身も「神の支配」の到来を漁網の譬で語っておられる。

 「天国(神の支配)は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって良いものを器に入れ、悪いものを外に捨てるのである。世の終わりにも、そのとおりになるであろう」。(マタイ福音書一三章四七〜四九節)

 イエスはすでに時が満ち、終わりの日がご自身の中に来ているのを見ておられた。そしてさらに、ご自身において成し遂げられる神の救いの業を広く世界の諸民族に宣べ伝えて、その中から神の民を集める働き人が必要なことを見ておられたのであろうか、ガリラヤの漁師たちをそのような業をする働き人として召されたのであった。我々はこの時召された漁師たちが、イエス復活後諸民族に福音を宣べ伝えて、多くの神の民を集めたことを見ている。ガリラヤ湖に網を投げて魚をとっていた無名の漁師たちが、イエスに従うことによって、世界の大海に福音という網を投げて多くの人間を神のもとに導く者になり、救済史に不朽の名をとどめる者になった。「わたしはあなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言われたイエスの言葉は見事に成就したのである。

この段落が、イエスの十字架刑の後、ガリラヤに帰って漁師の生活に戻っていた弟子たちに、復活されたイエスが湖畔で現れた出来事を、イエスの地上の生涯の出来事として語ったものであることについては、「終章 91 復活者の顕現」を参照のこと。