市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第9講

9 ガリラヤ宣教の旅 1章 35〜39節

35 朝はやく、夜が明けるよほど前に、イエスは起きて、家を出て寂しい場所に行き、そこで祈っておられた。 36 すると、シモンとその仲間があとを追って来て、 37 イエスを見つけて言った、「みんながあなたを探しています」。 38 イエスは彼らに言われた、「さあ、ここを出て近くの町々に行き、そこでも宣べ伝えようではないか。わたしはこのために来たのだから」。 39 そして、ガリラヤ全土を巡り歩いて諸会堂に入り、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出された。

福音を宣べ伝える使命

 イエスは祈りの人であった。見えざる父との祈りの交わりこそ、イエスの人格と力の源泉であった。「朝はやく、夜が明けるよほど前」、人々がすべて深い眠りの中にある時、イエスただ一人目覚めて、誰もいない「寂しい場所に行き」祈っておられる。この光景は象徴的である。世界がなお、神の生命から遠く離れた暗闇の中に眠り込んでいる時、イエスただ一人神の真理に目覚め、神との交わりの次元に生きておられる。イエスと共にこの次元に生きる者は、まだ誰ひとりいない。
 「すると、シモンとその仲間があとを追って来て、イエスを見つけ」自分たちの家に帰っていただこうとした。彼らは言った、「みんながあなたを探しています」。病人を癒し悪霊を追い出す素晴らしいイエスは、いつまでも自分たちのところにいてほしい。ほかには行ってほしくない。人間は結局、神の力をも自分のために利用したいのである。そのような人間の願望に、イエスの使命は対立する。イエスは彼らに対してこう言われる、「さあ、ここを出て、近くの町々に行き、そこでも宣べ伝えようではないか。わたしはこのために来たのだから」。福音は一握りの人間の願望の中に閉じ込められてはならない。そこを出て、次の町、隣の集団へと進んで行かなければならない。教会、教派、教団、集会も、人間の集団の常として、自己目的となり、イエスを自分たちの枠の中に閉じ込め、自分たちのために利用しようとする。しかし、生けるイエスは「ここから出て」、まだ彼を知らない所へ進んで行かれる。生命ある福音には、集団の枠から出て行く力がある。
 イエスは「宣べ伝える」ことが自分の使命である、と言っておられる。マタイは「御国の福音を宣べ伝える」(四・二三、九・三五)と表現し、ルカは「神の国を福音する」(四・四三)と言って、何を宣べ伝えるのかを明示している。それに対しマルコは、「宣べ伝える」という動詞一語でイエスの使命を表現している。三九節の「福音を宣べ伝え」と訳した所も、原文では「宣べ伝え」という動詞一語である。マルコはイエスが「神の支配」を宣べ伝えられたことは当然のこととし(一・一四〜一五参照)、動詞だけでイエスの使命を表現することによって、「宣べ伝える」という行為の救済史的重要性を際立たせる。人が救われるためには、それを聞いて信じる事がただちに救いとなるような言葉が宣べ伝えられなければならない。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」のであるが、「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか」(ロマ一〇・一三〜一五)。イエスはこのような質の言葉を宣べ伝えることが自分の使命であると自覚しておられるのである。このような使命の前では、癒しの業はそれ自体が目的とはなりえない。癒しはイエスが宣べ伝えられる言葉の質を指し示す「しるし」となる。
 「わたしはこのために来たのだから」。イエスは「わたしは来た」と言われる。原語では「〜から出て来た」という意味の動詞が用いられている。イエスはご自身をこの世に属する者ではなく、別の所から来た者であると自覚しておられる。イエスのこの自覚は父との全き交わりから来る。イエスは父のもとにおられる。それで、地上におられる事実は「来た」と自覚されるのである。また、父との全き交わりは人間にとって「終末(ト・エスカトン)」の事態であるから、イエスは「終末」から来られた方である、と言うことができる。イエスは終末から来た人間、終末の現在(終末がいま現にここに在る事態)である。
 「そして、ガリラヤ全土を巡り歩いて諸会堂に入り、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出された」。この記事から、ガリラヤでの宣教活動の初期においては、イエスはおもに会堂で「神の支配」の到来を宣べ伝えられたことが知られる。イスラエルの民がアブラハム以来二千年の歴史の中で信じ待ち望んで来た「神の支配」が、今や時満ちて到来しているのである。イエスは本来このイスラエルの民に遣わされたのである。それでイエスはまず、神の民イスラエルがもっとも具体的に姿を表す「会堂」において、彼らの信仰と希望の成就を告知されるのである。イスラエルの歴史はイエスにおいて成就した。神の民の歴史はイエスにおいてその目的地に到達した。このイエスにおいて成就したイスラエルの歴史全体が世界に対して神の言葉となり、救済の御業となる。
 時満ちて「神の支配」が到来したという福音を宣べ伝えるのに、イエスは単なる口先の言葉をもってはされなかった。「悪霊を追い出す」という力ある業をもって、その言葉が「権威ある言葉」であることを示された。当時の人々の考えでは、病気も悪霊の仕業であるから、「悪霊を追い出す」という表現には病気の癒しも含まれていたと考えてよい。イエスのこのような力ある業は、単なる奇跡的現象ではなく、「神の支配」の到来という終末的現実の「しるし」であることがわかると、ますます驚嘆すべきもの、人間の全存在を震撼するものになる。
 イエスが「ガリラヤ全土を巡り歩いて」活動されるにあたって、ここに名はあげられていないが、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四名も同行したはずである。彼らは漁師としての家業を続けることはもはやできなかった。家業を捨てイエスに従って行ったはずである。「すべての事を初めから詳しく調べ、順序正しく書きつづる」ことを努めたルカが、四人の漁師の海辺での召命をここに置いている(ルカ四・四二〜五・一一)のは、この段階で彼らが家業を離れたという事実を示唆しているのかもしれない。