市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第48講

48 死と復活の二度目の予告  9章 30〜32節

 30 それから、一行はそこを去って、ガリラヤを通って進んで行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 31 イエスは弟子たちに教えて、「人の子は人々の手に渡され、人々は彼を殺す。殺されてから三日後に、彼は復活する」と言っておられたからである。 32 ところが、弟子たちはそのみ言葉を悟らず、尋ねることを恐れた。

謎の言葉

 変容の山から下った一行は、ガリラヤを通って一路受難の地エルサレムに向かって進んで行く。この旅の時期には、イエスはもはや民衆に宣教することはされず、人目を避けて、ひたすら弟子たちに「人の子」の秘密を教えておこうとされる。この短い段落は、この時期のイエスの活動の特色をよく示している。
 この時期に、差し迫った死と復活の予告が三度報告されているが(八・三一、九・三一、一〇・三三以下)、その中でこの第二の予告の言葉がもっとも短くて簡潔である。他の二つの予告の言葉、とくに第三のものは、出来事が順を追って具体的に描写されており、実際の出来事の後から形成された面がある(事後予言)と指摘されている。それに対して、「人の子は人々の手に渡され」という第二の予告の言葉は、事後予言的な要素がなく、イエスの本来の言葉にもっとも近いものと考えられる。
この言葉は、イエスが用いられたアラム語に遡って復元すると、「人は人々に渡されるであろう」、または「神は(間もなく)人を人々に渡すであろう」という、典型的な《マーシャール》(謎の言葉)になる。これはイエスの表現の特色をよく示しており、イエスご自身が語られた言葉であり、他の受難予告の核となるもっとも古い言葉であると考えられる(エレミアス)。このような謎の言葉は、弟子たちが理解できなかったのも無理はない。
 「人は人々に渡される」という表現は、元の句では「人の子は人の子らに渡される」という言葉遣いがされているのであるが、アラム語では「人の子」は一般に「人」を意味するので、その意味を表現するとこうなる。ところが、イエスは普通の人ではなく、終末的な神の支配を体現する「人の子」であるという教団の理解からすれば、この文の主語はやはり「人の子」でなければならない。それで、この句が教団の中で伝承されるときには、「人の子は人々の手に渡される」という形で伝承されるようになったのであろう。すなわち、弟子たちはイエスと一緒にいるときは、イエスが語られた「人は人々に渡される」というマーシャールを理解することはできなかったが、復活後イエスを終末的な「人の子」と告白するようになって、このマーシャールが終末的救済者の受難を語る預言であることが理解され、現在の形で伝承されるようになったと考えられる。
 受難予告に「殺されてから三日後に、彼は復活する」という復活の予告が続く。この復活の予告は、教団が付け加えた事後予言ではなく、イエスご自身復活を確信して語られたものとわたしは理解しているが、この点については別の機会に詳しく触れることにする。