市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第8講

67 復活についての問答  12章 18〜27節


 18 復活ということはないと主張しているサドカイ派の人々が、イエスのもとに来て質問した。 19 「先生、モーセはわたしたちにこう書きしるしています。『もし兄が死んで妻を残し、子がない場合は、弟はその妻をめとって、兄の子孫を残すようにせよ』。 20 ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、死んだときに子を残しませんでした。 21 そこで次男がその女をめとりましたが、子を残さず死にました。三男も同様でした。 22 こうして、七人とも子を残しませんでした。そして最後にその女も死にました。 23 さて、復活にさいして、彼らが復活すると、女は誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。 24 イエスは彼らに言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。 25 人が死者の中から復活する時には、めとることなく、嫁ぐことなく、天にいる御使いのようになる。 26 ところで、死んだ者たちが復活することについて、あなたがたはモーセの書の中で読んだことがないのか。その柴の編で、神はモーセにこう言っておられる、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』。 27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは大変な思い違いをしている」。

復活論争

 神は終わりの日に死者を復活させるという信仰は、イスラエルの歴史においてごく後期になって成立したものである。旧約聖書では、ごく後期に属する黙示録的な部分の僅かな箇所に暗示的な文言が例外的に出てくる(イザヤ二六・一九、ダニエル一二・一〜三など)だけで、全体としては死者の復活を語ることはない。しかし新約時代直前に多く書かれた黙示文書になると、死者の復活の信仰が前面に出てくるようになる。ファリサイ派の律法学者は、時代が生み出す新しい信仰を律法の新しい解釈として受容し、その解釈をモーセ律法の本文と同じ権威のある伝承として蓄積したので、死者の復活の信仰も受け入れ、彼らの信条としていた。それに対してサドカイ派は保守的で、モーセ五書の本文に書かれていること以外は認めようとしなかったので、この新しい信仰を拒否したのである。
 共観福音書で見るかぎり、イエスは「死者の復活」を積極的に宣べ伝えられたことはない。イエスは、弟子たちに秘かにご自分の受難と復活について語られた場合以外、復活という言葉を口にされたこともない。しかし、当時すでにユダヤ教の正統信条として広く民衆に受け入れられていた「死者の復活」の信仰を当然の前提として、神の国を語られたことがルカ一四・一四などからもうかがえる。サドカイ派の者たちは、復活の信仰に関する限りイエスはファリサイ派の立場に立つ者として、その信仰が律法に矛盾することを取り上げて論争を挑み、言葉じりをとらえようとしたのである。
 彼らがここで用いている七人の兄弟の議論は、当時サドカイ派がファリサイ派を批判するときに好んで用いた論法であった。夫が子を残さないで死んだとき、兄弟がその妻をめとらなければならないという律法(申命記二五・五以下)がある以上、この規定によって七人の兄弟を次々に夫とした女は、死者の復活を認めると七人の男を夫とすることになり、律法に違反することになる。復活を認めると、このように律法自体が矛盾に陥るのであるから、死者の復活の信仰は成り立たないという議論である。ファリサイ派の学者はこの議論に対して、その女は最初の夫の妻となるという解答を出していたが、サドカイ派を十分納得させることはできなかったようである。
 日頃ファリサイ派を批判しているイエスであれば、この問題にどう答えるか。答えられないようであれば、民衆の面前でラビとしての権威は失墜する。もし、矛盾を回避するため律法のある規定を否定するような答え方であれば、律法の神聖を冒?する者として訴えることができる。

問う者の誤り

 ここでもイエスの答えは問いの立て方そのものの誤りを暴露する。「その女は最初の夫の妻になる」というような、問いと同じ次元(律法の解釈という次元)に立つ解答は、問いが出てくる立場そのものの誤りを共にするだけで、その誤りを克服することはできない。イエスは、質問者が「聖書も神の力も知らないから」そのような間違った問いの立て方をするのだと指摘した上で、神の力によって生きるところから出る聖書理解を示される。
 まず第一に、彼らの問いは復活した者たちの世界がこの地上と同じような世界であって、結婚というような制度も同じようにあると考える「思い違い」から出ていることが暴露される。彼らは全く新しい世界を創造することができる神の力を知らないから、そのような「思い違い」をすることになるのである。復活というのは神による新しい世界の創造である。そこでは人間は天使のように朽ちることのない体をもって生きる存在とされているのだから、死ぬべき体の人間が地上に存続するために必要としている結婚は、かの世界ではもはや存在しない。だから、「復活にさいして、彼らが復活すると、女は誰の妻になるのでしょうか」という問い自体が成り立たないのである。

生ける者の神

 さらに進んで、イエスは彼らが復活を否定する根拠にしている聖書理解の間違いを衝かれる。彼らは律法(モーセ五書)に書かれていないという理由で復活を否定している。そういう彼らにイエスはモーセの書を突きつけて、神が死者を復活させる方であることが明記されているではないかと迫られる。
 「柴の編」というのは、出エジプト記三章で、神がモーセを召される時、燃える柴の中からモーセに呼びかけられた箇所を指している。燃える柴の中に現れた神はモーセに、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名のっておられる(出エジプト記三・六)。イエスはここを引いて、ここに死者の復活が明記されていると語られるのである。これは驚くべき聖書理解である。
 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤハウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名である。この御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されているというのである。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされているが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになる。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となる。
 神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいた。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は「死んだ者たちの神」となる。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭である。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければならない。
 すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではない。イスラエルにはギリシア人のような霊魂不滅の考え方はない。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動である。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現である。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのである。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまう。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになる。
 このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つである。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させるのである。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではない。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るのである。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られる。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がない。これはイエスだけが達しえた境地であろう。
 この段落は、死者の復活を宣べ伝える初代教団が、それを否定する者たちとの論争を、イエスとサドカイ派との論争という形で提示したものであるという解釈がよく見られる。しかし、ここには初代教団の復活理解や表現の痕跡がないことから、イエスご自身のものとする方が適切である(エレミアス)。一歩譲って、ここに初代教団とユダヤ教側との聖書解釈についての論争の形式が認められるとしても、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というロギオンと、そこから出る聖書理解はイエスのような方だけにふさわしいものと考えられる。われわれもイエスのこの言葉に基づいて、「死者を復活させる神」を信じ、聖書全体をこの神の啓示として理解するのである。