市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第29講

88 十字架  15章 16〜41節

 16 兵卒たちはイエスを中庭、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。 17 そしてイエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 18 「ユダヤ人の王、万歳!」と言って敬礼しはじめた。 19 また、葦の棒でイエスの頭を叩き、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 20 こうして、イエスをなぶりものにしたうえ、紫の衣を脱がせ、もとの上着を着せた。
 それから兵卒たちは、イエスを十字架につけるために外へ引き出した。 21 すると、アレキサンデルとルポスの父シモンというクレネ人が田舎から出てきて通りかかったので、兵卒たちはイエスの十字架を無理に彼に負わせた。 22 こうして、イエスをゴルゴタというところまで連れていった。これは訳すと「頭蓋骨」という意味である。 23 人々は没薬をまぜたぶどう酒をさしだしたが、イエスはお受けにならなかった。 24 そこで、兵卒たちはイエスを十字架につけ、その衣服を分け、誰がどれを取るかを決めるためにくじを引いた。
 25 イエスを十字架につけたのは、朝の九時であった。 26 罪状札には「ユダヤ人の王」と書いてあった。 27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、ひとりは右に、一人は左に、十字架につけた。[ 28 こうして、「彼は罪人たちと共に数えられた」と書かれている聖書が成就した。] 29 通りかかった者たちは頭を振りながら、イエスを侮辱して言った、「おやおや、神殿を打ち壊して三日で建てる者よ、 30 十字架からおりてきて自分を救ったらどうだ」。 31 祭司長たちもまた同じように、律法学者たちと一緒になって、侮蔑の言葉を交わし合った。「彼は他人を救ったが、自分を救うことができない。 32 イスラエルの王、メシアよ、いま十字架から降りてみよ。それを見たら、われわれも信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。
 33 昼の十二時になると、全地が暗くなり、三時までつづいた。 34 三時にイエスは大声で叫ばれた、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。それは訳せば、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」という意味である。 35 すると、そばに立っていた者数人がこれを聞いて、「見よ、彼はエリヤを呼んでいる」と言った。 36 そこで、ひとりの者が走っていって海綿に酸いぶどう酒をふくませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとしながら言った、「いいではないか。エリヤが来て彼をおろすか、見ていよう」。 37 ところが、イエスは大声を発し、息絶えられた。 38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 39 イエスに向かって立っていた百卒長は、イエスがこのように息絶えられたのを見て、「本当に、この人は神の子であった」と言った。
 40 また、遠くから様子を見ていた女たちもいた。その中に、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母のマリア、サロメがいた。 41 この三人は、イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従い仕えた者たちである。この他にも、イエスと一緒にエルサレムに上ってきた女たちが大勢そこにいた。

十字架刑の歴史

 イエスは十字架刑に処せられて死なれた。イエスの十字架刑を伝える福音書の記事を読む前に、キケロが「もっとも残酷でもっともひどい死刑」と呼んだこの十字架刑とはどういうものか、その歴史と実際のごく概略を見ておこう。
 十字架刑というこの残酷な処刑方法はペルシャ人の発明によるものらしい。ペルシャのダリウス王は前五一九年に三千人の叛徒をバビロンで十字架にかけたことが伝えられている(ヘロドトス)。王は敵を十字架にかけたことを戦勝碑文で誇り、勅令で違反者を十字架にかけると脅している(エズラ六・一一)。もっとも、ペルシャの十字架刑は横木がなく、縦杭に釘づけする磔刑であったらしい。この処刑法はエステル記で「木にかける」という表現で語られている。
 ギリシア人はもともと十字架刑は行わなかったようであるが、アレキサンドロス大王がペルシャからこの残酷な処刑方法を受け継ぎ、彼の後継者たちもこれを用いた。それでアンテオコス四世エピファネスの迫害のとき、彼は律法に忠実なユダヤ人を「まだ生きて息のあるまま十字架にかけた」(ヨセフス)のである。
 こうしてパレスチナでも始まった十字架刑がユダヤ人自身によって用いられるようになったのは、ギリシア主義者の大祭司アルキモスが前一六二年に六十人の「ハシディーム」を処刑(マカベアT七・一六)するのに用いたのが最初であると見られる。この処刑が十字架刑によってなされたことはラビ伝承も語っており、また死海文書の中にも、この時代の処刑を「人を生きたまま磔刑にするというイスラエルでは未だかってない」ことと非難している箇所がある(ナホム書注解)。
 イスラエルでも古来から人を「木にかける」ことは行われていた(申命記二一・二二〜二三)。しかし、これは石打ちで処刑された者の死体を木にかけてさらすことであって、「人を生きたまま磔刑にする」こととは全然別のことである。イスラエルにおいて磔刑は未知のショッキングな処刑法であったが、ひとたび取り入れられると、宗教上の紛争や迫害に際して権力者が反対者を処刑する方法としてしばしば用いられるようになる。有名なのは、前八八年に大祭司アレキサンドロス・ヤンナイオスが八百人のファリサイ派の人々を十字架にかけた事件があり、その十二年後には権力の座についたファリサイ派の指導者が八十人の「魔女たち」を(おそらく十字架刑で)処刑している。
 この野蛮な処刑方法は、カルタゴを通してローマに伝えられ、ローマ人は反抗する奴隷や属州の異民族を処刑するのに用いるようになる(ローマ市民権をもつ者には用いられなかった)。イタリアでもすでに前七一年に、スパルタクス団員の奴隷六千人がラティウム街道沿いに十字架にかけられてさらされたと伝えられている。シリア征服(前六三年)の後、歴代のローマ総督はパレスチナの地でも反抗するユダヤ人を十字架刑に処して、力による支配を貫く。すでに前四年に、総督ヴァルスは二千人の反抗分子をエルサレム周辺で十字架にかけている。その後ユダヤ戦争にいたるまで、メシア運動の指導者やゼーロータイの活動家で「暴徒」として捕らえられ、十字架刑によって処刑されたユダヤ人は数え切れないほどである。イエスの十字架刑もこの時期に起こった一つの事件であった。

 十字架刑の形式はさまざまであって、けっして一様ではないが、ローマの支配下のパレスチナで行われていた通例の執行様式はほぼ以下のようであった。
 十字架刑の判決を受けた者はまず容赦なく鞭打たれる。それから、兵卒に四方を囲まれて、自分がつけられる十字架の横木を背負って(または引きずって)、町を通り処刑場に行く。処刑場は普通人通りの多い街道沿いの場所に設けられる。そこにはすでに十字架の縦木が地面に打ち込んである。受刑者はそこで裸にされ、地上に置かれた横木に腕を釘づけにされる。執行者はその横木を十字架の縦木の上に引き上げ、地上から二、三メートルの所でしばる。こうして、十字架は通常T字形となるが、上部の短い十字形となる場合もある。それから犠牲者の足が縦木に釘づけされる。さらに頭の上に判決理由を書いた板が取り付けられる。
 受刑者はこうして十字架の木に釘づけされたまま、兵卒の監視の中で、絶命するまで放置される。衆人の侮蔑と猛禽の襲来に身を護るすべなく、想像を絶する体の苦痛の中に何時間も、ときには何日も放置される。執行者が憐れみを覚える場合には、麻酔作用のある飲物を口に含ませることもある。また何らかの事情で早く取り下ろさなければならないときは、死期を早めるために脇を槍で突くこともあり、息のある受刑者が逃亡するのを防ぐために脚の骨を折る場合もあるようである。
 十字架刑は人間が考えついたもっとも苦痛の大きい残酷な刑罰である。この恐怖を与える処刑方法が当時よく用いられたのは、反抗する者への仮借ない報復であろうが、もう一つの理由は、この苦痛を長時間公衆の面前にさらすことによって、支配者の力の誇示をより効果的にすることができたからであろう。

ユダヤ人の王

 兵卒たちはイエスを中庭、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。(一六節) 

 ピラトの法廷で十字架刑の判決を受け、鞭打たれたイエスは、建物の中の庭に連れていかれる。それは総督官邸の建物である。官邸はおそらく神殿の聖域北西部の角にあるアントニア要塞のことであろう。そこはエルサレムのローマ軍団の駐留地であり、総督ピラトが祭にさいして治安維持のためにエルサレムに来たときに滞在する官邸であったとされる。イエスが連れて行かれた場所は、全部隊が呼び集められたのであるから、建物内部ではなく、建物に囲まれた中庭と理解すべきであろう。

 そしてイエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳!」と言って敬礼しはじめた。また、葦の棒でイエスの頭を叩き、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。こうして、イエスをなぶりものにしたうえ、紫の衣を脱がせ、もとの上着を着せた。(一七節〜二〇節a)

 十字架刑に定められた死刑囚イエスは、刑場に引き出される前に、刑を執行するローマの兵卒たちがなぶりものにするにまかされる。兵卒たちは「ユダヤ人の王」という罪名で処刑されるイエスに、「見よ、こんな惨めな姿の男がユダヤ人の王だとよ。ユダヤ人というのは所詮こんな男を王にいただく民なのだ」と、日頃のユダヤ人への侮蔑の感情をぶっつける。兵卒たちはイエスに「紫の衣」を着せ(おそらくこれはローマの兵卒が用いる深紅色のマントであろう)、庭に生えている茨のある木の枝を編んで即席に作った冠を頭にかぶらせ、イエスを王に見立てて敬礼し、「ユダヤ人の王様、万歳」とはやしたてる。
 兵卒たちは王杖に見立ててイエスの手に握らせた「葦の棒」を取り返して、イエスの頭を叩き、唾を吐きかける。このような侮辱に黙って耐えておられるイエスの姿を語り伝えた教団は、このイエスの姿にイザヤの預言の成就を見ていたのであろう。イザヤは主の僕についてこう予言している。

 「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」。(イザヤ五〇・五〜六)

 こうして、兵卒たちはさんざんイエスをなぶりものにしたうえ、「紫の衣」を脱がせ、もとの上着を着せて、処刑地に向かって官邸からイエスを引き出す。茨の冠のことは何も触れられていないので、イエスは茨の冠をかぶらされたまま、額から血を流して引き出されたと推察することが許されるであろう。

ウィア・ドロロサ

 それから兵卒たちは、イエスを十字架につけるために外へ引き出した。(二〇節b)

 ここから処刑場への道行が始まる。イエスは四方をローマの兵卒に取り囲まれて、「ユダヤ人の王」と書いた罪状札を首に吊るされ、自分がつけられる十字架の横木を背負って歩かされる。反乱が頻発する不穏な情勢の中で、反乱勢力のリーダーと目される者の処刑であるから、仲間による奪還を警戒して、警備は厳重をきわめる。百卒長が指揮するローマ軍団の一隊が警備と執行の任にあたる。たとえ弟子たちが師を見送ろうとしても、とうてい近づくことはできなかったであろう。ルカ(二三・二七〜三一)は途中でイエスが婦人たちに語りかけられたことを報告しているが、それはイエスに近づくことができたのは女性たちだけであったからである。当時の習慣に従って、死刑の執行があるときには、エルサレムのかなりの家柄の夫人たちの有志が造る団体が執行に立ち会って、受刑者を慰め、苦しみをやわらげるために麻酔性の香料を含むぶどう酒をあたえたりした。このような夫人たちや職業的泣き女が、哀歌を歌いながら痛ましい行列の後につづいたのである。
 イエスが十字架を背負って歩かれた道は、ラテン語で「ウィア・ドロロサ(悲しみの道)」と呼ばれている。イエスが実際歩かれた道はもはや分からない。当時の街路は現在では地下に埋もれてしまっているし、処刑地がどこか最終的に確定されているわけではないからである。しかし、十三世紀以来、アントニア要塞跡からゴルゴタの場所とされる聖墳墓教会までの道が「ウィア・ドロロサ」と呼ばれて、巡礼者たちがイエスの苦難の道行を偲ぶ場所になっている。その道には、ピラトの法廷とされる場所から埋葬の場所とされる所まで、その間の出来事の一つ一つを偲んで祈る十四箇所の祈祷所が設けられている。その中には、ヴェロニカがハンカチでイエスの額からの汗を拭ったところ、そのハンカチにイエスの顔が写ったというような、伝説に基づく場所も含まれている。

 すると、アレキサンデルとルポスの父シモンというクレネ人が田舎から出てきて通りかかったので、兵卒たちはイエスの十字架を無理に彼に負わせた。(二一節)

 この道の途中でイエスはついに倒れる。前夜からの夜を徹しての裁判と激しい鞭打ちによって、イエスの体はすでに極度に衰弱していたのであろう。囚人が歩けなくなったからといって処刑を遅らせるわけにはいかないし、囚人の代わりにローマの兵士が恥辱の十字架を背負ってやるわけにもいかない。たまたまそこに一人のユダヤ人の男が通りかかったので、ローマ軍の指揮官はこの男に命じて、「無理に」イエスの十字架を負わせる。ただの通りがかりの男にとって、自分と何の関係もない死刑囚の十字架を背負わされることはまったく意外なことであったであろう。
 この男は「田舎から出てきて通りかかった」といわれている。「田舎」と訳した語は本来「畑」を意味する語で、都市の郊外という意味にも使われる。ここでは、エルサレムの郊外から都に入る方向に歩いてきたこと、それで都から出て行く死刑囚の一行とは逆の向きに歩いてきて、囚人の行列に出会ったことを示している。そうすると、彼は外にいたので昨夜来の都での出来事(イエスの逮捕や裁判)を知らずにやってきたと見てよい。このように、たまたま向こうからやってきた男に十字架を背負わせた事実は、イエスの行列についてきた者たちは女性ばかりで、処刑に立ち会う祭司長たちの他には、屈強の男は一人もいなかったことを裏付ける。もし一人でもいたら、その男にまず十字架を背負わせたはずだからである。
 この男は「アレキサンデルとルポスの父シモンというクレネ人」と、二人の息子の名まであげて出身地と名前が紹介されている。それは、この二人の息子が福音書が書かれた時代の教団において知られている人物であったからであろう。このルポスがロマ書(一六・一三)に出てくる「ルポス」と同一人物である可能性もある。当時の教団によく知られている人物の名を上げて語られていることは、その伝承が確かなものであることを保証している。
 クレネ(キュレネ)は北アフリカの地中海寄りのギリシア植民都市で、古くからユダヤ人が多く居住し、イエスの時代にはアレキサンドリアと並ぶ強大なディアスポラ・ユダヤ人の中心地であった。クレネのユダヤ人たちはパレスチナとの交流が盛んで、エルサレムに自分たちの会堂を持っていた(使徒六・九)。後にステパノの迫害でエルサレムから追われた信徒がアンティオキアで初めてギリシア人にも福音を語りかけ、異邦人を含む集会が形成されるようになるが、その働きの中でクレネ出身のユダヤ人が指導的な役割を果たしている(使徒一一・二〇、一三・一)ことからも、当時エルサレムには多くのクレネのユダヤ人が居住または滞在していたことがうかがわれる。
 シモンはクレネのユダヤ人共同体に所属する敬虔なユダヤ人であって、過越の祭のためにエルサレムに来ていたのであろう。思いがけなくイエスの十字架を代わりに背負うという強烈な体験が契機となって、シモンは後にイエス・キリストを信じるようになり、初期の教団で積極的な役割を果したと伝えられている。イエスの代わりに十字架を背負ったというこの伝承も、シモン自身から出ていると見られる。シモンが信仰に入ったことは、彼の二人の息子が教団でよく知られた人物であることからも十分推察できる。
 この伝承の扱い方はマルコ以後の福音書において微妙に違ってくる。マタイはほぼマルコに従っているが、二人の息子の名を略している。マタイが活動した地域または時代には、二人は知られていなかったのであろう。ルカも息子の名をあげていない。さらにルカでは「無理に」という表現がなくなり、十字架を背負って「イエスの後に従ってゆく」という弟子の姿を暗示する表現になってくる。ヨハネはシモンのことに全然触れていない。ヨハネがこの伝承を知らなかったはずはないので、これは意図的であると考えられる。これを外したヨハネの意図は推察するほかはないのであるが、ヨハネが戦わなければならなかった仮現論への警戒からと見ることもできるであろう。仮現論というのは、天的で霊的なキリストが人間になったのはただ見かけだけで、キリストは十字架の前にその肉体を脱ぎ去っているので、キリストが十字架の上で苦しんだのは見かけの上のことにすぎないとする説である。後に仮現論者の中に、十字架にかけられたのはイエスではなくシモンだったとする説も出てくるのであるが、ヨハネの時代にすでにそのような説の萌芽を見て、ヨハネはシモンの記事を削除したのではないかとも考えられる。

ゴルゴタ

 こうして、イエスをゴルゴタというところまで連れていった。これは訳すと「頭蓋骨」という意味である。(二二節)

ローマ兵の一行はイエスを処刑場である「ゴルゴタ」と呼ばれる場所まで連れて行く。「ゴルゴタ」という語は、ヘブライ語で「頭蓋骨」を意味する語に相当するアラム語で、ギリシア語だけを用いる読者のためにマルコはギリシア語訳をつけている。後にウルガータ(ラテン語訳聖書)で、この地名は「頭蓋骨」を意味するラテン語の「カルヴァリア」となり、その語がそのまま英語に取り入れられて、英語でも「カルヴァリ」と呼ばれるようになる。
「ゴルゴタ」がどこかは確定できない。新約聖書の伝承によれば、それは少なくともエルサレム城壁の外にあり(ヨハネ一九・二〇、ヘブル一三・一二)、人通りの多い街道沿いの(マルコ一五・二九)小高い丘(マルコ一五・四〇)である。十字架刑は見せしめの刑であるから、街道沿いの小高い場所が選ばれたのである。その場所は形が頭蓋骨に似ていることと、そこが処刑場としてよく用いられたことから、「頭蓋骨」と呼ばれるようになったのであろう。
四世紀になって、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、当時すでに分からなくなっていたゴルゴタの地をあらためて探させ、そこにゴルゴタ教会とアナスタシス(復活)教会を建てた。それが現在の聖墳墓教会である。そこがゴルゴタの地であることは、現在ほぼ確実なこととして受け入れられている。なお、十九世紀になって、ゴルゴタはエルサレム北壁のダマスコ門からすこし北にいった場所であるという主張がなされ、それをイギリスのゴードン将軍が熱烈に支持したので「ゴードンのカルヴァリ」と呼ばれる場所があるが、これは確実な裏付けを欠いている。

 人々は没薬をまぜたぶどう酒をさしだしたが、イエスはお受けにならなかった。(二三節)

 処刑地のゴルゴタに到着したとき、苦痛をやわらげるために、麻酔性のある香料を混ぜたぶどう酒がさしだされた。誰がこのぶどう酒をイエスに飲ませようとしたのかは明言されていないが、それはローマ兵ではなく、エルサレムからついてきた有志の夫人たちであろう。イエスはこのぶどう酒をお受けにならなかった。イエスは神によって定められた苦難を最後まで真正面から受けとめようとされたのであろう。そして、この事実を伝えるマルコはそこに聖書の成就を見ていたのであろう。箴言(三一・四)に次のような言葉がある。「酒を飲むことは、王たるものにふさわしくない。強い酒を求めることは君たるものにふさわしくない」。

 そこで、兵卒たちはイエスを十字架につけ、その衣服を分け、誰がどれを取るかを決めるためにくじを引いた。(二四節)

 ローマの兵卒たちは、いよいよ彼らの残酷な任務を遂行する。イエスを裸にし、地上に置いた横木にイエスの腕を伸ばし釘づけにする。その横木を、すでに地に埋め込んで立ててある縦木に沿って引き上げ、上の方で固定する。イエスの足は縦木に釘づけされて、イエスの体は十字の形をした木に、両腕を広げた姿で吊り下げられることになる。福音書記者は、感情に訴える残酷な光景の描写はいっさいしないで、イエスが十字架につけられた事実だけを「十字架につけた」という一語で語る。
 囚人の衣服を刑吏が取るのはローマの習慣であったらしい。しかし、マルコは明らかにここで聖書の成就を見ている。彼は兵卒の行為をほとんど詩編の言葉(七十人訳ギリシア語聖書の詩編二二・一八)をそのまま用いて描いている。

十字架の上のイエス

 イエスを十字架につけたのは、朝の九時であった。(二五節)

 ヨハネ福音書(一九・一四)によると、ピラトの法廷で十字架刑の判決が出たのは正午ごろであったから、十字架につけられた時刻は正午よりも後になる。マルコが午前九時とするのと、正午すぎとするヨハネ福音書の食い違いは埋めることができない。
 イエスが絶命されたのは、マルコでは午後三時ごろとなっている(三四節)。ヨハネは時刻を明示していないが、夕暮れになる前であることは確かであるので、それほど違わない。イエスが絶命されるまでの時間は、マルコでは六時間ほどになるのであるが、それはピラトが驚くほどの短時間であった。ヨハネ福音書では、それよりもさらに短い時間で絶命されたことになる。

 罪状札には「ユダヤ人の王」と書いてあった。(二六節)

 処刑者の頭より上の方の縦木に罪状札が打ちつけられる。イエスの罪状札には「ユダヤ人の王」と書かれていた。この罪状書きは、ローマの法制によれば、ローマ帝国の支配に対する反乱罪で処刑された者であることを公示する。イエスが当時パレスチナを支配していたローマ帝国によって反逆罪で十字架刑に処せられたことは、イエスの生涯の中で最も確かな史的事実である。
 この罪状書きがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語の三つの言語で書かれていた(ヨハネ一九・二〇)とされるのは意義深い。ヘブライ語は神の選民ユダヤ人の宗教言語、ラテン語は世界の政治的支配者であるローマ人の公用語、ギリシア語は当時の文化世界の共通語である。イエスの死は、まさにこの三つ言語が表す三つの世界が重なるところで起こった出来事である。この三つの世界はそれぞれ、十字架の上に死なれたイエスが、自分たちの世界のまことの王であることを知らなければならない。処刑の理由としてピラト自身が書いたこの罪状書き(ヨハネ一九・一九〜二二)は、まことに逆説的にこの出来事の世界史的意義を告知しているのである。

 また、イエスと一緒に二人の強盗を、ひとりは右に、一人は左に、十字架につけた。(二七節)

 ここで初めて、イエスの他に二人が同時に処刑されたことが語られる。ローマ人は十字架刑を数人まとめて執行する習慣であったという。おそらくこの二人は、すでに十字架刑の判決を受けて、執行の時期を獄で待たされていたのであろう。バラバもそのように執行を待つ囚人の一人であったが、イエスの代わりにピラトの特赦を受けて釈放されたのであった。
 ここで二人が「強盗」と呼ばれているが、先にも述べたように、彼らはたんなる物盗り強盗の類ではなく、ローマへの武力反抗を試みるゼーロータイの活動家であったと見るべきである。イエスは彼らと同じくローマへの反逆者として処刑されたのである。そのさい、マルコ(あるいはマルコ以前の伝承)が二人について、バラバについて用いた「反乱暴徒」(スタシアステース)を用いないで、本来は「物盗り強盗」を意味する「レーステース」を用いたのは、イエスの処刑からすこしでも政治色を薄めようとする護教的動機が働いたのかもしれない。

 [こうして、「彼は罪人たちと共に数えられた」と書かれている聖書が成就した。](二八節)

 この節は有力な写本に欠けており、新共同訳も本文から除いている。これは前節で二人が「強盗」とされたのに多少影響されてか、イエスの十字架が聖書の預言の成就であることを強調するために、写本の段階で挿入されたものであろう。引用はイザヤ書五三章一二節の一部である。

 通りかかった者たちは頭を振りながら、イエスを侮辱して言った、「おやおや、神殿を打ち壊して三日で建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救ったらどうだ」。(二九〜三〇節)

 十字架刑は見せしめのため人通りの多い街道沿いの処刑場で行われた。街道を歩いてきてゴルゴタの地にさしかかった者たちは、十字架にかけられているイエスを見て、侮辱の言葉を投げかけた。「頭を振りながら」という表現には、詩編二二編八節が響いている。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る」。
 彼らの中には、イエスが神殿で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ二・一九)と言われるのを直接聞いた者がいたかもしれない。すくなくともエルサレムの住民で、イエスが神殿を侮辱した罪で裁判にかけられたことを知らぬ者はなかったであろう。イスラエルの民は、イエスがご自分の体をさして「この神殿を壊してみよ」と言われたことを、いま自分たちが実行していることを悟らない。
 この通りがかりの者たちの言葉から、イエスが「神殿を打ち壊して三日で建てる」という意味の発言をされたことが、エルサレムの住民の間で評判になっていたことがうかがえる。マルコは神殿粛正の場面でもこのような種類のイエスの発言をいっさい伝えず、最高法院の裁判でもそのような発言を聞いたとする証人を「偽証」と決めつけている(マルコ一四・五七〜五八)。しかし、通りすがりのエルサレム住民がこのような言葉でイエスを侮辱したとすれば、正確な言葉使いは別として、ヨハネ福音書が伝えるような意味の発言をイエスが神殿でされたこと、そしてそれを多くの人が聞いたことは事実であったと認めることができる。

 祭司長たちもまた同じように、律法学者たちと一緒になって、侮蔑の言葉を交わし合った。「彼は他人を救ったが、自分を救うことができない。イスラエルの王、メシアよ、いま十字架から降りてみよ。それを見たら、われわれも信じよう」。(三一節〜三二節a)

 祭司長たちはイエスの処刑を確認するために立ち会ったのであろう。律法学者たちも一緒に立ち会った。ユダヤ教の代表者が立ち会っていることは、イエスの十字架が、ローマ人の手で執行されているが、ユダヤ教も関与している事実をあらためて確認させる。
 彼らはイエスが人々を病人や死に瀕した人を救ったことを認めている。しかし、そのイエスはいま十字架にかけられて死のうとしているのに、自分を救うことができない。その事実は、イエスの救いが偽物である証拠だと、彼らはイエスを侮蔑する。彼らにとって、イエスが十字架につけられて死ぬことは、それまでのイエスの働きの全部を無意味にしてしまう決定的な敗北である。
 イエスは「ユダヤ人の王」として処刑されている。ユダヤ人の王を自称しているとの訴えに対して、イエスは一言も抗弁したり否定したりされなかった。彼らはイエスに、もし本当に自分がメシアであり、イスラエルの王であるとするのであれば、いま十字架から降りて、その証拠を見せよと迫る。神から油を注がれて、その力でイスラエルを異教徒の支配から救い出すはずのメシアが、その異教徒に処刑されて死んでしまうようなことはありえない。そんな者はメシアではない。ユダヤ教の神学では、メシアは最終的にイスラエルを異邦人の支配から解放する事業に成功する者でなければならない。いま十字架から降りてくるのを見たら、異邦人の支配を打ち破る力のあるメシアであると認めようというのである。

 また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。(三二節b)

 イエスと一緒に十字架につけられた二人もイエスを罵る。彼らは反ローマ武力反抗の闘士として、志破れて処刑されるにいたったことを、どんなに無念に思っていたことであろうか。彼らにとって、イエスのように力ある指導者が反ローマ運動に立ち上がることをせず、むざむざとローマによって処刑されるとは、なんとも歯がゆいことであり、イスラエルへの裏切りであるとして、イエスを軽蔑し罵るようになったのであろう。
 ルカ福音書(二三・三九〜四三)はここを、二人のうちの一人がイエスに「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対して、イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言われた、という劇的な場面にしている(この場面の信仰上の意義については、別著「キリスト信仰の諸相」の第四部「希望の諸相」第二講を参照のこと)。

イエスの死

 昼の十二時になると、全地が暗くなり、三時までつづいた。(三三節)

 マルコ福音書十五章はイエスが死なれた決定的な一日十二時間を、三時間ごとの四つに区分して物語る。夜明け(午前六時)から午前九時までの間に、イエスは最高法院で判決を受け、ピラトの法廷で裁かれ、鞭打ちと侮辱を受け、刑場へ引かれて行く。午前九時に十字架につけられて、激しい苦痛の中で通行人や祭司長たちの侮辱にさらされる。正午から三時間にわたって全地が暗くなり、午後三時にイエスが絶命される。それから日没(午後六時)までの三時間の間に、イエスの遺体は十字架から取り下ろされて墓に葬られる。 イエスが絶命されるとき三時間にわたって全地を覆ったこの闇は何であろうか。この暗闇の意味は聖書(旧約聖書)から見なければならない。というのは、福音書はイエスの死に関わる出来事をすべて聖書の成就として語っているからである。
 聖書、とくに預言者においては、闇とか暗黒は神の裁きを象徴する。光の源である神が顔を背けるとき、世界は暗闇に陥る。神が最終的に世界を裁かれる日には、暗闇が世界を覆う。「主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」(アモス五・一八)。預言者たちは繰り返し裁きの日の暗闇について語っている。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモス八・九)。アモスだけでなく、イザヤ(一三・九〜一〇)も、エレミヤ(一五・九)も、エゼキエル(三二・八)も、ヨエル(三・四)も、同じように裁きの日の闇について語っている。
 このような聖書の背景から見るとき、マルコは全地に臨んだ暗闇を語ることによって、イエスの死を終末審判の文脈に置いていることが理解できる。いまイエスが十字架の上に絶命されようとしているが、それは神の最終的な裁きの到来という終末的な意味をもつ出来事であると、この暗闇は指し示しているのである。そして、この裁きの闇は同時に、イスラエルがエジプトから救出されるときにエジプト全土を覆った暗闇(出エジプト記一〇・二二)のように、そこで神の救いが成し遂げられる神秘の闇でもある。

 三時にイエスは大声で叫ばれた、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。それは訳せば、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」という意味である。(三四節)

 イエスが叫ばれたアラム語を、マルコはギリシア語に訳して、その意味を説明している。その場に弟子たちはいなかったのであるが、居合わせてその言葉を直接聞いた者たち(イエスに没薬をまぜたぶどう酒を与えようとした女性たちであろうか)から伝えられたイエスの最後の言葉を、教団はもっとも重要なイエスの言葉として、アラム語のまま伝承したのであろう。批判者をよろこばし、教団には重荷になるような言葉を、教団が創作してイエスの口に置いたとは考えられない。
 これは詩編二二編の冒頭の言葉である。この詩編は、人からも神からも見捨てられた悲痛な叫びで始まっているが、終わりには神への信頼と賛美になっている。それで、イエスは最初の一句を叫ぶことでこの詩編全体を祈られたのであって(ユダヤでは作品全体を最初の一行で代表させる習慣があった)、これはイエスの神への信頼と賛美の祈りであるとする解釈がある。この解釈は、イエスも十字架刑という悲惨な最後に直面して結局は神への恨みごとを叫んで死んだのだという批判者たちの軽蔑に答えるために、イエスを弁護し美化して、殉教者的な信仰の英雄として描くための無理な解釈である。
 この解釈はゲツセマネの祈りを無意味にする。イエスがゲツセマネで、その魂が「悲しみのあまり死ぬほど」恐れおののき苦悶され、取り去ってくださるように三度まで父に乞われたあの「杯」は何であったのか。それは神との栄光に満ちた交わりの中で肉体の苦痛を耐え忍ぶ殉教者の死ではなかったはずである。それは、子として父と一つの交わりの中におられたイエスが、罪に対する神の裁きを味わう地獄の苦悩であった(ゲツセマネの祈りの講解を参照のこと)。その「杯」をいま十字架の上でイエスは飲み干しておられるのである。イエスは、その叫びの言葉通りに、神から見捨てられ、地獄の暗闇を味わい死んでいかれるのである。このとき地を覆っていた暗闇は、イエスの魂が味わっておられる神の裁きの暗闇を象徴することになる。
 イエスは神を「アッバ、父よ」と呼んで、いつも子としての親しい交わりの中におられた。そのイエスが生涯の最後において、神から見捨てられて死なれるのである。この時、イエスが神の子でなくなったのではない。神の子であるのに神に見捨てられるところに、イエスの激しい苦しみがある。イエスは神に見捨てられるという形で、神の子の死を死ぬ。これは、われわれの理解をはるかに超える逆説である。
 そのとき神はどこにおられるのであろうか。イエスを十字架につけた祭司長や律法学者たちの側におられるのではない。ましてピラトを代表とするローマ側におられるのではない。神はあくまでイエスの側におられるのである。それはイエスを復活させることですぐに公示される。神はイエスの側にいて子の苦しみを共に苦しんでおられるのである。
 イエスは多くの人のために自分の命を「引き渡し」、苦しみを受けることによって民の救いとなるという神の定めに自分を「引き渡された」。神も「御自身の御子さえも惜しまず、わたしたちすべての者のために引き渡された」のである(ロマ八・三二)。限りなく愛しておられる御子を見捨て、死に引き渡すことによって、御父も苦しんでおられるのである。御子の苦しみを苦しみ、御子と共に苦しみを受けておられる。この父の苦しみは、わが子を祭壇に捧げようとしたアブラハムの苦悩の中に先取りされていたのであろう。
 このようなわたしたちのための御子と御父の共苦こそ、神の側のもっとも激しい愛の表現である。イエスの苦難を指す「パッション」という語は、同時に激しい情熱を指す語でもある。イエスの最後の大声の叫びは、苦難の激しさと共に、神の愛の激しさをも示している。神はこれほどまで情熱的に愛される方であると。

 すると、そばに立っていた者数人がこれを聞いて、「見よ、彼はエリヤを呼んでいる」と言った。(三五節)

 イエスの「エロイ、エロイ」の叫び声を、十字架のそばに立っていた者が、エリヤを呼んでいる声と聞き違えた。この聞き違えをさらに自然なものにするためか、マタイ(二七・四六)は「エロイ、エロイ」というアラム語の叫びを、「エリ、エリ」というヘブライ語聖書の読み方に変えて伝えている。
 当時のユダヤ人の間では、義人の苦難にさいしてエリヤが天から助けに来てくれるという信仰があった。エリヤは霊に満たされたイスラエル最大の預言者で、死を味わうことなく、地から直接天に移されたと伝えられている(列王記下二章)。天にとどめられているエリヤは、メシアの時代の到来に先駆けて地上に再来するという信仰が広まっていたのであるが(八・二八、九・一一〜一三)、それだけでなく、個々の義人の苦難にさいしてもエリヤが天から来て助けを与えると信じられていた。それで、イエスの叫びをエリヤに助けを呼び求める声と聞き違えたのはユダヤ人であると考えられる(またはユダヤ人の信仰にある程度の理解をもっていたローマ兵である可能性もある)。

 そこで、ひとりの者が走っていって海綿に酸いぶどう酒をふくませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとしながら言った、「いいではないか。エリヤが来て彼をおろすか、見ていよう」。(三六節)

 「酸いぶどう酒」(オクソス)は、ローマ兵が元気を回復するために用いた、水と酢と卵を混ぜ合わせた飲物である。刑吏役のローマ兵が、自分が携えていたこの飲物を飲ませようとしたのであろう。その飲物を飲ませて、もうすこしこの「ユダヤ人の王」を生かしておき、エリヤとやらが助けに来るかどうかを見ようではないか、というのである。これは真剣に奇跡を期待しているのではなく、惨めな死を迎える「ユダヤ人の王」に対する揶揄の行動である。
 「いいではないか」と訳した句の意味については議論がある。これは、物語には出ていないが、この飲物を与えることを止めさせようとした者がいて、それに対して言われた言葉と理解して、こう訳しておく。
 この出来事を伝えるとき、マルコは「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」という詩編(六九・二二)の言葉の成就を見ていたのであろう。

 ところが、イエスは大声を発し、息絶えられた。(三七節)

 イエスの最後の瞬間を、マルコはこのように簡潔に伝える。イエスが発せられた大声の内容は、マルコが用いた古い伝承では伝えられていない。ルカ(二三・四六)は、イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたとしている。
 イエスの最後を語るのに、マルコは「息絶える」とか「息をひきとる」という普通の動詞を使っている。しかし、この動詞は、「息」という意味だけではなく「霊」という意味もある「プニューマ」という語を含んでいるので、マルコ以後の福音書は「霊」の方に重点をおいて、それぞれ独自の仕方でイエスの最後をもうすこし含蓄のある表現で語ることになる。マタイ(二七・五〇)は「プニューマを注ぎ出された」とし、ヨハネ(一九・三〇)は「プニューマを引き渡された」としている。ルカはマルコと同じ動詞を用いておいて、「わたしのプニューマを御手にゆだねます」とイエスの言葉で説明するに至る。
 イエスが十字架の上で息絶えられたとき、受難の道を歩みぬくことによって成し遂げるべき使命、イエスが父から委ねられたと受けとめておられた使命が完成した。まことに、イエスが叫ばれたと伝えられているように、イエスの側でなすべきことはすべて「成し遂げられた」のである(ヨハネ一九・三〇)。

 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(三八節)

 イエスが十字架の上に息絶えてその使命を完了されたとき、神殿はその役割を終えた。イエスが息を引き取られると同時に、エルサレムの神殿では聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。この幕は人を神の臨在される至聖所から隔てる幕であって、年に一度大祭司があがないの犠牲の血をたずさえて入ることが許されているだけであった。この幕が裂けたことは、人はもはや律法に定められている神殿の祭儀制度によることなく、別の道で、すなわち、わたしたちの罪のために血を流し三日目に復活されたイエス・キリストに合わせられることによって、直接父なる神との交わりに入ることができる時代が始まったことを示している。
 役割を終えた神殿はやがて取り去られるであろう。幕が裂けたことは、やがて神殿が崩壊することのしるしでもある。事実イエスの死後四十年を経ないうちに、使徒パウロたちの働きによってユダヤ教の律法や神殿とは関係なくキリスト信仰によって誰でも神との交わりに入ることができるという福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人がその交わりに入ってきたが、一方神殿はローマの軍勢によって破壊されるにいたる。
 このように、神殿の幕が裂けたことは、イエスの十字架上の死が、もはや神殿を必要としない終末的な事態の到来を意味する出来事であることを示している。なお、マタイ(二七・五一〜五三)はその終末的事態の到来を、きわめて黙示文学的色彩の強い表象を用いて強調している。

 「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」。

このようなことはみな、ユダヤ教黙示文学が終末時に起こると期待していたことである。それが起こったと語ることによって、マタイはイエスの十字架を黙示録的終末の到来として意味づけるのである。

十字架を巡る人々

 イエスに向かって立っていた百卒長は、イエスがこのように息絶えられたのを見て、「本当に、この人は神の子であった」と言った。(三九節)

 この「百卒長」はイエスの処刑を行うローマ兵たちの指揮官である。彼はイエスの処刑を監督し確認するために「イエスに向かって立っていた」が、イエスが「このように」息絶えられたのを見て、「本当に、この人は神の子であった」と言った。
 「このように」というのは何を指しているのか、解釈が分かれる。マタイ(二七・五四)は「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ」こう言ったとしている。ルカ(二三・四七)もほぼ同じで、イエスが息を引きとられるときに起こった暗闇などの異象を見て、こう告白したと理解しているようである。これは分かりやすい解釈である。古代社会では、神と特別の関係にある者が死ぬときには異象が起こることが広く信じられていたのである。
 しかし、マルコはこのような異象との関連を何も示唆していない。この百卒長は、人間の死に方の中でもっとも悲惨な十字架刑死を遂げるイエス、しかも「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫んで死んでゆくイエスの姿に、神の子を認めたのである。これこそマルコがこの福音書を書いて世界に訴えたい事柄自体である。十字架につけられて殺されたナザレのイエスこそ、神の子キリストであることを伝えたいのである。マルコはこの百卒長の告白を彼の福音書の締めくくりとして置いたのである。
 イエスの十字架刑による死を語り伝える伝承は三八節で終わっており、三九節はマルコが書き加えたものであるという多くの学説の主張は、十分可能性がある。そうすると、マルコ福音書は一章一節の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という標題的な要約で始まり、この異邦人のキリスト告白で終わる大きな構想の枠をもって書かれていることが分かる。マルコはこの福音書を書いて、イエスの働きと受難を世界に提示し、「このように」生き、「このように」死なれたイエスを、この百卒長のように神の子キリストと告白するよう、世界の諸民族に呼びかけているのである。

 また、遠くから様子を見ていた女たちもいた。その中に、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母のマリア、サロメがいた。この三人は、イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従い仕えた者たちである。この他にも、イエスと一緒にエルサレムに上ってきた女たちが大勢そこにいた。(四〇〜四一節)

 最後までイエスに従ってきて、遠くからにせよイエスの最後を見届けたのは女性たちであった。彼女たちはガリラヤでイエスの働きに接し、イエスを信じるようになった女性たちである。イエスが深い決意を秘めてエルサレムに上られる様子を見て、男の弟子たちと一緒にイエスに従ってエルサレムに上ってきたのである。男の弟子たちがエルサレムではイエスを王として神の支配が実現し、自分たちがその右と左に座すようになることを期待していたのに対し、女性たちはイエスの受難の道行を愛の直感で理解したのであった。その差は、ベタニアでイエスに香油を注いだ女の場面によく象徴されている。
 エルサレムでイエスが逮捕され、裁判にかけられ、ついに十字架刑に処せられるに及んで、男の弟子たちはイエスを裏切り、否認し、逃亡したのであるが、女性たちは最後までイエスについて行き、イエスの最後を見届けたのである。この事実は、イエスのガリラヤでの働きの質を示す重要な意味がある。イエスの「神の国」の宣教とは恩恵の支配の告知であって、イエスは律法が支配する社会で人間としての権利と尊厳を奪われ、疎外され抑圧されていた人々と一つになり、彼らに神の無条件の受け入れを宣べ伝えられたのである。当時の父権的律法社会では、まさに女性は女性であるというだけで、そのように抑圧された階層であった。それでイエスの宣教は女性たちの中に熱烈な共感と支持を得たのである。
 最後までイエスについてきて、その死を見届けた多くの女性たちの中で、三人の女性の名があげられている。この三人は、日曜日の朝、油を塗るためにイエスの墓に行き、そこでイエスが復活されたことを天使から告げられた女性たちである(マルコ一六・一)。その伏線として、この三人の女性の名がここであげられている。三人はイエス復活の最初の証人として、福音伝承においてきわめて重要な地位を占めている。
 マグダラのマリアが筆頭にあげられている。彼女は復活されたイエスに最初に出会った人物として、顕現伝承ではもっとも重視されている(マルコ一六・九、ヨハネ二〇・一一〜一八)。彼女はイエスによって七つの悪霊を追い出していただいた女性と伝えられている(ルカ八・二、マルコ一六・九)。おそらくこれは、何重にも重なるような深刻な病気とか不幸な状況から救い出された体験を指しているのであろう。この「七つの悪霊」という表現とか、マグダラ(ガリラヤ湖北西岸の人口四万人ほどの町)が漁業や通商で繁栄した町で、売春など退廃した生活で有名であったため、またルカ福音書七章のイエスの足を涙で拭った「罪の女」と同一視されたため、彼女は売春婦であったと推察されることが多いが、確実な根拠はない。また、ベタニアでイエスに香油を注いだ女との同一視も根拠がない。しかし、マリアがイエスに出会い、その深刻な不幸から救い出されたことを機縁として、イエスに従い仕える者になったことは確実である。彼女はイエスが行かれるところにはいつもついて行き、イエスと弟子たちの一行に「持ち物を出し合って奉仕した」(ルカ八・三)のである。もし彼女が売春婦であったとすれば、そのマリアに復活のイエスが最初に現れたことは、イエスの福音の質をますます明瞭に示す出来事となる。
 次の「小ヤコブとヨセの母のマリア」は、ヨハネ福音書(一九・二五)があげている「クロパの妻マリア」のことであろう。もう一人の「サロメ」は、マタイ福音書(二七・五六)との平行関係から推察して、「ゼベダイの子ら(ヤコブとヨハネ)の母」ということになる。そしてヨハネ福音書(一九・二五)の記事から、このサロメはイエスの母マリアの姉妹と推定されるので、イエスとヤコブ・ヨハネは従兄弟の関係になる。
 この三人の女性たちについては、とくに「イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従い仕えた者たちである」と記されている。彼女たちはイエスのガリラヤでの宣教活動の間、いつもイエスと弟子たちの一行につき従い、その身辺の世話から経済的な必要まで、一行の活動を裏で支えたのである。表面には出ないが、イエスとその一行の働きは、このような女性たちの裏方の支えがなければ成り立たなかったのである。そして、彼女たちはイエスを信じ慕う一途な気持ちから、一緒にエルサレムに上り、イエスの最後の時まで一緒にいることを願い、事情が許す限りの距離から、イエスの死を見守ったのである。