市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第11講

第五節 地を継ぐ者

柔和な者

 マタイは「語録集Q」から受け取った三つの幸いの言葉の中に、マタイ独自の言葉を挿入しています。

 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。(五節)

 この句は七十人訳ギリシア語聖書の詩編三七編の中の一句「柔和な人々は地を継ぐ」(一一節)という表現をそのまま用いています。この詩編三七編は典型的な知恵の詩編で、信仰生活上の実践的な訓戒を集めた箴言集のような詩編です。このような詩編から引用しているところにも、マタイ版「幸いの言葉」の知恵文学的な傾向がうかがわれます。
 「柔和な」という形容詞はマタイ特愛の用語の一つです。この形容詞は新約聖書には四回用いられていますが、その中三回までマタイ福音書に出てきます。この箇所の他では、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(一一・二九)というお言葉と、イエスがろばの子に乗ってエルサレムにお入りになった時に、ゼカリヤの預言の成就として、イエスが「柔和な」方として描かれているところです(二一・五)。
 マタイが「柔和な」という語を用いるとき、どのような意味で用いていたかは、イエスの時代からマタイが福音書を書いた時代までのユダヤ人社会の背景の中で見ると、その特徴がよく浮かび上がってきます。
 この時期のパレスチナのユダヤ人社会は、ゼーロータイ(熱心党)の運動がだんだんと浸透し、神の支配をもたらすためには神の民が立ち上がり、武力を用いてでも異教徒であるローマの支配を覆さなければならないという気風が強くなっていました。その結果、ユダヤ戦争が起こり、七〇年にはエルサレムと神殿がローマ軍によって破壊されるという悲劇を招きます。
 そのような流れの中で、「敵を愛しなさい」とか、「悪人に手向かうな」というような精神に生きたイエスとその教団は、まったく特異な集団であったといえます。民族主義の宗教的熱気が高揚した時代に、ひたすら万民に対する無差別絶対の神の慈愛だけに信頼して、非暴力無抵抗の道を歩んだイエスとその民の姿を、マタイは「柔和な」という形容詞で描くのです。

地を受け継ぐ

 では、柔和な人々に約束されている「地を受け継ぐ」という幸いは、どのような意味でしょうか。 ここに用いられている《クレロノメオー》という動詞は、《クレロノミア》(相続財産)を受け継ぐ、相続するという意味の動詞です。このギリシア語とその背後にあるヘブライ語は、もちろん世俗的な遺産相続にも用いられる用語ですが、聖書では普通イスラエルが神の約束によってカナンの土地を与えられたことを指すのに用いられます。そして、バビロン捕囚を契機として、土地の約束は終末的に解釈されるようになり、ユダヤ教において、とくに黙示思想においては、終末的な救済と栄光にあずかることを指す用語になっていました。パウロもキリストにおける救済を語るときに、相続財産《クレロノミア》とか相続人《クレロノモス》とか相続する《クレロノメオー》という用語をよく用いています。
 マタイが「地を受け継ぐ」と言うとき、それは地上の領土の主権者となることを意味しているのでなく、終末的な神の支配にあずかることを意味していると理解すべきでしょう。それは、地上の領土を確保するという用法は新約聖書にはありませんし、マタイ自身もこの動詞を、「永遠の命を受け継ぐ」(一九・二九)とか、「御国を受け継ぐ」(二五・三四)という形で用いていることからも分かります。
 救済とか「神の支配」にあずかることを「地を受け継ぐ」と表現するところに、マタイも「天の国」、「神の支配」を将来に顕現する終末的な事態と見ていることが示されています。このような終末的な見方は、新約聖書全体の基本的な姿勢であって、この箇所はマタイもその基本的な姿勢の枠の中にいることを示しているにすぎません。ただ、マタイの場合は、「柔和な者は地を継ぐ」という知恵文学的な箴言を使用することによって、御国にあずかる希望をもって生きる民は「柔和な」者でなければならないという、勧告ないし訓戒とする傾向が見られることになります。

貧しい者と柔和な者

 ところで、先に見ましたように、本来イエスは「貧しい者」の幸いを語られ、貧しい者の具体的な描写として「泣いている者」、「飢えている者」という表現を並行して用いられたと見ることができますが、マタイがその中に「柔和な者」という句を入れた理由ないし動機について、もうすこし考察してみましょう。
 イエスを信じて従った人々の中で、この福音書の著者をはじめ、ユダヤ人たちは当然自分たちの祈りの書として「詩編」に親しんでいました。この「詩編」には、力ある者たちから苦しめられ、ただ神の助けを叫び求めるほかない「貧しい」人々の祈りが、実に多く出てきます(計四二回)。イエスの「貧しい人々は幸いである」というお言葉を聴いたユダヤ人は、まず何よりも「詩編」の中の「貧しい者」の姿を思い描いたはずです。
 ところで、「貧しい人々」はヘブライ語聖書では《アナウィーム》とか《エビオーン》という語で表現されていますが、七十人訳ギリシア語聖書では本来「貧しい」という意味の《プトーコス》や《ペネース》を当てるだけでなく、その内容を汲んで別の用語で訳すことがあります。マタイが用いた詩編三七編一一節がその一例です。ここでは、ヘブライ語の《アナウィーム》(貧しい人々)が《プラエイス》(柔和な人々)というギリシア語で訳されています。新共同訳はヘブライ語聖書からの翻訳ですから、「貧しい人は地を継ぐ」と訳していますが、ギリシア語聖書では「柔和な者は地を継ぐ」となっているのです(協会訳はギリシア語訳に従って「柔和な人たち」と訳しています)。
 マタイは聖書に詳しいユダヤ人学者として、ヘブライ語聖書にも深く通じていたはずです。彼はイエスの「貧しい者は幸いである」というお言葉を思いめぐらし、詩編の「貧しい者」の姿と祈りを思い起こしたと考えてよいでしょう。そして、ギリシア語でこの福音書を書くとき、数多くある「貧しい者」の姿と祈りの中から三七編一一節の一句を選んで、イエスの語録集Qにある「幸いの言葉」に組み入れたところに、マタイの洞察の深さと信仰上の傾向がうかがわれます。
 まず、「地を継ぐ」という表現がユダヤ教においてすでに終末的な意味で用いられており、「御国を受け継ぐ」という「幸いの言葉」の主題にふさわしいことが、この詩編の言葉が選ばれた動機として考えられます。しかし、この詩編の句において「貧しい者」を指すのに「柔和な者」というギリシア語が用いられていることが、マタイの意図にぴったりであったことが主な動機ではないかと思います。
 先にも見ましたように、「柔和な」という形容詞はほとんどマタイだけが用いている用語です。それを地上のイエスを描く形容詞として用いているのはマタイだけです。この事実は、イエスご自身にも、イエスに従う弟子にも、「柔和」が欠くことのできない資質として、マタイが重視していることを示しています。
 「柔和な者」というのは、ここで見たように、「貧しい者」の訳であるという翻訳の経緯が示していますように、「貧しい者」の在り方を描く表現の一つです。「貧しい者」は自分の側に価値あるものを何も持っていない者のことです。自分を支えるものも守るものも何もないので、ただ神の助けに縋るほかない者です。そのような「貧しい者」の在り方を、自分の力で自分の思いを貫く「富める者」、「力ある者」と対比して描くとき、「柔和な者」と語られるのです。

愛の柔和さ

 この「柔和な者」の姿は、時代の背景の中に置いて見ると、具体的な意味が見えてきます。先にも簡単に触れましたように、イエスからマタイの時代のユダヤ人には、律法を完全に実行して、神だけを王とする神の民となるためには、異教徒ローマ人の支配を覆すために武力をもって立ち上がらなければならないという、ゼーロータイ(熱心党)の思想の影響が深まっていました。神が終末的な支配を実現してくださるためには、神の民が命がけで戦わなければならない、その時はじめて神が奇跡的な力をもって介入し、地上に支配を打ち立ててくださることができるのだ、という信念が広まっていました。その中で、「悪しき者に手向かうな」とか、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」とか、「敵を愛しなさい」と説かれたイエス、またその教えに従って生きた弟子たちは、全く逆の道を行くことになったわけです。事実、ユダヤ戦争の末期にはゼーロータイ指導者が、武器をとって戦おうとしないイエスの弟子たちを弾圧処刑したと伝えられています。マタイは、このようなイエスと弟子たちの姿を「柔和な」という語で指して、神の国を継ぐ者は「柔和な者」でなければならないと説くのです。
 イエスがこのような非暴力無抵抗を説かれる背後には、父なる神の絶対無条件の恩恵の宣教があります。すでに「幸いの言葉」の講解で見ましたように、イエスが説かれた「御国の福音」の核心は、父なる神の無条件絶対の恩恵の支配の告知にあります。これをイエスご自身の言葉で要約すれば、「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」(ルカ六・三六)となります。人間がどれだけ神の定めを守っているか、どれだけ立派な生活をしているか、どのような集団に属しているか、どれだけの価値や資格があるか、いっさい無関係に、神はわたしたちを神の子として受け入れてくださるのです。これが神の恩恵であり慈愛です。人間はこの神の慈愛によって存在し生きるものですから、隣人に対しても同じ慈愛をもって生きなければならないのです。相手が自分に対してどのような関係にあるかに関わりなく、たとえ敵であっても、慈愛深くなければならないのです。
 この慈愛が「柔和さ」の源泉です。「柔和さ」は慈愛の一つの現れ方です。パウロも聖霊の実としての愛の諸相を語るとき、その中に「柔和」を上げています(ガラテヤ五・二二〜二三)。慈愛は力づくで自分の主張を押し通すことはありません。苦しみや損失を自分の方に引き受けてでも、相手のために祝福を祈ります。このような柔和さが、イエスと同じ霊によって生きる者たちの性格となります。
 激しい自己主張がぶつかり合う世界で、このような「柔和な者」は損ばかりして、生きていけないではないかと危惧する思いが、わたしたちの心の中にあります。たしかに、一見そう見えます。しかし、長い目で見ますと、歴史を形成するのは愛のゆえに自己を捨てる人々の群れなのです。地に広がるのはライオンではなく羊の群れなのです。「地を受け継ぐ」のは「柔和な人たち」なのです。苦難の中で歴史を担い、最後に神の永遠の支配にあずかるのは「柔和な人たち」なのです。