市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第12講

第六節 憐れみ深い者

 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」。(五章七節)

ルカとマタイ

 マタイは「幸いの言葉」の後半部(第五から第八)の最初に、この重要な御言葉を置きます。憐れみ深くあることを求める勧告とか訓戒は、旧約聖書にもユダヤ教文学にも多くありますから、憐れみ深くあれと弟子たちに勧める言葉は、それ自体としてはとくに珍しいものではありません。ここでは、憐れみ深くあることを求める御言葉が、マタイではこのような形で「幸いの言葉」に組み入れられていることの意義が問題になります。
 他の「幸いの言葉」と同じように、ここでも憐れみ深い人々が幸いであるのは、その人たちは「憐れみを受ける」ようになるからだと、未来形の動詞(憐れまれるであろう)で根拠づけられています。この未来形は本来、「幸いの言葉」全体の終末論的な枠組みから見て、将来の裁きの場において神の憐れみを受けるようになることを指していると見ることができます。聖書では普通、受動態は神の行為を表現する形ですから、「憐れまれるであろう」という形は「神の憐れみを受けるようになる」という意味となります。この「幸いの言葉」は仏教の説話にある「蜘蛛の糸」という物語を連想させます。
 ところで、ルカ福音書(六・二〇〜二六)の「幸いの言葉」には、この御言葉はありません。しかしルカは、それに続く段落(六・二七〜三六)で「敵を愛しなさい」という、もっともイエスらしい教えをまとめた部分の結論として、次のイエスの御言葉を伝えています。

 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。(六・三六)

 この御言葉をマタイの「幸いの言葉」第五と較べてみますと、「憐れみ深い」者であれと求めている点で、同じ内容の御言葉であることがすぐに分かります。ギリシア語原文を比較しますと、ルカとマタイとでは違う単語が用いられています。マタイは《エレオス》(憐れみ)という語の形容詞形と動詞形を用いて表現し、ルカは《オイクティルメノーン》という形容詞を用いています。しかし、この二つの系統の用語は、ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)で、「慈愛」とか「憐れみ」を意味するヘブライ語の訳語として、まったく同じように使用されていますので、同じ意味の単語として扱ってもよいと考えられます。新共同訳がルカとマタイで「憐れみ深い」という同じ訳語を用いて訳しているのも正当であると言えます。わたしは個人的には「憐れみ」より「慈愛」という言葉の方がよいのではないかと感じています。
 ところが、ルカとマタイでは思想の流れが逆です。ルカでは、父が憐れみ深い方であるという現実が先行していて、そのような方を父としているあなたがたも憐れみ深い者となるように勧めています。一方マタイは、まず弟子たちに憐れみ深くあることを求め、そうすれば神から憐れみを受けるようになると約束しています。同じ「憐れみ」という内容を扱っていながら、どうしてこのように逆の流れになるのでしょうか。相反するように見えるこの二つの面は、どのように関わっているのでしょうか。
 もう一つ注目すべき点は、マタイも「敵を愛しなさい」という教えを伝える段落の最後に、ルカと同じ文脈の中で同じ形の結論を置いています。しかし、そこでは別の用語が用いられています。

 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。(五・四八)。

 このように、ルカでは「憐れみ深い」という語が用いられているところで、マタイは「完全な」という形容詞を用いています。
 おそらく「語録集Q」にはルカの形で伝えられていたのを、マタイが自分の目的に合わせて、用語を変えて引用したものと考えられます。そのさいのマタイの動機なり目的は、比較的容易に推定できます。マタイは、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(五・二〇)という前置きをつけて、イエスの弟子が守るべき新しい教えをまとめています。それは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という六つの対立命題の形で述べられています。その最後に「敵を愛しなさい」という戒めが来るのです。その段落の結論の言葉は、同時に六つの対立命題で述べられたイエスの新しい教えの結びの言葉にもなるわけですから、「憐れみ深い」という特定の意味の用語ではなく、もっと包括的な意味の用語がふさわしくなります。マタイはこの部分の序文(五・一七〜二〇)に対応する結びとして、よりふさわしい《テレイオス》(完全な)という語を選んで用いたと考えられます。
 そうすると、「語録集Q」にある「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という御言葉は、どこか他の所に入れなければなりません。このような大切な御言葉を放棄するわけにはいきません。そこで、マタイはこの御言葉を「幸いの言葉」に組み入れます。そのさい当然、「幸いの言葉」の形式に合わせて編集されることになります。マタイの「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という文章は、ルカの「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という言葉の変形であると見られます。
 これまでにも見てきましたように、マタイの「幸いの言葉」は勧告ないし訓戒としての性格が強いものですから、「憐れみ深い人々は幸いである」というのは、あなたがは「憐れみ深くあれ」と求めていることになり、ルカが伝えるイエスの御言葉と同じになります。しかし、ルカでは父が憐れみ深い方であることが根拠として先行していたのに、マタイでは神からの憐れみが約束として後続しているという違いがあります。この違いは真剣に考慮されなければなりません。

父の恩恵

 まず注目すべきことは、マタイも神の憐れみが先行していることを十分知っていて、それを明確に語っているという事実です。マタイ福音書一八章(二一〜三五節)に「仲間を赦さない家来」のたとえがあります。王が家来に貸した金の決済をしようとした時、大金を借りていた家来が返済できないので猶予を乞います。王は憐れに思ってその家来の借金を赦してやります。ところが、その家来は僅かの金を貸していた仲間に出会い、首をしめて返済を迫り、猶予を乞う仲間を赦さないで訴え牢に入れてしまいます。これを聞いた王は怒って、その家来を借金全額を返すまで牢に投じます。その時、王は家来にこう言っています。

 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。(一八・三三)

 このたとえでは明らかに王の憐れみが先行しています。家来は王の憐れみを受けているのですから、仲間に憐れみを示さなければならないのです。この家来は仲間への憐れみの心を閉ざすことによって、王の憐れみの場から自分を締め出してしまったのです。このたとえは、憐れみの心だけが憐れみの場に生きることができるのだ、という真理を分かりやすく語っています。同時に、王の憐れみが先行していること、すなわち、わたしたちはすでに神の憐れみの場にいるのであるから、仲間に対して憐れみ深くあることが求められるのだ、という真理が語られているわけです。この王の言葉は、ルカ福音書の「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と同じであることに気付きます。
 このことは「主の祈り」にある罪の赦しの祈りにも現れています。イエスは弟子たちにこう祈るように教えられました。

 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。(六・一二)

この祈りでも一見、わたしたちが仲間を赦すことが先行していて、それを根拠にして自分の罪が赦されることを求めているように見えますが、決してそうではありません。この「仲間を赦さない家来」のたとえが語っているように、これはすでに赦しの場にいる者の祈りなのです。現在の自分を棚に上げて将来の赦しを期待して願っている祈りではなく、現在すでに赦しの場にいる者の祈りなのです。終末の赦しが現在すでに地上の現実になっている点に、この祈りの独自性があるのです。
 わたしたちに対する神の憐れみと、わたしたちが仲間に対して示す憐れみとが不可分であることを語るこのたとえは、イエスが宣べ伝えられた「御国《バシレイア》の福音」の理解にとってきわめて重要です。イエスが宣べ伝えられた「神の支配《バシレイア》」とは「恩恵の支配」のことである、とわたしは理解しています。そして、「恩恵の支配」を告げ知らせるイエスの言葉の頂点に、この「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という御言葉が立っている、とわたしは考えています。そのことを、ここでもうすこし詳しく見ておきたいと思います。

神の支配

 当時のイスラエルにおいては、「神の支配」は二つの面で理解されていました。一つは「律法の支配」という面です。神は王としてその民に律法を授けておられるのだから、民がその律法を守り行うときに「神の支配」が実現するという理解です。もう一つは、全世界に打ち立てられる将来の「神の支配」という面です。今イスラエルは異教の民の支配下にあるが、やがて神はその約束に従い、イスラエルを救って栄光の地位に上げ、イスラエルを通して世界を支配されるという終末的待望です。ところで、この将来世界に実現される神の支配も、イスラエルの神がその律法の支配を世界に確立されることですから、この二つの面は結局「律法の支配」という根本原理に帰するとも言えます。事実、将来の神の支配を強く待望する黙示思想において、律法への熱情がもっとも激しく燃え上がっています。
 このような意味での「神の支配」の理解が広く行われている中で、イエスはまったく別の原理による「神の支配」を宣べ伝えられたのです。すなわち、恩恵の原理による神の支配です。イエスが体験され宣べ伝えられた「父」は、どのような人をも恩恵によって受け入れ、子としての交わりを与えてくださるのです。「恩恵によって」というのは、相手の資格や価値を条件としないということです。相手が自分に対して、また社会において、どのような立場や姿勢をとる者であっても、慈愛の心のゆえに無条件に受け入れ、交わりをもち、よくしていくことです。「相手の在り方と無関係に」という面を、「相手に絶する」という意味で「絶対」(この場合「対」とは相手の意)と呼ぶならば、恩恵とは「絶対・無条件に」慈愛を注ぐことです。慈愛とか憐れみには、本来そういう無条件な側面がありますが、とくに慈愛の絶対・無条件な姿に注目して語るとき、「恩恵」とか「恩寵」と呼ぶのだと言ってよいと思います。
 イエスの時代と状況においては、人間の価値や神の民の交わりに入る資格は律法が規準になっていました。律法を学び守り行う者が「義人」であり、神の民として神に受け入れられる資格のある者でした。それに対して、律法の知識がなく、また取税人とか遊女のように職業上、律法を守ることができない者は「罪人(つみびと)」と呼ばれ、神の民としての資格のない者と軽蔑され、交わりから排除されたのです。イエスがこのような「罪人(つみびと)」と呼ばれる人々と食卓を共にされ、「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである」(九・一三)と言われるとき、「恩恵の支配」がもっとも端的に表現されているのです。この「罪人(つみびと)」を、イエスは「貧しい者」と呼んで、「天の国はそのような人たちのものである」と祝福されたのです(第一章第三節「貧しい者」を参照)。

恩恵の場

 このように、律法の規準からすると資格のない者を、無条件に受け入れ、子としての交わりを与えてくださるという「父」の慈愛または憐れみを、イエスは教えの言葉や譬を用いて、また力ある働きを通して宣べ伝えていかれたのです。このような、律法の原理から見た価値や資格を吹き飛ばす圧倒的な「恩恵の支配」の宣教に対して、「律法の支配」の原理に立つ者たちからは当然激しい反対が起こります。もし律法をどれだけ守るかが無意味であるならば、律法の存在そのものが無意味になるではないか、それは律法が神から与えられたものであることを否定する冒?ではないか、という批判が起こります。
 このような激しい反対は、イエスに対してだけではなく、律法の業によらず信仰によって救われるのだと主張したパウロに対しても、同じように起こりました。日本の宗教史にも同じことが起こっています。どのように罪業が深い人間でも弥陀の慈悲によって、その慈悲に帰依する信仰によって救われるのだと主張した法然や親鸞に対して、戒律を守ることを重視する既成教団から激しい批判が出て、法然や親鸞は流罪に処せられることになります。このように、「恩恵の支配」に対しては、いつも「律法の支配」の原理に立つ側からの激しい批判と迫害が起こるのです。二つの原理は根本的に対立するのです。
 「恩恵の支配」の原理は、反対者が批判するように、人が神の意志を行おうとする努力を無意味にしてしまうのでしょうか。決してそうではありません。「恩恵の支配」は、もっとも激しく、もっともラディカルに神の意志の実行を求めているのです。それが「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という御言葉です。父が相手の資格や価値を問わないで無条件に受け入れ愛しておられるように、あなたがたも父と同じ慈愛をもって、相手の資格や価値や立場を問わないで、無条件に受け入れて愛しなさい、たとえ敵であっても愛しなさい、と求めているのです。これは、人間の常識的なモラルをはるかに超える高い要求です。神のレヴェルの慈愛に生きることを求めているのです。
 マタイは、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という「幸いの言葉」と、「仲間を赦さない家来」のたとえで、同じことを教えているのです。マタイも神の恩恵が先行していることを十分承知しています。その上で、受けた恩恵または慈愛と同じ質の慈愛で生きることをしなければ、神の恩恵の場にとどまることはできないのだと言っているのです。憐れみ深くなければ、神の憐れみを受けることはできないという、恩恵の場の一つの側面を語っているのです。
 神はその憐れみによって罪人(つみびと)を無条件に受け入れてくださっているという「恩恵の支配」の宣教は、その恩恵を受ける者は同じ慈愛に生きるようにという求めと一体なのです。恩恵の場はこの二つの側面をもつ場であり、二つの方向の力が一つになって構成される場なのです。どちらの一つが欠けても成り立たない場なのです。二つは一体ですから、どちらが先行するのかという問いは、実は無意味なのです。
 「恩恵の支配」というのは、人間がどのように罪を犯していても無関係に救われるというが、そのような身勝手な、虫のよい考え方はとうてい受け入れられない、それでは罪を犯さないようという精進は無意味になるではないか、と反対者は批判します。そのような批判をする人は、激しい神の要求を含む恩恵の場に身を置いていないのです。あくまで自分の価値を原理とする場に身を置いて、外から自分の論理で批判しているにすぎません。もし人が神の恩恵の場に入るならば、神の絶対・無条件の慈愛の前に、そのような絶対の慈愛に生きられない自分の罪に気づき、自己の誇りが打ち砕かれて、神の恩恵によらなければ救いはないことに気づくはずです。
 神との関わりにおいて人間が立ちうる場は二つあります。一つは自己の価値に立つ場です。そこでは、宗教とか道徳(イスラエルではユダヤ教律法)を守る者としての自分の価値を神との関わりの根拠にします。そこでは自分の価値を規準にして他者を裁き差別します。もう一つは恩恵の場です。ここでは自己の価値は否定され、自己は無となります。そこでは、何の価値も資格もない自分を受け入れて愛してくださっている神の慈愛だけが圧倒的に支配していますので、同じ慈愛に生きようとする願いだけが価値あるものです。そこでは、自分は無ですから、自分と比べて他者を蔑んで差別したり、妬んだり、裁いたり、怨んだりすることはありません。
 イエスは父の恩恵を宣べ伝え、すべての人を恩恵の場に入るように招いておられるのです。それは、父の憐れみを受けて、すべての人が憐れみ深い者となり、そのことによって神の憐れみが地上の現実となるように、すなわち「神の支配」が実現するように、世界に向かって呼びかけておられるのです。
 「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受け、その人たちの中に天の国(神の支配)が成就する」。