市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第21講

第四節 心の中での姦淫

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。

(五・二七〜二八)

モーセ律法における姦淫

 「姦淫するな」という戒めは、モーセの十戒の中の一つです。これは「殺すな」という掟と並んで、イスラエルの民にとって最も基本的な神の命令です。この戒めを破ることは、死罪をもって罰せられる重大な罪でした。姦淫の罪を犯した二人は男女共に死に定められました(レビ記二〇・一〇)。
 では、死をもって罰せられる姦淫とはどのような行為でしょうか。イスラエルにおいて姦淫というのは、「結婚している女性または婚約中の女性が夫以外の男性と性関係をもつこと」です。この定義からして、それ以外の性関係は、夫婦間以外の性関係でも、「姦淫」ではなかったのです。たとえば、妻のある男性が独身女性と性関係をもっても、それは姦淫ではありませんでした。それがレイプによる場合など、ケースによって罰則はありましたが、死罪となる「姦淫」ではなかったのです。とくに、相手の女性が奴隷の身分であるとか非ユダヤ教徒である場合は、金銭による補償ですんだようです。
 このように男女間の不公平がきわめて大きい律法の規定は、(周辺の古代オリエント諸民族と同じく)イスラエル社会が強い父系制の社会であったからです。イスラエル社会を構成する基盤である父系制家族において、妻が夫以外の男性の子を産むことは、夫の家系の存続を危うくし、イスラエル社会の基盤を傷つける行為でした。そのような行為は、たんに夫の権利を侵害したというだけでなく、イスラエルの民と契約された主ヤハウェに対する大罪として、(夫の告訴を待たず直ちに)イスラエルから取り除かれなければならないのです(申命記二二・二二)。
 イスラエルにおいては(周辺諸民族とは異なり)、預言者たちが民のヤハウェに対する背信を「姦淫」という比喩で非難したことが、イスラエルにおけるこの罪への嫌悪感を深めたという面があると思われます。とくにホセア、エレミア、エゼキエルというような預言者は、北王国イスラエルと南王国ユダの偶像礼拝を、契約の主ヤハウェに対する「姦淫」として厳しく非難しました(ホセア書一〜二章、エレミヤ書三章、エゼキエル書一六、二三章参照)。イスラエルはヤハウェから与えられた契約の上に存立しているのです。そのイスラエルがヤハウェ以外の神々を拝むことは、契約の与え手であるヤハウェに対する最も根本的な背信行為であり、イスラエルの存立そのものを脅かす行為となります。この契約宗教との類比で、結婚の契りに対する忠誠、とくに妻の夫に対する貞潔が、イスラエルでは特に重視されるようになったのではないかと考えられます。

モーセ律法の内面化

 このようにモーセ律法は姦淫を重大な罪として厳しく処罰しています。しかし、それはあくまで実際の姦淫の行為、すなわち男の側からすれば他人の妻と性関係を持つという行為だけに関わるものでした。それに対してイエスは心の中を問題にされます。

 「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。(五・二八)

 「みだらな思いで他人の妻を見る者」というのは、直訳しますと「彼女を(得ようと)欲情して他人の妻を見る者」となるでしょう。そのように見る者は、実際に彼女と性関係を持たなくても、「既に心の中でその女を犯した」、すなわち姦淫を犯したのであるというのです。これは先の殺人の場合と同じく、モーセ律法の戒めを外に表れた行為だけでなく、心の中にまで及ぼした「律法の内面化」という面があることは明らかです。しかし、イエスが求めておられるのはたんに律法の内面化だけでしょうか。
 「律法の内面化」であれば、それはすでにユダヤ教においても行われています。とくに後期の知恵文学には「みだらな目」が罪であることを語る言葉がでてきます(ヨブ記三一・一、シラ書二三・四など)。ラビたちの言葉にも、「女を(欲情的な)意図で注視する者は、彼女と一緒に寝る者のように見なされる」とか、「自分の目でもって婚姻を破る者は姦淫者と呼ばれる」というような言葉が多く出てきます。
 それと比べますと、マタイがここでファリサイ派ユダヤ教にまさる義として対立させているこの言葉は、その独自性を強調しようとすることにはかなり無理があります。「律法の内面化」という点では、この言葉はユダヤ教における律法の内面的理解とそれほど違わないことを認めざるをえません。男女関係についてのイエスの視点の独自性は、律法の内面化という面以外に求めなければなりません。それについては、次の対立命題で男女関係のもう一つの局面である離婚の問題を見た後に、まとめて取り扱うことにします。

「女」か「妻」か

 ところで、新共同訳で「他人の妻」と訳されている《ギュネー》というギリシア語は、女性一般を指す場合と「妻」を意味する場合とがあります。今まで多くの翻訳では、この語を女性一般を意味するものと理解して、「女」と訳してきました(協会訳も)。しかし、新共同訳が「他人の妻」と訳したことは、この語録の理解に重大な影響があります。新共同訳はこの語を「妻」の意味に理解したわけです。「他人の」という句はついていませんが、自分の妻については問題にならないのですから、当然「他人の」妻になるわけです。一語で表現すると、「人妻」と訳すと分かりやすいかもしれません。
 この《ギュネー》という語を「女」と訳しますと、この語録は「欲情をもって女を見るものは誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」となります。すなわち、男が性的欲求をもって女性を見ること自体が、神に対する大罪となるのです。しかし、このような理解は人間の自然の在り方に矛盾した、きわめて不自然な解釈と言わざるをえません。
 人間は男と女とに造られています。男性と女性はお互いに異性を求める存在として造られているのです。異性を求める欲求、すなわち性的欲求は人間の自然の欲求です。人間の深層にあるこの欲求によって、男女は互いに慕い、恋をし、一つに結ばれ、人間として生きる喜びを感じ、子孫を得て存続していくのです。もし、この異性を慕う心が直ちに罪であるというのであれば、それは人を男と女に造られた創造者の意図、あるいは「創造の秩序」に反する理解であると言えます。創造者は人を男と女とに造り、両者の結びつきによって生が充実し、子孫が増え広がることをよしとされたのです(創世記一・二七〜二八)。この理解に基づいて、ユダヤ教もキリスト教会も男女の結びつき、すなわち結婚を祝福してきました。それにも拘らず、その結びつきを求める心自体を罪とすることは、聖書理解における重大な矛盾です。
 もっとも、《ギュネー》を「女」と訳しても、「情欲をもって」という句を、情欲によって結婚関係以外の性関係を求めることと解釈すれば(この句に結婚関係以外のという限定を読み込むことは字句の上からは無理ですが)、この矛盾は回避することができるかもしれません。しかし、そう解釈することは実質的に《ギュネー》を「他人の妻」と理解することになります。マタイがユダヤ教的な環境でこの福音書を書いていることを考慮すると、この対立命題の思想もユダヤ教の「姦淫」概念の枠内で動いていると見られますので、モーセ律法の「姦淫」についての戒めを内面化したものと限定して、新共同訳のように「他人の妻」と訳すのがもっとも明快な訳であると考えられます。
 《ギュネー》を女性一般と理解することで(たとえばローマカトリック教会の標準の訳であるヴルガータも「妻」という語ではなく「女」という語で訳しています)、キリスト教会はその長い歴史の中で、この語録と悪戦苦闘してきました。一方で結婚を祝福しながら、他方で人間の自然の性的欲求を抑圧する傾向を避けることができませんでした。とくに、「山上の説教」を完全に実行しようと志す人々は、心の中で姦淫を犯さないためには異性を見ないことが最善であるとして、男女が別々に生活することを選びました。修道院制度が形成される要因の一つには、このような考え方があるようです。
 心の中で姦淫を犯さないためには異性を見ないことが最善であるという考え方は、すでに「みだらな目」の罪を知っていたユダヤ教にもありました。ラビたちは女性を危険な存在として避け、「敬虔な者は女性が近づくと目をつぶる。罪を犯すよりはつまづいて転ぶ方がましだ」と言い、女性には挨拶もしない、ましてや握手もしないと言っています。おそらくマタイはこのようなユダヤ教における内面化を知っていたのでしょう。イエスの弟子が行う義がファリサイ派ユダヤ教の敬虔にまさることを強調するために、マタイはその実行の厳格さで差をつけようとして、次節以下の「目をえぐり出せ、手を切り落とせ」という強い表現をここに置いたと見られます。

右の目、右の手

 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。(五・二九〜三〇)

 マタイが資料として用いたマルコ福音書には、これと並行する表現が別の文脈で用いられています(マルコ九・四二〜四八)。マルコ福音書では、片手を切り捨てよとか、片目をえぐり出せという表現は、イエスを信じる小さい者をつまずかせる者に対する厳しい警告(マルコ九・四二)の後に続いています。マタイもマルコに従って同じ文脈、ほぼ同じ用語で、手足を切り捨て目をえぐり出せという表現を用いています(一八・六〜九)。ところがマタイは、この表現を心の中での姦淫を指摘する言葉の後にも置くのです。
 五章二九〜三〇節の言葉遣いは、並行するマルコ福音書およびそれに従っている一八章六〜九節の言葉遣いと僅かながら違っています。たとえば、目や手に「右の」という形容詞がついていることなどです。おそらくマタイはマルコとは別の言葉伝承を持っていたのでしょう。それがQ伝承に含まれていたかどうかは、ルカに並行箇所がないので確定できません。マタイが特殊資料を用いた可能性もあります。
 手を切り捨て目をえぐり出せという言葉は、本来つまずかせること(信仰を失わせることや罪を犯すこと)一般についての厳しい警告の表現であったのですが、それをマタイはとくに姦淫に関する対立命題の中に用いるのです。「(女性を)見る者は」に関連して、見る器官としての目が取り上げられたわけです(それでマルコの順序とは異なり、手よりも先に目がきます)。マタイがこの言葉を加えたのは、姦淫の罪の内面化(心の中での姦淫)だけでは、ファリサイ派ユダヤ教との対立点がそれほど明確でないと感じて、その内面的な罪への抵抗の真剣さで差をつけようとしたためではないかと考えられます。
 教会はこの言葉を文字通り実行すべき要求と受け取ったのではありません。もしそうしたのであれば、教会は片目片手のない男で溢れたことでしょう。また、片目片手を捨てたからといって、残った目で心の中の姦淫を犯さなくなる保証はありません。当然、この言葉は象徴的に理解されてきました。すなわち、心の中で姦淫の罪を犯さないために、イエスの弟子は自分にとってもっとも価値あるものも放棄する覚悟が必要である、という理解です。
 この理解は、目や手に「右の」という形容詞がついていることからも補強されます。女性を見て心に欲情を起こすのは、右の目も左の目も区別はありません。それにも拘らず「右の」目と特定されるのは、ユダヤ教の伝統では「右」がより一層価値の高い側とされていたからです。「右の目、右の手」というのは、人間にとって必要で大切な二つのものの中で一層価値のある方を意味します。すなわち最も価値のあるものを意味します。それをも切り捨てる覚悟が、ここで求められているのです。
 先に見ましたように、この対立命題で《ギュネー》を女性一般を指すと理解することによって、キリスト教会は人間の自然の性的欲求を抑圧する傾向を示してきました。その圧力は、この目をえぐり手を切り捨てよという言葉の付加で倍加しました。誰がこのような圧力に耐えることができるでしょうか。このような要求は人間性に反することではないでしょうか。この問題は、次の離婚についての対立命題を見た後、福音における男女関係全般を扱うさいに取り上げます。

姦淫としての離婚

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな行いの場合は別として、妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。(五・三一〜三二 一部私訳)

 この箇所は、「しかし、わたしは言っておく」という句が示している通り、「対立命題」の形をしています。ただ、この対立命題が独立のものか、「姦淫するな」に対立する命題の一部なのかについては議論があります。すなわち、これを独立の対立命題とは見ないで、情欲をもって他人の妻を見る者が姦淫を犯す者であるだけでなく、合法的に妻を離縁する者も姦淫を犯す者であるとして、両者をまとめて「姦淫するな」の対立命題と理解することも可能です。他の対立命題がみな「あなたがたも聞いているとおり」という定型句で始まっているのに、この箇所だけはそれが欠けているという形式の上からも、また、モーセ律法では姦淫とならないことを姦淫としているという内容の上からも、「姦淫するな」に関する一つの対立命題として扱う方が適切であると考えられます(協会訳を初め多くの翻訳が両方を一つの段落にまとめています)。いずれにしても、両方とも男女関係の基本的な局面に関わる事柄ですので、本講ではまとめて取り扱います。

ユダヤ教における離婚

 再婚ができない場合を規定した申命記法典(二四・一〜四)に次のような一文があります。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。

 モーセ律法の中のこの一文は、もともとは法文ではなく、特殊な場合の再婚を禁じた法文の前提として、当時行われていた離婚の慣習を取り上げたものです。しかし、この一文は律法学者たちによって、離縁状を与えれば夫が妻を離縁することを認めた法文として扱われ、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という命令となったのです。離縁状は離縁された女性が再婚できることを保証するもので、この命令は社会的に弱い立場の離婚女性を保護するためのものであるとされてきました。しかし、実際には妻を取り替えたい男性の身勝手の道具になってしまっていたようです。
 モーセ律法が離婚を認めていることについてはラビたちの間に異論はありませんでした。彼らの議論は離婚理由とされる「恥ずべきこと」に集中しました。ヒレルに従う学派はこの句を広く解釈して、子がないこと、祭儀上の不浄を受けたこと、料理など家事がうまくできないことなどを「恥ずべきこと」に含めて、そのような理由があれば離婚できるとしました。それに対してシャンマイに従う学派は厳格に解釈して、「恥ずべきこと」を性的な不品行に限りました。このように離婚を認めるユダヤ教に対して、マタイは離婚をただちに姦淫とするイエスの厳しい言葉を対置させます。

離婚に関する福音書の記事

 共観福音書の著者は、イエスは離婚をただちに姦淫とする厳しい発言をされたとしています。しかし、イエスの言葉を伝える伝承とそれを記録した共観福音書のそれぞれの記事は微妙に違っていて、正確なイエスの言葉を復元することはきわめて困難です。まず三つの共観福音書の離婚に関する記事を並べて比べてみます。

 マルコ福音書
 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。(一〇・一一〜一二)

マタイ福音書 
 「みだらな行いの場合は別として、妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。(五・三二)
 「みだらな行いの場合は別として、妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」。(一九・九)

ルカ福音書
 「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」。(ルカ一六・一八)

 これらの箇所で「姦通の罪を犯す」と訳されている動詞は、「姦淫する」と同じ動詞であって違いはありません。これらの四つの語録の微妙な相違を無視して、共通する核心だけを取り出すと、「離婚することは姦淫である」ということになります。この比較において、マタイが「みだらな行いの場合は別として」という例外規定を付け加えていることが目立ちます。マタイだけが、「みだらな行い」の場合は離婚しても姦淫にはならないとしているのです。この句は明らかにマタイによって加えられたものと見られます。

 ここで四つの語録の伝承史的関連やその意味の違いを詳しく述べることはできませんが、要点だけを簡単に見ておきましょう。ルカとマタイの記事は「語録資料Q」から取られていると見られますが、この場合もルカの方がQの言葉を忠実に伝えていると考えられます。両方とも男の行為だけを問題にしています(イスラエルは男性中心の社会でした)。マタイ五章の語録は妻を離縁した男が姦淫者とされずに、「その女に姦通の罪を犯させることになる」とされていることが注目されます。古代社会では女性が自立して生活することはまず不可能でしたから、離縁された女性は再婚せざるをえなかったのです。離縁状によって離婚と再婚が合法とされていても、実質的には再婚によって女性は本来の夫以外の男性と性関係をもつことになり、「姦通の罪を犯す」ことになるという論理です。「離縁された女を妻にする者」も、姦淫の女の相手方として「姦通の罪を犯すことになる」のです。このような論理は、姦淫を既婚女性についてだけ認めるユダヤ教世界での発想です。マタイ五章の語録はもっとも強くユダヤ教の姦淫の概念の枠の中で動いていると見られます。
 それに対してマルコは、夫が妻を離縁する場合だけでなく、妻が夫を離縁して他の男性と結婚することを並べて姦淫としています。ユダヤ教世界では妻の離婚権は認められていませんから、これは妻の離婚権が認められていたヘレニズム世界で成立した伝承であると見られます。夫が妻を離縁する場合も、夫が再婚すれば「妻に対して姦通の罪を犯すことになる」としているのは、ユダヤ教世界では考えられません。ユダヤ教においては「姦淫」はあくまで妻が夫に対して犯す罪であるからです。

マタイの例外規定

 マタイは、離婚を姦淫として非難するイエスの言葉に、「みだらな行いの場合は別として」という重大な例外規定を付けています。では、この「みだらな行い」とは何を指すのでしょうか。原語では《ポルネイア》となっています。《ポルネイア》の場合は、離婚しても姦淫には当たらないとしているのです。そして、この《ポルネイア》について、ユダヤ教のラビたちが離婚理由の「恥ずべきこと」について議論したように、教会史の中で聖書学者たちの議論が山のように積み上げられてきました。
 《ポルネイア》というギリシア語は、現代よく用いられる「ポルノ」の語源となる語で、本来性的な非行、すなわちある社会で不法とされている性的関係や行為一般を指します。パウロも手紙の中で《ポルネイア》を厳しく非難しています。協会訳は一貫してこのギリシア語を「不品行」と訳し、新共同訳は「みだらな行い」と訳しています。新共同訳の訳語をマタイ福音書のこの箇所でも貫きますと、「みだらな行いの場合は別にして」となるはずです。ここでは既婚女性について語られているのですから、彼女の「みだらな行い」《ポルネイア》は実質的には不貞とか姦淫となります。妻に不貞行為がある場合には、夫は妻を離縁しても姦淫には当たらないとするわけです。この立場は、離婚に関するシャンマイ派の立場に近いものになります。
 ところが、新共同訳はここだけは《ポルネイア》を「不法な結婚」と訳しています。これは、近親結婚などの場合のように結婚そのものが初めから不法な場合には、その結婚を解消することができる(または解消すべきである)が、それ以外の場合は一切離婚を認めないとする解釈に立っています。この解釈はカトリック教会のもので、新共同訳は離婚問題ではカトリック教会の強硬な態度に引きずられた感が否めません。
 《ポルネイア》をどう解釈するにせよ、離婚についてのイエスの言葉に例外規定を付けた点が重要です。おそらくマタイは、自分の共同体の状況を念頭において、イエスの言葉を実際的なものにするために、この例外規定をつけたと考えられます。わたしたちにとって重要なことは、イエスは離婚について、ひいてはその背後にある男女関係の在り方そのものについて、どう発言しておられるかということです。

神が結び合わせてくださるもの

 マルコ福音書一〇章(二〜一二節)に、離婚についてのイエスとファリサイ派律法学者たちの論争が伝えられています。この記事の背後には、離婚を認めないイエスの弟子集団と、離婚はモーセ律法で認められているとするユダヤ教(あるいは一部のユダヤ人キリスト教徒)との間の論争があると見てよいでしょう。ファリサイ派の人々(すなわちユダヤ教側)は、モーセ律法は離縁状を書いて離縁することを許している、すなわち、神は離婚を認めておられると主張します。それに対してイエスは、そのような律法の規定は人間の「心のかたくなさに向かって」(直訳)、弱い女性の立場をすこしでも守るために与えられたものであって、本来の男女の在り方を規定する神の定めではないとされます。
 イエスは、創世記の創造の記事を引用して、神が人を男と女に造られたのであるから、人は父母を離れてその妻と結ばれ、「二人は一体となる」ことが創造の秩序であり、創造者なる神の働きであるとされます。そして、結論として「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と断定されます。このお言葉が、結婚に関して、ひいては男女関係の根本について、イエスがされた発言の核心です。
 マタイ(一九・三〜一二)もマルコの記事をそのまま受け入れています。議論の順序はすこし違いますが、内容は同じです。ただ、マルコでは妻を離縁すること自体が合法かどうかが問われていたのに対して、マタイでは「何か理由があれば」離縁は合法かという形で問われ、「みだらな行いの場合は別として」離縁することは許されないという答で終わっているので、離婚理由を厳しく制限する立場を表明する記事として理解される可能性があります。マタイの記事においても、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というイエスのお言葉が、この記事の核心であることを見落としてはなりません。

律法の場と恩恵の場

 このように離婚を全面的に否定しておられると思われるイエスのお言葉を聞いて、弟子たちは戸惑います。弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言っています(マタイ一九・一〇)。マルコでは、「家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた」とされています。ルカはマルコに従って福音書を書きながら、この離婚に関する記事全体を省略しています。このような取扱い方に、そして離婚が認められる例外規定に関する教会史上の山のような議論に、イエスの離婚否定の言葉の前に当惑している弟子たち(教団)の姿が浮かび上がります。
 弟子たちの困惑の理由は、大きくまとめると二つあると考えられます。一つは、イエスの離婚否定はモーセ律法を否定または無視していることです。これはユダヤ人である弟子たちには深刻な困惑です。もう一つは、人間の現実を無視していることです。いがみ合うしかないような夫婦が、離婚を許されないで生涯地獄の苦しみを続けるという場合は多くあります。弟子ならずとも、「夫婦の間柄がそんなものなら、すなわち、一旦結婚すれば絶対に別れることが許されないのなら、妻を迎えない方がましです」と言いたくなります。
 この困惑を乗り越える方向が、次のイエスのお言葉に示唆されています。弟子たちの困惑に対して、イエスは言われます。

 「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」。(一九・一一)

 マタイ福音書一九章一一〜一二節の語録は、もともと独立の語録であって、「この言葉」は後に出てくる「天の国のために結婚しない者もいる」という言葉を指しており、独身で神に仕える生涯について語られているという解釈もあります。しかし、本講解ではあくまで現在の文脈の中で、すなわち、困惑する弟子たちに対して語られたお言葉として、先行する「妻を離縁する者は、姦通の罪を犯すことになる」という言葉を指すと解釈して講解を進めます。

 このお言葉は、イエスの発言がどのような場に成立するのかを指し示しています。「この言葉」、すなわち、ここで見たような離婚に関するイエスの発言が受け入れられ成立するのは、「恵まれた者たち」の場だけです。「恵まれた者」と訳されている箇所は、ギリシア語原文では「与えられた者」となっています。そのような言葉を生きることができる状況とか能力とか賜物を与えられた者という意味で、「恵まれた者」と訳してよいでしょう。ここでの用語からだけでなく、イエスの宣教全体の質からして、離婚に関するイエスの発言が恩恵の場において成立していることを理解することは重要です。
 同じようにモーセの書を引用しながら、ユダヤ教は離婚を合法的として認め、イエスは二人を一体とされる神の働きへの反抗として否定されます。この違いはどこから来るのでしょうか。それは、ユダヤ教が土台とする律法が成立している場と、イエスが生きておられる場との違いから来ます。律法は「人間の心のかたくなさに向かって」定められたものであり、自我性という人間本性の場に成立しています。それに対して、イエスは神の恩恵が支配している場に生き、そこから発言しておられるのです。ユダヤ教においては離婚は合法かどうかが問題になります。それに対してイエスは、神の恩恵の行為に対する人間の応答を問題にされます。
 モーセ律法も現代の法律も、人間の心はかたくなに自己を主張してやまないものであるから、一緒に暮らすことがお互いの不幸になるという状況が生じうることを認めて、その場合に弱い立場の者(おもに女性と子供)を保護し、社会の秩序を維持するために、離婚に関する規定を細かく定めるようになります。それが、法律というものは「人の心のかたくなさに向かって」書かれていると言われる由縁です。ユダヤ教はモーセ律法を行うことによって神との関わりを確立しようとする立場(律法主義)ですから、当然律法に書かれている離婚を認める結果になります。
 それに対してイエスは、「幸いの言葉」の講解で初めから繰り返し述べてきましたように、「恩恵の支配」を宣べ伝えられるのです。「恩恵」とは、神が絶対無条件の愛をもって、反抗し律法を行うことができない無資格の人間を受け入れてくださること(赦し)であり、「恩恵の支配」とは、そのような圧倒的な神の恩恵によって成立する神と人との交わりの現実です。イエスが語り出される「御国の福音」(マタイ福音書五〜七章)は、このような「恩恵の支配」の宣言であるわけです。ここで問題になっている男女関係も、イエスは「恩恵の支配」の観点から見ておられるのです。
 人を男と女とに造られた神は、「二人が一体となる」ことによって生きるように定められました。そして、その創造の定めを実現するように恩恵をもって働かれるのです。二人を一体にするのは、人間の働きではなく、結婚という制度でもなく、心身全体に働いてくださる神の働きです。神はその働きを、受ける側の人間の資格を問わないで、恩恵によってなされるのです。人間がなすべきことは、二人がその恩恵を拒むことなく、無資格の場に立って神の恩恵を受け入れることです。そこには、お互いが無条件に受け容れ赦し合う場が成立します。その場に、二人を一体にされる神の働きが全うされるのです。
 自分の働きと立派さで「一体となる」を成し遂げようとすることは、恩恵を拒むことです。そこには人間本性である自我が出てきて、お互いに思いやりを欠き、批判し、軽蔑し、嫉妬し、冷酷に扱うなど、相手を拒否する傾向を避けることができません。自我主張によって心はばらばらになっているのに、生活上の必要とか社会的体面とか、外からの圧力で一緒に暮らしているだけという結果になります。そのような二人は、状況が許せばいつでも離婚に至ります。
 こうして恩恵の場で聞きますと、イエスが語られた「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というお言葉は、わたしにはこう聞こえてきます。

 「神が恩恵によって結び合わせてくださるものは、人間の本性的な自我心もこれを離すことはない」。

 これは、人間の行為を要求する律法ではありません。恩恵の宣言です。恩恵の場への招きです。無条件で受け入れ合う場で、二人が生きるようにという招きです。その結果、離婚しないで生涯を貫けた二人は、神の恩恵を多く受けた「恵まれた者」です。その恵みの中には、健康とか生計とか生活を共にできる状況も含まれています。恵みを多く受けた者は、恵みを受けること少なくて離婚に至らざるをえなかった者を、批判したり裁く立場にはおりません。痛みを共にして、恩恵による再起を励ます立場にいるのです。

離婚禁止の法文

 では、離婚・再婚をただちに姦淫であるとする、福音書が伝えるイエスの言葉はどう受け取ればよいのでしょうか。それは、「神が合わせられるものを、人は離してはならない」という、恩恵の場での男女関係についてのイエスの発言を、教団が結婚という制度についての法文、すなわち「離婚してはならない」という離婚禁止の法文として受け取った結果ではないか、とわたしは考えます。
 法文は、それが向けられている人間社会の現実に応じて形成され表現されます。また、特別なケースを配慮して例外規定もつけなければなりません。先に見たような、離婚に関する共観福音書の語録伝承が微妙に違っている事実は、それが法文であると見ると説明がつきます。最初期の教団は、それぞれの状況の中でイエスの発言を実際的な離婚否定の法文として形成して(その法文は、ユダヤ教社会においてもヘレニズム社会においても、きわめて厳しい規定となりました)、信徒の結婚関係を律していったのではないかと見られます。
 このような理解、すなわち、恩恵の場への招きとしてのイエスの言葉と、そこから発生する教団の法文としての離婚禁止規定の違いの認識は、現代の男女関係の問題、性の問題について福音が語りかけるさいに、重要な示唆を与えるものではないかと思います。
 現代社会、とくに先進諸国の社会では、女性の社会的地位の向上と経済的自立、性的自由の風潮などを背景として、離婚が激増しています。人間性の解放や自由の理念が強くなるに従って、これからの現代社会では男女関係の流動化や性のいっそうの自由化の流れは避けられないでしょう。そのような現実に対して、キリスト教会は、安易な離婚と性の自由の風潮をただ嘆いたり非難したり、法的規制を厳しくして対応しようとする傾向がありますが、それは福音の本質にかなった方向でしょうか。このような風潮に対して福音はどう発言し、どのような解決を提示できるのでしょうか。
 このような大きな問題を福音書講解の枠の中で取り扱うことはできませんが、あえて方向を示唆する試みだけをしておきたいと思います。福音の証人であるキリスト教会は、男女関係(広い意味での性関係)を外からの法的規制で律しようとするのではなく、神の恩恵の場における人間性の変革と教育とによって、祝福された男女関係を形成することができることを示し、そのように現実の社会に働きかけるべきでしょう。
 「恩恵の支配」は人間をしたい放題に生きるように放置するものではありません。そのように放置されることは神の裁きです(ローマ一・二四)。恩恵の場への招きは、人間本性の自我が打ち砕かれて、神が無条件で受け入れてくださるように隣人を受け入れて、相手の価値に絶して共に生きるように、共に命の喜びを分かち合うように招くのです。恩恵の支配は、相手の価値に無関係に、相手を人間として尊重し受け入れる心を厳しく求めます。そうしないと自分が恩恵の場にとどまることはできないのです。
 その恩恵の場において初めて《アガペー》の愛が成立します。人と人が無条件で赦し受け入れ合う愛の交わりが成立します。そのような愛の交わりの中で、神と隣人に対する自分の責任を感じる心が鋭くされます。このような相手の人格への尊敬と、その裏側である自己の人格としての責任感が男女の関係に貫かれるとき初めて、身勝手な離婚や放縦な性関係という男女関係の病根は、内側から克服されるでしょう。

真の対立点

 ここで、先に見た「心の中での姦淫」の問題に戻ります。そこでマタイの対立命題は、姦淫についてのモーセ律法を内面化したものであることを見ましたが、真の対立は、行為の規制か心の問題かの対立ではなく、律法の支配か恩恵の支配かの対立です。律法の支配の下にいるかぎり、律法の規定を内面化すればするほど、人間の本来の生命の欲求である性的欲求を抑圧するという矛盾に陥ります。それに対して恩恵の支配の場では、自然の生命の欲求である性的欲求が相手の人格の尊重と自己の責任という原理によってコントロールされて、心身全体の深い結合という祝福された男女関係を形成します。その時、欲望に引きずられて人格関係を破損する無責任な行為は、外面でも内面でもありえなくなります。恩恵の場では、自分を無として、相手の人格を神の恩恵の対象として尊敬しますので、異性を自分の欲望を満たすだけの手段として見ることができなくなります。恩恵の場においては、異性を「みだらな思いで見る」ことはなくなります。

恵みとしての独身

 なお、結婚という形だけが男女関係のすべてではありません。結婚しないで独身の生涯を送る男女も大勢います。結婚しないという選択にも様々な動機があります。それをマタイはこう述べています。

 「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」。(一九・一二)

 身体的理由や社会的理由から結婚しない(あるいは、できない)人々もいますが、ある目的のために、福音書の文脈では「神の国に仕えるために」、独身の生涯を選び取る人もいます。どの場合も、それは神から「与えられた」境遇であって、各人は与えられた境遇で神の恩恵に生きるように招かれているのです。神の国に招き入れられたからといって、みなが神の国に仕えるために独身生活を求められるのではありません。そうせざるをえないように導かれ、その境遇を受け入れることができる人は、独身を受け入れればよいのです。それができることは神の特別の恵みです。たとえば、使徒パウロは「神の恵みによって」使徒とされましたが、まさにその恵みによって独身で福音に仕える力と導きを与えられ、他のどの使徒よりも大きな働きをしたのでした。独身の奉仕活動という境遇を受け入れることができる人は、とくに「恵まれた者」なのです。

 ユダヤ教では、結婚して子供を産み育てることは宗教的な義務でした。ユダヤ教内で独身で神に仕える生涯が認められるようになったのは比較的新しいことで、エッセネ派から始まるのではないかと見られています。イエスの弟子たちも、ユダヤ教内では例外的に独身を認める教団となりました。なお、初期のキリスト教団における独身の問題については、コリント書T七章とその講解を参照してください。

 こうして、結婚生活も独身の生涯もともに、神の恩恵によって与えられたものであることに変わりはありません。与えられた場で、自分に与えられた恵みを感謝して生きることが、神の恩恵に応える道です。自分と違う生き方をする人を批判したり軽蔑したりすることは、神の恩恵の場から落ちることです。結婚制度という社会の枠の中であろうと外であろうと、一人ひとりの男女が、恩恵の場で相手の人格を尊敬し、自己の責任を貫くことによって、祝福された男女関係、幸いな男女の共生が実現するでしょう。