市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第22講

第五節 神の信実

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。

(五・三三〜三七)

ユダヤ教における「誓い」

 ここ(三三節)に用いられている「偽りの誓いを立てるな」という表現は、それと全く同じ形では旧約聖書には出てきません。おそらく、「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」というレビ記一九章一二節を背景にしているのでしょう。また当時のユダヤ教では、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の中の第二戒(出エジプト記二〇・七)は、「ヤハウェは生きておられる」と唱えて誓うなど、主の名を唱えて空疎な誓いを乱用することを禁止する戒めと解釈されていたので、この戒めを指している可能性もあります。
 「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは、「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない」(民数記三〇・三)を念頭に置いているのでしょう。そうすると、「昔の人が命じられていた」こと(三三節)の前半も後半も、モーセ律法が誓いを立てることを前提にして、誓いが誠実なものであることを求めていることを示しています。
 だいたい「誓い」とは、人が自分の言葉の真実を確かなものとするために、一般に認められている権威(たいていは神自身や神の名などの宗教的権威)を保証人として呼び求める行為です。このような意味での「誓い」はどの民族にも文化圏にもあります。イスラエルでの例をあげますと、人々はよく契約や約束を保証するのに神御自身を証人としましたが(創世記三一・五〇など)、それは「主は生きておられる」という定式で述べられるようになります(とくに士師記、サムエル記、列王記によく出てきます)。典型的な場合を一つだけあげますと、サムエル記上一九章六節にこうあります。

 サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。「主は生きておられる。わたしは彼(ダビデ)を殺しはしない」。

 実際には、手を挙げて天を指して誓うとか、神聖な物に手を置くとか、犠牲を捧げるなど、様々な形式が誓いの言葉を保証するために用いられるようになります。しかし、誓いが頻繁に行われるということは、普通の(誓いを伴わない)言葉が信頼性に欠けることを裏書きする結果となり、その社会や人間性の倫理性の低下を示すことになります。このような誓いの多用の背後にある偽善は、すでに預言者や知者が見抜いて批判していました。預言者ホセアは、主に背いて姦淫をしている民が「主は生きておられる」と言って誓うことの偽りを攻撃し(ホセア四・一五)、賢者ベン・シラは日常的に行われる誓いに対して、「むやみに誓いを口にするな。みだりに聖なる方の御名を呼ぶな」と戒めています(シラ二三・九〜一一)。
 誓いという形式の背後にある人間の言葉の信頼性の低下は、ヘレニズム世界でも気づかれており、ヘレニズム世界の哲学者たちは、人間自身に基礎をもつ倫理においては誓約(とくに宗教的誓約)はふさわしくないと批判を高めていました。この流れの中で、ヘレニズム時代のユダヤ教は誓いを問題にし始めていました。ユダヤ教とギリシア哲学との統合を意図したユダヤ人学者フィロンは、誓うことは神の名を汚すことであるとし、誓わないことが理性にかなったことであるとするまでに至っていました。エッセネ派も誓約の問題性を知っており、誓約を否定し、神名を用いることを避けました。

 エッセネ派についてヨセフスが書いているところは、当時のユダヤ人の間で誓いの禁止が何を意味するかを示唆していますので、参考に引用しておきます。
 「彼ら(エッセネ派の人たち)が語る言葉は一言一句が、いかなる誓約よりもたしかであって、彼らは誓いをしない。誓いは偽証よりも悪いと見なしている。それは、神を引き合いに出さなければ信じてもらえないような人間は、すでに滅びに定められているからである」。(引用は新見宏訳『ユダヤ戦記1』二・一三五より)

 ラビたちも十戒の中の、「主の名をみだりに唱えてはならない」という第二戒を、偽証と不必要な誓いの禁止と解釈して、軽率な誓いを濫用することによって神名が汚されることを避けるように教えていました。神名を用いることを避けるために、「天にかけて」とか「地にかけて」とか「エルサレムにかけて」とか、さらに「祭壇にかけて」とか「供え物にかけて」というように、神名に代わる様々な誓いの形式が用いられるようになり、それぞれの誓いの形式の間の拘束力の差とか優先順位が議論されるようになりました(マタイ二三・一六〜二二参照)。さらに、いったんなされた誓約を解除する方法も細かく論じられました。

誓いの全面的否定

 それに対してイエスは、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と言って、誓うという行為を全面的に否定されます。誓いを認めた上で、誓いが誠実でなければならないとするモーセ律法に対立して、イエスは「しかし、わたしは言う」という言葉で誓いそのものを否定し、一気にモーセ律法を乗り越えてしまわれます。
 そして、ラビたちが認めていた(フィロンもより軽い悪として容認していた)、「天にかけて」とか「地にかけて」とか「エルサレムにかけて」という代替形式も、結局神の名を用いて誓うことと同じとして、全面的に禁止されます。天は神の玉座であり、地は神の足台であり(イザヤ六六・一)、エルサレムは神の都であるから、そのような代替形式を用いる誓いも、人間の言葉の真実を保証するために神を利用していることに他ならないとされるのです(マタイ二三・二一〜二二)。このような誓いの全面的な否定に、当時のユダヤ教には見られないイエスの独自性が鮮やかに見られます。

 先に見たように、エッセネ派は原則的に誓いを禁じていましたが、全面的に誓いを否定したのではなく、教団入会時の誓約とか法廷での誓約を行っていました(『宗規要覧』五・八〜一〇、『ダマスコ文書』一五・一〜六参照。それぞれ日本聖書学研究所編『死海文書』一〇〇頁と二七五頁)。イエスの誓いの否定の言葉にエッセネ派の影響を見る学説もありますが、イエスとエッセネ派とではモーセ律法に対する姿勢が根本的に違いますから、直接に関連があるとすることはできません。

 イエスが誓いを全面的に否定されるのは、まず第一に、神の名が汚されないためです。イスラエル社会で誓いというのは人間の言葉の真実を何らかの意味で神を引き合いに出して保証することですが、人間の言葉に絶対無条件に真実なものというのはほとんどありません。人間の真実というのは相対的なものにすぎず、きわめていい加減な場合が多いものです。そのような不真実な言葉を神の名によって保証した場合、神の真実が人間の相対的な真実の水準にまで引き下げられることになり、神の名が汚される結果になります。
 誓いとは将来これこれのことを必ずするという約束の言葉が多いのですが、約束する者がどれほど誠実で真剣な気持ちで約束したとしても、時が経てば人間の心は変わり、状況が変わればどうしても約束を果たすことができなくなることもあります。そのような「時の無常」の中にいる弱い人間が、将来の行為を約束するのに神を保証人とすることは、永遠なる神を時の無常の次元に引き下ろすことになり、神の名を汚すことになります。この意味は、とくに三六節の言葉に示唆されています。

 「また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」。

 髪の毛一本すら白くも黒くもできない人間が、自分の頭にかけて誓う、すなわち自分の頭を自由にすることができる立場にあるかのように保証として引き合いに出すことは、人間の限界を踏み越えた僭越に他なりません。この言葉が示唆しているように、一寸先も知りえない人間が、将来のすべてを知って決めておられる神の名によって将来の行為を誓うことは、自分を神の立場に置く甚だしい僭越であると言えます。

真実な言葉

 イエスが誓いを一切否定されるのは、さらに、イエスが人間の言葉に無制限・無条件の真実を求められるからです。すなわち、イエスは誓いを否定することによって、真実でなければならない言葉と、そうである必要のない言葉の区別を廃されたのです。そもそも誓うということは、普段の人間の言葉がそれだけでは信用できないから、神を保証人としてその言葉の真実を保証するのです。ですから、誓いを伴う言葉は真実であることに責任を負う言葉となりますが、誓いを伴わない普段の言葉は責任を負わなくてもよい言葉となり、二種類の言葉を区別していることになります。イエスはこの区別を廃止されるのです。人間の言葉はすべて無条件に真実なものでなければならないのです。このことは次のイエスのお言葉にも明らかに語られている通りです。

 「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」。(マタイ一二・三六)

 人はどのような場合に語られる小さい言葉にも、神の前に責任を取らなければならないのです。神の前で、どの言葉も無条件に真実でなければならないのです。
 わたしたちは普段の社会生活で、言葉を実に軽く、いい加減に(無責任に)使っています。それは、言葉を人間相手(他者と自分を含めて)の道具としてしか見ていないからです。わたしたちが自分を神の前に責任を取るべき存在であると自覚するならば、自分が語る言葉は神の前に責任のある言葉となり、どのような小さい言葉も自分の存在をかけた重い責任を負っている言葉であることが自覚されます。イエスがここに掲げた言葉を語り出されるのも、誓いを否定してすべての言葉に無条件の真実を求められるのも、人間を全面的に神の前に生きる存在として扱っておられるからです。
 続いて語られる三七節の、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」という言葉も、ここに述べた文脈の中で理解することができるでしょう。すなわち、一切誓ってはならない、すべての言葉は同じように真実でなければならないという原理を、具体的な行為で示す実例であると理解してよいでしょう。このような理解で、この節を解説的に訳すと次のようになるでしょう。
 「ユダヤ人はモーセ律法で認められているとして、誓いを立て、それによって真実であることに責任を負う言葉と、そうでない言葉を区別している。しかし、わたしの弟子であるあなたがたは、そのようなことをしてはならない。あなたがたはどのような形であれ、一切誓ってはならない。あなたがたは、神の前にある者として、自分の責任で、『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなければならない。すなわち、自分の言葉がすべて真実であることに責任を負わなければならない。『然り』と言って実際は『否』であるような、また『否』と言って実際は『然り』であるような偽りは、どんなに僅かでも含まれていてはならない。このように単純に『然り』を『然り』とすることを超えて、『然り』の中に何か条件をつけて『否』を忍び込ませたり、誓いという形式を利用して、ある場合は『然り』は本当に『然り』でなくてもよいとしたりして、自分の言葉に責任を負わなくてもよいとするようなことは、すべて偽りの父である『悪い者』(サタン)から出るのである」。

 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」という言葉の解釈は争われています。その議論の詳細に立ち入ることはできませんが、この講解ではヤコブ書に伝えられている伝承に従う解釈を採っています。

 マタイの誓約禁止とほぼ同じ内容の伝承が、ヤコブ書に次のような形で伝えられています。

 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。(ヤコブ書五・一二)

 この節には、誓いを否定するイエスのロギオン(言葉伝承)がマタイより素朴な形で伝承されています。マタイは、誓いを否定するイエスの言葉を、マタイ独自の対立命題という形に入念に仕上げましたが、ヤコブ書にはそのような編集の形跡はない(または、ずっと少ない)と見られます。このヤコブ書において、「然りは然りとし、否は否としなさい」という形で伝えられている事実は、「然り、然り、否、否」という二重表現が、イエスの誓約否定の言葉を伝承したユダヤ人信徒の中では、このような意味に理解されて伝承されていたことを示しています。
 初期の教父たちもほとんどみな、マタイ福音書の「然り、然り、否、否と言え」というお言葉を、「然りは然りとし、否は否としなさい」という意味に理解しています。とくにヤコブ書を知らないと思われる多くの教父が、マタイ五・三七をこの意味で引用していることが目立ちます。一例だけあげますと、ユスティノスはヤコブ書に触れることはなく、ヤコブ書は知らないと思われますが、彼は二世紀半ばに執筆したその『第一弁明』(一六・五)で次のように述べています。
 「いっさい誓うべきでないこと、また何時も真実を語るべきことについて、彼(キリスト)はこのように命じました。『いっさい誓ってはならない。あなたがたの『しかり』を『しかり』とし、『否』を『否』としなさい。それ以上のことは悪から来るのである』」。(引用は教文館『キリスト教教父著作集1』柴田有訳から)
 ここでユスティノスが、「誓うべきでないこと」を「何時も真実を語るべきこと」と同じに扱っている点が注目されます。先にも触れましたように、ヘレニズム世界では誓いという形式は人間の言葉がいつも真実でなければならないという倫理的要請と矛盾すると批判されていたことを反映し、ユスティノスもイエスの「いっさい誓うな」という戒めを、「何時も真実を語れ」という意味で受け止めていることを示しています。

神の信実

 このように、マタイは「いっさい誓うな」というイエスのお言葉を、マタイ独自の対立命題という形に仕上げて、イエスの弟子たちに提示しました。そうすることによってマタイは、一見モーセ律法に反するように見えるイエスの教えが、人間の言葉の誠実さを求める神の律法を真に成就するものであることを示したのでした。わたしたちはイエスのお言葉の真意をこのように理解するように導かれました。しかし、真の問題はここから始まります。はたして人間はすべての言葉に責任をとれるほど信実・誠実でありうるか、あるいは、本性的に不信実・不誠実な人間がどうしてこのような要求に応えることができるか、という問題が起こってきます。そのことがわたし自身の問題として問われます。

 人間がその内面の心情においても外面の行為においても語った言葉と一致している在り方を、「誠」とか「信」という語で表してよいでしょう。「誠」とは言を成らせる、「信」とは言が人と一体、という漢字のイメージからも適切な用語でしょう。「彼は至誠至信の人である」と言えば、その心と行為が完全に言葉通りの人物であるという意味であることは、わたしたちの通常の言語感覚からしても充分に理解できます。「真」という語も用いられますが、これは必ずしも言葉と関連せず、自然科学的な事実にも用いられますので、言葉に関連する人間の在り方を描写する語としては「信」が適当でしょう。ここでは人間の在り方を広く描写しうる(形容詞的にも用いやすい)用語として、「信実」「誠実」という形をおもに使います。

 わたしたちは人間が、わたし自身を含めて、いかに不信実、不誠実な存在であるかをよく知っています。人間の言葉ほど当てにならないものはありません。たしかに、わたしたちは普段人の言葉を信じて社会生活を形成しています。ところが、人生の大事な局面で人の言葉を当てにしたためひどい目にあったり、人の世の裏面を知るようになって、人の言葉は大事なところで事実と違っていることを見て、人の言葉の空しさを身に沁みて感じるようになります。言葉が直ちに現実であることを当然として生きていた無邪気な幼年期は短く、物心つくにしたがって言葉と現実の分裂に悩み、だんだんと馴れて無感覚になり、言葉に責任を感じなくなっています。言葉と現実の分離、すなわち誠実とか信実の欠如は、人間存在の本性となってしまっています。
 このように信実なき言葉の洪水の中で、その信実が直感できるような言葉に接しますと、わたしたちは感動します。それは結局、人格そのものに接したことに対する感動です。そのような感動的な体験の中で、もしわたしたちが自分の全存在をその言葉に賭けてもよいと思うほどに、絶対的な信実の言葉に出会うことがあれば、それこそ神との出会いであると言えます。
 神とは絶対的な信実の別名です。もちろん、神の本質のすべてを人間の言葉で描写したり、人間の体験から推定することはできません。しかし、言葉による人格関係の形成という面からすれば、人間が自己の全体を賭けることができる言葉に出会う体験こそ、神との出会いであると言えます。その言葉において、人間は絶対的な信実、根源的な人格に出会っているのです。

 神がそのお言葉通りの方であり、神の言葉は空しくなく必ず現実となるということ、すなわち、神が信実な方であることは、旧約(とくに詩編)では神の《エムナー》または《エメス》(まこと)として賛美され、新約では《ピストス》(信実な)方として語られています。旧約で「まことの神」と表現されているところは、偽物の神に対する本物の神という意味ではなく、「信実の神」という意味です(たとえば申命記三二・四)。神が信実であることが、神の慈愛と並んで、人間の救いの根底なのです。わたしたちが自分の価値をいっさい放棄して、依り頼み賛美するべき対象なのです(詩編一一七など)。「神の信実」については、他の機会に多く語りましたので(『主の祈り講解』や『キリスト信仰の諸相』など)、ここでは言葉の意味を確認するに止めます。

 神と人との関わりは、ふつう「信仰」という語で語られます。そして、「信仰」というとき、神に向かっての人間の信実とか誠実、あるいは誠意が問題にされます。信仰深いとは、人がコミットしている宗教体系(教義とか祭儀)に心でも行為でも忠実に一致している人間の在り方を意味しています。ところが、神との関わりにおいて、人間の側の信実だけが問題にされている限り、そのような「信仰」はいずれ行き詰まり破綻します。人間は本性的に不信実なものですから、信実あるいは忠実を維持するために何らかの強制や不自然な情熱が必要となるからです。
 神と人との関わりは人間の側の信実に基づいて形成されるものではありません。それは神の信実に基づいて形成されるのです。人が神の信実に出会うときに「信仰」が生まれるのです。人の信実は関与していません。具体的には、人が神の言葉に出会うときに信仰と呼ばれる出来事が起こるのです。神の言葉とは、神の信実を背後に持つ言葉であるからです。
 世界には言葉が洪水のように氾濫しています。それはすべて人間によって語られています。神の声を直接聴くことはできません。しかし、その中でわたしたちが、ある言葉を偽ることができない、絶対的に信実な神から出た言葉であるとして、その言葉に自己の全存在を賭けることができるならば、そこに「信仰」と呼ばれる出来事が起こっているのです。わたしたちは「キリストの言葉」、すなわちキリストという言葉、キリストの出来事が語りかける言葉(それが福音です)を、そのような神の言葉として出会い、その言葉に自分を委ねているのです(ローマ一〇・一七)。その時わたしたちは自分の信実に立っているのではなく、その言葉を語られた神の信実に自己を投げかけているのです。

絶信の信

 このように、自分の側の信実としての「信仰」を放棄して、神の信実だけに立つ信仰を、わたしは「絶信の信」と呼んでいます。わたしは自分が信実とか誠実を貫くことができない弱い存在であることを知っていますから、自分の信仰を当てにすることはできません。そのような信仰は放棄して、神が信実であることだけを当てにして、福音の言葉に身を委ねているのです。
 このような絶信の信の場に生きる者にとって、繰り返し「信じなさい」とか「信仰を持ちなさい」と呼びかけられるのは奇異に響きます。わたしが信じても信じなくても、あなたが信仰を持っても持たなくても、神の言葉が真理であるという事実は変わりません。神は信実だからです。わたしたちは自分の信仰は問題にせず、神の信実だけを当てにすればよいのです。
 この絶信の信は、恩恵の支配の一つの局面です。この講解で始めから繰り返し述べてきましたように、イエスの告知の核心は「恩恵の支配」です。イエスが告知される《バシレイア》(神の国、神の支配)の内容は恩恵の支配です。すなわち、人間の側の善悪や資格と関わりなく、神が無条件で与えてくださる終末的な救いの告知です。そのさい、人間の側の誠実とか信実さえ問題にされないのです。
 恩恵によって救われるというとき、普通救いは人間の側の道徳的善悪を超越して与えられるが、すくなくとも信仰は必要とされます。そして、その信仰とは(宗教的な次元での)人間の側の誠意とか信実と理解されているので、結局救いは人間の側の在り方、条件、資格に限定されることになります。ところが、イエスが告知される恩恵の支配では、そういう人間の誠実とか信実(宗教的には敬虔とか信心)も含めて、人間の側の条件をいっさい問題にしないのです。イエスが神の国に招き入れられた人たちは、当時のユダヤ教世界では「罪人(つみびと)」とされた人たち、すなわちユダヤ教において信仰のない者とされた人々、自分でも信仰を持てないと感じていた人々なのです。パウロの表現で言えば、イエスの神は「不信心な者を義とされる方」なのです(ローマ四・五)。
 こう言うとすぐ次のような反論が出てきます。それでは、人間が誠実であることは必要ないのか、信実であろうとする努力は意味がないのか、宗教的な次元で信心深くあることはマイナスなのか、という疑問や反論です。これは、神の救いは人間の善悪を超えたものであるという恩恵の支配が告知されるとき、では人が善を求めて努力することは無意味なのかという、必ず出てくる疑問と同じです。
 この疑問に端的に答えるならば、人の側の善とか誠実は救いには何の関わりもない、すなわち救いの条件としてはまったく無意味であると言わなければなりません。しかし、人の善とか誠実に関わりなく人を救う神の恩恵が、恩恵によって神との命の交わりに入れられた人を、無条件の善、絶対の信実へと導くのです。善とか信は救いの条件ではなく、救いの結果です。神がその絶対の愛によって、わたしたちの善悪に関わらず交わりに招き入れて下ったので、その恩恵の場ではわたしたちも相手の善悪に関わらず善を行う者として生きざるをえないのです。神がその絶対の信実によって不信実なわたしたちを支えてくださるので、神の信実に生きる者としてわたしたちは不信実ではいられなくなるのです。
 このように、恩恵の場では神の絶対の信実が、その場に生きる者に無条件の信実を求めるのです。もしわたしが不信実な言葉を無責任に用いて生きていますと、言葉を真剣に信頼して生きる力が病み衰えて、本来自分を支える究極の言葉である神の言葉に自己を委ねて生きることができなくなります。神の信実に立って生きることができなくなります。この消息は、仲間を赦さない家臣が王の赦しを受けられないという譬(マタイ一八章)と同じです。神の信実だけに依り頼んで生きる者は、本性的な不信実な人間でありながら、その言葉に神の絶対的な信実の質を宿す者となるのです。他者の権威に依存することなく、自分の責任で自ずから真実を語る言葉になるのです。神の信実こそ人間が信実を回復するための土台です。そのような事態の表現として、イエスは「いっさい誓うな」と言って、恩恵の場に生きる者にすべての言葉が無条件に信実であることを求められるのです。
 このような恩恵の場で聴くとき、「いっさい誓うな。ただ然り、然り、否、否と言え」という言葉も、先に見たテキストの本来の意味とは別の響きをもってきます。わたしたちは自分の側の誠実とか忠実を神に誓うことはできないのです。わたしたちにできることは、神の信実に依り頼んで、神の言葉に対して「然り」を言う、すなわち神の言葉に自分を投げかけて委ねることだけです。それ以外の在り方に対しては「否」と言わざるをえないのです(この場合、「然り、然り」「否、否」という二重表現は、それぞれ「然り」と「否」の強調表現となります)。この単純な「然り」と「否」を超えることは、何らかの意味で自分の側の価値や資格を主張することになり、恩恵の支配を拒む高ぶりになります。この高ぶりこそ「悪しき者」の本性なのです。

社会生活における誓約

 最後に、「いっさい誓うな」というイエスのお言葉と、わたしたちが社会生活の中で求められる様々な誓約との関係について述べておきます。
 わたしたちは社会生活を、ほとんどの場合何らかの契約とか約束に基づいて行っています。ある社会に参加するときは、その社会とか団体の定めを守ることを何らかの形で約束します。入学とか入社にさいしては、その学校なり会社の規則を守ることを誓約します。スポーツ大会に参加するにもフェアプレイを宣誓しなければなりせん。国会や法廷での証言は宣誓を求められ、偽証は処罰されます。個人の間でも重要な関係については契約書を交わし、それに署名捺印して契約を守ることを誓います。このように契約なり約束を守ることを誓約することを否定すれば、社会生活は成り立ちません。
 イエスが「いっさい誓うな」と言われるのは、このような社会生活の中での宣誓とか誓約を否定されたのではありません。イスラエルという宗教社会において日常的に行われていた誓いの習慣、すなわち、神の名を用いて責任を負う言葉を普段の言葉から区別することによって普段の自分の言葉に責任を取らない習慣、その習慣の背後にある人間の不誠実を否定されたのです。わたしたちが社会生活の中で行う誓約は、自分の責任で自分の言葉の真実を保証することですから、イエスが否定された誓いとは次元が違います。
 しかし、何かの社会や団体や契約に無条件にコミットすることを、宗教的な権威を用いて(それがキリスト教の神の名によるものでも)誓約することは避けるべきでしょう。もし、そのような誓約が強制される場合には、拒否しなければならない場合もでてきます。このような場合の誓約の否定は、ここでイエスが「いっさい誓うな」と言われた理由とはすこし違う理由からになります。
 どのような場合に誓約を拒否するのか、どのような理由で拒否するのか、実際問題としては複雑な問題をはらんでいます。この問題はキリスト教の長い歴史において様々な意見が提出され、それがイエスの「誓うな」というお言葉の解釈の問題として争われてきました。わたしたちは様々の状況での誓約を、この場合はイエスの教えに反する、この場合は反しないというように、決疑論的に扱うことはできません。ここで見てきたように、イエスの「誓うな」というお言葉を恩恵の支配の表現として受け取り、無条件の恩恵の場で絶対的な神の信実だけを拠り所として生きる者として、それぞれの場合に責任をもって「然り」と「否」を語ることが大切であると思います。