市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第29講

第五節 恩恵と報償

 このように、施しと祈りと断食という宗教的実践について、それが隠れたところで行われなければならないことが強調されました。この三つの勧告を、伝承素材を編集してこのような形に構成したのはマタイですが、「隠れたところにおられる父」との関わりに生きるようにという核になる思想はイエスのものです。言葉遣いはマタイのものですが、語りかける方はイエス御自身です。イエスはわたしたちに、人の前で自己を誇る「偽善者」ではなく、「隠れたことを見ておられる父」の前で自己を否定した場に生きるように求めておられるのです。
 ところで、この三つの勧告はみな「父が報いてくださる」という言葉で結ばれています。このような神からの報償を期待する言葉は、受ける資格のない者によいものを与えてくださる父の恩恵の支配の中で、どのような位置を占めるのでしょうか。この講解で見てきましたように、イエスの「神の支配」宣教の核心は「恩恵の支配」でした。ところが、この三つの勧告は、施しや祈りや断食が隠れたところでなされるという正しい仕方でなされる場合は、父からの報いを受けると言っています。これは「報酬ではなく恩恵による」という福音の場でどのような意味を持つのでしょうか。
 神は各人にその人の在り方や行いにふさわしい報いを与えるというのがユダヤ教の基本的な確信です。ユダヤ教に限らず、そもそも神を信じるということは、自分の行いや生き方に相応した報いを与える方の前に責任があることを認めて生きることです。イエスもパウロも、神がこのように各人にふさわしい報いを与える方であることを当然のこととして語っておられます。

 「報い」とか「報酬」という名詞と「報いる」という動詞の使用は、パウロについては、ローマ二・六、コリントT三・八、コリントU五・一〇を見てください。イエスの場合、「語録資料Q」にも少数ありますが(ルカ六・二三、六・三五、一〇・七)、圧倒的にマタイに多く出てきます(名詞は全新約聖書二九回中マタイに一〇回、動詞は全新約聖書四八回中マタイに一八回)。マタイが強くユダヤ教の報償思想に立っていることをうかがわせます。

 神が各人にその人の行いや生き方にふさわしい報いを与えることを、聖書は神の「裁き」と呼んでいます。神が支配されるとは、神の「裁き」が貫かれることです。神の支配は「裁き」を土台にしなければ成り立ちません。わたしたちは神の裁きの場にいるのですから、神から離反する罪が真剣な問題になります。罪の報酬は死だからです。罪の支配の下にいるわたしたちを救うために神はキリストの救いを備えてくださいましたが、裁きの場における救いだからこそ、「キリストはわたしたちのために死なれた」という十字架が必要だったのです。無条件で受け入れるという恩恵が裁きの場に実現するために十字架が必要だったのです。十字架は裁きの場における恩恵の啓示です。十字架のキリストにおいて、わたしたち裁きの場では死ななければならない者が、恩恵により無代価で義とされ、命に入れられるのです。
 恩恵が現れたからといって裁きがなくなったのではありません。恩恵の場は裁きの場の外にあるわけではありません。裁きの場の中に恩恵の座が備えられたのです。裁きという基礎の場の中に、恩恵の座という特別の場が重なって開かれたのです。恩恵の下にいる者は、裁きの場の外に連れ出されたのではありません。神の報いが貫かれる裁きの場にいることには変わりがありません。ただ恩恵の下にいる者には、裁きはもはや断罪(罪の結果である死を宣告する審判)ではなく、恩恵に生きる生き方に対するよき報いを与えるという形で貫かれるのです。恩恵の場では裁きの方向が逆転するのです。
 恩恵の場に生きる者は、自分が資格がないのに無条件に父の慈愛を受けて生かされているのですから、人を愛するときにも相手の資格を問題にしたり、報いを条件にしたりしません。

 「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」。(ルカ六・三五)

 人から報われなかった分、神からの報いがあるのです。「いと高き方の子となる」という報い、その方の命に生きるという最大の報いがあるのです。イエスに従うことで理由のない苦しみを受けるとき、その分「天では大きな報いがある」のです(ルカ六・二三)。
 これが神の裁きが支配する場の大原則です。マタイが施しと祈りと断食について、人からの報いを求めないで隠れたところでするように勧告するのも、同じ精神です。人からの報いを求めない分、隠れたところで父からの報いを得ることになるのです。それは、無条件の恩恵の場に生きる者がする施し、祈り、断食の姿なのです。ここにも、イエスの「恩恵の支配」の告知が貫かれているのです。