市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第35講

第六節 明日の糧を今日

 明日の糧を今日、わたしたちに与えてください。(私訳)

パンとは何か

 「あなたの名、あなたの支配、あなたの意志」についての三つの祈りの後に、「わたしたち」のことを祈り求める三つの祈りが続きます。その祈りの最初に、パンを求める祈りが来ます。イエスが弟子たちに、「父よ、わたしたちにパンを与えてください」と祈るように教えられるとき、どのようなパンを意味しておられるのでしょうか。教会では普通このパンを生活に必要な食物としてのパンと理解して、「日ごとの食物を今日もお与えください」と祈ってきました。はたしてそうでしょうか。語義と文脈の面から吟味しましょう。
 まず第一に用語の意味から吟味します。《アルトス》(パン)という語は、生命を養うための食物一般を代表する語として、「食物」とか「糧」と訳してよいでしょう。問題は《アルトス》についている《エピウーシオス》という形容詞の意味です。この形容詞の元になる動詞として、意味の異なる二つの動詞が考えられ、語学上はどちらとも決められません。その一つは「存在するのに必要な」という意味を示唆し、もう一つの動詞からの派生とすれば、「明日の」とか「将来の」という意味になります。「日ごとの食物」という伝統的な理解は第一の意味を取っているわけです。
 ところが、この形容詞は「明日の」という意味に理解すべき強い根拠があります。当時の諸言語に精通していることでは古代教会の第一人者であり、アラム語圏のシリア・パレスチナでも活躍したヒエロニムスが、「ナザレ人福音書」の中では《エピウーシオス》にアラム語の《マハル》が当てられていると述べています。「ナザレ人福音書」というのは、ギリシア語のマタイ福音書をアラム語で解説的に翻訳したもので、アラム語を用いるシリアのユダヤ人キリスト教徒の間で用いられていた福音書です。ギリシア語の「主の祈り」をアラム語に翻訳するにさいして、翻訳者は当然自分が日頃唱えている祈りの言葉を用いたはずです。この事実から、イエスや弟子たちが語ったアラム語の伝承においては、この箇所は《マハル》(明日)という語が用いられていたと、十分推察できます。

 《エピウーシオス》の意味については、EDNT(新約聖書解釈辞典)は二つの意味を併記するだけで決定していません。TDNT(キッテルの新約聖書神学辞典)は「明日の」という意味を退け、この語を時ではなく量を指示するものとして、「わたしたちが必要とする(量の)パン」と理解しています。新共同訳も採用しているこの理解は、旧約聖書のマナの物語を想起させ、説得的です。しかし、「ナザレ人福音書」のアラム語訳を根拠として「明日の」と理解すべきであるというエレミアス(新約聖書神学T)の主張は、学界にも受け入れられてきているようで、最新のEKK新約聖書註解(ルツ)も「明日のための」という訳を提案しています。なお、ナザレ人福音書の当該箇所については、教文館『聖書外典偽典別巻・補遺U』二六頁の第五断片を見てください。

 さらに、ヒエロニムスは「明日のパン」という表現の意味について次のように書いています。「明日という意味の《マハル》によって、ここの意味は、われわれの明日、つまり未来のパンを今日われわれにお与えくださいということになる」。《マハル》は字義の上では「明日」ですが、広く「未来・将来」を指す語であり、信仰の世界では「神の明日」として終末を意味する語です。彼は「主の祈り」のパンを、生活に必要な食物としてのパンではなく、終末時のパン、すなわち終末的な生命に必要なパンと理解していたのでした。パンをこのように終末論的に理解することは、初めの数世紀の間、東方教会でも西方教会でも支配的であったようです。なお、ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ローマカトリック教会公認のウルガータ)では、ここは panem supersubstantialem(超実体的なパン)となっています。

 『ディダケー』によりますと、初期の教会では「主の祈り」は信徒の最も基本的な祈りとして集会の度ごとに祈られていました。集会の中心は「主の食事」であって、パンとぶどう酒による共同の食事をもって、復活された主の臨在と十字架の死による贖い、そして栄光の来臨を言い表したのでした。その信仰告白の場で「主の祈り」が唱えられたのです。「主の食事」での感謝が、食物としてのパンとぶどう酒が与えられていることへの感謝ではなく、パンとぶどう酒が指し示しているキリストへの讃美と感謝であることは明らかですから、そこで祈られるパンも、霊的な糧としてのキリストを指していたと理解できます。ヒエロニムスの「超実体的なパン」という訳語も、こうした古代教会一般の理解を反映しているのでしょう。古代教会の典礼を「主の祈り」解釈の根拠にすることはできませんが、少なくともこの解釈が新奇なものでなく、古代教会以来の伝統的なものであることを示す意味はあると考えられます。

 カトリック教会の霊的・比喩的解釈に対抗して、宗教改革は聖書の文字通りの解釈を主張したので、このパンの祈りも宗教改革以来文字通りに物質的なパンを指すと解釈されるようになりました(ツウィングリは霊的解釈に留まりました)。しかし、次の祈りの「負債・借金」は明らかに罪の象徴的表現ですから、パンを文字通りの解釈に限定することはできないはずです。
 
 第二にこの祈りが置かれている文脈から吟味します。先に見たように、マタイは「主の祈り」を「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい」という前置きで導入し、「主の祈り」のすぐ後に感動的な「空の鳥、野の花」の説話(六・二五〜三四)を置いています。この文脈は「主の祈り」を、生活上の必要に思い煩うことなく、ひたすら霊的・終末的現実である神の国を祈り求めて生きる者の祈りとしています。この文脈は「パン」を、生活に必要なパンとしてではなく、「明日のパン」、すなわち来るべき神の国における命のための糧と理解するように求めています。
 ルカの文脈では、イエスは「主の祈り」(一一章一〜四節)を教えられた後、「夜中の来訪者のたとえ」を語り(五〜八節)、そのたとえの結論として「求めよ、そうすれば与えられる」というお言葉を与えておられます(九〜一三節)。ルカは五〜一三節を直後に置くことで、「主の祈り」を解説しているわけです。その解説は、「絶えず祈れ」という一般的な祈りの勧めと理解するよりは、「夜中の来訪者」がパンを求めていることから、とくに「主の祈り」の中のパンの祈りに関する解説と理解すべきであると考えられます。するとこの解説は、友人の求めであっても起きて与えるのを断る無精な主人でも、しきりに願うので起き上がって友人が必要とするパンを与えるとすれば、まして天の父は求めて止まない者に聖霊をくださらないことがあろうか、という意味になります。ルカは「主の祈り」の中のパンを聖霊を指すものと理解しているわけです。

 パンの祈りをこのような文脈に置いたのは福音書記者マタイとかルカであって、イエスと弟子たちの状況では、今日の生存に必要なパンを父に求める祈りであったという議論もあります。しかし、この祈りは、何も携えないで巡回して「神の国」を宣べ伝えるように送り出された弟子たちの特別な状況(ルカ一〇・四〜九)を反映するものではないとの指摘もあります(ルツ)。いずれにしてもこの場合、「放浪のラディカリズム」という特別の状況による解釈に限定することは適当でないと考えられ、新約聖書(福音書)が置いている文脈で解釈するのが、現在のわたしたちにとって適切であると思われます。

ただ聖霊を求めて

 明日の糧を今日、わたしたちに与えてください。(私訳)

 このように語義と文脈からする解釈以上に、「主の祈り」全体の性格からする解釈が重要です。そして、「主の祈り」全体は、イエスの「神の国」宣教の枠組みの中で理解されなければなりません。「主の祈り」は、すでに前半の三つの祈りで見ましたように、終末論的な性格を強くもっていました。それは、イエスの「神の国」宣教が、独自の構造をもつものですが、終末的な性格のものであったからです。イエスの「神の国」は、当時のユダヤ教黙示思想と違い、ただ未来に神の支配の実現を待ち望むのではなく、聖霊によってすでにイエスの中に到来しているゆえに、その現実に生きながらその顕現を強く迫られて待つという構造をもっていました。イエスの宣教においては、終末が現在の中にあり、そのために終末が力あるリアルな未来になっているのです。
 このような構造の中で生きる者には、「明日のパンを今日お与えください」という祈りは、最も切実で基本的な祈りです。「明日のパン」あるいは「明日のためのパン」とは、終末時の命を養うパン、すなわち聖霊です。その聖霊を「今日」、今この現実の生活の中にいただき、聖霊によって生きるのでなければ、終末の生命も栄光もないのです。今日そのパンをいただかなければ明日はないのです。これはわたしたちにとって最も切実な祈りとなります。
 マタイでは「今日」とあるところが、ルカでは「毎日」となっています。それに応じて動詞形も、マタイではアオリスト形ですが、ルカでは現在形が用いられていて、動作の繰り返しが含意されています。おそらく、マタイが「語録資料Q」の緊迫した終末待望の語法をそのまま伝えているのに対して、ルカは主の「パルーシア」(来臨)が遠い未来に感じられるようになった時代に、歴史の中を歩む「教会の時(日々)」を前提にして書いていますので、「今日」を「毎日」に変えたのだと考えられます。わたしたちは、マタイの「明日のパンを今日お与えください」という祈りを、歴史の中で日々祈るという形で、ルカの表現をも生かす結果になると思います。