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序 章 マタイ福音書の成立と構成

はじめに

 マタイ福音書によってメシア・イエスの物語を聴く前に、このマタイ福音書とはどういう書であるのかを見ておきましょう。最初にマタイ福音書が成立した事情を見て(第一節)、次にこの福音書の物語としての性格を明らかにし(第二節)、最後にこの福音書がどのように構成されているかを見ます(第三節)。
 第一節の「マタイ福音書の成立」は、前著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』の序章「イエスの語録と福音」を要約して再録したものです。すでに前著でこの章を読んでおられる方は省略してくださってもかまいませんが、この要約を読み直して第二節、第三節と進まれるのも有益だと思います。



第一節 マタイ福音書の成立

語録(ごろく)福音書(ふくいんしょ)

 新約聖書には四つの「福音書」があります。その中でマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は並行記事が多く、基本的な内容も共通しており、一緒に並べて比較観察することができるので、「共観(きょうかん)福音書」と呼ばれています。ヨハネ福音書はその構成や性格が異なりますので、別に扱われます。
 「共観福音書」と呼ばれる三つの福音書が、お互いにどのような関係にあるのかについて、これまで長い間、実に綿密な研究と激しい議論が続けられてきました。現在では、次のような基本的な主張をもつ「二資料説」が、広く認められています。

 1 三つの福音書の中で最初に書かれたのはマルコ福音書である。
 2 マタイとルカは、「マルコ福音書」と「ある共通の資料」の二つをおもな資料として用いて、それぞれの福音書を書いた。

 マタイとルカが用いた「ある共通の資料」は、おもにイエスの言葉を集めたものであると見られるので、「語録資料」と呼ばれています。研究者たちは長年この資料を、ドイツ語の「クウェレ(源泉、資料)」の頭文字をとって、Q(きゅー)という略号で呼んできました。
 この「語録資料」Q(きゅー)は、ごくおおざっぱに言えば、マルコ福音書にはなくて、マタイ福音書とルカ福音書の両方に共通に見いだされる記事になるわけです。この資料がわたしたちにとってきわめて重要であることは、その中に「主の祈り」が含まれていることだけでも分かります。それで、この「語録資料」の内容と性格について、これまで多くの研究が積み重ねられてきました。その結果、現在ではほぼ次のような事実が明らかになっています。

 1 マタイとルカが用いた「語録資料」は、口頭伝承ではなく、文書になった資料である。彼らが用いた文書資料はギリシア語で書かれていた。ただし、マタイとルカが用いた文書資料は版が異なると推定される。
 2 文書としての「語録資料」は一人の著者の著作ではなく、長年にわたり、いくつかの編集段階を経て形成された、イエスの言葉の集成である。その集成と文書化は、イエスが世を去ってからしばらく後に始まり、ユダヤ戦争の時期(七〇年前後)にまで及ぶ。
 3 語録の集成は、生前のイエスの教えに従って生きようとした、ガリラヤのイエスの追随者たちによって始められ、パレスチナ・シリア地域で展開した。この運動の担い手はユダヤ人である。
 4 この語録集は、マタイとルカが資料として用いるまでに(おそらくマルコ福音書が成立するころには)、「福音書」としてパレスチナ・シリア地域で流布していた。

 マタイとルカの共通の資料となったイエスの語録集Qが独立の「福音書」であったとすれば、それはマルコ福音書のようにイエスの十字架の死にいたる生涯を物語ることをおもな内容とする福音書とは、ずいぶん性格が違います。この違いは、マルコ福音書を「物語福音書」と呼び、Qを「語録福音書」と呼ぶことではっきりさせることができるでしょう。さらに、トマス福音書のような「語録福音書」もあるわけですから、マタイとルカの共通の資料となったイエスの語録集は「語録福音書Q」と呼んで、他の「語録福音書」と区別することにします。
 この「語録福音書Q」は、トマス福音書のようにどこかで発見された実在の文書ではありません。あくまで共観福音書の成立を説明するために立てられた仮説上の文書です。この「語録福音書」はマタイとルカの両福音書に組み込まれることによって、一般のキリスト教会の視野から消えてしまい、「失われた福音書」になってしまっていたのです。ところが最近、共観福音書の比較研究から、このような「語録福音書」が存在したことが「発見」され、その内容が「復元」されて、われわれの目の前に現れてきたのです。この仮説上の文書を認めることによって、今回取り上げる「マタイ福音書」の成立やその意義をもっともよく理解することができますので、ここに取り上げたわけです。
 さて、「語録福音書Q」の範囲はどうでしょうか。共観福音書の記事のどの部分が「語録福音書Q」に含まれるのでしょうか。この問題については、細かい点についてはなお議論がありますが、大枠は確定されていると見られます。

「語録資料Q」の内容と成立については次の文献を見てください。
  日本基督教団出版局『現代聖書学講座U』、佐藤研「第四章 Q文書」
  日本基督教団出版局『総説新約聖書』、橋本滋男「第二章 共観福音書」
  日本基督教団出版局、J・S・クロッペンボルグ他著、新免貢訳『Q資料・トマス福音書』

 Qを資料として用いるにあたって、マタイは個々の語録を自分の福音書の構成に合わせて引用しているのに対して、ルカはQ資料の順序をそのまま大きなブロックで使用する傾向があります。それで、Q資料の再構成はルカの順序に並べられるのが普通になっています。これらの文献にある表を見ますと、マタイがこの資料を主題別にまとめられた五つの講話に自由に用いている様子がよく分かります。とくに「山上の説教」と呼ばれている五〜七章は、おもにこの語録福音書を用いていることが見えてきます。
 重要なのは、「語録福音書Q」の内容あるいは性格の問題です。この語録福音書には、一方では人々に新しい生き方を格言的な短い言葉で教える知恵の教師としてのイエスと、他方では「人の子」というような黙示録的な語を用いて迫っている審判を語る預言者的なイエスという、イエスの二つの姿が見られることが早くから研究者の間で注目されていました。どちらが本来のイエスの姿なのか、また、この二つの面がどのように関わるのかについては議論が続いています。
 この一見相容れないイエスの二つの姿は、この語録福音書が長い時間をかけて収集形成されていく間に、担い手の集団が置かれている状況の変化にともない、一方の性格の語録に他方の語録が付け加えられていったという形で説明されています。最初は、この語録集が圧倒的に終末的な審判を告知する預言者の相を示しているところから、この面が本来のイエスの語録であって、賢明な生き方を教える知恵の教師としてのイエスの言葉は、待ち望んでいたイエスのパルーシア(来臨)が遅れているという状況で出てきたものであるとする説明がなされました。しかし最近、イエスは本来知恵の教師であり、イエスの語録集は最初一種のアフォリズム(短い格言的な表現でなされた教訓や評言)集として成立したのであるが、イエスの知恵の言葉に従って生きようとする人々の運動がユダヤ教側から反対され迫害されるようになって、厳しい審判の面が加えられるようになったという説明がされるようになってきました。
 この二つの説明はそれぞれ長所と難点があり、議論はまだ決着していません。この議論の行方は、歴史的イエスの福音告知の性格を理解するのに大きな影響がありますので注目すべきものですが、ここではその議論に立ち入ることはできません。ここではマタイ福音書の成立について語録福音書がもつ意味を見るために取り上げていますので、マタイの手元には、知恵の教師としてのイエスと、終末的審判を告げる預言者としてのイエスの両側面を描く、現状の「語録福音書Q」があったという事実を指摘するに止めます。

物語福音書としてのマルコ福音書

 わたしたちは孔子の語録集である「論語」や、釈迦の語録集から発展した仏典に親しんでいますので、イエスの信奉者たちがイエスの死後、まずイエスの語録集を生みだし、それを拠り所として新しい信仰運動を進めていったことは、自然な流れとしてよく理解できます。それに対して、マルコ福音書という「物語福音書」が成立したことは、福音告知の歴史において、さらに宗教一般の歴史において、他に例を見ない新しい類型の信仰文書の誕生として、画期的な出来事であったというべきでしょう。
 マルコ福音書が成立したのはユダヤ戦争の時期で、エルサレム神殿が破壊される七十年前後であると見られます。その頃までの福音の進展を概観しますと、一方ではガリラヤからシリアに向かう地域で、ここで見ましたように、イエスの弟子たちや追随者たちによって「語録福音書Q」を生み出すような信仰運動が、ユダヤ人の間で展開していました。他方、おそらくエルサレムに成立した信徒集団から始まりアンティオキアなどに進んでいったものと考えられますが、イエスを復活によってキリストとされた方であるとし、その十字架の死の贖罪的意義を宣べ伝える福音告知(いわゆる「ケーリュグマ」の告知)が進展していました。この運動の中心にはペトロがいました。この福音告知活動はかなり初期から、ユダヤ人だけでなく異邦人に向かってもなされたようです。それは、この活動には初めからディアスポラ(離散)のユダヤ人が参加していたからです。彼らはヘレニズム世界に生きていたので、キリストの救済の告知をユダヤ教の枠を超えてヘレニズム世界の人々に大胆に宣べ伝えることができたのです。そのような異邦人への福音告知活動の代表者がパウロです。パウロの活動によってキリストの告知は小アジアからギリシアへと進展していきます。
 ところで、このようなキリストを宣べ伝える言葉は、語り伝えられる過程で定式化されて一定の形をとるようになります。これが「キリスト伝承」です。パウロも福音告知にあたって自分も受けた「キリスト伝承」を用いています。このキリスト告知の流れの中で、キリストを宣べ伝える言葉が「福音」と呼ばれるようになります。
 このように、イエスが世を去られてから直後の弟子たちの信仰運動には、二つの大きな流れがあったことが分かります。一つは、生前のイエスの言葉に従って生き、イエスの言葉を宣べ伝えようとして「語録福音書」を生みだした流れであり、もう一つは十字架・復活の「キリスト伝承」を中心として「福音」を宣べ伝えた流れです。地理的に見ると、前者はガリラヤからシリアなど、北から東に向かう流れです。もう一つの語録福音書である「トマス福音書」もこの地域(シリア)で成立したと見られています。後者は、パウロの活動に代表されるように、おもに西に向かう流れで、パレスチナ・シリアから始まって小アジア、ギリシア、そしてローマに及びます。エジプトなど南に向かう流れもこれに属します。地理的に見て興味深いのは、シリア、とくにその中心都市であるアンティオキアの役割です。この地域は二つの流れが交差するからです。
 さて、この二つの流れの中で、マルコ福音書はどこに位置するのでしょうか。マルコ福音書が成立したと見られる七十年前後の時期までに、第一の流れでは、すでに「語録福音書Q」がほぼ現在の形で成立し流布していました(最終的な完結はユダヤ戦争以後であると研究者は見ています)。第二の流れでは、五十年代にパウロ書簡が書かれ、この頃(七〇年前後)までにはパウロ系の諸教会にかなり広く知られていたと見られます。その後に成立したマルコ福音書は、この二つの流れのどちらに属し、これらの文書とどのように関わるのでしょうか。
 マルコ福音書の成立事情を知るための資料は、マルコ福音書自身しかありません。外の資料はほとんどありません。そして、マルコ福音書の内容と構成を検討してみると、この福音書は第二の流れ、すなわち、十字架と復活を中心とする「キリスト伝承」に基づいて「福音」を宣べ伝える流れの中で成立したことが確認できます。その理由を、第一の流れの代表的文書である「語録福音書Q」と比較しながら見ていきましょう。
 第一の理由、そして最大の理由は、マルコ福音書がイエスの十字架の死の贖罪的・救済的意義を明らかにするために書かれているという事実です。拙著『マルコ福音書講解』でも指摘したように、マルコ福音書はイエスの受難を主題として構成されています。マルコ福音書は、ガリラヤでの福音告知活動、エルサレムへ向かう旅、エルサレムでの最後の一週間の三つの部分がほぼ同じ分量で書かれていて、直接イエスの受難を扱う部分だけでも全体の三分の一、さらに受難への準備の色彩の強い旅の部分も入れると、実に三分の二が、受難の物語に当てられていることになります。それだけでなく、ガリラヤでの活動のごく初期から受難の理由が説明されたり、旅の部分でも受難予告が三度も繰り返されたり、全体の構成が最後の十字架の死を目標にして叙述されていることが分かります。この福音書が「長い序文をつけた受難物語」と称せられるわけです。構成や分量だけではなく、著者自身が福音を要約してこう言っています。すなわち、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ八・三一)ことこそ、イエスが語られた「ホ・ロゴス」である、すなわち福音そのものであると、著者は明言するのです。
 この点が「語録福音書Q」との最大の相違点です。「語録福音書Q」には受難物語がありません。生前のイエスの言葉だけが集められています。たしかに、現在Qの範囲とされている内容が実際の「語録福音書Q」の全部であるとは断言できません。マタイやルカが採用しなかった内容があったかもしれません。しかし、現在確認できる範囲内の語録も、イエスの受難の事実やその意義について全然関心を示していません。この語録福音書の担い手の人々は、イエスの死に神の救いの働きを認めるのではなく、生きておられた時のイエスの生き方に従おうとする人々であったのです。
 第二にイエスの復活に対する態度が違います。この点は先の受難に対する態度の違いほど明確ではありませんが、やはり違いが認められます。『マルコ福音書講解』の終章で見ましたように、マルコはあくまでイエスの復活から出発しています。地上のイエスの働きを物語るという形で、復活してキリストとされた方を告げ知らせているのでした。地上の人間イエスと復活者キリストという二つの次元の落差を埋めるために、マルコは、イエスがキリストであることを秘密にするように命じられたとする「メシアの秘密」や、弟子たちの無理解というような工夫を用いました。マルコが多くの奇跡物語を集めているのも、復活者の顕現を物語るためか、イエスが復活者キリストであることの「しるし」を示すためであったわけです。
 それに対して「語録福音書Q」は、あくまで生前のイエスの言葉に従って生きようとする人々の態度を反映しているだけで、イエスの復活を語ることはありません。とくに、「語録福音書Q」のオリジナルな内容は新しい生き方を教えるアフォリズム集であったとする学者たちは、Qの担い手たちはイエスの復活とか、イエスがメシア・キリストであることには何の関心も持たない人々であった、すなわち彼らはキリスト信者ではなかったと言っています。たしかに、イエスが「人の子」として顕現するとの待望はイエスの復活を前提としているとも考えられます。しかし、語録福音書の「人の子」句は復活を前提にしないでも、生前のイエスが口にされた「人の子」句から派生したとの説明も可能です。いずれにしても、「語録福音書Q」は直接イエスの復活を話題にしたり、信仰の拠り所とすることはありません。このことの結果でしょうか、「語録福音書Q」はイエスの奇跡物語をほとんど含んでいません。
 第三に、マルコは自分の著作が「福音」を告げ知らせる書であることを主張しているのに対して、「語録福音書Q」には「福音」という名詞も概念もありません。新共同訳で見ますと、「語録福音書Q」には「福音」という語が洗礼者ヨハネに関する記事の中で二度出てきますが(ルカ七・二二、一六・一六)、これは「告げ知らせる」という意味で用いられている動詞です。
 マルコは著作の冒頭で、これは「イエス・キリストの福音」であることを明言しています。マルコ福音書には「福音」という語が七回出てきますが、それらはほとんどマルコの編集句に出てきます。すなわち、伝承された素材以外にマルコ自身が説明をする場合にこの表現が用いられているのです。たとえば、イエスがガリラヤで「神の福音」を宣べ伝え始め、「福音を信じなさい」と語られたというように、マルコがイエスの働きを描写する場合(一・一四〜一五)や、「わたしのために」命とか家や畑を失う者について語られている言葉に、「また福音のために」という説明をマルコが加筆している場合です(八・三五、一〇・二九)。この事実は、自分が書いているのは「福音」を告げ知らせるためであるという、マルコの意図を示しています。
 そして、「福音」という用語と観念は、パウロ書簡に示されているように、十字架・復活のキリストというケーリュグマに基づいて告知する流れの中で形成されたものですから、マルコが自分の著作を「福音」を語るものとしていたことは、マルコ福音書がパウロに代表される福音告知の流れの中で、十字架・復活のケーリュグマに基づいて書かれたことを示しています。しかし、マルコが直接パウロ書簡を知っていたかどうかは不明です。
 ですから、マルコの著作は「福音書」と呼ばれるのが自然ですが、「語録福音書Q」の方は自分を「福音」を告げ知らせる書であるとはしていないのですから、これを「福音書」と呼ぶことは、厳密に言えば適当ではありません。たんに「イエスの語録集」とすべきかもしれません。しかし、ある信仰運動の担い手たちにとって信仰の告白あるいは拠り所として、イエス伝承を用いて書かれた文書を広く「福音書」と呼ぶならば、この語録集も一種の「福音書」となります。ここでは、「トマス福音書」の例もありますので、このような広い意味で「福音書」と呼んで話しを進めています。
 第四に、マルコ福音書は初めから異邦人読者を想定しています。異邦人への告知の姿勢は、ペトロやパウロによって代表される「福音」告知活動の特色です。それに対して、「語録福音書Q」の方はあくまでユダヤ人の間の信仰運動であって、異邦人への伝道は問題になっていません。この違いはマタイ福音書の成立を考察するさいに、重要な意味をもつことになります。

 以上、主要な点だけを取り上げて、マルコ福音書と「語録福音書Q」を比較し、マルコ福音書が十字架・復活を内容とするキリスト伝承に基づく福音告知の流れの中で成立した書であることを示しました。マルコ福音書成立の大きな意義は、この流れの中でマルコが初めて、イエスの地上の生涯を物語るという形で「キリストの福音」を書いたという点です。ここに「語録福音書」とは性格が異なる「物語福音書」が誕生したのです。
 イエスの地上の生涯を物語るという形をとるためには、素材として地上のイエスの働きや言葉を伝える伝承が必要です。このような伝承を「イエス伝承」と呼んでいます。一口に「イエス伝承」と言っても、その中にはイエスの言葉を伝える語録伝承もあれば、イエスの力ある業を伝える奇跡物語、さらにイエスの受難の出来事を語り伝える受難物語伝承など、多様な種類の伝承があるわけです。先に見たように、ある人々はイエスの語録伝承を集めて「語録福音書Q」を形成し、独自の信仰運動を展開していきました。しかし語録伝承は「イエス伝承」の一部ですから、この運動だけから初期のイエス運動の性格一般を判断することは誤りです。
 マルコは、イエス伝承の中から語録伝承だけでなく奇跡物語と受難物語を素材として取り上げ、十字架・復活の福音を枠組みとし、その観点からイエスの生涯を物語る著作を構成したことになります。では、そのさいマルコは「語録福音書Q」を知っていて用いたのでしょうか。
 マルコ福音書が書かれるころ(七十年前後)には、「語録福音書Q」はほぼ現在の形で成立し流布していたと見られますので、マルコがそれを知っていて資料として用いた可能性はあります。事実、マルコ福音書の記事の中に「語録福音書Q」と重なる部分があることが認められています。しかし、別の経路で伝えられた伝承(たとえば口頭伝承)を用いていることも考えられるので、マルコはQを知っていたと断定することはできません。むしろ、もしマルコがQを知っていたとすれば、この「語録福音書Q」に対するマルコの扱い方とか態度がマタイやルカと際だって違うことが目につきます。いずれにしても、マルコ福音書は「語録福音書Q」とは異質な種類の福音書であることを確認させます。
 マルコ福音書がどこで成立したかについては、ローマ説、アレキサンドリア説、アンティオキア説などがあって決定していません。この福音書が実際どこで執筆されたにせよ、この福音書を生み出す背景となる福音運動は、やはりシリアに求めるのが順当な推定でしょう。それは、パウロに代表されるような、そしてペトロの権威によって保証される十字架・復活の福音が展開している地域で、しかも豊富なイエス伝承が利用できる地域となれば、やはりシリアということになるからです。そして、マルコ福音書に見られるガリラヤ重視の姿勢から見て、何らかのつながり(たとえばユダヤ戦争の危険をさけてシリアに移住してきたガリラヤのユダヤ人がいたなど)をもつガリラヤ・シリア地域がこの福音書の背景として推測されます。
 もしこの推測が正しいとすると、「物語福音書マルコ」と「語録福音書Q」という異なった系統の福音書が、同じガリラヤ・シリア地域で並行して成立していたことになります。これはマタイ福音書の成立の背景として興味深い見方を提供することになります。

マタイの共同体とマタイ福音書の成立

 マタイ福音書が、マルコ福音書とイエスの語録集の二つをおもな資料とし、それにマタイだけの特殊資料を加えて書かれたものであることは、かなり以前から広く認められていました。ところが、今回ここで見ましたように、イエスの語録集が一つの文書となって「語録福音書Q」として成立していたとなりますと、マタイは「物語福音書マルコ」と「語録福音書Q」という二つの「福音書」をおもな資料として用いたことになります。
 ところで、これまでに見てきたように、この二つの福音書はまったく性格が違います。別の流れの中で成立した別系統の福音書です。その二つの福音書を合わせて一つの福音書を書くということは、決断を要する仕事です。学者が書斎の机の上に二つの文書を並べて、適当に一つの著作にまとめるという性質の仕事ではありません。その仕事は、自分が責任を負う共同体ないし信仰共同体に対し、その信仰の質と将来の進路に重大な影響を及ぼすことになるはずです。マタイはどのような状況に迫られて、このような試みをあえてする決断をしたのでしょうか。
 マタイ福音書の場合も、この福音書がいつ、どこで、どのような状況で成立したのかは、福音書自身の内容や構成から推定するほかはありません。研究者の間で議論は続いていますが、ここでその詳細に立ち入ることはできません。ここでは、マタイがどのような状況でこの決断をしたのかを考察するために、現在広く認められている事実を三点あげておきます。
 1 マタイ福音書を生み出した教会ないし共同体(以下、マタイの共同体と呼びます)は、ユダヤ人信徒の共同体であって、その共同体はシリアのどこかの大きな都市にあったと推定されます。やはりアンティオキアが有力な候補となります。アンティオキアの共同体はごく初期から異邦人を含む共同体でしたが、大都市では家庭集会のようなものも含めて複数の共同体が活動していましたから、ユダヤ人人口が多い大都市ではユダヤ人だけの共同体がその中に存在することはありえることです。とくに、七十年の神殿崩壊以後は、パレスチナから逃れてきたユダヤ人信徒が移住してくるなど、シリアの共同体の人員構成は変化していました。
 2 著者はこのユダヤ人共同体の指導的立場にあったユダヤ人であって、もともとファリサイ派に近い立場にいた律法学者(あるいは学者的人物)であったと考えられます。著者が、七十年以後のユダヤ教の代表的指導者であるファリサイ派律法学者ヨハナン・ベン・ザッカイと驚くほどよく似ていることが指摘されています。古代教会の伝承はこの福音書の著者をイエスの直弟子である使徒マタイとしていますが、それはありえないことです。そうであれば、直接の目撃証人である使徒マタイが、そうでないマルコ福音書を資料として用いたことになるからです。しかし、使徒マタイから発する伝承の流れの中で成立した文書を「マタイによる福音書」とするのは古代の慣習ですから、ここでも本書の著者を「マタイ」と呼んで進めていきます。
 3 福音書の成立年代は、七十年前後に成立したと見られるマルコ福音書と「語録福音書Q」より後であることは確かですが、それほどの年月が経っていないと考えられます。それで成立は八十年代であると広く認められています。

 では、どのような状況に迫られて、著者は「物語福音書マルコ」と「語録福音書Q」を一つにしようという決断したのでしょうか。その状況を知る手がかりは、この福音書自身の中にあります。
 第一に、ファリサイ派ユダヤ教との厳しい対決の姿勢です。七十年の神殿崩壊によって祭儀はなくなり、祭司階級のサドカイ派は没落しました。その後のユダヤ教は、聖書解釈の専門家であるファリサイ派律法学者たちによって再建されることになります。彼らはヤムニアに学院を設立して、世界のユダヤ教徒の指導に当たります。彼らは自分たちの律法解釈に反する非主流派各派や黙示思想運動を異端として断罪し、厳しく追求するようになります。ナザレのイエスをメシアとし、黙示思想的傾向が強く、異教徒をもその中に含むようになったキリスト教団は、ユダヤ教の中に置いておくことができない異端者として弾圧されるようになります。それまではユダヤ教の中にいることを当然とし、ユダヤ人たちに働きかけてきたイエスの信奉者のユダヤ人たちは、厳しい状況に立たされることになります。マタイ福音書はこの段階の厳しいユダヤ教との断絶を反映しています。マタイ福音書には、もはやユダヤ人にイエスを信じるように呼びかける姿勢はなく、「彼らの」会堂や学者たち、と突き放した表現や態度が貫かれるようになります。この福音書のイエスはファリサイ派の学者たちに対して厳しい断罪の言葉を放たれます(二三章)。
 第二に、異邦人伝道に対する矛盾した態度です。この福音書は、異邦人伝道を禁じる地上のイエスの言葉(一〇・五〜六)を残したまま、「すべての民をわたしの弟子としなさい」(二八・一九)という復活のイエスの命令を福音書の締めくくりとしています。この事実は、マタイの共同体が本来異邦人伝道になじまない体質をもっているにもかかわらず、異邦人伝道に乗り出さざるをえない状況を示唆しています。
 このことは、ユダヤ教との対決姿勢と合わせて、マタイの共同体の危機的状況を示しています。エルサレム神殿の崩壊は、キリスト教会側では、イエスが予言された通り不信のユダヤ人に対する神の最終的な裁きと解釈され、ユダヤ教側からの弾圧姿勢と相まって、両者の間には対話の余地のない状況が生まれていました。もはやユダヤ教社会の中に留まることができなくなったユダヤ人キリスト教会は、もし異邦人伝道に乗り出さなければ、不信のユダヤ人社会と異邦人社会に進展している一般のキリスト教会の間で、孤立せざるをえません。実際に、そのような道を歩んで孤立し、歴史の舞台から消えていったユダヤ人キリスト教会もあるのです。そのような状況で、マタイ福音書の著者は自分の共同体の体質的な反対を押し切って、異邦人伝道に乗り出す決意をしたと見られます。そして、そのような状況に促されて、マルコ福音書と「語録福音書Q」を一つに合わせる決断をしたようです。

 マタイ福音書は文学的な形態から見ますと、マルコ福音書の枠組みの中に「語録福音書Q」が素材として組み込まれた形をとっています。その逆ではありません。しかし、マタイの共同体が立っていた伝承という観点から見ますと、「語録福音書Q」が先にあって、マルコ福音書は後になって外から入ってきたものであると見られます。
 この点について、最近のドイツのカトリックとプロテスタント共同の学術的注解である「EKK新約聖書註解」でマタイ福音書を執筆しているU・ルツは、この福音書の綿密な分析検討の結果、次のように言っています。
 「マルコ福音書はシリアにあったマタイの教会の固有の福音書ではなく、外部からユダヤ人キリスト教会に入り込んできたものである。この教会自身の伝承は、主として語録資料に代表されるものであった」。
 マタイの共同体がもともとは「語録福音書Q」の伝承の流れにある共同体であることは、この福音書のいたるところに示されています。その点については、個々の内容を取り扱うさいに触れることになると思います。ここで一例だけあげておきますと、復活されたイエスが弟子たちを派遣されるさいに与えられたとされる命令は、「すべての民に福音を宣べ伝えよ」ではなくて、「すべての民をわたしの弟子とせよ」であり、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」です。この福音書全体を締めくくる言葉は、生前のイエスの言葉を守ることを基本的な主張とする語録福音書の精神にふさわしい表現です。
 マタイの共同体が本来は「語録福音書Q」の共同体であったことを示すもう一つの実例は、さきに見た異邦人伝道に対する態度です。マタイは状況に迫られて異邦人伝道を決意していますが、それに反対する言葉が地上のイエスの語録として保存されているわけです(一〇・五〜六)。この事実は、この共同体に、もともとユダヤ人の間だけの運動として異邦人伝道に無関心な語録福音書の体質があったことを示しています。もしマルコ福音書がこの共同体の本来の福音書であれば、このような現象は起こりえないはずです。
 さらに、マタイがマルコ福音書を取り扱う仕方にも、マタイの「語録福音書Q」の体質が出ています。ここでも一例だけあげますと、マルコがユダヤ教の清めの律法そのものを批判している箇所(マルコ七・一〜二三)を、マタイも取り入れていますが(マタイ一五・一〜二〇)、マタイはそれに一二〜一四節を挿入することによって、それをファリサイ派への裁きの言葉に限定しています。このような取扱い方は、「語録福音書Q」がユダヤ教律法の有効性については疑問を感じていないところからくると見られます。