市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第25講

第九章 恩恵の場に生きる民

       マタイ福音書 一八章




第一節 小さい者への配慮

第四の語録集(18章)

 フィリポ・カイサリヤからエルサレムに向かう最後の旅の途中、イエスとその一行はガリラヤでの福音告知活動の拠点であったカファルナウムに立ち寄ります。そして、「家におられた時」、すなわち群衆から離れて弟子たちだけが回りにいた時、イエスは弟子たちが途中「誰がいちばん偉いか」と議論していたことを取り上げて、心得違いを諭されます(マルコ九・三三〜三七)。マルコの物語がここまで来たとき、マタイは弟子たる者の心構えを説くイエスの語録をまとめて、弟子の共同体の在り方を説く語録集(一八章)としてここに置きます。一八章が一つの語録集(五つの語録集の中の第四)を形成していることは、「山上の説教」など他の語録集と同じ「イエスはこれらの言葉を語り終えると」という句で締め括られている(一九・一)ことからも明らかです。
 第四ブロック(一四〜一八章)では、イスラエルから拒否されるメシア・イエスの回りに、少数ながらイエスをメシア・キリストと告白する弟子たちの集団が形成されることが物語られてきました。そのブロックの最後に、マタイは弟子たちの共同体へのイエスの訓戒をまとめて置きます(一八章)。この語録集では、マタイは現在自分が指導する信徒の共同体を念頭において語っていることは、その中で「教会」《エクレーシア》という語が使用されていることにも示されています(一七節)。
 この語録集の中で、マルコと共通のものは『マルコ福音書講解』に委ね、それを扱うマタイの特色を見るにとどめ、ここではおもにマタイ特有のものを取り上げて見ていくことにします。

いちばん偉い者(18・1〜5)

 最初の「誰が天の国でいちばん偉いのか」という問いを扱う段落(一八・一〜五)では、マタイはイエスと弟子たちとの間の問答(マルコ九・三三〜三五)は省略して、すぐに「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせ」(二節、マルコでは「幼児を腕に抱いて」)、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」というイエスのお答えを置いています(四節)。ただその前にマタイは、マルコでは他のところに出てくる「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」というお言葉を置いて(三節)、「子供のようになる」ことの重要性を強調しています。天の国に入るのに必要な「子供のようになる」ことが、同時に天の国でいちばん偉い者になる道だというのです。
 ここで用いられている「子供」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなく(ユダヤ人社会ではそのような意味はありませんでした)、自分では何もできない完全な依存の象徴です。「子供のようになる」とは、自己を根拠にして存在するのではなく、自分を無にして完全に父の恩恵に身を委ねる在り方を指しています。これは「信仰」の姿に他なりません。神の支配とは恩恵の支配のことですから、神の支配の現実に入るのは、恩恵を恩恵として無条件に受け取り、恩恵に全存在を委ねること、すなわち信仰以外にはありえません。そのように、恩恵の場で自分を無にしている者が、天の国でいちばん偉大な者になるのです。自分を無とする者に、天来の御霊の力が満ちるからです。イエスご自身がそのような「無者」の典型です。
 最後にマタイはマルコ(九・三七)の言葉を、その後半部を略して引用し、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(五節)という語録でこの段落を締め括ります。ここでの「子供」は、存在する価値もないとして社会で無視されている「小さい者」のことであり、そのような者を「受け入れる」とは、そのような者の仲間になり、自分をそのような低い場に置くことです。「わたしの名のために」は、ほかに何の理由がなくても、イエスがそうすることを望まれるからという理由だけで、あるいは「小さい者」がイエスに属する者であるからという理由だけで、受け入れることを指しています。そのように「小さい者」を受け入れる者は、じつにイエスを自分の中に迎え入れていることになる、というのです。イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言っておられます(二五・四〇)。イエスはこのような「小さい者」とご自分を一つにしておられます。このようにマタイは、弟子団の交わりの根本憲法として、自らを低くすることを最初に求めます。
 なお、マタイがマルコ(九・三七)の語録の後半を略したのは、この語録を自分を低くすることを求める意味に限定するためであると見てよいでしょう。

罪への誘惑(18・5〜9)

 「子供」、すなわち「小さい者」を受け入れる者こそ、イエスの望むところを行っている(五節)のだと述べた後、それと対照して、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(六節)と、小さい者をつまずかせる罪の大きさが取り上げられます。ここでは、マタイはほぼマルコの文章と順序に従っています。
 ここの「小さい者」には「わたしを信じる」という説明がついています。マタイは、主イエスを信じる者たちの共同体の中では、取るに足りないとされているメンバーの一人ひとりを大切にして、「小さい者」の一人が「つまずかないように」、すなわち、信仰を失って共同体から脱落しないように配慮することを求めているのです。
 この「つまずかせる」ことの重大さを印象づけるために、マタイは「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(七節)という結び付けの一文を置いて、「つまずき」に関する別の語録(おそらく元々は別の伝承であったと考えられる語録)を続けます(八〜九節)。この語録は「あなたをつまずかせる」という表現が示しているように、「小さい者をつまずかせる」こととは別の問題で、信仰者一人ひとりの自分の問題です。もし片手片目が「あなたをつまずかせるなら」、その片手片目を切り捨てよというイエス独特の激しい表現で、信仰を失い、神との命の交わりから脱落し、「火の地獄に投げ込まれる」ことの恐ろしさが語られています。それは「神の国に入る」ことの真剣さの裏返しの表現です。なお、ルカ福音書一七章の一節と二節には、マタイ福音書一八章の六節と七節が逆の順序で出てきます。

 「地獄」については、『マルコ福音書講解T』52「つまずき」、および、福音講話『キリスト信仰の諸相』の中の「希望の諸相」第2講「希望としての神の国」、とくに「地獄を克服する希望」という項を参照してください。

「迷い出た羊」のたとえ(18・10〜14)

 「小さい者を受け入れなさい」(一〜五節)と「小さい者をつまずかせるな」(六〜九)という訓戒に、「小さい者を軽んじるな」という訓戒が続きます(一〇〜一四節)。そして、「小さい者を軽んじることのないように気をつけなさい」(一〇節前半)という訓戒の理由が二つ上げられます。一つは、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」(一〇節後半)からです。もう一つは、「迷い出た羊」(一二〜一三節)のたとえが語るように、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(一四節)からです。
 どの国でも王に直接謁見できるのは身分の高い重臣に限られます。ユダヤ教でも(とくに当時の黙示思想において)、神の御顔を見ることができるのは、もっとも位の高い天使だけと考えられていました。また、義人には守護天使がついているという思想もあり、イエスはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語られるのです。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に訴えているのです。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そうであれば、どうしてその「小さい者」を無視することができるでしょうか。

 この天使についての語録は他の福音書にはなく、マタイだけにあります。その天使論の内容から見ても、この語録はマタイによる構成である可能性があります。しかし、もしマタイによる挿入であるとしも、ご自分を小さい者と一つにして語られるイエスのお心をよく表現していると見られます。

 次にマタイは、「迷い出た羊」のたとえをここに置いて、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」ことを印象深く説きます(一二〜一四節)。このたとえはルカ福音書にもあり、「語録資料Q」から採られていると見られます。ただ、ルカはこのたとえを、「罪人」と食事を共にすることを非難するファリサイ派の人たちや律法学者たちに対してイエスが語られた反論として、「失われた銀貨」や「放蕩息子」のたとえと並べて置いています(ルカ一五・一〜七)。おそらく、この「迷い出た羊」のたとえの本来の場はそちらにあると考えられます。マタイはそれを「小さい者」を大切にするようにという共同体への訓戒を語る文脈に置くことで、このたとえを自分たちの現在の状況に活かします。マタイがこの福音書を書いたとき、マタイの共同体《エクレーシア》は決定的にファリサイ派律法学者たちの「会堂」《シナゴーグ》と決裂しています。もはや批判に対する反論を必要とする段階は過ぎています。マタイは、このたとえをここに用いることによって、共同体への訓戒を豊かにするのです。したがって、たとえは同じでも結論はルカとマタイでは違います。ルカでは「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」となっていますが、マタイでは「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」となるのです。