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第十二章 メシア・イエスの受難と復活

       マタイ福音書 二六〜二八章

はじめに(26〜28章)

 誕生物語(一〜二章)で始まったマタイのメシア・イエスの物語は、メシアの地上での働きを語る長大な部分(三〜二五章)を終えて、ついにその方の死と復活を物語るクライマックスに達します。このイエスの十字架の死と復活の事実があるからこそ、それまでに語られたイエスの物語がメシア・イエスの物語としての意義をもつことになるのです。その意味で、このイエスの受難・復活の物語(二六〜二八章)は、これまでの物語の終幕をなすだけでなく、物語全体に神の福音としての質を与える根底となっているのであり、実は物語の出発点であるのです。
 イエスの生涯の最終局面を物語るにさいして、マタイは基本的にマルコの受難物語を引き継いでいます。しかし、マルコがその受難物語を空の墓の報告で終えているのを不十分として、マタイは復活されたイエスが弟子たちに顕現された物語を加えています(二八章)。マルコでは「受難物語」でしたが、マタイでは「受難・復活物語」となっています。この点が最大の相違点ですが、詳細に比べると、受難の部分でもマタイはマルコの受難物語にかなりの改変を加えています。この違いは、マタイが置かれていた状況によるものであり、またマタイの固有の思想(神学)の現れでもあります。ここでも、マルコとの違いに留意して、マタイの物語の概要を追いながら、マタイ福音書の特質を明らかにするように努めたいと思います。

 イエスの受難と死を語り伝える「受難物語」がどのように形成され、流布し、福音書記者たちの手元にまで届いたのかという受難物語伝承史の問題、またそれぞれの福音書記者がその伝承をどのように用いたのかという編集史的な問題は複雑で、まだ十分解明されていません。マタイの場合、マタイがマルコ福音書を利用したことは確実ですが、マルコ以外に受難と復活顕現についての伝承をもっていたことも十分推定できます。とくに、マタイが立っている「語録資料Q」の伝統と受難物語伝承の関係は不明な点が多く、将来の解明を待たなければならないと考えられます。現在のところ、「語録資料Q」を生み出した信仰運動は受難物語伝承を持っていなかったとされていますが、事実はそれほど単純ではないのではないかとわたしは考えています。ここでは伝承史の詳細に立ち入ることはできませんので、おもにマルコとの比較を通してマタイが告知する福音の特質を追求することに限定します。




第一節 最後の夜 

四回目の受難予告(26・1〜5)

 マタイは、イエスの働きを物語る本体部分の最後に置いた長大な終末説教(二四〜二五章)を、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」という、他の語録集成を締め括るさいに用いたのと同じ表現で締め括ります(二六・一)。そして、「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(二六・二)という、マタイだけにある四回目の受難予告の言葉で受難物語を始めます。このマタイ固有の四回目の受難予告によって、はじめて受難が過越祭と関連づけられます。マルコ(一四・一)ではただ日付の表示であった部分が、マタイではイエスの受難予告の言葉にされているのです。この言葉によって、イエスの死が過越の成就であることをイエスご自身が宣言されていることになります。
 マタイの物語では、幕の背後で主役のイエスがこれから起こる出来事の意義を宣言される声が聞こえてから、幕が開いて、祭司長たちの謀議という舞台の上で出来事が進展し始めます(二六・三〜四)。これは、イエスこそ出来事の全体を前もって知ってコントロールしておられる方であることを示唆しているのです。彼らは「計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談」します。イエスがエルサレムにいる過越祭の期間中に逮捕しなければならないのですが、祭りの行事のただ中では回りの民衆が騒ぎを起こして暴動になる危険があるので、何とか「ひそかにイエスを捕らえて殺そう」と謀議をこらすのです(二六・五)。この「ひそかに捕らえる」方法について、ユダが舞台に登場します(二六・一四)。

 祭司長たちの「ひそかに捕らえる」謀議の内容については、『マルコ福音書講解U』78「イエスを殺す計画」を参照してください。

ベタニアでの葬りの準備(26・6〜13)

 ユダが登場する前に、マタイはマルコの順序に従い、イエスがベタニアで香油の注ぎを受けられた記事を置きます(二六・六〜一三)。記事の内容もほぼマルコと同じです。この記事の意義については、すでに『マルコ福音書講解U』の79「ベタニアでの油注ぎ」の項で詳しく論じていますので、ここでは重複を避けるために省略して、この機会にこの出来事についての四つの福音書の扱い方の違いについて簡単に触れておきます。
 一人の女性がイエスに高価な香油を注いでイエスを信じ慕う真情を吐露したという出来事は、初期の教団に広く伝承されていたと見られます。その伝承をどのように自分の福音書の中に組み入れて用いるかは、それぞれの福音書によってかなり違ってきています。四つの福音書には、主要な三つの型が認められます。第一はルカの型、第二はマルコ・マタイの型、第三はヨハネの型です。
 ルカ(七・三六〜五〇)は、この出来事をイエスのガリラヤ福音告知の時期に置き、イエスが罪深い女の罪を赦された美しい物語に仕上げています。したがって、ルカの記事にはイエスの葬り準備という意味はありません。この女性の名前は伝えられていませんが、敬虔なユダヤ教徒であれば触れることができないはずの「罪深い女(汚れた女)」であるという記事から、売春婦のような職業の女性だとされてきました。そして、「七つの悪霊を追い出していただいた女性」という伝承(マルコ一六・九、ルカ八・二)から、この女性はマグダラのマリアであると推定され、マグダラのマリアが売春婦であったという伝承が形成されるきっかけになりました。実は、マグダラのマリアが売春婦であったという伝承は、グノーシス主義に対抗するために正統派の教会が意図的に形成した伝承で、かなり後の時代のものです。すなわち、グノーシス主義の諸文書では、マグダラのマリアはもっともイエスの身近にいた女性で、イエスから特別の啓示を与えられていたとされ、ペトロにまさる使徒であるとされていました。それで、女性の聖職者を認めない正統派の教会は、マグダラのマリアの権威を貶めるために、彼女が売春婦であったという伝承を造り上げるのですが、そのさいこのルカ福音書の記事が利用されることになります。しかし、ルカの記事からこの女性を特定することはできません。
 ルカはマルコを知っているはずですから、この出来事を受難の前に置いたマルコに従わないで、あえてガリラヤ福音告知の時期に置いたのは、かなり確実な根拠または理由があったからだと推察されます。むしろ、この女性の伝承を受難の前において、イエスの葬りの備えとしての意義をもたせたのはマルコであると考えられます。この女性の名前が伝えられていないことも同じです。マタイはマルコに忠実に従っています。強いて違いを捜すと、この女性の行為を憤慨して文句を言った人たちが、マルコでは「ある人たち」とされているのをマタイは「弟子たち」とし、マルコの「三百デナリオン以上に売って」を「高く売って」と価格を省略している程度です。
 ヨハネもマルコ・マタイと同じく、この出来事を受難の前に置いて、イエスの葬りの準備としての意味をもたせています。しかし、物語の内容はかなり違っています。これがベタニアで起こったことは同じですが、マルコ・マタイでは「イエスがらい病人シモンの家におられたとき」のことですが、ヨハネではマルタ、マリア、ラザロの三人の家になっています(無理をすれば、シモンの家にこの三人が来ていたと解釈できないこともありませんが、やはりヨハネの記事はこの三人の家での出来事であると見るのが自然です)。マルコ・マタイでは、香油はイエスの頭に注がれますが、ヨハネでは香油はイエスの足に塗られ、髪の毛で拭われます。この点ではヨハネはルカに近い描写になっています。また、文句を言ったのはヨハネではイスカリオテのユダであると特定され、ユダの裏切りの行為と関連づけられています。何よりも大きな違いは、ルカとマルコ・マタイの両方では女性の名前は伝えられていなかったのに対して、ヨハネではラザロの姉妹マリアであるとこの女性が特定されていることです。
 こうして比較して見ますと、一つの伝承が四つの福音書でいかに違った用いられ方をされているかがわかります。その中で、マタイはかなりマルコを忠実に継承して、他とは違う独自のマルコ・マタイ型の伝承を形成していることが目立ちます。このような比較は、それぞれの記事から信仰上の意味を汲み取ることとは別ですが、四福音書の使信の特色を理解するのに役立ちますので、一つの典型的な場合として取り上げた次第です。

ユダの裏切り(26・14〜16)

 ベタニアでの「葬りの備え」の物語に続いて、ユダの裏切りの行為が語られます(二六・一四〜一六)。『マルコ福音書講解U』80「ユダの裏切り」でも述べたとおり、ユダについてはわからないことが多く、彼の裏切りの行為は謎に包まれています。とくにユダがなぜイエスを祭司長たちに引き渡したのか、その動機がさまざまに推察されています。マルコ(一四・一一)もすでにそれが金銭目当ての行為であったことを示唆していますが、ユダの申し出に対して祭司長たちが銀貨を与えることを約束したのであって、ユダの申し出そのものの動機は明確に示されていません。それに対してマタイは、はっきりとユダの裏切りは初めから金銭目的であったと断定して書いています。イエスが選ばれた十二人の弟子の中から裏切り者が出た事実は、初期の教団にとっては重荷であったので、ユダをなるべく卑しい人物にする傾向がありますが、マタイはこの傾向をマルコより一段と進めたことになります。
 銀貨三十枚の報酬を目の前に置かれたユダは(原文は「約束した」ではなく「置いた」)、イエスを引き渡す「良い機会」を狙います。これは、イエスがエルサレムにいる過越祭の期間中に、しかも暴動を避けるために群衆がいないところで「ひそかに」逮捕する機会を狙ったのです。「銀貨三十枚」という報酬の額は、ゼカリヤ書一一章で預言者が、ほふられることに定められた羊の群の羊飼いとなった報酬として受け取り、神の命令により神殿の鋳物師に投げ与えた金額です(一二節)。この金額は、後でユダの自殺についてのマタイ特有の記事(二七・三〜一〇)にも出てきますが、これは出エジプト記(二一・三二)で定められている過失で死亡した奴隷一人の賠償金額から来ていると見られます。ユダの裏切りと自殺に関するマタイ特有の書き方は、謎に満ちたユダの裏切りの出来事を、マタイが旧約聖書の預言句によって構成している様子がうかがわれます。

過越の食事の日付(26・17)

 マタイの物語もいよいよ最後の晩餐の記事(二六・一七〜三〇)に入ります。ここでもマタイは基本的にはマルコに従っていますが、多少の変更を加えているところにマタイの特色が出ています。ここでも、それぞれの出来事の信仰的な意義は『マルコ福音書講解』のそれぞれの段落の解説に委ねて、マタイの物語の特色を見ていくことにします。
 まず、この晩餐が行われた日付について、マルコ(一四・一二)が「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」としているのを、マタイ(二六・一七)は「除酵祭の第一日」だけにしています。「除酵祭の第一日」というのはニサンの月(現行暦では三月から四月にかけての一ヶ月)の一五日です。ユダヤ暦の一日は日没から始まりますから、その夜に行われる過越の食事のための小羊は、日没前、すなわち前日の一四日の昼に屠られることになります。マルコが小羊が屠られる日(一四日)と過越の食事が行われる日(一五日)を同じ日としたのは、朝から一日が始まるギリシア人やローマ人の日の数え方(われわれも同じ)に従って見ているからです。ところが、ユダヤ人に向かって書いているマタイはこのような不正確な書き方はできません。正確にユダヤ暦に従う以上は、「過越の小羊が屠られる日」は「除酵祭の第一日」の前日になるわけですから、マタイはこの句を省略します。
 そうするとユダヤ暦の「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日は、イエスの最後の日となります。その日が始まる夜に過越の食事、ゲツセマネでの逮捕、大祭司の予審があり、夜が明けてから最高法院での判決、ピラトの裁判、十字架刑、埋葬という出来事がすべて起こった一日となります。

 このイエスの死の日付については共観福音書は一致しています。ところが、ヨハネ福音書ではイエスが死なれたのは、過越の小羊がほふられる「過越祭の準備の日」、すなわちニサンの月の十四日とされています(ヨハネ一八・二八、一九・一四)。ヨハネ福音書によれば、イエスはまさに神殿で過越の小羊がほふられている時に死なれたことになります。この一日の食い違いの問題はいまだに解決されていません。しかし、どちらにしてもこの食事のときのイエスの言葉は過越祭の背景で理解されなければならない点では同じです。詳しくは『マルコ福音書講解U』81「最後の晩餐」を参照してください。

過越の食事の準備(26・17〜19)

 過越の食事を準備する場面(二六・一七〜一九)では、マルコ(一四・一二〜一七)は、弟子たちを使いに出すとき、都に入ると水がめを運んでいる男に出会うから、その男について行くように指示されたとしています。この指示は、イエスが出来事を事前に予知されていたとも、予め打ち合わせがしてあったとも受け取れますが、マタイははっきりと事前に打ち合わせがしてあったとして物語を進めています。マタイ(一八節)では「都のあの人」と言われれば、それが誰であるかは弟子たちも分かることが前提されています。イエスはエルサレムで過越のときに死ぬことが神の定めであると受けとめて、その日に向かってすべてを運んでいかれるのです。この時、イエスは「わたしの時が近づいた」と言っておられます。この言葉は、イエスの覚悟をよく示しています。イエスは自分の死が神の救いの業が成し遂げられる時であると受けとめ、それを「わたしの時」と呼んで、その時に向かって歩まれるのです。ゲツセマネで逮捕されるときも「時が近づいた」(二六・四五)と言っておられます(マルコ一四・四一では「時が来た」)。

 イエスがご自身の受難の時を「わたしの時」としておられたことは、ヨハネ福音書でとくに強調されていますが、それがヨハネの構想から出たヨハネ福音書だけのものではなく、すでにイエス伝承の中にあったことがマルコ・マタイの記事からわかります。すなわち、この「時」の理解はイエスご自身から出ていると見られます。

 イエスは世を去る前に弟子たちと過越の食事をすることを切望されました(ルカ二二・一五)。それは、過越祭の光の中で、御自分の死の意義を弟子たちに語っておくためです。このもっとも大切な言葉を語る場として、最後になる過越の食事を周到に用意して迎えられるのです。弟子たちはイエスの指示通りに準備します(一九節)。そして、「夕方になると」、すなわち日没後、いのちを狙う神殿当局者たちの目につかないように、ひそかに食事が準備された家に入り、「十二人と一緒に食事の席につかれた」のです(二〇節)。遺言ともいうべきもっとも大切な言葉を弟子たちに言い残す機会を、むざむざと敵対者に踏みにじらせるわけにはいきません。

 イエスが「都のあの人」と言われたエルサレム在住の支持者が誰であるか、その家がどこにあったのか、正確に特定することはできません。しかし、この最後の晩餐が行われた家が、イエスの復活後、信徒たちの集まる場所となり、エルサレムの原始教団が活動した場所となったと推察されます(使徒一・一二〜一四)。そして、その家は使徒言行録一二・一二の記事から、ヨハネ・マルコとその母マリアの家であるとされてきました。古代教会の伝承から、この家があった所に「最後の晩餐教会」が建てられたとされていますが、この教会は現在エルサレム南西部のシオン地区にあるので、この最後の晩餐が行われ、エルサレム原始教団が集まった家もこのシオン地区にあったと推察されます。このシオン地区には、「エッセネ門」の存在が示唆するように、エッセネ派の拠点もあり、エルサレム原始教団がエッセネ派から強い影響を受けたことが推察されることになります。

裏切りの予告(26・20〜25) 

 この最後になる食事の席で、イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」という重大な発言をされます(二一節)。驚いた弟子たちが代わる代わる、「まさかわたしのことでは」と言い始めますが、イエスは「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言われます(二三節)。この「手で鉢に食べ物を浸した者」は単数形ですが、みながこうしているのですから、特定の人物を指していることにはなりません。「わたしと一緒に」食事をするというもっとも親しい内輪の者が裏切るということを語っておられることになります(詩編四一・一〇参照)。そして、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言って、裏切る者のために嘆かれます(二四節)。
 ここまではマタイはほぼマルコに従って物語を進めていますが、最後にマルコにない記事を加えています。マタイは、「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ』」と書いています(二五節)。このイエスの言葉「それはあなたの言ったことだ」は、最高法院での大祭司の審問に対して、またピラトの法廷でピラトの問いに対してイエスがなされた答えの言葉と同じ形です。

 この箇所では「言った」と過去形ですが、最高法院での大祭司への答え(マタイ二六・六四)とピラトへの答え(マルコ一五・二と並行箇所)では「それを言うのはあなただ」と現在形です。しかし、「あなた」が強調された構文であることは共通しています。すなわち、それを言うのはわたしや他の者ではなく、あなた自身だという意味です。『マルコ福音書講解』で述べたように、イエスはピラトの法廷で、「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトが訊ねたのに対して、「そう言うのはあなたの方だ」(マルコ一五・二私訳)と答えておられます。わたしがユダヤ人の王であると言っている(主張している)のではない、あなたがそう言って(主張して)わたしを処刑しようとしているのだ、と答えておられるのです。ピラトの法廷は公開で、弟子たちもこのイエスの言葉を聞いたのでしょう。裁判の場でイエスが発せられた唯一の言葉は大切に伝承されて、広く知られていたと考えられます。それでマタイは、弟子たちが直接見たのではない最高法院での裁判においても、イエスはこの言葉で大祭司の審問に答えられたとするのです。そしてマタイは、この表現をユダの場合にも用いるのです。

 「わたしが裏切り者でしょうか」というユダの問いかけに、「それを言った(決めた)のはあなたの方だ」と言って、イエスはそれをユダの側が決めた問題として、ユダに委ねられます。弟子の一人に裏切られて死ぬことを、神の定めとして受け入れておられる姿を、マタイはこの言葉で描くのです。そして、その裏切りの器として用いられるユダに対する深い憐れみから、「生まれなかった方が、その者のためによかった」と嘆かれるのです。

主の晩餐(26・26〜30)

 すでに「一同が食事をしているとき」という句で食事が始まっていることを述べていながら(二一節)、マタイは(マルコと同じく)ユダの裏切りの記事の後で再び「一同が食事をしているとき」を繰り返します(二六節)。これは、二六〜二九節が初期の教団において、信徒の集まりの中心であった「主の晩餐」の場で繰り返し唱えられた、独立した重要な一段であるからです。イエスが弟子たちに最後に語られた重要な言葉、いわばイエスの遺言というべき言葉がここに伝えられているのです。
 ユダヤ教の過越の食事とこの記事でのイエスの振舞いと言葉との関連、イエスの言葉の伝承の過程、この言葉の終末的な性格、さらに「マーシャール」(謎、象徴)としての意義など、信仰上重要な事柄は『マルコ福音書講解U』の81「最後の晩餐」の項で詳しく解説しましたので、ここでは省略し、マタイの特色に焦点を合わせて、ごく簡単に物語を追うことにします。
 この「主の晩餐」の伝承でも、マタイはマルコに忠実に従っています。「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた」言葉は、「取って食べなさい。これはわたしの体である」となっています。マタイは、マルコの「取りなさい」に「食べなさい」を加えていますが、本体の「これはわたしの体である」という衝撃的な「謎の言葉」《マーシャール》は同じです。
 また、「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた」さいの、「皆、この杯から飲みなさい。これはわたしの血である」という、ユダヤ人にはさらに衝撃的な言葉もそのまま伝えています。そして、その血を説明する「多くの人のために流される契約の(血)」という言葉も同じです。ところがマタイは(原文の語順では)最後に「罪の赦しのための」という句を加えています。ここの「罪」はユダヤ教の罪の用語に普通に見られる複数形であり、律法に違反する諸々の行為を指していると見られます。初期の教団のユダヤ人指導者たちが形成した福音の定式(たとえばコリントT一五・三〜五)に見られるように、イエス・キリストの死は「わたしたちの諸々の罪過のため」の死であるという理解がここにも見られます。
 この記事の存在から、マタイの共同体もその集会において「主の晩餐」を守っていたことが分かります。初期の信徒の共同体は、「主の晩餐」を礼拝の中心として集会をしていました。パンとぶどう酒を用いる共同の食事で、そのパンとぶどう酒が主イエスの死を記念するしるしであることが、この「主の晩餐」の段落の言葉が唱えられて指し示されたのです。このような「主の晩餐」のときに用いられたイエスの言葉の伝承が、新約聖書では少しずつ違った形で四カ所に伝えられています。その違いは、この伝承がそれぞれの共同体で用いられていく過程で生じたものと考えられますが、中核になるイエスの元の言葉は、パンについての「これはわたしの体である」と、ぶどう酒についての「これはわたしの血である」という《マーシャール》(謎の言葉)であると、わたしは見ています。

 「主の晩餐」の四つの伝承と、イエスの元の言葉についての考察は、『マルコ福音書講解U』の81「最後の晩餐」を参照してください。なお、マタイがその流れを汲む「語録資料Q」には受難物語伝承が含まれていないとされていますが、そうすると「語録資料Q」を生み出したユダヤ人の信仰運動には「主の晩餐」はなかったことになり、マタイの共同体が「主の晩餐」を行うようになったのは、マルコ福音書を受け入れたからか、それとも他の状況からか、解明されていない問題が残ります。本来知恵の運動とされる「語録資料Q」の流れから、「主の晩餐」という救済祭儀を行うマタイの共同体が生まれた過程は、初期の福音の展開史の解明にとって一つの課題となります。

 「主の晩餐」において、パンを食べることとぶどう酒を飲むことが、このイエスの言葉によって、主イエスの体を食べ、主イエスの血を飲むことになるという衝撃的な内容になります。裂かれた体とか流された血は、ともに暴虐によってもたらされた死を意味し、イエスの十字架上の死を指しています。「主イエスの体を食べ、主イエスの血を飲む」とは、このイエスの死を自分のための死と受け止め、十字架されたイエスを主と告白し、主イエスに自分を委ねきり、主イエスと一体となることです。そこにキリスト・イエスの霊が注がれ、御霊による新しい生が始まるのです。
 この霊的な内容を受け取ることができず、この「主の晩餐」を、それにあずかることによって救いが保証される祭儀として理解する傾向が、ごく初期から出てきていたようです。福音が進展していったヘレニズム世界は、「密儀」が盛んな世界でした。「密儀」《ミュステーリオン》とは、準備ができた特別の資格のある者だけに許された秘密の儀式で、その儀式にあずかる者は永遠の生命とか救済を保証されるのです。ヘレニズム世界では、「主の晩餐」がこのような密儀の一つと理解される傾向は避けられなかったようです。
 すでに新約聖書の中で、このような「主の晩餐」の祭儀化を克服して霊的内容を回復しようとする努力が見られます。それがヨハネ福音書六章(とくに五二〜五九節)です。ヨハネ福音書の最後の食事の記事(一三〜一七章)には「主の晩餐」制定の記事はなく、イエスが弟子の足を洗われた後、イエスが世を去られた後、別の「同伴者」(聖霊)が来られて、弟子たちは聖霊という姿で一緒にいてくださる主イエスと一緒に歩むようになることが語られます。すなわち、その体を食べ、その血を飲むという言葉で指し示されていた復活者イエスとの合一が、聖霊による現実として詳しく展開されるのです。現代のわれわれも、「主の晩餐」を救いを保証する祭儀としてではなく、聖霊によって復活者イエスと結ばれて歩む日々の現実の「しるし」として受け止めて、それが指し示す聖霊の現実に生きなければならないと思います。

ペトロ離反の予告(26・31〜35)

 過越祭の規定に従い、「ハレル詩編」の後半(詩編一一五〜一一八編)を歌って食事を終え、一行は市街を出て、城壁の東側にあるキデロンの谷を通り、オリーヴ山に向かいます(二六・三〇)。律法の規定(申命記一六・六〜七)によれば、イスラエルの民は過越の食事をした夜はエルサレムで過ごさなければならないのです。当時、巡礼者の数が多く、城壁内の市街地だけでは泊まれないので、オリーヴ山西側斜面もエルサレムに含まれていたのです。イエスがオリーヴ山に向かわれたのは、律法の規定を守るためだけではなく、夜陰に乗じてエルサレムから離れることをせず、あえて祭司長たちの勢力が及ぶ地域に留まることで、苦しみから逃れようとされない覚悟を示すものです。
 オリーヴ山に向かう途中、イエスは、弟子たちが皆イエスにつまづくという預言をされます(二六・三一〜三二)。ご自分が歩もうとされる道を、まだ御霊を受けていない弟子たちは一緒に歩むことができないことを見通しておられるのです。それを「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」というゼカリヤ書(一三・七)の預言を引用する形で語られます。その上で、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と予告されます。エルサレムで処刑されたイエスにつまずき壊滅する弟子団が、復活されたイエスによってガリラヤで再建されることが予告されるのです。

 イエスがご自分の復活を予告されたとされる言葉が、ここ以外には三回の受難予告の言葉と変容の山を下りるときの言葉(マルコでは九・九)があります。しかし、イエスがご自分の復活を明確に予告されたかどうかは検討の必要があります。受難予告の言葉は、「人は人々の手に渡される」というイエスの《マーシャール》(謎の言葉)を核として、イエス復活後の教団が形成したものと推測されます(詳しくは『マルコ福音書講解T』の48「死と復活の二度目の予告」の項を参照)。またマルコ九・九の言葉も「メシアの秘密」の動機からマルコによって形成された句である可能性があります。ここの予告も、ガリラヤへ逃げ帰っていた弟子たちがガリラヤで復活の主の顕現に接した体験を、イエスの予告の言葉として教団が形成した可能性を否定しきれません。もともと福音書はイエスが復活された方であることを宣べ伝えるために書かれた文書ですから、これをイエスの予告とする動機は十分にあることになります。しかし、これが復活後の教団の形成によるものであるとしても、逃走し壊滅した弟子団がガリラヤで復活の主の顕現に接して、まったく新しい質の弟子団として再建されたという事実の霊的意義とその重要性は変わりません。なお、マルコ・マタイ(及びヨハネの付加部分)が復活者の顕現をガリラヤとしているのに対して、ルカとヨハネはエルサレムとしていることは、最初期の教団形成の過程について複雑な問題を提起していますが、これは別の機会に譲ります。

 皆つまずくというイエスの予告に対して、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(三三節)と抗議します。大変な自信です。ペトロはイエスに対する自分の忠誠心にいささかの疑念ももっていません。どのような状況になっても、忠誠心を貫く力が自分にはあると確信しています。普通このような忠誠心とか確信の強さが信仰であるかのように考えられていますが、逆です。信仰とはこのような自信が崩壊して、人間の側の能力や資格が無になってしまう場において、神の恩恵によってはじめて成立するのです。人間の力ではイエスの道を歩むことはできないのです。
 このことをよくご存知のイエスは言われます、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(三四節)。ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(三五節)と、さらに勇ましい言葉で自分の決意を表明します。他の弟子たちも皆、同じように言います。しかし、ペトロも他の弟子たちも、そのような自信がいかに脆いものであるか、すぐに身をもって思い知ることになります。

ゲツセマネ(26・36〜46)

 過越の夜をエルサレムで過ごすために、イエスは弟子たちと一緒にオリーヴ山の西側山麓にある「ゲツセマネ」と呼ばれる園に入られます。イエスはベタニアからエルサレムに通われる途中、しばしば弟子たちとここに集まり祈っておられたのです(ヨハネ一八・二)。このゲツセマネでの最後の祈りについても、マタイ(二六・三六〜四六)はほぼマルコ(一四・三二〜四二)をそのまま引き継いでいますが、わずかに変更を加えています。イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて園の奥に入り祈られるのですが、マタイは「ペトロおよびゼベダイの子二人」としています。おそらく、この変更はペトロの名だけをあげて、ペトロの権威を高めるためでしょう。また、イエスの苦悶の表情を伝えるのに、マルコが「ひどく恐れてもだえ始め」としているところを、「悲しみもだえ始め」とやや表現をやわらげています。そして、二度目の祈りについて、マルコが「同じ言葉で祈られた」としているところを、マタイは「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と、やや詳しくその内容を解説的に付け加えています。マルコは「時が来た」としているのに、マタイは「時が近づいた」としています(マタイがほぼマルコを踏襲しているのに対し、ルカはマルコのゲツセマネの記事をはるかに簡略にしています)。
 このような僅かの変更があるとしても、ゲツセマネにおけるイエスの祈りが垣間見させる霊的秘義の理解には影響はありません。イエスがなぜこのように「悲しみもだえ始め」られたのか、イエスが「わたしから取り去ってください」と切に祈られた「杯」とは何か、ここで何が起こっているのか、このような霊的秘義についてはすでに『マルコ福音書講解U』の83「ゲツセマネの祈り」の項で詳しく論じています(以下はその要約です)。「キリストはわたしたちの罪のために死に」という出来事が、ここで始まっているのです。「杯」は神の審判の象徴です。罪に対する神の怒りが満たされた杯です。父と親しい交わりに生きてこられた子である方が、父から怒りの杯を突きつけられておられるのです。イエスがこの杯を飲み干す以外の救いの道があるならば、取り去っていただくことを切に願わないではおれない杯です。この突きつけられた杯を前にして、子であるイエスは「ひどく恐れもだえ始め」られます。十字架刑の肉体の苦しみを恐れておられるのではなく、神の裁きを受けることに苦悩しておられるのです。本来罪にあるわたしたちが受けるべき苦しみを、罪のないイエスが苦しんでおられるのです。そして、人を救うためにこの苦しみを愛するひとり子に課しておられる父も、息子イサクを供え物として捧げようとしたアブラハムの苦悩のように、御子と一緒に苦しんでおられるのです。

イエスの逮捕(26・47〜56)

 「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」(二六・四七)。ユダは祭司長たちに、イエスを群衆のいないところで「ひそかに捕らえる」ことができる「秘密の祈りの場所」を通報し、自ら案内して来たのです。祭司長たちと長老たち、すなわち最高法院の中枢部は、弟子たちの抵抗を恐れて、武装した群衆を一緒に派遣します。この点でマタイはマルコと同じですが、ヨハネ福音書(一八・一二)は「千人隊長に率いられた一隊の兵士(ローマの正規軍)とユダヤ人の下役たち(神殿警備の武装警官)」が出動して、イエスを逮捕したと伝えています。わたしはヨハネ福音書の記事の方が事実に近いと考えています(理由は『マルコ福音書講解U』の84「イエスの逮捕」を参照してください)。
 「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた」(二六・四八)とあるのも、イエスをよく知っているユダヤ人の群衆よりも、イエスと面識のないローマの隊長への合図とする方が理解しやすくなります。こうしてユダは、師に対する敬愛の接吻をもってイエスを裏切る行為を実行するのです。ユダが接吻したとき、イエスは「友よ、何のためにここに来ているのか」(二六・五〇直訳)と言われたと、マタイはマルコにはないイエスの言葉を入れています。ユダが裏切るまさにその場面でなお「友よ」と呼びかけておられることが印象的です。
 「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」(二六・五一)という事件が起こります。剣を抜いたのは弟子の一人ではなく、「イエスと一緒にいた者の一人」としているのもマルコと同じです。その者が誰であるかは分かりませんが、マルコ・マタイは(そしてルカも)それが弟子以外の者であることを言おうとしています(ヨハネ福音書はペトロであるとしています)。そのときイエスは言われます、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(二六・五二)。マタイは、マルコにはないこの重要な言葉をこの場面で用いて伝えてくれています。実際にイエスがこの場面でこの言葉を語られたことは十分ありえることです。しかし、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉は、イエスが普段語っておられた言葉であって、それをマタイがこの場面での「剣をさやに納めなさい」という言葉(これはヨハネ福音書にもあります)に続けた可能性も否定できません。
 イエスの時代の状況を考えますと、イエスが弟子たちに普段から「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉を語っておられた可能性が高いとわたしは見ています。イエスの時代にはゼーロータイ(熱心党)の運動がだんだん盛んになってきており、剣を取って戦い、武力で異教徒の支配を覆し、「神の支配」を実現するのだという熱心が高揚していました。それに対して、イエスが説かれた道は、「山上の説教」に典型的に現れているように、力ずくの道とは正反対の「敵を愛する」道であったのです。この力に頼る道を戒めるために、イエスはこの格言(マーシャール)的な言葉を用いられたのではないかとわたしは推察しています。

 「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という語録は、ルカに並行箇所がないために、「語録資料Q」の語録一覧表には含まれていません。しかし、内容からすると「語録資料Q」にあってもおかしくない言葉であって、ルカが何らかの理由でこの語録を用いなかった可能性を考えてもよいのではないかと思います。

 マタイはさらにマルコにない言葉を加えます。イエスは言われます、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(二六・五三〜五四)。イエスが全然抵抗することもなく逮捕されたのは、逮捕しに来た群衆を撃退する力がイエスにないからではなく、逮捕され苦しみを受けることが聖書に書かれている父の御旨であるから、イエスが自発的に父の御旨に身を委ねられたのだというのです。ここにも、イエスの身に起こったことはすべて聖書に預言されていたことの成就であるというマタイの強調が出ています。このことは、すぐ後(五六節)でマルコ(一四・四九後半)の言葉をほぼそのまま引き継ぎながら語られるのですが、それが成り行きでそうなったのではなく、イエスの自発的な意志によるものであることを、マタイはこの言葉を加えて強調するのです。
 イエスは逮捕しに来た群衆に言われます、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」(二六・五五〜五六)。ここで「強盗」と訳されている語《レーステース》は、当時では反ローマの武装革命家を指す用語であり、バラバやイエスと一緒に十字架にかけられた二人もこう呼ばれていました。この一週間、イエスは逃げ隠れていたのではなく、公然と神殿に座って民衆に教えていたのに逮捕せず(民衆の暴動を恐れて逮捕できなかったのです)、いま夜陰の中でひそかに、しかも武装反乱勢力を鎮圧するための軍隊のような規模で逮捕しに来たのか、とイエスは彼らの陰険な意図を指摘されます。しかし、「預言者たちの書いたことが実現するため」に、彼らの手にご自身を委ねられます。
 「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(五六節後半)。つい先ほど「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロも、同じようにイエスに従う決意を表明した他の弟子たちも皆、「イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。ユダだけでなく、ペトロも他の弟子も皆イエスを裏切ったのです。ここでイエスの弟子団は崩壊したのです。