市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第39講

第五節 メシア・イエスの復活

埋葬(27・57〜61)

 このように、イエスは十字架の上で絶命されます。その時すでに日没が近い夕方になっています。「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」(マルコ一五・四二)、日没までに急いで遺体を十字架から取り降ろして埋葬しなければなりません。日没とともに安息日が始まると、このような作業は安息日律法で禁止されているのでできなくなり、「木にかけられた死体は、かならずその日のうちに埋めなければならない」(申命記二一・二二〜二三)という律法を守れなくなるからです。マタイはこの日が「準備の日、すなわち安息日の前日」であることをここでは明言していませんが、後(二七・六二)で間接的に説明しています。
 弟子たちはみな逃げ去って誰もいません。その場に居た女性たちはどうしたらよいのか途方にくれたのではないかと想像されます。その時、「アリマタヤ出身のヨセフという人」が現れて、イエスの遺体をユダヤ教の慣例に従って丁重に埋葬します(二七・五七〜六〇)。このヨセフの行動は、福音の告知において重要な意味を持つことになるので、四つの福音書はみな詳しく報告しています。もしヨセフがイエスの遺体を墓に埋葬しなければ、当時の律法規定からすると、イエスの遺体は犯罪者墓地に放棄されたかもしれず、「空の墓」という復活証言はありえなかったことになるからです。
 マルコを初め他の福音書はヨセフをアリマタヤ出身の「名望ある議員」であるとしていますが、マタイは「議員」という身分を省略し、ただ「金持ち」という説明だけをつけています。議員であってもなくても、「金持ち」として地方の有力者である者にとって、「ピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるように願い出る」ことは、勇気のいる行動です。イエスはユダヤ教の最高法院で異端として死刑の判決を受け、ローマ総督によって反逆の罪で処刑された人物です。そのイエスの遺体を引き取って葬ることは、自分もイエスの仲間と見られる危険があります。それまで「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(ヨハネ一九・三八)ヨセフは、ここにきて意を決してイエスの仲間であることを公に言い表す行動に出るのです。ヨセフは、このとき「ユダヤ人たちを恐れて」逃げ去った弟子たちよりも、信仰では勝ります。また、まだ復活の報知もない時に十字架につけられたイエスを言い表すことにおいて、われわれの信仰に勝ります。マルコとルカはヨセフのことを「神の国を待ち望んでいた」という、やや漠然とした表現で描いていますが、マタイははっきりと「この人もイエスの弟子であった」と言って、弟子としてのヨセフの行動を賞賛するのです。
 「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去」ります(二七・五九〜六〇)。イエスの遺体を葬った墓がヨセフの墓(ヨセフが自分のために用意しておいた墓)であったことを伝えているのはマタイだけです。他の福音書はみな、たまたまそこにあった新しい墓にイエスの遺体を納めたという印象を与える書き方をしています。エルサレムから(北西へ)四〇キロも離れた地中海近くの町アリマタヤの人であるヨセフがエルサレムに墓地を用意していることは考えにくいので、他の福音書の記事の方が自然に感じられますが、当時の裕福なユダヤ人がエルサレム近郊に墓地を持つことを願ったという事実(前述)を考慮しますと、それがヨセフが自分のために用意した墓であったこともありえます。それがヨセフの墓であったかどうかは、復活証言としての「空の墓」にとって重要ではありません。いずれにしても、それが「新しい墓」であったことが重要です。「新しい墓」ではなく、すでに使用された墓であれば、その墓をイエスの復活証言とするためには、そこに残っている遺骨がイエスのものでないことを証明しなければならなくなるからです。
 「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(二七・六一)とあるのは、この二人が「イエスの遺体を納めた場所を見とどけた」(マルコ一五・四七)という意味です。後に墓が空であったことが復活証言として重要な意味をもつことになりますが、その空の墓が間違いなくイエスの遺体を納めた墓であることを確認する証人として、二人のマリアの名がここに置かれています。そして、この二人のマリアが自分たちの見とどけたこの墓に週の初めの日に行って(二八・一)、その墓が空であることを見つけるのです。

墓を見張る番兵(27・62〜66)

 マルコでは(ルカとヨハネでも)この後すぐに、物語は「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」女性たちが墓に行って、イエスの遺体を納めた墓が空になっているのを見つけることになります。ところが、マタイはここに他の福音書にはない独自の記事(二七・六二〜六六)を入れます。祭司長たちとファリサイ派の人々がピラトに番兵を置いて墓を見張るように要求したというのです。この記事は、イエスは復活して墓は空であったという弟子たちの福音告知に対抗するために、弟子たちが遺体を盗んだのだという噂を反対者たちが言いふらしたという記事(二八・一一〜一五)と一体で、マタイだけにある特殊な伝承です。その噂についてはその記事のところで触れることにしますが、ここでは番兵を置いたという事実だけに着目します。
 「明くる日」というのは、イエスが絶命されたのは「準備の日」(金曜日)の日没が迫る頃でしたから、安息日(土曜日)ということになります。その日のことについて、マタイは「安息日に」と言わないで、「すなわち準備の日の翌日」という奇妙な説明を加えています(六二節)。安息日にユダヤ教の聖職者が異教徒ピラトの官邸に入ることはありえない(ヨハネ一八・二八参照)という考えから、この伝承を用いるに際して、マタイが「安息日」という語を避けて不自然な説明を入れたのかもしれません。
 祭司長たちと「ファリサイ派の人たち」がピラトに番兵を置くように要求した理由も不自然です。イエスが生前に御自分の受難を予告されたとき、復活の予告が含まれていたとしても、それはごく限られた弟子たちだけになされたのであり、しかも誰にも語るなという厳しい命令を伴っていたので、祭司長たちや律法学者たちが復活の予告を聞いたことはまずありえません。しかも「三日目まで見張るように」という期限は、イエスが三日目に復活されたという初期の福音告知に対抗するために創られた物語であることを強く示唆しています。「ファリサイ派の人たち」の関与が強調されているのも、マタイの時代に対立していたユダヤ教会堂がファリサイ派ユダヤ教であったことから出ていると見られます。「人を惑わすあの者(あのいかさま師)」という言い方も、復活者イエスを拒否したファリサイ派会堂がイエスに投げつけた罵声です。この番兵に関する記事全体は、弟子たちがイエスの遺体を盗んで復活の宣伝をしているという反対者たちの噂に対抗するために、それが金で買収された番兵による作り話であるとする、教団側の(やや不器用に形成された)伝承をマタイが用いたものと見られます。
 祭司長たちの要求に対してピラトが言った言葉は、「あなたたちには番兵がいるのだから」(新共同訳)と「番兵を出してやるから」(新改訳、NTD)の二つの解釈があります。前者はユダヤ教側の神殿警備の警官を指し、後者はピラト配下のローマ兵士を指すことになります。後者の解釈は、番兵を出すことをピラトに願い出たという事実(自分たちの警備ではできないと考えて)と、この番兵たちがピラトの配下であることを示唆する二八章一四節の言葉に合わせるためであると考えられます。
 祭司長たちは兵士たちと一緒に墓に行って、ヨセフが墓の入り口をふさぐために転がしておいた大きな石(二七・六〇)に封印をして、番兵に墓を見張らせます。

空の墓(28・1〜10)

 「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」、女性たちが墓が空であるのを見出すという基本的内容はマルコと同じですが、マタイの「週の初めの日の明け方」の物語(二八・一〜八)はマルコとはかなり違っています。マルコでは三人の女性が墓に行きますが、マタイではサロメが抜けて、「マグダラのマリアともう一人のマリア(ヤコブの母マリア)」となっています。そして、マルコにあった遺体に香料を塗るという目的には触れられていません(二八・一)。
 マルコでは女性たちが墓に行くと石はすでに転がしてあったのですが、マタイでは「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(二八・二〜四)と、その情景が詳しく描写されます。「大きな地震」は終末の到来を告げる黙示思想的象徴(二七・五一参照)で、イエスの復活が終末の出来事であることを指し示しています。そしてさらに、石を転がしてその上に座った「主の天使」の姿が「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と、終末の出来事にふさわしい黙示文学的な用語で描かれます(二四・二七や黙示録八・五などの稲妻、黙示録四・四などの白い衣を参照)。この世のものでない威厳と栄光をまとった天使の出現に、「番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」のです。この点も、マルコの墓の中で女性たちに現れて語りかけた「白い長い衣を着た若者」とは違います。マルコ(一六・八)では、女性たちがこの天的な出現に恐れをなして、「震え上がり、正気を失った」のですが、マタイでは番兵たちがこうなって、女性たちは「恐れながらも大いに喜び」、報告のために墓を立ち去ることになります(二八・八)。
 主の天使は二人の女性に言います、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」(二八・五〜七)。この天使の言葉は、マルコが伝える白い衣の若者の言葉とほぼ同じです。天使はイエスの遺体を置いた場所を指して、「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と告知します。そして、マルコにはない「あの方は死者(複数形)の中から復活された」という言葉で、イエスの復活の意義が念を押すように付け加えられます。これは、イエスの復活を「死者たちの復活」の開始であると理解した初期の福音の反映です(二七・五一〜五三の講解を参照)。
 天使の出現を見た女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のです(二八・八)。この点は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」で終わるマルコ(一六・八)とは違います。マタイはマルコの結末を受け入れないで、復活されたイエスの顕現の物語を加えて、自分の「メシア・イエスの物語」を完結したものにしようとします。
 復活されたイエスが最初に御自身を現されたのはこの二人の女性、すなわち「マグダラのマリアともう一人のマリア」です。復活されたイエスが最初に御自身を現されたのはマグダラのマリアであるという伝承はかなり広く知られていたようで、マルコの終わり方を不自然として付加された「結び」の部分にも用いられています(『マルコ福音書講解U』330頁以下を参照)。また、ヨハネ福音書(二〇・一一〜一八)はマグダラのマリアへの顕現を詳しい物語にして、復活証言の最初に置いています。マタイはここまでの物語の流れに従って、「マグダラのマリアともう一人のマリア」と二人にしています。
 マタイの顕現物語は素朴に、報告するために走っていく女性たちに復活されたイエスが姿を現されたことを伝えています。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(二八・九)。ヨハネ(二〇・一七)では、復活のイエスはマグダラのマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい(または「わたしに触らないように」)。まだ、父のもとへ上っていないのだから」と言っておられます。ヨハネの方は、復活者イエスは地上の人間が触れることができない次元の異なる世界からの顕現であるという本来の顕現体験の反映が残っていると考えられます。マタイでは二人が足を抱くことを押し止めないで、言葉をかけておられます。これは顕現体験をできるだけ身体的な行動をもって具体的に描こうとする後期の傾向(ルカの顕現物語を参照)を示しているのかもしれません。
 イエスは女性たちに言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(二八・一〇)。先に天使によって語られたことが、ここで復活のイエス自身によって、ガリラヤに行くように改めて指示が与えられます。これはガリラヤでの弟子たちへの顕現を準備する指示となります。
 ここで復活されたイエスが弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられることが注目されます。これまで師と弟子の関係であったのが、復活によって新しい関係に入ることが示唆されていることになります。復活されたイエスに従う弟子たちは、もはや教師の教えを守る弟子ではなく、復活者イエスといのちを共にして歩む兄弟となるのです。復活者イエスは、御霊を受けて生きるキリスト者の中で長兄となられます(ローマ八・二九)。ヨハネ福音書(二〇・一七)はこの復活者イエスの言葉の伝承をさらに詳しく展開して、こう伝えています。「わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ、わたしは上る』と」。

遺体が盗まれたという噂(28・11〜15)

 ところが一方、「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」ので、「祭司長たちは長老たちと集まって相談し」、対策を講じます。彼らは兵士たちに多額の金を与えて、「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と言います。(二八・一一〜一四)。
 この物語もやや不自然な点があります。もしこの番兵が神殿警備の兵士であるならば、祭司長たちが総督を説得する必要はないわけです。もし彼らがピラト配下のローマ兵であるならば、彼らが総督に報告せず、祭司長たちのところに行ったことは不自然です。それにローマの軍律では警護を委ねられた囚人を逃がした兵士は自らの命をもって責任を取らされたのです(使徒言行録一二・一九、一六・二七参照)。金をもらって承知できるような買収工作ではないのです。
 しかし、「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした」結果、この話(弟子たちがイエスの遺体を盗んだという噂)は「今日に至るまで」、すなわちマタイがこの福音書を執筆している時まで、「ユダヤ人の間に広まっている」ことになったというのです(二八・一五)。マタイは「ユダヤ人の間に」という表現を用いて、イエスを復活者キリストと告白する自分たちの集会に対立するユダヤ教会堂を指しています。彼らはイエスは復活したという使信に対して、このような噂を広めて対抗したのだと、マタイは報告しています。しかし、この報告は物語としては、これまでに見たように、不自然なところがあり、初期の教団でやや不器用に形成された伝承であると見られます。
 この物語の意義は、物語の細部ではなく、このような噂が敵対する陣営にあったという報告にあります。イエスは復活したという教団の告知に対して、それを拒否するユダヤ教会堂がこのような噂を広めて対抗したという事実は、ユダヤ教会堂側も墓が空であったという事実は認めざるをえなかったことを意味しています。イエス復活の告知は十字架の七週間後(ペンテコステ)にはエルサレムで始まっているのですから、敵対者は(イエスの遺体をどこに葬ったかは知っているはずですから)墓を開いてイエスの遺体を示すことができれば、弟子たちのイエス復活の告知を木っ端微塵に打ち砕くことができたはずです。このような噂を広めて対抗したという事実が、敵対者たちはイエスの遺体を示すことができなかった、すなわち墓が空であったことを認めざるをえなかったことを示しています。
 弟子たちは墓が空であるのを見たから、イエスの復活を信じて大胆に宣べ伝えたのではありません。空の墓を見た後も弟子たちはまだ恐れて隠れていたことが、ヨハネ福音書(二〇章)などに報告されています。弟子たちは復活されたイエスの顕現を体験し、聖霊を受けることによって(両者は同じです)、イエスの復活を大胆に宣べ伝えることができたのです。その聖霊による復活者イエスの告白の中で、墓が空であったという事実もイエス復活のしるしとして大胆に宣べ伝えるようになったのです。
 それに対して、敵対するユダヤ教会堂の陣営では、墓が空であった事実をこのような噂をでっち上げて説明したのです。同じ事実を、信仰は復活のしるしとし、不信仰は詐術とするのです。イエスの誕生についても、まだ夫のない女性からの誕生を、信仰は聖霊による受胎とし、不信仰は姦通やレイプの結果とするのです。マタイ福音書は、イエスの生涯の初めの誕生と、生涯の終わりの墓を、このように信仰と不信仰の対立の物語で囲い込みます。

ガリラヤでの顕現(28・16〜20)

 マタイは、手元にあるマルコ福音書(一六・八)の終わり方を納得せず、自分が受けている復活者イエスの顕現を伝える伝承の一つを用いて、自分の福音書の結び(二八・一六〜二〇)とします。
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(二八・一六)。墓で天使も復活されたイエスも、弟子たちにガリラヤに行くように指示されますが、どの山に行くのかは指示されていません。生前の予告(二六・三二)のときに指示があった可能性を否定できませんが、山の指示は「山上での顕現」の伝承を用いるためのマタイの編集と見てよいでしょう。「山上での顕現」を伝える伝承が初期に広く流布していたことは、それがペトロの手紙U(二・一六〜一八)にも用いられていることからも分かります。この山がどの山であるのか詮索する必要はありません。山上の説教や山上の変容の場合のように、山はいつも啓示の場所であり、最後の啓示も山で起こるべきなのです。

 「山上での顕現」伝承と「山上の変容」の記事(マルコ九・二〜八と並行箇所)の関係については、『マルコ福音書講解U』351頁以下を参照してください。

 弟子たちはガリラヤの山で、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」のです(二八・一七)。復活されたイエスの顕現に接するという未曾有の体験が、「イエスを見て」というごく日常的な表現で語られています。「ひれ伏した」という動詞は、「ひざまずいて礼拝する」という意味の動詞で、ユダヤ教では本来人間に向かって用いられる動詞ではありません。マタイはこの動詞をすでに湖上で顕現されたイエスに対して用いて(一四・三三)、この出来事が復活者イエスの顕現物語であることを示唆していました。ここでは明白に復活されたイエスに対して神的礼拝を捧げている姿が描かれます。「しかし、疑う者もいた」という記述は、イエス復活の知らせを聞いた後も、弟子たちが困惑し動揺していたという他の福音書に見られる伝承を要約するような形になっています。
 復活されたイエスは弟子たちに「近寄って来て」言われます、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二八・一八〜二〇)。
 マタイは、この言葉を自分たちが復活されたイエスから聞いた(そして現に聞いている)言葉として掲げ、自分の福音書の結びとします。この結びの言葉は、マタイ福音書の特色を実によく示しています。その内容と言葉遣いは、まさにマタイのものであり、これまでに書いてきたことの結論です。
 最初に、マタイがこの福音書で告げ知らせるイエスは、復活によって「天と地の一切の権能を授かっている」方であることが宣言されます。イエスが復活されたという告知は、イエスが神によって高く上げられて、万物を支配する方となられたという告知でした。そのことは、ユダヤ教世界には聖書的な表現で「神の右に座し」と語られ(二六・六四、ローマ八・三四)、あるいはヘレニズム世界に対しては「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてひざまずく名」、すなわち《キュリオス》(主)という名を与えられた(フィリピ二・一〇〜一一)と語られたのです。この告知を、マタイは「天において、また地上において、一切の権能を授かっている」と表現するのです。イエスは復活によって、霊的諸存在がいる天界においても、地上の人間世界においても、一切を支配する権能をもつ方となられたのです。
 イエスがそのような方になられたのだから、世界のすべての民はこの方の支配に服し従うようにならなければなりません。そのことが、いかにもマタイ的な表現で語られます。復活されたイエスが弟子たちに与えられる命令は、「すべての国民を弟子とせよ」です。「弟子」という言葉は、ユダヤ教のラビ的な体質のマタイにとって、イエスとわたしたちの関係のすべてを表現する用語です。「弟子とせよ」という命令の内容は、「わたしがあなたたち命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉で説明されています。マタイがこの福音書に書きとどめた、「山上の説教」に代表されるイエスの教えを守ることが「弟子となる」ことであり、復活者イエスの支配の下にある民となることです。このように、「諸国民に福音を宣べ伝えよ」(マルコ一六・一五)ではなく、「諸国民を弟子とせよ」という言い方に、序章において見たように、イエスの言葉に従う新しい生き方を目指したユダヤ人の信仰運動である「語録資料Q」の流れに属していると見られるマタイの体質がよく出ています。
 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(新共同訳)と言われている「すべての民」は、「すべての国民」とか「すべての異教徒たち」とも訳せます。ここに用いられている語は、ユダヤ教では「異教徒」を指す用語です。ここでマタイははっきりと、異邦人に向かって告知することを、復活されたイエスの命令として受けとめているのです。マタイは、地上のイエスが御自分の活動をイスラエルの範囲に限られていたことや(一五・二四)、弟子たちにも「異邦人の道に行くな」と教えておられたことを(一〇・五)、率直に伝えています。ところが今や、復活されたイエスはもはやイスラエルの民だけの教師ではなく、全世界の主となられたのですから、すべての国民を教え導く方にならなければなりません。これも序章で見たように、ユダヤ人の間の福音告知運動であった「語録資料Q」の運動が行き詰まり、異邦世界に活路を見出さざるをえなくなったマタイ宗団の状況が反映しています。
 この「すべての国民を弟子とせよ」という命令に、「出て行って」、「バプテスマを授け」、「守ることを教えて」という三つの(分詞形の動詞による)説明が加えられています(分詞形の意味はそれぞれ、出て行くことによって、バプテスマを授けることによって、教えることによって、という意味の説明と理解できます)。「出て行って」という句には、どこからどこへ出て行くのかは言われていませんが、マタイの状況からすれば、ユダヤ教の世界から広く異教世界に出て行くことが指し示されていると見られます。
 次に「父と子と聖霊の名の中へ彼らをバプテスマして」(直訳)という句が来ます。「バプテスマする」というのは、ここでは「バプテスマ(洗礼)儀礼を行う」ことですから、「バプテスマ(洗礼)を授ける」と訳してよいでしょう。「〜の名の中へ」という表現は、その名で呼ばれる方に属する者になることを言い表すことを意味します。もともと初期のバプテスマは「イエスの名の中へ」(使徒言行録八・一六)、または「イエスの名によって」(使徒言行録二・三八)なされました。すなわち、イエスをキリストと信じて、イエスに属するものとなることを言い表す行為(儀礼)であったのです。ところが、マタイの教団と時代では、「父と子と聖霊の名の中へ」バプテスマする、すなわち「父と子と聖霊」に属する者となることを言い表す儀礼になっていたのです。この形の洗礼は、後の時代のキリスト教会で行われた洗礼の原型として、重要な意味をもつことになります。

 初期の福音告知におけるバプテスマの起源とその形式の変遷、とくにマタイのバプテスマ定式については、いまだに多くの議論が行われており、この講解の中で扱うことはできませんので、別の機会に譲ります。

 なお、「すべての異教徒を弟子とせよ」という命令に加えられる説明が、「彼らに割礼を施し」ではなく「バプテスマを授け」であることが注目されます。マタイはけっして異教徒に割礼を施してユダヤ教徒に改宗させ、彼らに「モーセが命じたこと」(ユダヤ教律法)を守るように要求する(パウロに敵対したあの)「ユダヤ主義者」ではありません。そのようなユダヤ教への改宗運動は偽善者の働きとして厳しく断罪されています(二三・一五)。マタイの時代には、すでにエルサレム神殿もエルサレム原始教団もなくなっており、異邦人信徒に割礼を施すべきかどうかという問題も過去のものになっていました。マタイの状況では、イエスを信じる民はもはやユダヤ教の一部ではなく、ユダヤ教会堂とははっきりと別のものになっていました。マタイは、イエスの教えが(ユダヤ教律法を廃棄するのではなく完成するという形ですが)もはやユダヤ教律法を超えた別のものであるとして、イエスの「御国の福音」を宣べ伝えているのです(山上の説教、とくに「対立命題」の箇所の講解を参照)。したがってマタイにとって「バプテスマ」はあくまで、イエスの弟子として「イエスが命じられたことをすべて守る」ことを誓約する加入儀礼です。その部分が「わたしがあなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えて」という三つ目の分詞形で説明されるのです。
 そして、この世界福音告知の命令と委任は、最後に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の言葉で根拠づけられて、締め括られます。ここに用いられている「アイオーンの終わり(完成)」という表現はマタイだけに見られる特有のもので、二四章三節では「あなたが来られる時、すなわち世の終わりには」と、キリストの来臨《パルーシア》の時を指す表現として同格で用いられています(他に一三章三九、四〇、四九節)。「世の終わり」に至るすべての日々に、復活されたイエスが弟子たちと一緒にいてくださるという事実が、キリストの民が歴史の中に存立しうる根拠です。この聖霊によって与えられている事実は、とくにパウロによって詳しく描かれ、エクレーシア存立の土台として強調されたのですが、パウロだけでなく新約聖書のどの流れにおいても、自分たちの唯一の拠り所として自覚され、それぞれ特有の形で言い表されています(たとえばヨハネ福音書の《パラクレートス》)。マタイの共同体も、この一つの事実に依り頼んで、未知の異教世界に乗り出し、歴史の中を歩み始めようとしているのです。この方こそ、荒波の中に沈むペトロを引き上げてくださる方です(一四・三〇〜三一)。現在のわたしたちも、福音によって生かされ、福音を世界に告知する委託を受けた者の共同体として、福音の本体である復活者イエスが一緒にいてくださるという現実だけを拠り所として、世の終わりまで歴史の中を歩むのです。
 マタイは最初の誕生物語で、イエスの出現を「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という名で指し示しました(一・二三)。今物語の最後において、復活者イエスがわたしたちといつまでも一緒にいてくださる事実を指し示して、自分の「メシア・イエスの物語」を「神共にいます」の句で囲い込み、締め括るのです。