市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第5講

第T部 神の民の形成

4 約束の神・約束の民

約束の神

信じる者の原型アブラハム

 わたしたちの信仰の姿と本質はアブラハムの生涯の物語に最もよく示されています。彼の生涯はただ神の約束にだけ基づいて生きる生涯でした。彼は約束の言葉に生涯を賭けて、故郷を捨てまだ見ぬ未知の土地に向かって旅立ちました。彼はカナンの地を与えるとの約束を信じ、またそれを受け継ぐべき子孫が、子が生まれるはずのない体から出て空の星のようになるとの約束を信じて、希望をもって約束の地に仮住いの旅を続けたのでした。そして、約束を受け継ぐイサクを捧げよとの命令を受けた時、神の約束は死によっても廃ることはないと信じたのでした。こうして、アブラハムはすべて神を信じる者たちの先祖、原型となったのです。彼のように神の約束に自分の全存在を賭けて生きること、これが信仰であり、神と人との関係の基本です。
 しかし、アブラハムの生涯の意義をこのように理解することは当り前のことではなかったのです。イエスや使徒たちの時代のユダヤ教では、アブラハムは神のみ心を全うする敬虔な行為によって義とされる者の模範と理解されていました。このような理解を克服して、アブラハムの生涯を約束を信じる生き方の原型であり、このような信仰を神と人間の関係の土台であると理解したのは福音でした。とくに使徒パウロがこのことを誰よりも明確に語りました(ローマ書四章)。

約束と律法

 福音《エウアンゲリオン》において約束《エパンゲリオン》は本質的な要素です。ところが、旧約には「約束」という用語はありません。神がアブラハムや父祖たち、さらに後のイスラエルに約束されることはすべて「言葉《ダーバール》」と呼ばれています。そして、神がその民に行為やあり方を要求される「律法」も《ダーバール》と呼ばれているのです。十戒も「十の言葉《ダーバール》」なのです。旧約では約束も律法も同じく主の「言葉」なのです。
 では、約束と律法はどう違うのでしょうか。約束の言葉は将来の神ご自身の行為をあらかじめ語ります。言葉を成し遂げるのは神ご自身であって、そこには人間の行為が入り込む余地はありません。人間の側では、まだ見ぬ御言葉の現実に全存在を賭けて生きるだけ、すなわち信仰があるだけです。それに対して、律法の言葉は人の側の行為を求めます。約束には信仰が、律法には行為が対応します。イスラエルは神の言葉に従うことに熱心でした。しかし、それは律法の言葉に従うこと、自分の行為によって神との関係を形成することに熱心であつたのです。
 それに対して、福音は信仰だけが神と人との本来の関わり方であること、すなわち信仰だけが義であることを明らかにするのです。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められたのである」。それは、神の約束とそれを受け取る人間の信仰だけが、神と人間の関係の土台であるということを意味しています。神と人の結び付きを形成するのは、人間の側の行為ではなく、約束を成就される神の行為であるということです。人間の行為はまったく関与しないのですから、それは神の一方的な恩恵の行為です。福音はイスラエルの歴史の中の神の働きをそのように理解したのです。神は恩恵によってその民に約束を与え、それを成就するという形で救済の業を進めていかれます。人間は約束と成就の間に立って、約束の言葉を現実として、それに全存在を委ねるだけです。聖書の神は「約束の神」と言えます。約束の神は恩恵の神です。
 では、律法は何のために与えられたのでしょうか。パウロは律法を「違反を明白にするため、あとから加えられたもの」と呼んでいます(ガラテヤ三・一九私訳)。これだけでは分かりにくいので、約束と律法の関係を示すために、不正確ですが一つの譬を用いましょう。
 ある資産家が貧しい家の女性を愛して妻にし、数人の子供をもうけました。そして妻と子供たちを限りなく愛して、彼らにやがて自分の資産を継がせることを約束しました。ところが、妻は他の男と交際したり、子供たちは互いに殴り合うような傾向が見えるので、そのままでは資産を受け継がせても台無しになると心配して、そのようなことはしないように厳しく言いつけました。これが律法です。それは約束を受けた者たちが、約束した者の愛に背いている姿を明白にし、そのままでは約束を受け継ぐことができないことを宣言します。しかし、その言いつけを守ることが資産を受け継ぐ資格を作り出すのではありません。資産を受け継ぐことは、あくまで主人の愛から出た約束に基づくことです。主人の愛に背を向けながら、形の上で言いつけを守ったから資産をもらう資格があるとして要求するならば、それはさらにひどい愛への背きです。律法の行為によつて神の栄光を受け継ごうとしたイスラエルは、この過ちを犯したのです。約束は律法の行為にではなく、信仰の義に基づいて与えられているのです。もし律法の行為に基づいて相続するのであれば、約束は無効になり、信仰は無意味になってしまいます(ローマ四・一三〜一四)。

約束の民

約束と福音

 さて、福音は神のすべての約束がキリストにおいて成就したことを宣べ伝えます(コリントU一・二〇)。福音が要約され定式化されるとき(たとえばローマ一・二〜四、コリントT一五・三〜五)、かならずキリストの出来事が「聖書の中で預言者を通して約束されていた」ことであり、「聖書に書いてあるとおり」に起こつたことであると宣言されています。イエス・キリストの生涯、十字架の死、そして復活の出来事は、神がイスラエル二千年の歴史の中で約束されてきたことの成就であるというのです。このキリストの出来事の中で、約束されていた人間の救済のための働きを、神ご自身が成し遂げておられるのです。そこに人間の行為が入り込む余地はありません。この福音を信じてイエス・キリストに合わせられる信仰だけが、人を義とする神の働き(救い)を身に受けることができるのです。
 このように、福音は神の約束の成就であると同時に、「約束の神」が人類に与えられる究極の約束でもあります。神はキリストの十字架と復活の出来事によって、信じる者に義と聖霊の賜物、さらに死人の中からの復活を約束しておられるのです。まず福音は信じる者に、罪の支配から解放されて、神から賜る義によって神を父として親しい交わりに入ること、その具体的な実現として神の霊を賜ることを約束しています。義とされることと聖霊を受けることは別のことではありません。この約束は今、誰でも信じるとき、この地上で実現します。福音を信じる者は、キリストにおいて成し遂げられている神の贖いのわざによって義とされ、約束の聖霊を受けるのです。その聖霊によって新しいいのちの世界に生きるようになるのです。これは信じる者の身に現実に起こることです。
 そして、このように聖霊によって生きるようになった者は、キリストの復活が自分に対する復活の約束であることを知ります。キリストは、わたしたちキリストに属する者の初穂として復活されたのです(コリントT一五章)。神はイエスを復活させられたように、わたしたちをも死者の中から復活させてくださいます。復活はイエスの身にだけ起こつた孤立した出来事ではなく、キリストの民を代表する出来事です。たしかにわたしたちが地上にいるかぎり、復活は将来のこと、いやむしろ時間の彼方のことであります。けれども、わたしたちに賜っている聖霊はイエスを復活させた方の霊ですから、わたしたちの復活の希望は観念的な思想ではなく、内なる聖霊の現実によって保証された希望なのです。それに生涯を賭けて生きないではおれない現実なのです。
 このように福音においても、神は「約束の神」として現われておられます。福音においても、信仰とは約束されたこと、約束だけに基づいて望んでいること、したがって自分の目にはまだ見えないことを、人生の現実として生きることです(ヘブル人への手紙一一章)。約束と信仰に基づく神と人の関わりは、アブラハムの時からキリストの民に至るまで同じです。

神の約束に生きる民

 「約束の神」は、恩恵によって与えた約束を自らの働きによって成就するという形で、救いのわざを進め、この終りの時に至って御子イエス・キリストによって最終的なわざを成し遂げてくださいました。そして今、福音によってキリストを信じる民を全世界から召し集めておられます。わたしたちキリストを信じる者たちは、終りの時に形成された神の民です。神が「約束の神」でいますように、わたしたちも「約束の民」です。二重の意味で「約束の民」と言えます。
 第一の意味は、わたしたちは約束によって生まれた民であるということです。イスラエル民族は自分たちこそアブラハムの子孫であり、神の民であると称していました。しかしアブラハムの血統を継ぐ民族が自動的に神の民となるのではありません。アブラハムの子供たちのうち、約束によって生まれたイサクだけが子孫と認められたように、イスラエルの中で「約束の子」だけが、すなわち福音という約束の言葉によって神の霊を受けて誕生した者だけが、アブラハムヘの約束を受け継ぐ子孫となるのです(ローマ九・七〜九)。そしてイスラエル以外の諸民族からも、アブラハムの信仰に従う者、すなわち福音という約束を信じて生まれた者たちを、神はご自分の民として起こしておられるのです。
 現在、キリスト教会は世界的な組織になっておりますが、制度的なキリスト教会に所属する者がすべて自動的に神の民となるのではありません。教会の教義を誤りなく理解し、落ち度なく儀式にあずかり、その道徳を欠けるところなく守って、立派な教会員であっても、そのような自分の行為によって神の民となることはできません。。それは「肉によって生まれた」子らであり、奴隷にすぎません。
 「約束によって生まれた」子だけが相続するのです(ガラテヤ四・二一以下)。約束を信じる以外に、神の霊を受ける道はありません(ガラテヤ三・一〜一四)。人間の側のいかなる行為によっても、神の霊を受けて生まれることはできません。こうして、イスラエルか異邦人かには無関係に、キリスト教会の内か外かを問わず、福音という約束の言葉によって生まれた「約束の民」だけが、神の栄光を受け継ぐという約束の相続人となるのです。
 第二の意味は、キリストを信じる民は世界の中で、人類に対する神の究極の約束を保持する民であるということです。キリストの民は、みずから約束によって生まれ、約束によって生きることを通して、世界の諸民族に、そして歴史のすべての時代に、人間に対する創造者なる神の約束がどのようなものであるかを告げ知らせるのです。
 さまざまな理念や目標をかかげた諸々の民族が歴史の舞台で興亡を繰り返してきました。また、歴史の各時代はそれぞれの理念や思想をもって人々を導きました。しかし、どの民族にも、どの時代にも通用する究極の目標はどこにあるのでしょうか。それは創造者なる神が人間に与えてくださっている約束です。人間が神の霊を受けて愛と自由を実現すること、復活によって神の栄光にあずかることです。どの民族も、どの時代も、この神の究極の約束を目指すことによって、それぞれの場でその存在の意義を全うすることになるのです。そして、キリストの民こそその神の約束を保持して、世界に示す使命を与えられているのです。
(アレーテイア 48号 1990年11月)