市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第9講

第T部 神の民の形成

8 わたしの記念として

        ―「主の晩餐」について―

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

(コリントの信徒への手紙T 一一章二三〜二五節)

食事の場での顕現

 使徒たちとその直後の指導者たちが活躍した時代、あるいは新約聖書の各文書が書かれた時代、信徒たちの集会の中心は「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事でした(コリントT一一・二〇)。ユダヤ教徒が土曜日の安息日に会堂に集まって主を礼拝したのに対して、イエス・キリストを信じる者たちはイエスが復活された「週の始めの日」、すなわち日曜日に集まってイエス・キリストの名によって神を礼拝したのです。集まる場所は信徒の家が用いられ、毎夜のように集まる場合もあったようです。そのさい信徒たちの信仰の表現の中心になったのが「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事であり、そこで最初に掲げたパウロの手紙が引用している主の言葉が唱えられました。
 ところが、主イエスが弟子たちと共にされた最後の晩餐においては、(マルコの記事がもっとも古い伝承を伝えているとすれば)イエスは目前のご自分の死の意義を語られただけで、イエスを記念する形の食事または儀礼を継続して行うように命じる言葉は語っておられません。それにもかかわらず、弟子たちが食卓の交わりという形で主イエスを記念し告白するようになり、「主の晩餐」が初代の信徒の集会の中心になったのはどうしてでしょうか。
 それはまず何よりも、復活の主が弟子たちの食事の場に顕現されたからであると考えられます。弟子たちはイエスが地上におられる時には、つねに食事を共にして親しい交わりの中に生活してきました。「最後の晩餐」もそのような食事の一つ、最後の一回であったわけです。そのイエスが十字架刑に処せられて突然彼らの間から取り去られたとき、彼らはなすすべも知らず呆然となりましたが、イエスを慕って共に食事することを止めることはできませんでした。そこに復活のイエスが現れたのです。復活されたイエスは、地上におられた時と同じように彼らと食事を共にされたのです。その事実はコリネリオたちに語ったペトロの証言において明言されています(使徒一〇・四一)。また、ルカ福音書のエマオ途上の弟子への食卓での顕現(二四・三〇)や魚を食べられた記事(二四・四二〜四三)、さらにヨハネ福音書二一章が伝えるガリラヤ湖での顕現(とくに一二〜一三節)などは、この食事の場への顕現の記憶を保存していると考えられます。

食事としての「主の晩餐」

 エルサレムに成立した最初の信徒の群れについて、使徒行伝は「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(二・四二)と語り、さらに詳しく「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」(二・四六)と、その生活を描いています。ここですでに「パンを裂くこと」、すなわち「一緒に食事をする」ことが信仰生活の中心の位置を占めていたことがうかがえます。食事の席は、そこに復活のイエスがいてくださる場、復活のイエスとの交わりが生き生きと感じられる喜びの場であったわけです。そして当然、その食事の場で、使徒たちが最後の晩餐の席で聞いたイエスの言葉、「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉が語られ、大切に伝承されていくことになります。
 使徒パウロがユダヤ人以外の人々に福音を宣べ伝え、福音がヘレニズム世界に進出して異邦人からなる集会が形成されるようになります。そのとき、パウロはこの主を記念する食事をするように伝え、それを「主から受けた」伝承としています。この句の意味については議論がされていますが、これはこの食事の伝承は遡れば主イエスご自身に至ることを強調するものでしょう。パウロの手紙から、このイエスを記念する共同の食事は、ヘレニズム世界の諸教会では「主の晩餐」と呼ばれていたことが分かります。そして、その名のとおり、それは儀式ではなく現実の「食事」であったことが、同じ手紙から分かります。初めに掲げた引用部分の前後(一一・一七〜三四)を見ますと、この「主の晩餐」について、パウロは儀式の仕方の間違いではなく、思いやりの欠けた「食事の仕方」を戒めています。その中で改めて、この食事がもつ重い意味を思い起こさせるために、冒頭に掲げた伝承を引用するのです。
 当時の礼拝は主イエスを記念するこの食事が中心でしたが、その前に聖書朗読、説教、祈りから成る教えの集会が行われました(これはユダヤ教のシナゴーグの礼拝を範としたもので、現在のプロテスタント諸教会の礼拝はこの部分が主要部分となったものです)。食事は主イエスを記念するための食事であることを強調するため、パンと杯のときに「わたしの記念としてこのように行いなさい」という言葉が繰り返されています。記念というのは、「引き渡される夜」という句が示しているように、イエスが十字架につけられた歴史的出来事を想起することであるのは当然ですが、「主が来られるときまで」という句が示しているように、来るべき主の来臨(パルーシア)とそのとき完成する神の国での食事を待ち望むことでもあるのです。しかし何よりも、それは現在十字架と復活のキリストにあずかる者であることの確認です。
 使徒パウロはこの食事についてこう言っています。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」(コリントT一〇・一六)。キリストとは復活された方の称号です。さきに見たように、この食事はもともと復活されたイエスとの交わりの確認であったわけです。その中で、イエスが最後の晩餐の席で語られた「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉が唱えられて、復活者キリストの十字架の死がわたしたちのための死であること、キリストは「わたしたちの過越の小羊としてほふられた」ことが受け取られ、そのパンを食べ、その杯を飲むことによって、自分がキリストの死に合わせられている者であること、そして復活されたキリストの生命にあずかる者であることを確認したのです。

食事と儀礼の分離

密儀宗教の影響

 ところで、「わたしの記念としてこのように行いなさい」という言葉は、特定の儀式について言われているのではなく、普通の食事について言われていることが注目されます。さきに見たように、「主の晩餐」というのは特別の儀式ではなく普通の食事でした。集会で行われる共同の食事が、主イエス・キリストの十字架と復活と来臨を「記念」する信仰の表現であり、神への礼拝であったのです。ところが、共同の食事には人間の身勝手さからいろいろな問題が生じがちです。とくに教会に争いや分裂というような問題があるときはなおさらです。コリントの教会の場合は典型的です(コリントT一一・一七〜三四)。「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」であり、パウロは「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」と戒め、「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」と勧告せざるをえませんでした。
 このように使徒時代にすでに共同の食事には問題が生じ、主イエスを記念するパンと杯が一般の食事の部分から分かれて別に扱われる傾向が出ています。この傾向はヘレニズム世界では密儀宗教の影響を受けて加速されたと考えられます。密儀宗教とは、加入儀礼を経た内部の者だけに与えられる秘密の儀礼によって救済が与えられるとする宗教です。ヘレニズム世界はこのような密儀宗教が盛んで、当時の人々の宗教理解はこのような密儀宗教の色彩に深く染められていました。それで、キリストの福音がヘレニズム世界に登場したとき、人々がそれを一つの新しい密儀宗教として扱う傾向を避けることはできなかったようです。バプテスマというイニシエーション(加入儀礼)を受けた者だけが参加を許され、パンと杯の儀礼にあずかることによって救済され、永遠の生命を獲得するという一つの密儀宗教と理解される傾向です。そのような密儀宗教的理解においては、パンとぶどう酒は神の救済と生命を現実に伝達する神聖な物質となるわけです。それは当然ふつうの食事とは区別されなければなりません。

「聖餐」儀礼の成立

 この食事と儀礼の分離は使徒時代の後かなり急速に進み、おそくとも二世紀半ばには、パンと杯の儀礼は救いを与える聖なる礼典として「エウカリスティア」と呼ばれ、「アガペー(愛餐)」と呼ばれる信徒相互の交わりの食事とは別に行うことが一般になっています。「エウカリスティア」というのは、イエスが「感謝の祈りをささげ(エウカリステイン)」られたように、パンとぶどう酒が与えられるときに捧げられる感謝の祈りが礼典の名称となったもので、後に(英語では)「ユーカリスト」という名で広く用いられるようになります。日本語で「聖餐」というとき、それはすでに食事とは区別され、救いを与える聖礼典(サクラメント)となったパンと杯の儀礼を指しているのです。
 このように「聖餐」が一般の食事とは区別されるようになり、救いを与える聖なる儀礼となるにともなって、その儀礼を執行する「監督」や「長老」が祭司としての性格を強くしてきます。もともと信徒の群れの世話や指導をする集会の役職が、「聖餐」を執行する一人の「司教」の下に組織化されてきます。司教の執り行う礼典だけが有効なものとされ、司教のいないところには救いも教会もないとされることになります。この単独司教制が初期カトリシズムの重要な構成要素となるのです。このようなサクラメントとそれを執行する聖職者の組織が「制度的教会」を構成することになり、以後の教会の全歴史を決定することになります。

教会史における聖餐論争

化体説

 このように、本来は主イエスを記念する食事が、ひとたび救いを媒介する聖礼典と理解されるようになりますと、教会の制度化の進展とともに、パンとぶどう酒という物質が救いを与える客体的な力を持つものとして扱われる傾向が強くなってきます。すでに二世紀の初め、イグナティオスはパンのことを「不死の薬」と呼んでいます。それでも中世の初めころはまだ、パンとぶどう酒は象徴か実体かという論争が行われていました。一二一五年の第四回ラテラノ総会議にいたって、「化体説」がカトリック教会の正式の教義として決定されます。「化体説」というのは、パンとぶどう酒は司教の聖別の祈りによってその全実体がキリストの体と血に変化するという教義です。
 「化体説」は、「これはわたしの体、わたしの血である」と言われたイエスの言葉の「である」を文字通りに理解した教義です。神の言葉がこう言っている以上、祭壇に捧げられ司教の祈りによって聖別されたパンは、見えるところはパンであるがその実体はキリストの体である、ぶどう酒もその実体はキリストの血である、ということになるのです。ところが、(『マルコ福音書講解U』の81「最後の晩餐」で見たように)「最後の晩餐」で語られたイエスの言葉は本来「マーシャール」(謎、象徴、メタファー)であり、それを実体的に「パン=キリストの体」と理解することは見当違いのことです。それに、ギリシャ語テキストには「である」の語がありますが、イエスが語られたアラム語に復元した場合、「である」という語はないのですから、この一語を論拠にした議論は成り立たないわけです。
 このような言葉の解釈の問題を超えて、「化体説」は制度化の極限に達したカトリック教会の体質をよく表現しています。制度的教会は、本来神と人との関わりという風のような自由な霊的事態を、人間が支配できる客体的な制度や儀礼という形式に固定しようとします。教会によって正式に叙任された司教によって、定められた形式に従い聖別されたパンはキリストの体になっているのですから、信徒はパンを食べる行為によってキリストにあずかり、キリストの救いを受けることになるのです。それが聖体の秘蹟(サクラメント)です。また、祭壇の上のパンはキリストの体になっているのですから、司教がそれを神に捧げる行為はキリストの犠牲を反復することになるのです(ミサ奉献)。そして、そのサクラメントにあずかる以外には救いにあずかる道はないとされるのですから、教会は有効なサクラメントを与える唯一の機関として、救済手段を独占することになります。

宗教改革における「聖餐」

 このようなカトリック教会の主張に対して、宗教改革者たちはキリストへの信仰だけで救われることを主張し、化体説とミサ奉献を否定し、サクラメントの独占機関としての教会を否定しました。しかし、改革者たちもバプテスマと聖餐は、聖書に書かれている聖礼典として保持しました。その二つの礼典は「見えない神の言葉の見える形」として尊ばれたのです。この点で改革者たちはみな一致していましたが、「これはわたしの体、わたしの血である」というイエスの言葉の解釈については、微妙な相違がありました。ルターはパンとぶどう酒はその実体を保持したままで、それと共にキリストの血肉が実在すると主張し(共在説)、ツヴィングリはパンとぶどう酒はあくまで象徴であって、そこにキリストの血肉が実在することを否定しました(象徴説)。両者は改革運動の協調を図りマールブルグで会談したとき(一五二九年)、他の一四のテーゼはすべて一致できたのに、最後の聖餐理解で一致できず、会談は決裂しました。カルヴァンは調停的な立場を取ったとされています。

「主の晩餐」の回復

記念の食事の必要性

 教会史上、フレンド派や日本の無教会主義は、洗礼や聖餐がなくてもキリストの交わりはありうるとして、聖礼典(サクラメント)の必要を否定しました。わたしたちも教会の聖礼典にあずかることがなくても、キリストとの交わりはありうると確信しています。それは、キリストとの交わりは儀礼にあずかることによって与えられるものではなく、聖霊の働きによって実現するものであることを体験しているからです。そして、その聖霊は「福音を聞いて信じる」ことによって与えられるのです(ガラテヤ三・一〜一四)。そこにはいかなる儀礼も必要とされていません。(洗礼儀礼については本書の「聖霊のバプテスマ」を参照してください。)
 しかし、サクラメント否定の主張が、「主から受けた」伝承とされている「わたしの記念としてこのように行いなさい」という言葉まで否定するならば、それは信仰にとって大切なものを見失うことにならないかと思います。最初に見ましたように、この言葉は特定の儀式をするように命じる言葉ではなく、集会で行われる共同の食事を「主イエスを記念する食事」として正しく行うようにという指示であります。もし無教会主義が信仰をまったく個人的な事柄にしてしまい、十字架、復活、来臨のキリストを「記念」する集会の共同の食事までも否定するのであれば、それはこの点では「聖書的」ではないことになると思います。わたしたちの原点は新約聖書です。立ち帰るとするならば新約聖書に立ち帰るべきです(それ以外のどこに帰ることができましょうか)。その新約聖書は信じる者の群れにキリストを記念する共同の食事をするように、「主から受けた」言葉を伝えているのです。

キリスト証言としての食事

 この言葉の中で、「このように行いなさい」と訳されている部分は、直訳すると「これを行いなさい」です。「これを行う」というのは、文脈からすると食事をすることです。「わたしの記念としてこの食事をしなさい」という意味です。パンやぶどう酒の与え方を、イエスがされたようにすることではありません。食事の内容は時代や民族によって違うのですから、かならずしもパンとぶどう酒でなくてもよいのです(たしかに裂かれたパンと赤いぶどう酒は象徴として最も適切ですから、それを用いることができれば、それにこしたことはありません)。ご飯とお茶でもよいのです。主イエス・キリストの名によって行う共同の食事が、十字架の出来事を想起し、来るべき神の国の食事を待望し、聖霊によって与えられている復活のキリストとの交わりを確認し告白する営みとしてなされることが大切です。そこにキリストの民が具体的な姿で現れるのです。
 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。このようにキリストを記念する食事を共にすることによって、キリストの民は食事という生活に密着したもっとも具体的な形で、復活者キリストの十字架の死を終末的な救いの出来事として世界に告知するのです。主が来臨されて、神の国での交わりが完成するとき、もはや食事という形でキリストの十字架の死を告げ知らせる必要はなくなり、一切の形式を超えた純粋な命の交わりそのものになるでしょう。それまでこの地上では、食事という具体的な交わりの中でキリストを告白し、世界に告げ知らせることが求められているのです。
 集会の規模や状況によっては共同の食事をすることは困難である場合があるでしょう。象徴的な形しかとれない場合もあるでしょう。形はどうであれ、大切なことは信じる者たちの具体的な交わりの中に復活のキリストを迎え、またこのキリストとの交わりの喜びの中でお互いの交わりを具体的に形成してゆくことです。これは聖霊の働きによってだけ可能になることです。食事はあくまで聖霊によって与えられる霊的現実の告白形式です。それにあずかることが霊的現実をもたらす儀礼(サクラメント)ではありません。聖霊によってキリストとの交わりに生き生きと生きることが、食事という外的な行為がサクラメント化することを防ぎます。また、食事という具体的な交わりの中で聖霊の現実を告白して生きることが、信仰が抽象的になり観念化することを防ぎます。キリスト教がカトリック教会やギリシャ正教会のように儀礼化するか、プロテスタント諸教会にように観念化する傾向が強い現在において、聖霊によって復活の主キリストとの交わりに生きることで、新約聖書の時代の「主の晩餐」の精神を回復することが急務ではないかと思うのです。
(天旅 1992年6号)