市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第24講

第V部 「死人を生かす神」 

第三講  十字架と復活

十字架の場と聖霊の証印

二つの証し

 死人を復活させる神を信じるということは人間離れをした信仰で、このような信仰をほんとうに自分が貫けるのだろうかと、時に非常に危惧の念を憶えることがあります。この信仰は、一歩踏み外せば断崖に落ちてしまうような、狭い尾根道を歩いている感じがしています。しかし自分にそのような恐れやおののきがあるとしましても、もし聖書の真理がそうであるならば、それがどのように険しい道でありましても、主の憐れみに縋り、主の助けを得て、なんとかそれを歩みぬいて行かなければならないのです。それ以外に生命の道はないのだから、というのもまた実感であります。ここに来て、主が言われた「生命に至る道は細い」という言葉が実感として感じられます。このような細い道を歩み続けさせる力を、わたしたちは切に祈り求めないではおれません。そこで今回は、この復活信仰を支える二つの根拠というようなものからお話を始めていきたいと思います。

 「こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、わたしの祈りのたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにしてくださるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中から復活させ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである」。
(エペソ一・一五〜二一)

 ここに二つのことが祈られています。一つは、栄光の父がわたしたちに知恵と啓示との霊を与えて、わたしたちが召されて抱いている望み、神の国がどんなに栄光に富んだものであるかを知らせてくださるようにということです。すでに二回の集会において、わたしはおもにこの点について話を進めてきたわけです。整然とお話することは難しいことでありますが、時間の許される限り、神の御旨の奥義、隠されている神のご計画がどういう内容であるか、ということをお話してきました。この神のご計画を信じる心で悟ることが、わたしたちがこの復活を信じ得る一つの根拠であります。
 それからもう一つ、十九節以下にあるように、信じる者には神の力がその中に働きます。その力とは、二十節が説明しているように、イエス・キリストを復活させた力です。聖霊の力というのは主イエスを復活させた方の力でありますから、この聖霊が内にあってはじめて、わたしたちは復活の信仰を自分の内面に霊的な力としてもつことができるのです。そしてこの二つの証し、すなわち神が聖書を通して啓示された神の隠された御計画と、内なる証しとして聖霊によってわたしたちの内に働く復活の力、これは出どころが同じであります。同じ神から出ていますから、これは相応えて証ししあうのです。この二つの土台にわたしたちがしっかり立つ限り、この人間離れした復活信仰は、わたしたちの中にあっていよいよ力強く成長していくはずであります。
 すでに二回の集会においてその第一の面、すなわち神の御計画、奥義がどのようなものであるかということを申し上げてきました。第三回のこの集会においては、この第二の証の面、すなわち信じる者の中に働く神の絶大な力についてお話ししたいと思います。その力はイエス・キリストを復活させた力でありますから、その力に導かれて信仰生活を進めていくときに、復活はわが内なる確かな証しとして生き続けていくことができるわけです。

聖霊の証印

 「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」。(エペソ一・一三〜一四)

 神の国を継ぐということがどういうことであるか、すでに前回の講話でふれましたように、その具体的な内容は、主イエスと同じく復活のからだを与えられ、復活した者として神を賛美する共同体にわたしたちもまた加えられることです。このような人間の想像を絶した栄光の世界であります。そのような栄光にあずかりたく、わたしたちはこの世を後にして、主の御名を信じて駆け出してきたのです。神の招きに応じて、この滅びの世を逃れて福音を信じた者たちです。この福音の言葉を信じた者たちに、神は約束された聖霊を与えることによって、おまえは確かにわたしのものである、と証印を押されたのです。わたしたちは自分の持ち物に印を押して、これはわたしのものだと主張しますが、神はわたしたちに聖霊を与えることによって、この証印を押してくださるのです。この聖霊はイエスを復活させた神の霊でありまして、この御霊に導かれてわたしたちが生きるとき、わたしたちは確かに復活の約束が真実であるということを、内に確かな保証をいただいている者として歩むことができるようになるのです。
 そしてこの聖霊は、十字架の場において、神の恩寵として賜る以外に、受ける道はありません。その意味で、復活の信仰はただ十字架の場においてのみ成り立つ信仰であります。わたしたちが自分の理解、自分の知恵、人間の信念の力でこれを獲得したり、維持したりしようとしてもそれは不可能であります。先に申しましたような不安は、人間の力で獲得したり維持したりしようとする気持があるから起こってくるのです。本来復活の信仰が成り立つのは、わたしたちが本当に自分というものに打ち砕かれて、ただ神の憐れみ、神の恩寵だけがわたしを救ってくださることができるのだという、そういう場所において初めて成り立つ信仰なのです。そのような自分が砕けた場所というのは十字架の場しかないのです。人間はいくら自分の無価値を悟って、砕けた人間になろうとしても、自らを砕くことはできないのです。これは修養とか修業で到達できるようなものではありません。この福音の言葉、パウロはここで「真理の言葉」と言っていますが、これが現実であり事実なのです。すなわち罪なきキリストがわたしの罪のためにあの十字架の上に神の裁きを受けて砕かれ給うた、これが事実なのです。いかに人間の目に愚かに見えようとも、信じがたく見えようとも、これが真理なのです。

キリストはわたしたちの罪のために死に

 イエスの十字架と復活は、終わりのときになされる神のわざだと申しましたが、このことをもう少し詳しくお話ししてみたいと思います。旧約の預言者たちが待ち望んだ終わりの日というのは、神の救いが与えられると同時に、神の裁きが行われる日でもありました。神の救いは裁きを通してのみ来るのです。あくまでも神に逆らう者は神の厳しい裁きのもとに裁かれます。その裁きに耐え得る者だけが神の栄光に与って救われるのです。だから預言者が語った終わりの日の預言は、いつも厳しい神の裁きが語られます。神の怒りが語られます。その預言者の信仰を受け継いだ黙示録的な信仰においても、天変地異を通して新しい神の支配が出現するときに、必ず神に敵対する一切の勢力は厳しく裁かれます。終末は必ず裁きを通して来ます。裁きを経なければ救いはないのです。それがどんなに恐ろしく、天地が揺り動かされるようなことになろうかと、人々は救いの日を待ち望みながらも、一種の不安と恐れをもっていました。
 そういう世界に向かって福音は、時は満ちた、神は最終的なわざをなされたと宣べ伝えるのです。では神が最後の日になされる裁き、このように神に逆らい続けて汚れと悪に満ちた世界に対して神が執行される裁きとはどんなに恐ろしいものでしょうか。じつはその裁きはすでになされたのです。それがイエス・キリストの十字架だったのです。十字架の上に神は世界を裁かれたのです。神に背く罪は裁かれなくてはならないのです。その裁きを神は成し遂げられたのです。イザヤ書五三章が預言しましたように、あのように悲惨な死を遂げられたイエスを見て、彼は自分の罪のために砕かれたのだと人々はあざ笑いました。しかし、実に十字架の上に起こったことは、罪なき神の小羊であるかたが、わたしたちの罪が受けるべき裁きを受けておられたのです。本来完全なる義なる方として神の祝福だけを受くべき方が、なぜあのような裁きをお受けになったのか。それは肉体上の苦しみだけではなかったのです。「わが神、わが神、なんぞわれを捨て給うや」との叫びが示しているように、あの十字架の上で起こっていることは、本来永遠に地獄に定められるべきわたしたち全世界の裁きを、罪なきキリストお一人が代表して受けておられるのです。
 主イエスはあのゲッセマネの園で、できることならこの杯をとり除いてくださいと祈られました。その祈りがいかに切実なものであったか、汗が血のように滴り落ちたと伝えられているとおりであります。なぜイエスがあのように苦しみ悶えてそのことを願われたのか。それは完全に父に信頼し、父とひとつになって歩まれた神の子であるイエスの魂にとって、この永遠の裁き、永遠に父の御顔から退けられ、裁かれるということほど恐ろしいことはありません。肉体の死だったら、毅然とした殉教の喜びをもって耐えた人がいくらでもいます。しかしイエスが恐れられたのはこのような肉体の苦しみではなくて、この永遠の裁きであったのです。このような裁きを受けないで済む方法が他にあるならば、この杯をわたしから取り去ってください、イエスはこのことを切に祈られたのです。しかし杯は突き付けられたままだったのです。杯というのはイザヤ書などによく出てきますが、神の激しい怒りを象徴します。この杯をお前は飲まなくてはならない、これ以外に神に背く人間が赦され神のもとに帰ってくることができる道はないのです。これがイザヤ書五三章があらかじめ語っていた「主の僕」と呼ばれる人物の姿でありました。イエスは十字架の死に至るまで、この「主の僕」の預言を御自分の身に全うするために、この苦しみの道を敢えて受け止めて行かれたのです。
 ですからあの十字架で起こっていることは、じつはわたしが神に背いているために受けなければならない裁き、そして全世界が受けなければならない裁き、それをあのかたお一人が一身に受けて裁かれておられるのです。それは、キリストが代わって裁かれたからわたしが裁かれないでよいという身代わりではありません。キリストがすべての者を代表して裁かれた以上、そこでわたしが裁かれ死んでいるのです。彼が「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給うや」と叫ばれたとき、天地は真っ暗になりましたが、あの暗闇は主イエスの魂に臨んだ裁き、死の暗闇であり、このわたしの裁きと死であったのです。この十字架は宇宙のいちばん深い奥義でありますが、このようなことが起こっていることを、そのときその場に居合わせた人たちは誰も見ることができませんでした。ただ後で御霊に満たされて、御霊によってキリストに出会った人たちが初めて、この十字架の奥義を示されたのです。わたしたちが約束されている聖霊を受けるためには、この十字架の場にひれ伏し、自分がキリストの十字架に合わせられて死ぬ以外にはありません。

恵みの賜物

 この聖霊は父の約束だと、主イエスは地上におられたときに繰り返して言われました。父親が子供にはいちばん良いものを与えたいと思うように、天にいます父はわたしたちに最も良いものを与えることを約束してくださっています。父は求める者に聖霊を下さらないことがあろうか、求めよ、そうすれば与えられる、すべて求める者は与えられる、と主は言っておられます。これはものすごい言葉です。誰であっても神の御霊をくださいと、もし自分の存在をかけて求めるならば必ずくださるのです。なぜかというと、この御霊を与えてくださるということは、神の恵みのわざだからです。恵みのわざというのは、受ける者の資格をいっさい問わないからです。雨が善き者にも悪しき者にも降り注がれ、太陽の光が正しい者にも正しくない者にも与えられているように、神の御霊もどのように立派な人間にも、極悪人と世間から烙印を押されているような人間にも、道徳的に優れた人間にも、できそこないの人間にも、性格が善い人にも悪い人にも、教養がある人にもない人にも、もし人間として真実に、神様、わたしはどうしてもあなたの霊がいただきとうございますと求めるならば、必ず与えてくださいます。それが神の恩寵ということの意味なのです。
 そのように恩寵によって約束された聖霊を受けるために、わたしたちがどうしてもそこまで来て求めなくてはならない場所というのがあります。それが十字架の場なのです。わたしたちが十字架以外の場所でいくら恵みだ、恵みだと言っても、これは自分を主張しているのですから、自分を主張している限り、自分の善さにふさわしいものしか与えられません。そして自分の善さにふさわしいものというのは、まことにつまらない、汚れたものに過ぎないのです。ほんとうに神の前に義なるものとして認められるためには、とうていわたしたちのちょっとやそっとの慈善だとか道徳的善行、あるいは宗教的敬虔のわざで足るものではありません。キリストが、罪なきかたがわたしの罪をすべてあの十字架の上に背負ってくださったという事実がある所でしか、わたしたちが神に受け入れられることはできないのです。こうして受け入れられるときに初めて神は、よく来た、いま約束の聖霊を恩寵によって与えよう、と言ってくださるのです。
 この御霊は終わりのときに神が与えると約束しておられたものです。それはペンテコステの日に、ペトロがヨエルの預言を引用して証言している通りです(使徒行伝二章)。終わりの日にわたしはわが霊をすべての者に注ぐ。僕、はしためにいたるまでわたしの霊を注ぐ、と約束しておられます。神が成し遂げてくださる贖いのわざ、それがイエスが十字架につけられて殺されるという形で実現するということは誰にも分からなかったのです。そのことは長い間、旧約の歴史の中でいつも犠牲の動物が屠られるという形で、予め型として教えられていたのです。けれども神の独り子であるキリストが現れて、十字架の上に血を流されるという形で最終的な贖罪が行われるとは誰も考えることができなかったのです。ただ主イエス・キリストだけがこのことを預言し、語り続けて、そのとおりに十字架の上に血を流されました。ですから十字架は終わりの日に実現した、神が為される裁きと贖罪のわざなのです。この十字架の贖いを通して与えられる聖霊もまた、神が与えてくださる終わりの日の賜物であります。そして、繰り返してお話ししてきましたように、イエス・キリストが死人のうちから復活されたこと、これこそ終わりの日の神の創造のわざであったのです。十字架、聖霊、復活の事態はすべて、終わりの日の神のみわざなのです。それは世界の片隅のユダヤの一隅で起こった出来事でありました。けれどもじつにそれは、この世界を造られたかたが、終わりの日に成し遂げられる救済と創造のわざであったのです。

永遠の生命と復活

永遠の生命と復活

 福音はユダヤの片隅で起こったナザレ人イエスの十字架の死と、それに続く復活の出来事を、終りの日に成し遂げられる全宇宙的な神のわざの始まりだとして宣べ伝えます。最後の裁きもすでに十字架の上で行われました。ですから、キリストと一つに結ばれている者は裁かれることはありません。裁かれることなく、死から生命に移っているのです(ヨハネ福音書五・二四)。このようなキリストの十字架によって神が成し遂げてくださった贖いのわざによって、わたしたちは約束されていた聖霊を受け、御霊の生命に生きることができるようになるのです。
 この御霊は主イエスを死人の中から復活させた霊でありますから、この御霊によって生き始めるときに初めて、復活の信仰が自分の内にある力として成長し始めます。パウロも言っていますように、十字架をそのように信じて受け入れるときに、今まで「自分が、自分が」と言っていた自分が死んでしまうのです。もう自分を根拠に生きることはできなくなってしまいます。その代わりに、自分のために死んでくださったキリストが、復活して生きてくださっている、この事実だけがわたしが今生きていることの根拠になってきます。キリストがわが内にあって生きてくださるのです。キリストというとき、それは復活された方を指します。復活された方がわが内にあって生きてくださるのです。
 この御霊によってわたしたちに与えられる生命はいろいろな名前で呼ばれます。ヨハネはそれを「永遠の生命」と呼んでいます。永遠の生命というのは、わたしたちが今生きている生命が、寿命が長くなっていつまでも生き続けるという意味ではありません。今わたしたちが生きている生命とは種類の違った生命が上から与えられるのです。ですからヨハネ福音書をよく読んでみますと、その二つの種類の生命を違う言葉で表現しています。わたしたちの言葉では一つしかありませんから、生命とか命とか言わないと仕方がないのですが、ヨハネ福音書を読んでみますと、わたしたちが生まれながらにもっている、今生きている生命は、「プシュケー」というギリシャ語で呼ばれています。創世記二章七節にありました、アダムの記事に出てくる言葉と同じなのです。土から造られたアダムが神の息を吹き入れられることによって、生きた「プシュケー」になったと言われている、あの「プシュケー」、生命です。この「プシュケー」は親から受けて、この地上で数十年の期間を生きてやがて死んでいきます。このごろは高齢化社会で寿命が八〇年、九〇年と多少長くなりましたけれども、やはり必ず死んでいきます。
 そういう生命が長引くのではなくて、別の生命が上から与えられるのです。キリストを信じ、十字架の場に砕かれて、神から約束された御霊を受けて、その御霊によって生き始めるときに、違った生命が内に始まります。その生命のことをヨハネ福音書では「ゾーエー」と呼んでいるのです。これはわたしたちが今まで知らなかった種類の、別種の生命であります。この生命は神からの生命でありますから、この身体が死のうと、そういうことには関わりなく生き続けます。だから、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われている、そういう生命がわたしたちの内に始まるのです。
 神は人間の頭の中におられる方ではなくて、この世界を造られた方であります。このような身体を造られた方でありますから、神の生命は必ず身体をもって完成します。神の世界は具体的です。すなわち、体を具(そな)えた世界であります。パウロが言っていますように、もしわたしたちがこのからだを脱ぎ捨てて、魂は神のもとに召されるとしても、それだけだったらわたしたちは裸でいることになります。神の救い、わたしたち人間の完成というのは、裸でいる姿ではなくて、神からの生命にふさわしい身体をもって生きることなのです。この新しい身体が終わりの日の創造のわざとして神から与えられることは、第二講で申し上げたとおりです。

現在の霊的復活と将来の死者の復活

 こういう消息をみてきますと、わたしたちが十字架の場にひれ伏して約束の御霊を受けるときに、じつは、わたしたちの内にある種の復活が起こっているのだと言えます。わたしたちは古い自分に死にます。死ななければ御霊を受けることはできません。ですから十字架に合わせられて死んだところに、神からの新しい生命が与えられて、それによって生き始めるのですから、ある種の復活と言ってもよいような霊的な体験が、わたしたちの内で起こっています。そのようなわたしたちの内なる復活がすでに現在あるということと、わたしたちが神の約束として待ち望んでいる復活、最終的に神がわたしたちにこの朽つべき身体にかえて新しい朽ちることのない身体を与えて復活を完成してくださるという、終わりの日の復活との間にどういう関係があるのでしょうか。終わりの日の復活というようなことは誰にも分からないことだし、それはキリスト教の教義としてあるかも知れないが、あまりにも現実的な体験とはかけ離れていて、とうてい信じられないと言う人が多いのです。ところが、わたしたちが霊的な復活を体験することによって、終わりの日の復活の約束が現実的なものとして受け取られてきます。逆に、もしわたしたちが未来の復活をただ約束として聞いているだけで、現実に聖霊の力による内なる復活を体験していなければ、この未来の復活はどうしてもただの言葉だけになってしまうのです。頭の中で考えているだけのものになります。そういうのを観念的な信仰と言います。
 こういう種類の観念的な復活信仰を克服しようとしているのがヨハネ福音書であると言ってもいいのです。ラザロの墓の前でマルタが「主よ、終わりの復活の日に彼が復活することは存じています」と言っていますが、ファリサイ派の人たちは終わりの日に神の民が復活するということは皆信じていたのです。しかし、それだけだったらまだ福音ではないのです。それに対してイエスはこう言われました、「わたしが復活であり、生命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ福音書一一・二四〜二六)。いま目の前にいますイエスが復活なのだ、イエスに結びついているならば、死んでも生きるのだということです。いま現にイエスと結びついていること、わたしたちの立場で言えば、復活されたキリストと結びついて生きていることが、じつはもうすでに復活なのだ、生命そのものなのだということを、ヨハネ福音書はあの記事を通して言いたいのです。そのしるしとしてイエスは死人の中からラザロを生き返らされます。あれはまだ生き返っただけであって、わたしたちの言う「復活」ではありません。復活というのは霊の身体に変えられることでありますから、ラザロがもとの朽つべき身体に生き返ったとしても、それはまだ復活ではありません。その意味では、復活はまだイエスお一人だけに起こったことです。けれどもラザロが生き返ったということは、いったん死んだ人を復活させることができる力をイエスはもっておられることが示されたわけで、これは死人からの復活に対するいちばん適切なしるし、最終的なしるしとなったのです。
 このようなわけで、わたしたちが復活信仰と言いますときに、ユダヤ人が信じているように、ただ終わりの日に神がそれをなしてくださるという期待だけでそれを待っているのではないのです。いま現にすでに復活された方がわたしの内にいてくださって、わたしの内にすでに復活が起こっているという事実がありますから、未来の約束が確かなものとなり、それが神の約束として語られるときに内に響くものがあるのです。同じ質の、同じことが語られているのですから、アーメンだと共感するものがあります。だから、このような将来の死人の復活という人間離れした信仰が、わたしたちの中で心からのアーメン、しかりとなって、一日一日をその信仰で生きていくことができるようになるのです。この聖霊による信仰がなくて、ただ未来の出来事だけを待ち望めと言われると、どこかで疲れ果ててしまうか、気が変になるでしょう。それほどこの信仰は人間離れしています。
 こう申しましても、復活はすでにわたしたちの中に起こったのだから、これが聖書の言う復活であって、終わりの日に死んだ人間がまた復活して神の前に立つというようなことはもうなくてもよいのだというようなことは、決して福音が語っているところではありません。ヨハネ福音書でイエスご自身が、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の生命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」ということを繰り返して言っておられます(ヨハネ福音書六・三九、四〇、四四、五四)。いまイエス・キリストを信じて、この方に結ばれる人は永遠の生命をもち、その人たちをキリストは終わりの日に復活させてくださいます。この終りの日の希望について、聖霊の人パウロの言葉を聞きましょう。

聖霊による希望

神の子の顕現

 「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内で呻きながら子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちはこの望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事をどうしてなお望むことがあろうか。もしわたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」。(ローマ書八・一八〜二五)

 パウロが「やがて現されようとしている栄光」とか、「栄光に与る望み」とか、「栄光」という言葉を使うときに、具体的には「復活に与る」という内容をいつもわたしはその中に読んでいます。すべての人が罪を犯したために神の栄光を受けられなくなった。すなわち、復活に与ることができない。この死の定めのままで終わってしまうのです。しかしキリストによって義とされることによって受ける新しい生命は、わたしたちに神の栄光に与ること、すなわち復活に与ることを可能にしたのです。
 「被造物は実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」。ここで言う「出現」はギリシャ語原語では「アポカリュプシス」で、キリストの再臨とか顕現を指すときに用いられる用語と同じです。キリストは今隠されている。その隠されたキリストが神の支配者としての栄光をもってこの世界に現れ給う。それを普通再臨と呼んでいますが、パウロは再臨(パルーシア)という言葉以上に、むしろ「アポカリュプシス(顕現)」という言葉をよく用います。この顕現の時、すなわちキリストが現れ給うときに、神の子たちも本来の栄光の姿をもって現れるのです。

 「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」。(コロサイ書三・三〜四)

 こういう現れ、神の子たちの顕現がやがてくる。その時を全世界は待ち望んでいる。「なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ被造物自身にも滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」。ここも解釈が難しいところですが、要するに神は初めにこの天と地をお造りになって、たいへん良いものとされたのですが、肝心要の人間が堕落しましたから、人間の罪のためにこの被造物世界もじつは栄光を受けられなくなって苦しんでいるのです。だから人間が救われて神の子とされ、その栄光のうちに現れるときは、この被造物もまた神の栄光に与って、もはや呻きのない、神の栄光を現す被造物になるのです。それを聖書は「新しい天と地」と呼んでいます。

世界の呻きと聖霊の呻き

 「実に被造物全体が、今に至るまで共に呻き共に産みの苦しみを続けていることをわたしたちは知っている」。このような聖霊による復活の希望をもちますと、わたしたち自身の中にも呻きがありますが、この全世界の呻きも聞こえてきます。たとえば、いまこの世界には核という恐ろしいものが人間の力で産み出されて、海の中から上がる怪獣のように、サタン的な力をもって世界を恐怖に陥れていますが、こういう呻きを世界はもっています。わたしたちも古いからだの中にあって贖われることを呻き待ち望んでいます。
 「それだけではなく、御霊の最初の実をもっているわたしたち自身も、心の内で呻きながら、子たる身分を授けられること、すなわちからだの贖われることを待ち望んでいる」。パウロは様々な表現を使います。すでにわたしたちは御霊によって子とされ、「アバ、父よ」と呼ぶ間柄になっていますが、実際に子たる身分が完成するのは、このような古いからだではダメなのです。やはり古いからだを脱ぎ捨てた、神の子にふさわしい霊のからだに変えられたときに初めて、子であるという身分が完成します。からだのあがなわれることというのはそのようなことだと理解しています。朽つべき古いからだが朽ち果てた後に、新しい霊のからだに変えられる、そのからだの中で神を賛美する存在として生きること、これを待ち望んでいます。

救いの結果としての希望

 「わたしたちはこの望みによって救われているのである」。ここはもう少し簡潔に原文のまま、「わたしたちはこの望みに救われている」と直訳したら、より含蓄が深いと思います。わたしたちはこの地上においては時間の中にいます。人間はこの地上にいる限りは、時間を越えては存在できないのです。時間の中にいるということは必ず過去があり、未来があるということです。その未来がわたしたちにとっては復活の希望なのです。神の栄光に与るという希望なのです。それがなければ、わたしたちが時間の中にいることは、昔から日本人が感じてきましたように、無常、常ならざる変化のうちに最後には無に帰していくことを意味します。この無常を克服する希望は、わたしたちがキリストにあって救われた結果です。「この望みへと救われている」と、わたしはそう理解しています。わたしたちは信仰によって救われるのです。信仰によって救われ、その結果として、このような復活の希望にまで入れられているのです。こう理解すべきでしょう。
 「しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうしてなお望む人があろうか。もしわたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」。
 目に見える望みというのは、人間が自分たちの経験や理性で理解し得る範囲内での望みです。復活は「目に見える望み」ではなく、「見ないことを望む」ことです。どうして死者が復活するというようなことが人間に理解できますか。わたしにも実感はありません。けれども、イエスが復活されたという事実と、そのように復活させるという神の約束の言葉、このほうがわたしにとっては人生のさらに大事な現実であります。これは目に見えない現実です。この目に見えないことを望んでわたしは生きています。だから目に見えないことがほんとうに何も無いのでしたら、パウロが言っていますように、クリスチャンほど惨めな人生はないのです。逆に、もしこれが真理であるならば、神が死人を復活させる方であるならば、この死人からの復活に与らない人生こそまったくの失敗であり、滅びであります。人が全世界をもうけても、おのが生命を失ったらいったい何になるだろうか。もし復活に与ることがなければ、この地上でどんな栄光を獲得しても、それがいったい何になるのか。それは滅びにすぎないのです。この地上で何を失い、若くして生命を失うようなことがあっても、復活に与るならばその人の人生は勝利であります。この地上でどんなに苦しみ、何もすることができずに、ただ人の世話になるだけの生涯であったとしても、その魂の信仰のゆえにそのからだが新しい霊体を与えられて復活するならば、その人の存在は感謝すべき大勝利であります。神はすべての人にこのような勝利を与えるべくキリストをこの世界に送り、この福音によってすべての人を招いておられます。この死人を復活させる神を信じて生きぬいてまいりましょう。

キリストとその復活の力を知る

キリストを知る

 以上、三回にわたって復活について話してまいりました。死者の復活がいかに聖書の中心的な真理であるか、また、わたしたちの信仰の核心であるかが分かっていただけたと思います。最後に、フィリピの信徒にあてた使徒パウロの手紙の中の言葉を引用して、三回の講話の締め括りとしたいと思います(引用は新共同訳)。これは使徒の告白であり、すべての時代のキリスト者に呼びかける言葉です。

 「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。(三・八)

 これまでに話してきましたことはすべて主イエス・キリストの中に含まれています。わたしたちの罪のために死んでくださったのはキリストです。わたしたちの初穂として死者の中から復活されたのはキリストです。聖書のすべての内容を一身に成就されたのはキリストです。わたしたちに聖霊を送ってくださるのはキリストです。このキリストを「わたしの主」として知ることは本当にすばらしいことです。その時、キリストの十字架はわたしの罪のためであり、キリストの復活はわたしの復活の保証となります。
 ここでキリストを「知る」というのは、自分の外にある対象を観察して理解するというようなことではありません。ヘブライの語法では人が人を知るというのは、男が女を「知る」というように用いられていることからも分かるように、全人的な交わりと結びつきの中で相手を知ることです。「わたしの主キリスト・イエスを知る」ことは、十字架上に処刑されたナザレ人イエスを復活されたキリストと信じ、この方を自分の生涯の主、存在の根源として自分を全面的に委ねる信仰から始まります。この信仰に対して神から賜る聖霊によって、わたしたちは復活された生けるキリストとの交わりに入れられ、キリストと結ばれ、その交わりの中でキリストの現実を体験的に知るのです。
 このようにキリストを知ることは、聖霊のバプテスマから始まります。けれども、それは一回限りの体験で終わるものではありません。生涯、キリストと結ばれ聖霊に導かれて歩む生活の中で、キリストを知る体験が深められてきます。わたしは自分の信仰の生涯においてキリストをすべて知りつくしたとは思いません。わたしが知るところはごく僅かです。それでも、キリストを知ることのすばらしさは分かります。わたしの生涯において、他の何よりも価値あるものです。これを得るためには、何を失っても惜しいとは思いません。わたしもキリストの福音を追い求め、それに仕えるために、世間並みの出世や名誉を断念して生涯を送ってまいりましたが、それを惜しいとは思いません。みなさんも本当にキリストを知ることのすばらしさを体験しておられるならば、キリストの名のために今まで大切なものと思っていたものを失うことがあっても、それを塵あくたと見るというパウロの告白を共感することができると思います。

キリストを得る

 「(それは)キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。
(三・九)

 わたしたちがこの世で尊ばれているものを塵あくたのように見るのは、ただひたすら「キリストを得る」ためです。「キリストを得る」と言うと、何か自分の努力で目標としたものを獲得するように聞こえますが、そうではありません。ただひたすらキリストの中に自分を投げ込んで、「キリストの内にいる者と認められる」ことがキリストを得ることなのです。これは律法を行うことによって自分が獲得する地位ではなく、自分を無としてキリストに委ね、キリストと結ばれて生きること、すなわち信仰によって賜る地位です。
 このようにキリストと結ばれて生きる人間の在り方を、パウロは「キリストの信仰」と表現し、時にはただ「信仰」という語だけで表現します。ここでは「キリストへの信仰」と訳されていますが、外にある対象に向かっての人間の態度ではありません。そのような外にあるキリストに向かってどのように努力しても、キリストを得ることはできません。「信仰」によって、すなわちキリストと結ばれて生きることによって初めて、「キリストの内にいる者と認められ」、キリストを得ることができるのです。では、「キリストを得る」とはどういう内容であるのか、それが次の句で語られます。

 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。(三・一〇〜一一)

 キリストを知ることの最も基本的な内容は、キリストの復活の力を知ることです。キリストと結ばれて生きる人生において、キリストを復活させた力を何らかの意味で味わい知ることです。そして、この人生においてキリストの復活の力を味わい知りたいのは、キリストが死者の中から復活されたように、自分も死者の中から復活することを確かなものにしたいからです。「死者の中からの復活」こそ、人間の最終的な目標です。これに達することが、最終的に「キリストを得る」ことです。
 死者の中からの復活に達する道は、神が復活させたキリストに合わせられて歩む道しかありません。そして、キリストは十字架の苦しみを通して復活に至ったのですから、復活を目指してキリストに合わせられて歩む者も、キリストの苦しみにあずかる道を歩むことになるのです。パウロはここで理屈を語っているのではありません。それはパウロの人生の現実の体験です。パウロはキリストと結ばれて生きる者として、またこのキリストを宣べ伝える者として、キリストの名のために様々な苦難を受けてきました。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と言っています。彼はその苦難の中でイエスを復活させた命を味わい知ってきました(コリント第二、四・一〇〜一四)。そして、今は投獄されて、現実に死に直面しているのです。処刑されるならば、キリストの死と同じ形に合わせられることになります。キリストと一体となってその死の姿に合わせられるならば、その復活の姿にも合わせられることを、パウロは知っており(ローマ六・五参照)、今それを切望しているのです。
 このように、キリストに結ばれて生きる者にとって、キリストの苦難にあずかることを通して「死者の中からの復活に達する」ことが、究極の目標となるのです。ここでパウロは信仰に生きる者の目標を、最も明確に表現していると言えます。

目標を目指して

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。
(三・一二)

 この「キリストを得る」という目標、具体的には「死者の中からの復活に達する」という目標について、自分は既にそれを得たとか、既に完全な者となっているので追い求める必要がない、とは言っていません。その目標とするものを何とかして捕らえようと渾身の努力を続けているのです。そのような地上のものでない、途方もない目標に向かって、一切を擲って生きるということは、この世の常識からすれば気違い沙汰です。けれども、パウロはそうしないでおれないのです。わたしもそうしないではおれないのです。もうそんなことは止めようとしても、止めることができないのです。それはもはや自分がその目標を捕らえようとして努力している世界ではなく、自分がキリストに捕らえられていて、そのように生きざるをえない世界です。わたしはキリストの恩恵に捕らえられています。キリストの恩恵がわたしを捕らえて、そのような途方もない目標に向かって走らせるのです。キリストの恩恵から離れては、わたしは存在できないからです。

 「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。(三・一三〜一四)

 このように目標が明確にされ、しかもその目標にまだ達していないのであれば、なすべきことはただ一つ、その目標を目指してひたすら走ることです。ここではその目標が、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」と言い換えられていますが、それが死者の中からの復活を指すことは、前後の文脈からしても明らかでしょう。もうすこし広くとって、「神の栄光にあずかること」と理解しても、その具体的な内容は復活にあずかることですから、同じです。この講話全体で強調してきましたように、神がキリスト・イエスによってわたしたちを召してくださったのは、まさにこの復活にあずからせるためであったのです。このように、わたしたちの将来に人の思いをはるかに超える賞が備えられていることが明らかにされたのですから、もはや過去のことを振り向くことなく、自分の全存在、全生涯をかけて、この復活にあずかるという目標に向かって生きていくほかはありません。わたしたちの過去がどうであったかは、もはや問題ではありません。わたしたちはみな、キリストにあって新しく造られた者です。この目標に向かって生きるように召された者なのです。

 「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」。(三・一五〜一六)

 ここで「完全な者」というのは、すでに目標に達した者という意味ではなく、信仰の道の初歩の者に対して、信仰において成熟した者という意味でしょう。信仰に入る時には、病気を癒されたいとか、人間関係の苦しみや将来の不安から救われたいとか、この生活の中で直接経験することが動機になる場合が多いようです。また、信仰に入ってからも、この世で賢明に生きるための知恵や勇気、聖書やキリスト教についての知識、伝道の成果とか霊的体験の豊かさ、そういうものを目標にして生きる場合が多いようです。ここでパウロが告白しているように、「死者の中からの復活に達する」ことを目標にして信仰生活を歩む者は少ないようです。それはあまりにも人間の思いを超えているからでしょう。けれども、聖書の真理がそうである以上、成熟した者はパウロと同じように考えて生きるようにならなければならないと言えます。
 わたしにとっても、死者の復活が聖書理解の中心となり、信仰生涯の明確な目標になってきたのはここ数年のことです。若いときに信仰に入り、三十年近く経ってようやくパウロのこの告白が全身で共感できるようになったのです。それがキリスト教の教義であるからといって、そのような生き方を人にも自分にも押しつけることはできません。そんなことをすれば、信仰生活は必ず破綻します。信仰の歩みは、神が各自の内側に聖霊によって形成してくださっているものから自ずから発する所に従ってなさるべきものです。そのように御霊に導かれる歩みの中で、神がこのような目標を内側に確立してくださるのです。

国籍は天に

 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」。(三・一七)

 こういう言葉を聞くと、すぐ道徳的な生き方の模範と考えてしまうのですが、ここではそうではないことは明らかです。「キリストを得る」という目標、「キリストとその復活の力を知り、・・・・死者の中からの復活に達する」という賞を目指して、後のものを忘れ、全身で走るというパウロの生き方に倣うことです。わたしも破れの多い生活ですが、その中にこのような目標を賜って、ひたすらその目標に向かって生きないではおれないようにされているのは、神の恩恵によります。その恩恵に基づいて、みなさんもパウロと同じように、復活にあずかるという目標に向かってひたすらに生きてくださるように願って、この三回の講話でわたしの信仰を告白してきたわけです。
 ところが、このような生き方はあまりにも人の思いを超えているので、冷笑して拒む人が多いのです。

 「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。(三・一八〜一九)

 パウロは広く地中海世界を走り巡って、この復活の福音を宣べ伝えました。この福音を信じて、キリストとの生ける交わりに入り、復活の希望に生きる人もありましたが、大部分の人は愚かなたわごととして相手にしませんでした。ヘレニズム世界の代表的な都市アテネで、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑って」去って行ったと伝えられています(使徒行伝一七・三二)。さらに悪いことは、外の人たちでなく、キリストの民の中にこの信仰に敵対する者が多いのです。ここでパウロが涙ながらに語っている「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」というのはおそらく、三章の初めに「あの犬ども」と呼んでいた「よこしまな働き手」とその追従者たち、すなわち割礼と律法順守をキリストの民に要求する者たちのことと考えられます。自分の義を立ててキリストの十字架を無効にする彼らは、聖霊を受けることはできず、聖霊による復活の希望を内に宿すことはできません。彼らが追い求めるのは結局自分の欲求の満足であり、地上のことです。復活にあずからない生は結局は滅びです。

 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(三・二〇〜二一)。

 それに対して、十字架によって自分に死に、聖霊によって復活者キリストに合わせられて生きる者は、自分の国籍が天にあることを知っています。たしかに今、わたしたちは地上に生きています。けれども、本来の所属は天、すなわち終末の栄光の現実ですから、そこから今は隠されているキリストが現れてくださって、わたしたちの卑しい、死すべき体を、復活されたキリストの栄光の体と同じ形に変えてくださるのを待っているのです。キリストはその時万物の支配者としての力をもって、わたしたちの朽ちるべき体を栄光の霊の体に変えてくださることもできるし、すでに卑しい体を脱ぎ捨てている者に新しい霊の体をまとわせることもできるのです。その時、今は神の中に隠されているわたしたちの命も栄光の中に現れるのです。その時、キリストにあって神の最終的な創造が完成するのです。キリストに結ばれて生きるわたしたちの地上の生涯は、ひたすらその時を待ち、その目標を目指して生きるものになっているのです。
 獄中で死に直面して書きましたこの使徒パウロの告白と呼びかけの言葉を、深い共感をもって引用させていただいて、三回にわたりました講話を終わります。
(天旅 1989年5号、6号)