市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第30講

補 説 2

        神の霊による人間の変容  

主 題

 「しかし、主の方に向き直れば、その時には覆いは取り除かれます。ところで、主は御霊です。主の御霊がいますところには、解放があります。わたしたちは皆、覆いを取り除かれた顔に主の栄光を反映しつつ、栄光から栄光へ、同じ形に造り変えられていきます。これは霊の主から来ます」。

(コリントU 三章一六〜一八節 市川訳)

T 神の力・神の働きとしての聖霊

神の力としての福音

 世界の諸民族にキリストの福音を告知した使徒パウロは、自分が宣べ伝えた福音の本質をこう宣言しています。

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力です」。(ローマ書一・一六)

 原文の語順で訳すと、「福音は神の力です、救いに至らせる、すべて信じる者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも」となります。この「福音は神の力である」という最初の一文こそ、福音の本質を示す最も重要な宣言です。その後に、この「力」がどのような力であるのかを説明する句が二つ続きます。第一は、その力は「救いに至らせる」力であると、その力が働く方向が示されます。第二は、その力は「すべて信じる者に」働くのだと、その力が働く場が示されます。そして、その「すべて」は数のすべてではなく、いかなる立場の人も差別しないという意味の「すべて」であることが、「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」という句で説明されます。ここでの「ユダヤ人」はユダヤ教の中にいる人たち、すなわちユダヤ教徒のことであり、「ギリシア人」はユダヤ教徒でないすべての人たち、すなわちユダヤ教から見た異教徒の全体を代表しています。福音は、その言葉を神の言葉として受け入れる(=信じる)どのような人にも、ユダヤ教徒であろうが異教徒であろうが区別なく、救いに至らせる神の力として働くのです。
 たしかに、福音は言葉です。それは、主イエス・キリストの出来事を世界に告げ知らせる言葉です。ナザレのイエスの驚くべき奇跡の働きや教えの言葉を伝え、イエスの十字架上の死と三日目の復活という出来事を告げ知らせ、その死は人間の罪のための死であり、復活はイエスを主《キュリオス》・キリストとして立てる出来事であると告げ知らせる言葉です。しかし、それはある事柄についての情報を伝える言葉ではありません。神から人間への語りかけの言葉として、それを信じて聴く者に変化をもたらす現実の力です。それは、神からの言葉ですから、それを受け入れる者に働く力は神の力です。この神の力としての言葉、これが福音の本質です。
 力は変化をもたらします。力が働くとき、何らかの変化が起こります。物体の位置が変わったり、運動の速度が変わったり、形が変わったりします。物質の状態が変わることもあります。では、神の力は何を変えるのでしょうか。
 神の力は人間を変えます。人間を奥底まで造り変えます。その結果、社会を変え、歴史を変え、文明を変えていく力となります。今回は、福音という神の力が、人間をどのように造り変えるのかを見たいと思います。
 力はベクトル量です。力は大きさだけでなく、方向と向きをもつ量です。福音が力であるというとき、その力の大きさは、すでにそれが「神の力」であるという表現で語られています。それは神の力ですから、人の思いを超え、人にはできないことを成し遂げる力です。イエスはご自分の中に働く力について、「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」と言われました(マルコ一〇・二七)。この神の力が働くのです。その力がどのように、人にはできないことを成し遂げるのかは、本講全体でお話しすることになります。
 次に、この力には方向と向きがあります。方向とは、垂直とか水平とか45度とかの方向です。向きとは、垂直方向では上向きか下向きか、水平方向では右向きか左向きかということです。ここでは方向と向きを合わせて、「救いに至らせる」という表現で、この力の方向(向き)が語られています。この「救いに至らせる」という向きがどのような内容であるかについては、次項の「栄光への変容」で詳しく語ることになります。

聖霊が働く場

 どのような力にも、その力が働く場があります。たとえば、磁石(磁針)はいつも北を指します。これは、地球という巨大な磁石が発する磁気がその磁針に働いて、磁針を動かすからです。このように磁気が働いている場を磁場と言います。このような磁場にあるとき、磁針は磁力を受けて動き、北を指すという働きをします。電動機(モーター)もこの磁場に働く磁力によって軸を回転させる構造をもった装置です。モーターがいかにわたしたちの日常生活に広く用いられているかを観察するとき、わたしたちは目には見えない磁力が人間生活に対していかに巨大な力を提供しているかを理解することができます。
 では、神の力はどのような場に働くのでしょうか。そのことが、このパウロのローマ書の言葉では、「すべて信じる者に」という句で表現されています。神は使者たちを派遣して世界に福音を告げ知らせておられます。しかし、その使信(福音)が神からのものとして信じられないところでは、神の力は働くことができません。その使信が神からのものとして受け入れられるとき(それが「信じる」ということです)、神の力としての福音がその力を働かせることができます。すなわち、福音が告げ知らされ、それが神からのものと信じられて受け入れられるとき、神の力が働く場が形成されます。その消息を示す実例を、パウロの実際の福音の働きの中から取り上げてみましょう。
パウロはマケドニア州の州都テサロニケにしばらく滞在してキリストの福音を宣べ伝える活動を続けます。その結果、テサロニケに主イエス・キリストを信じる人たちの群れが形成されます。しかし、ユダヤ人が引き起こした騒乱により、パウロはテサロニケを追われてベレアに逃れ、そこからさらに南へ行き、アテネを経てアカイア州の州都コリントに移ります。テサロニケに残した信者たちのことを心配したパウロは、アテネからテモテを派遣します。パウロがコリントにいるとき、テモテが戻ってきてテサロニケの様子を報告します。彼の報告で、テサロニケの信者たちがしっかりと信仰に立っていることを知ったパウロが、喜びを持って書いた手紙がテサロニケ第一書簡です。これはテサロニケでの伝道活動から数ヶ月の後に書かれたものと考えられますが、その手紙の中で、パウロはテサロニケで福音を宣べ伝えた時のことを次のように感謝をもって回顧しています。

 このようなわけで、わたしたちもまた絶えず神に感謝を捧げています。というのは、あなたたちがわたしたちから聞いた神の言葉を受け取るさいに、それを人間の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、信じるあなたたちの内に現に働いているのです。
( テサロニケ書T 二・一三 市川訳 )

 テサロニケの人たちは、パウロがイエス・キリストのことを伝える言葉を聞いたとき、「それを人間の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」のです。語ったパウロは、「事実、それは神の言葉である」ことを十分理解し、そのためには命をかけてもよいほどに確信しています。このように福音が神の言葉として語られ、神の言葉として受け入れられる場では、その言葉は受け入れた者の内に働きます。それは神の言葉の働きですから、神の働きそのものです。そして、神が人間の内に働かれる姿を「聖霊」といいます。
 このように、福音が神の言葉として語られ、神の言葉として受け入れられている場には、聖霊が働いてくださいます。その消息を、パウロはこのように書いています。

 わたしたちの福音があなたたちのところに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信によったのであり、・・・・あなたたちもまた、多くの苦しみの中で、聖霊による喜びをもって、御言葉を受け入れたのでした。 (テサロニケ書T 一・五〜六 市川訳)

 使徒パウロは「力と聖霊と強い確信によって」福音を語り、それを聴いたテサロニケの人たちはパウロが語る福音を神の言葉として受け入れたので、そこに聖霊が働き、彼らは「聖霊によって」神の言葉を受ける喜びに溢れたのでした。テサロニケ書簡のこの一文には、福音が神の言葉として語られ、受け入れられる場に聖霊が働かれる様子が、すなわち、そこに聖霊が働かれる場が形成される様子がよく描かれています。
 ガラテヤでも同じことが起こりました。パウロがガラテヤで福音を宣べ伝えたとき、多くの人たちが福音を受け入れて聖霊を受けました。しかしガラテヤではその後に、神の民となるためには割礼を受けてユダヤ教の諸規定を守る必要があると説くユダヤ人伝道者が来て説得したので、割礼を受けようとする動きが起こりました。それに対して、パウロはこう問いかけます。

 「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」。 (ガラテヤ三・二)

 ここの「律法を行う」は、割礼を受けてユダヤ教の諸規定を守り行うことを指しています。それがユダヤ教であれキリスト教であれ、宗教の規定をいかに熱心かつ厳格に守り行ったとしても、それは聖霊が働かれる場とはなりません。聖霊を受け、聖霊の働きによって新しい命の次元に入って行くのは、ただ「福音を聞いて信じる」ことによります。パウロは、ガラテヤの信者たちの体験を指し示して、このことを確認させようとします。
 いくら福音が力をもって説かれようと、それを聞いて信じることがなければ、そこに聖霊の働きはありません。アテネがよい例です。パウロはアテネでもガラテヤやテサロニケと同じように福音を語りましたが、ギリシアの知恵を誇るアテネの人たちは、死者の復活を語るパウロをあざ笑い、福音を受け入れませんでした(使徒一七・三二)。それで、アテネでは聖霊の働きによって回心する人はいなかったようです。イエスも、イエスを神から遣わされた者と信じない故郷のナザレでは、神の霊による力ある働きをなさることができませんでした(マルコ六・一〜六)。
 わたしたちが力を尽くして集会を維持するのも、この不信仰の世界のただ中に聖霊が働かれる場を確保するためです。信仰をもって福音が語られ、その福音が信仰をもって神の言葉として受け入れられている場、そこに聖霊が働き、わたしたちのために十字架され、復活して今も生きたもう主イエス・キリストの栄光が崇められる場を、この世のただ中に確立するためです。

信仰による義

 ところで、福音の基本テーゼを掲げるローマ書一章一六節の言葉には次の一七節の文が続いています。

 福音には神の義が現れており、信仰から始まり信仰へと至らせるのです。「義人は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。(ローマ一・一七 市川訳)

 この文は、理由を示す《ガル》という語で、先行する一六節と結ばれています。福音がすべて信じる者を救いに至らせる神の力であるのは、その福音に神の義が現れているからだ、というつながりです。この理由を示す一文は、福音が救いに至らせる神の力であるという基本テーゼの中の、とくに「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者に」という部分の理由を指し示しています。
 この福音には神の義が現されているから、この福音を信じる者は、ユダヤ人であるかギリシア人であるかを問わず、この神の義(人を義とする神の働き)を受けて、義とされ、救いに至らせる神の力が働く場に入っていくことができるのです。義とされることなく、すなわち神に受け入れられる者にならないで、神に拒まれているままの状態では、その人に神の力は働くことができません。救いに至らせる神の力は、義とされて、神が働かれる場に入った者に及ぶのです。
 ですから、救いは、初めから終わりまで徹頭徹尾信仰によって受けるものです。このことをパウロは「信仰から始まり信仰へと至らせる」という句で表現し、それを「義人は信仰によって生きる」という預言者ハバクク(二・四)の言葉で根拠づけます。
 この義とされて神に受け入れられることにおいては、ユダヤ教徒であろうと、そうでなかろうと関係はありません。すべて福音を信じて受け入れる者は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事の中で成し遂げられた神の義(人を義とする神の働き)によって義とされるのです。この信仰による義は、パウロが命がけで主張した重要な真理ですが、それは福音の全体ではなく、福音の基本的内容の中の「すべて信じる者に」という面を根拠づけるものです。

 ローマ書一章一六〜一七節の構造と意味については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』24頁以下の「神の力としての福音」の項を参照してください。

U 栄光への変容

人間の内実を造り変える神の働き

 使徒パウロは最初に、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力です」という基本テーゼを掲げ、ローマ書全体でそのテーゼを展開しました。ローマ書はパウロの救済論の壮大な提示です。しかし、パウロの手紙の中には、ローマ書のように体系的・包括的にキリストにおける人間の救済を提示する文書だけでなく、実際的な問題を取り扱う際に、神の救いの働きの全体を簡潔に要約して提示する短い文章がちりばめられています。今回主題として掲げましたコリント第二書簡(三章一六〜一八節)の言葉も、そのような要約の一つであり、わたしはパウロの救済論の最も重要な提示であると考えています。
 この文でパウロは、神の力が働く方向を「栄光から栄光へ」と、「栄光」という用語を使って表現し、「救いに至らせる」という働きを、「同じ形に造り変えられていく」と表現しています。そして、その働きの全体を「主の御霊」、すなわち聖霊の働きとして提示しています。
 この救済の提示において中心の位置を占めるのは、「造り変える」という動詞です。神が人間を「造り変える」ように働いてくださることが、人間の救済の中身です。ギリシア語原文では《メタモルフォー》という動詞が用いられています。この動詞は「《モルフェー》を変える」という意味の動詞です。「造り変える」と訳したのは意訳です。ここでは変える働きをされるのは神ですから、それは神が創造的に働いて変えられることを意味すると理解して、「造り変える」と訳しています。
 《モルフェー》は形、形態、姿という意味ですが、「外観とともに、その特性や本質的な要素をもつこと」です。同じような意味の語に《スケーマ》という名詞がありますが、これは形状、外形という「外的で偶有的な姿」を意味しています。たとえば、菓子やケーキの形が三角や四角であろうが円形であろうが菓子には変わりがありません。この場合の形は《スケーマ》です。それに対して、三角や四角では車輪になりません。円い形は車輪の《モルフェー》ということになります。このように、人間の「内的で本質的な姿」である《モルフェー》を変えること、人間を人間たらしめている内実を変えることが、ここで神の救いの働きとされています。
新約聖書で《モルフェー》という名詞が出てくるのは、(マルコ一六・一二を別にすれば)パウロ書簡に2回出てくるだけです(フィリピ二・六〜七)。ここではキリストが「神の《モルフェー》でありながら・・・・・僕の《モルフェー》を取られた」とあります。《メタモルフォー》という動詞は、パウロ書簡ではこことローマ書一二・二の2回だけです。共観福音書ではイエスの「山上の変容」を伝える箇所(マルコ九・二、マタイ一七・二)で用いられています。新約聖書ではこの4回です。この動詞の名詞形《メタモルフォーシス》は、新約聖書には出てきませんが、イエスが山上でその姿が変わられた出来事は、イエスの《メタモルフォーシス》であり、日本語では容姿とか容貌の「容」を用いて「変容」と呼ばれています。
 この《メタモルフォー》という動詞の受動態(変えられる)に、「同じ形に」という説明がついています。どう変えられるのかというと、「同じ形に」変えられるのです。ここの「形」は《エイコーン》という語です。この《エイコーン》はもともと「像、肖像、似姿」という意味であり、広く形、姿という意味に用いられる語です。もう少し詳しく説明すると、「実物を模写した類似物、貨幣に刻印された皇帝の顔や、子供の中にある親への相似性など、常にその原型があることを暗示する」ということになります。この語が用いられている最も重要な場面は、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記一・二七)というところです。七十人訳ギリシア語聖書では、ここは「神は、神の《エイコーン》(似姿)に従って人を創造された」となっています。
貨幣に刻印された皇帝の顔を指すのに、マルコ一二・一六で《エイコーン》が用いられています。この語は後に、キリストやマリアの肖像画を指す「イコン」という語になりますが、新約聖書の時代では彫像も含む意味で用いられています。
 パウロは「同じ《エイコーン》に造り変えられる」と言っていますが、何と同じ形なのかは明示していません。聖書に基づいて思考しているパウロは、当然この創世記の記事を念頭に置いているのでしょう。従って、「同じ形に」は、造り変えるという働きの主語である神と同じ形を意味しているのでしょうが、その内容はもう少し詳しく見なければなりません。この「同じ《エイコーン》に」という内容は、《メタモルフォー》という動詞を説明するためにその直後に置かれている「栄光から栄光へ」という句から理解することができます。二つの説明句は並行しており、お互いに内容を説明しています。

 なお、この項で引用したギリシア語の語意の解説は、織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』からです。

栄光から栄光へ

 神が「《モルフェー》を変える」働きをされる方向が、「栄光から栄光へ」という句で説明されています。この句の意味内容を理解するために、パウロがどのような意味で「栄光」という語を用いているかを調べてみましょう。

 「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っている」。 (ローマ三・二三 市川訳)

 パウロは生まれながらの人間の現実を「神の栄光を失っている」と表現しています。そうなったのは、「人間はすべて罪に陥った」からです。生まれながらの人間はすべて、自分の存在の根源である創造者なる神に背を向け、神から離反しているので、神の善き性質を失ってしまっています。パウロはローマ書の最初の部分(一・一八〜三・二〇)で、異邦人とユダヤ人の罪の現状を詳しく描いた後に、その要約としてすべての人間の現実を「神の栄光を失っている」と表現します。
 その後、ただ信仰によって受け取ることができるイエス・キリストによる義を告知します(三・二一〜四・二五)。その全体を、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより神との和を得ています」(五・一)とまとめた上で、こう続けます。

 「さらにまた、この方により、わたしたちがいま現に立っている恵みに導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます」。 (ローマ五・二 市川訳)

 わたしたちに義を与えてくださった主イエス・キリストによって、わたしたちはいま神の恩恵の力が働く場に導き入れられ、キリストにあって恩恵が支配する場に呼吸し生きています。しかし、わたしたちはなお死すべき体をもって生きているのであり、時間の中にいる限り、受けた恩恵もそれが完成するのは、将来のこととして待ち望まざるをえません。その待望が、ここで「神の栄光にあずかる希望」と表現されています。「神の栄光にあずかる希望」とは何という壮大な希望でしょうか。人間が持ちうる希望の中で、これよりも大きな希望があるでしょうか。
 この「神の栄光にあずかる希望」は、ローマ書では八章、とくに一八〜二五節で詳しく語られることになります。そこでは、「神の子たちの栄光への解放」に被造物全体があずかることで、万物の完成の時が来ることが待望されています。そして、「神の子たちの栄光への解放」は「体の贖い」とも言われています。わたしたちが死すべき体を脱ぎ捨てて、もはや朽ちることのない「霊の体」を着せられて復活するとき、「神の栄光にあずかる希望」が実現します。その時わたしたちは罪と死の支配から完全に解放されて、神の栄光をもって輝き、人間としての完成に到達します。
 わたしたちは今その完成への途上にあります。神の栄光にあずからせるための働きを、神はすでにキリストにあってわたしたちの内に開始してくださっています。しかし、完成はまだ将来のことです。その過程が「栄光から栄光へ」という句で表現されています。わたしたちは今キリストにあって、栄光から栄光へと「《モルフェー》を変えられつつある」のです。ここの《メタモルフォー》という動詞は現在形です。現在形は(ギリシア語では)現在行われている動作を表現しています。
 わたしたち人間は、創造者なる神に背いたという根源的な罪により、神の栄光を失いました。今キリストにあって、その失った栄光を回復し、やがて神の栄光にあずかることになるという希望をもって生きています。この「栄光」という語は、旧約聖書やユダヤ教において用いられる語ですが、「神の栄光」を現代的な用語で表現すると、神が神としてもっておられる性質とか本質ということになるのでしょうか。神が神として本来備えておられる正義、誠実、慈愛、自由などなど、神の聖性の総体を指していると見ることができます。本来人間はこの神の栄光を輝かす存在として造られたのに、自分を神とする根源的な罪によって神から離反し、この神の栄光を失いました。現実の人間は、神に敵対する罪の力の支配下に陥り、不義と虚偽、冷酷と不自由に陥っています。
 しかし今や、キリストにあって神の恩恵の支配の場で、この失った神の栄光を回復する過程、すなわち失った本来の人間の姿を回復する過程が始まっています。その過程はどうして、どのように進むのでしょうか。次にそれを見ましょう。

主の栄光の反映

 パウロは、「栄光から栄光へ、同じ形に造り変えられていく」という主文の前に、「わたしたちは皆、覆いを取り除かれた顔に主の栄光を反映しつつ」という(分詞形を用いた)状況とか理由を示す文を置いています。 この一文は、「反映する」という動詞が用いられていることからも分かるように、鏡を比喩としています。鏡は光を反射し、映像を反映します。ところが、鏡に覆いがかぶせられていると、光を反射することができませんし、映像を反映することもできません。折角神の栄光という光が差し込んできても、鏡に覆いがかぶせられた状態では、その光を反射し、神の栄光を反映することはできません。
 そこで、キリストにあって主の栄光を反映する「わたしたちは皆」、覆いを取り除かれた者たちであることが先に語られています。主題として掲げましたパウロの言葉の直前には、モーセがイスラエルに律法を与えるときに顔に覆いを掛けた事実を引き合いに出して、ユダヤ人について「今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています」と言われ、「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と標題の言葉が続きます。
 ここで、「今日に至るまで、いつもその心に覆いが掛かっている」ユダヤ人と、「覆いを取り除かれた」キリストにある者が対比されています。その違いは、「主の方に向き直っている」かどうかの違いです。そして、「主の方に向き直る」とはどいうことか、「ここでいう主とは、御霊のことですが、主の霊のおられるところに解放があります」と解説されます。
 パウロの時代のユダヤ人たちは、全体としてはイエスをメシア・キリストとして受け入れていませんでした。しかし、ユダヤ人の中でイエスをキリストと信じた者たち、また、異邦人の中で偶像礼拝から離れて、イエスを神が遣わされた主キリストと信じた人たちは、神が信じる者に約束された聖霊を受けて、聖霊による主との交わりに入りました。ここで「主の方に向き直る」というのは、このような聖霊による主との交わりに入ることです。その時、交わりにある主とは、御霊として働いておられる主のことであり、その御霊が働かれる場では、解放が起こります。人間を拘束していた罪の支配からの解放が起こります。
 この箇所は普通、「主の霊のおられるところには自由があります」と訳されています。原文は「主の霊のおられるところに《エレウセリア》があります」となっています。この《エレウセリア》という用語は、とくにパウロがよく用いる語で、ギリシア・ローマ世界では奴隷や捕虜を解放して自由にすることを指す語でした。この語は、解放する動作や解放の出来事を指す場合と、解放された結果として自由になった状態を指す場合があります。前者の場合は「解放」、後者の場合は「自由」と訳すことになります。この語がどちらを指しているかは文脈によって決まりますが、ここでは「覆いを取り除く」ことを指しているので、覆いからの解放と理解して、「解放」と訳すべきであると考えます。ローマ書八章二一節も、「神の子たちの栄光の自由」ではなく、「神の子たちの栄光への解放」と理解すべきです。
 御霊が働かれるところに「解放」が起こります。罪と死の支配から解放されて、復活の命に生きるようになります。外からの律法の拘束から解放されて、内からの御霊の自由に歩むようになります。ここでは、鏡を覆う覆いの比喩の中で、覆いから解放されて、覆いのない状態で主の栄光を反映するようになることを指しています。
 このように、わたしたちキリストにある者は皆、「覆いを取り除かれた顔に主の栄光を反映する」ことになりますが、ここで主の栄光を反映する鏡が「顔」と表現されていることが注目されます。これはモーセが顔に覆いを掛けたことの並行表現でしょうが、もともと顔は人格的存在として人間の在り方を表現する場所として、その人の在り方そのものを指す象徴としての意味をもっています。たとえば、パウロは「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」という表現を用いています(コリントU四・六)。イエス・キリストの言葉と働き、その生涯と出来事、すべてを含むイエス・キリストの人格存在全体に神の栄光が輝き現れているのです。したがって、ここでわたしたちが「顔に主の栄光を反映する」と言われるとき、それはわたしたちの人間としての在り方全体に主の栄光が反映されることを意味します。
 物質の鏡は差し込んできた光を反射するだけで、自身は何の影響も受けません。光が去れば、鏡は元の冷たい鏡であって、鏡には何の変化も起こっていません。主の栄光という光を反映する人間の場合は違います。主の栄光という光は、それを反映する人間存在の中に宿り、その人間の在り方、その人間の《モルフェー》(内的実質)を変えていきます。人間の《モルフェー》は、差し込む主の栄光という光を宿し、反映することによって、その栄光と「同じ形(似姿)に変えられていく」のです。その栄光は創造者なる神の栄光ですから、それを宿す者を造り変えていく力があります。ここまで来て、「同じ形に変えられる」の「同じ形」は、内に宿し反映している「主の栄光」と同じ形であることが自然に理解できます。

すべては霊なる主から

 このように、主の御霊による解放から始まった「栄光から栄光へ、主の栄光と同じ形に造り変えられていく」過程は、すべて御霊の主から発する出来事であることが、最後に「まさに霊の主から出るように」(直訳)という句で指し示されます。
 この句に用いられている「霊の主から」(直訳)という表現は、(原語では霊も主も所有格であるので)「霊の主から」か「主の霊から」か、あるいは同格として「霊である主から」か「主である霊から」か、解釈が争われています。翻訳も様々ですが、「霊である主から」が多いようです。《プニューマ》に定冠詞がついていないので、ここでは「霊」と訳しています。霊の形で働いておられる主という意味に理解してよいのではないかと考えられます。そのような霊は聖霊ですから、ここは「御霊である主から」と理解するのが最も適切なのでしょう。
 こうして、栄光から栄光へ、主の栄光と同じ形に造り変えられていく「変容」の過程は、聖霊の場においてなされる神の働きであることが明らかにされます。これは、先に「救いに至らせる神の力」は聖霊の場で働くことを見ましたが、それと同じことです。人間を救済される神の現実の働きは、聖霊の場においてのみ起こることなのです。
 それが「宗教」の場では起こりえないことが、先にイスラエルについて「古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです」(コリントU三・一四)と言われていたことに示唆されています。イスラエルの民は、モーセ契約の書を基にしてユダヤ教という祭儀と教義と倫理の体系を築き上げてきました。しかし、そのユダヤ教という宗教(ユダヤ人は自分たちの宗教を「トーラー(律法)」と呼んできました)をいくら厳格に順守しても、そこに「栄光から栄光へ、主の栄光と同じ形に造り変えていく」神の力は働かないのです。覆いが掛かったままで、主の栄光を反映して、その形に造り変えていくという御霊の働きは起こらないのです。
 これは、人間が自分の力や働き(業)で自分自身を造り変えることはできないことを示しています。人間の《モルフェー》(内実)を造り変えるのは、御霊の場に働く神の力だけなのです。このことはユダヤ教に限らず、祭儀と教義と倫理の体系としての宗教について、どの「宗教」についても言えることです。それがたとえキリスト教であっても同じです。洗礼を受け、聖餐にあずかり、正統教義を奉じ、教会生活を落ち度なく守っていても、それは人間の内実を造り変える神の働きを受ける保証にはなりません。それは、キリストにあって(キリストとの交わりの中で)聖霊の働きの場に身を置くときに起こることです。神の御霊による現実の人間の変容こそ、キリストにおける救いの中身です。

V 変容の具体相

A 宗教上の変化

異邦人の場合

 このように、福音を神の言葉と信じ、主イエス・キリストを受け入れた者には、聖霊によって神の力が働き、栄光から栄光へ、主の栄光と同じ形に造り変えていく「変容」《メタモルフォーシス》が起こりますが、現実の人間に起こるその変容とはどのような内容でしょうか。その内容とは具体的にどのようなものかを見てみましょう。ここでも、パウロの福音活動を伝える最初の文書であるテサロニケ第一書簡から実例を取り上げることにします。
 パウロはその手紙の中で、テサロニケにおける福音活動を回顧していますが、パウロの宣べ伝えた福音を信じたテサロニケの異邦人たちに起こった変化を次のように描いています。それは、周囲の異邦人が、福音を信じた人たちに起こった変化に驚き、言い広めている言葉として書かれています。

 「・・・・あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを(彼らは言い広めています)。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。 (テサロニケT一・九〜一〇)

 ここで、テサロニケの異邦人(ユダヤ教以外の宗教の人たち)に起こった宗教上の変化が二点あげられています。第一は、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」ことです。第二は、「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」ことです。この「御子」には、「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」という説明がついています。
 変化の第一は、「偶像から離れて、生けるまことの神に立ち帰った」ことです。テサロニケの人たちは、生まれた時からギリシア・ローマ世界の宗教の中で育ち、暮らしてきました。そのギリシア・ローマ世界の宗教は、何らかの形で偶像をもつ宗教でした。当時のローマ帝国は、支配下に置いた諸民族の宗教も取り入れて、多くの神々を拝み、それぞれの神に壮大な神殿を建て、その中にその神の像を立てて拝んでいました。ローマ固有の神々だけでなく、東方のアジアやエジプトの神々も礼拝の対象となっていました。パウロはアテネで「町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」と使徒言行録(一七・一六)にありますが、これは当時のヘレニズム都市はみな同じです。現在でも地中海地域の古代都市の遺跡には多くの神殿遺跡があり(立派な建造物遺跡のほとんどは神殿です)、発掘された偶像が展示されています。
 このような宗教の中に埋没して暮らしてきたテサロニケの人たちが、キリストの福音を聞いて信じ、キリストを救い主として受け入れたとき、そのキリストを世に遣わされた神、すなわちパウロたちユダヤ人が宣べ伝える聖書の神を信じるに至ったのです。これは、ユダヤ人であるパウロから見れば、「偽りの神である空しい偶像から離れて、生けるまことの神に立ち帰った」ということになります。彼らが生けるまことの神に立ち帰ったのは、その神に「仕える」ためです。すなわち、もはや偶像に献げ物をして拝むのではなく、見えない神に賛美と祈りを捧げて、その神だけを礼拝するするようになったのです。
 彼らは割礼を受けてユダヤ教に改宗したのではありません。しかし、彼らの神礼拝(宗教)に根本的な変化が起こりました。このような宗教上の変化は周囲に激しい波紋を引き起こさずにはすみません。ギリシア・ローマ世界の伝統的な宗教の中に生きている周囲の人たちから見れば、キリストを信じた人たちは、先祖伝来の宗教を捨て、その神々への礼拝(献げ物や祭儀)を止めて、共同体の秩序に背いた人たちです。彼らは信者たちを憎み、迫害するようになります。テサロニケの信者たちは「同胞から苦しめられる」ようになります(テサロニケT二・一四)。
 もう一つの大きな変化は、「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」ことです。神の御子であるイエス・キリストが天からこの世界に来られるのを待ち望んで生活するようになったことです。以前は、毎日また毎月毎年繰り返される生活が安全で繁栄するように、神々に献げ物をして祈願することが宗教生活の中身でした。ところがキリストを信じるようになってからは、やがて到来する終わりの日の神の正しい審判を経て、キリストが支配される国に入れるようにということが生活と人生の目標となりました。そのために神の御心にそって正しく生きることが宗教生活の基本となりました。地上の生活の安全と繁栄を祈り求める宗教から、天における永遠の完成を目指す宗教に変わったのです。
 この変化は、福音がもたらす宗教上の変化のすべてではありませんが、周囲の異教徒から見れば一番目立つ点だったので、周囲の人たちはこの新奇な信仰に驚いて、言い広める(噂する)ようになったのでしょう。この事実は、パウロの福音宣教にキリストの来臨《パルーシア》の告知が主要な内容の一つとして掲げられていたことを示しています。事実、テサロニケの信者たちは、このキリストの来臨を真剣に待ち望み、その真剣さのゆえにある種の混乱に陥っていたことがこの手紙から分かります。
 この「天から来られる御子」に、「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」という説明がついています。神は十字架につけられたナザレのイエスを死者の中から復活させて、主《キュリオス》またメシア・キリストとしてお立てになったということが、最初の福音告知《ケリュグマ》の最も基本的な内容です。この《キュリオス》とかメシア(キリスト)というユダヤ教の称号は、ユダヤ教徒以外の人たちには分かりにくいので、「神の子」(御子)という称号が用いられるようになります。この復活されたイエスこそ、神が世界に遣わされた御自身の子であるという告知が福音の基本的内容でした。そして、この復活して天に上げられたイエスは、やがて天からこの世界に来臨して、神の子として万物を支配するようになる方であると告知されました。
 そのさい、神は御自分に背いて悪に陥っている世界を裁かれます。その裁きが、ここでは「来るべき神の怒り」と表現されています。神は人間の悪に対して怒りをもって臨まれます。今は隠されていますが、やがて必ず悪に対する正しい神の怒りが現れる時が来ます。その時、御子イエス・キリストは、彼を信じる者を、悪しき者と一緒に滅ぼすことなく、「来るべき神の怒り」から救い出して、神の栄光の支配に入れてくださる方として待ち望まれていたのです。
 このようなテサロニケの人たちの信仰と待望を見ますと、パウロが告知した福音は、聖書(旧約聖書)の救済史の枠組みの中で、十字架と復活というイエス・キリストの出来事を神の救いの働きとして宣べ伝えていたことが分かります。この手紙はキリストの来臨の問題に集中していて、十字架のことはほとんど触れられていませんが、「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」という表現に、イエスの十字架の死がわたしたちの「贖い」であることが含意されています。
 この二点をまとめると、テサロニケの人たちはパウロが宣べ伝えるキリストの福音を信じることによって、偶像を拝むギリシア・ローマ世界の伝統的な宗教から、世界を創造し、歴史を支配し、最終的に世界を裁いて完成する唯一の見えない神、しかも人間を救うために歴史の中で働く神、すなわち救済史的唯一神を礼拝する宗教に変わったことになります。彼らはユダヤ教に改宗したのではありません。しかし、ユダヤ教が異教の諸国民をこの唯一神に導こうとしてできなかったことを、パウロの福音が成し遂げたのです。

ユダヤ人の場合

 以上は異邦人(非ユダヤ教徒)の身に起こった変化ですが、ユダヤ人(ユダヤ教徒)の場合はどうでしょうか。ユダヤ人においても、その宗教に大きな変化が起こります。ユダヤ人はすでに唯一神を信じているのですから、「偶像から離れて、生けるまことの神に立ち帰る」必要はありません。しかし、イエスをメシヤと信じることによって、復活されたイエスが栄光の主として来臨されるという、周囲のユダヤ教には見られない信仰をもった一派を形成します。
 しかし、何よりも「律法」そのものとの関係に革命的な変化が起こります。ユダヤ人の宗教はユダヤ教であり、ユダヤ人はそれを「律法」《トーラー》と呼んでいましたが、ユダヤ人がイエスをキリストと信じて聖霊が働く場に入ったとき、すなわち顔覆いが取り除かれて、主の栄光を反映するようになったときには、「律法」《トーラー》との関係において革命的な変化が起こります。
 ユダヤ人(ユダヤ教徒)にとって、「律法」《トーラー》は神からの啓示・教え・誡めであり、神聖で絶対的なものです。この神聖な律法を守り行うことが、神に属する民の当然の条件です。ユダヤ人からすれば、律法を持たない異邦人、律法の外にいる異邦人は、律法を守ることもないので、神に属する民ではありえず、汚れた民であるということになります。
 ところが、イエスをキリストと信じて、その信仰によって義とされることを自覚したユダヤ人は、もはや律法が自分を神の民としている根拠ではなく、キリストにおいて与えられている恩恵だけが自分を神の民としていることを知ります。その結果、いままで絶対的であった律法が相対化されます。
 キリストにあって恩恵によって義とされたからといって、律法が否定されるのではありません。律法は聖なるものであり、神からの啓示・教え・誡めとしての本質は変わりません。しかし、自分が神の民とされているのはキリストにおける神の絶対恩恵によるものであることを自覚したユダヤ教徒は、もはや律法の順守は神の民であることの根拠ではなく、キリストにおける神の絶対恩恵を受け入れること(これがキリスト信仰です)こそ、自分が義とされて神に属する者とされる根拠であることを知ります。このことを他のどのユダヤ人よりも明確に自覚し、それを言葉で表現したのはパウロです。ユダヤ人のパウロがユダヤ人であるペトロにこう言っています。

 「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。
(ガラテヤ二・一五〜一六)

 ここではっきりと、ユダヤ教諸規定の実行が人を義とする根拠ではなく、キリスト信仰だけが人を義とするという理解が言い表されています。ここではユダヤ人特有の「義とされる」という表現が用いられていますが、これは神とのあるべき(正しい)関係にいる者と認められて、神に受け入れられ、神から恵みの働きを受けて、神に属する者として生きていることを指しています。それこそ、ユダヤ教が目標とした人間の姿です。その義はユダヤ教諸規定の実行によって得られるとすることは、ユダヤ教の当然の前提でした。したがって、義がユダヤ教諸規定の実行ではなく、キリスト信仰によって得られるのだという主張は、ユダヤ教の否定だと受け取られても仕方がないほどの革命的な主張であったわけです。事実、パウロはユダヤ教を否定し、聖なる律法《トーラー》を汚す者として、ユダヤ人から命を狙われるようになります。
 けれども、パウロは律法(=ユダヤ教)を否定したのではありません。パウロにとって律法は、キリストを信じた後も、神聖な神の啓示・教え・誡めであることに変わりはありません。ただ、その実行が神との正しい関わりを形成し、神の民とされるのに絶対に必要な条件とか根拠ではなくなったのです。その根拠は別のところ、すなわちキリスト信仰にあることが自覚され、主張されているのです。
 律法(=ユダヤ教)は、その絶対性が否定され、相対化されたのです。律法の外にある者もキリスト信仰によって義とされ、神の民となるのです。律法の内にあるユダヤ人も、律法の実行によってではなく、キリスト信仰によって義とされるのです。そうであれば、律法はもはや神の民とされる絶対条件ではありません。キリスト信仰の出現により、律法が神との関わりを与える絶対的な根拠であり条件である時代は終わったのです。
 このパウロの理解と主張は、キリストを信じた当時のユダヤ人の共有するところとなります。ペトロやヤコブなど指導的な立場のユダヤ人も、自らはユダヤ教徒として律法を順守しながらも、キリストを信じる異邦人が割礼を受けないままで、すなわちユダヤ教に改宗して律法諸規定を守るユダヤ教徒にならないままで、自分たちと同じ神の民であることを認めるに至ります。ところが、一部のユダヤ人信者はこのユダヤ教の相対化を認めることができず、律法の絶対性に固執し、あくまで神の民は律法を順守しなければならないと主張して、キリストを信じた異邦人に割礼を受けてモーセ律法を順守することを要求します。パウロは生涯、そのような「ユダヤ主義者」と戦わなければなりませんでした。パウロの代表的な文書であるガラテヤ書やローマ書は、この戦いの記念碑的な文書となります。

B 人間に起こる変化

人間存在の三次元

 キリストの福音を信じるとき、わたしたち異邦人にもユダヤ人にも、以上のような宗教的変化が起こりますが、それ以上に重要なことは、ユダヤ教徒であろうと他の宗教の者であろうと、人間としての内実《モルフェー》に起こる変化です。宗教上の変化は目に見える変化ですが、この人間の《モルフェー》に起こる変化は、すぐに目に見えるようになるわけではないので分かりにくいものです。しかし、こちらの方がキリストの福音が成し遂げる本質的な働きです。パウロが「栄光から栄光へ、同じ形に造り変えられていく」と言ったときに意味しているのも、この変化です。
 この変化についても、テサロニケ書簡を手がかりにして見ることにします。パウロは、キリストを信じたテサロニケの人々についてこう言っています。

 「わたしたちは父なる神の御前で、あなたたちの信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐を絶えず思い起こしています。それらはみな、わたしたちの主イエス・キリストに合わされているところから出るものなのです」。(テサロニケT一・三 市川訳)

 原文では、信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐という三つの名詞の後に「わたしたちの主イエス・キリストの」という句がついています。ほとんどの日本語訳では、この「キリストの」という句を三つの名詞の中の最後にある「希望」だけにかけ、その対象を指すと解釈して、「信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストに対する希望の忍耐」と訳しています。わたしはこの訳は正しくないと考えています。パウロにおいては、「キリストの」という句は「キリストの希望」だけでなく、「キリストの信仰」、「キリストの愛」という形でも用いられており、ほぼ「キリストにあって」と同じ内容で、キリストとの交わりから生まれる信仰、愛、希望を指しています。そして、後で詳しく見ることになりますが、この信仰と愛と希望は、一つの御霊から生まれる人間の新しい在り方の姿であって、切り離すことができない一体です。ここでも、「わたしたちの主イエス・キリストの」という句は、信仰と愛と希望の全体にかかると理解すべきです。それで、わたしはここに掲げたような訳を用いています。
 ここで信仰と愛と希望に、それぞれ働き、労苦、忍耐という語が加えられていますが、これは信仰、愛、希望がそれぞれ実際生活に現れる姿を描いているだけで、その三つの表現の違いを議論する必要はないでしょう。信仰と愛と希望は、人間の内面的な在り方だけにとどまるものではなく、実際の生き方に現れるものであることを表現しています。
 キリストを信じた者、キリストにある者に現れる新しい姿としての「信仰と愛と希望」という三者一組の表現は、こことコリントT一三・一三の二カ所に現れるだけですが、信仰と愛と希望の三者のそれぞれは、パウロ書簡の様々なところに、キリストにあって生きるようになった者の新しい姿として繰り返し描かれることになります。
 それは、この三つが、聖霊による新しい命が人間の内に始まったときに取る必然的な姿だからです。人間存在には三つの次元があります。第一は、神との関わりという垂直の次元です。第二は、隣人との関わり、あるいは社会的関わりという水平の次元です。第三は、時間の中の存在という時間の次元です。聖霊によって人間の内に新しい命が始まるとき、その命は、この三つの次元(あるいは軸)に沿って、三つの姿となって現れます。それが信仰と愛と希望です。すなわち、神との関わりという垂直次元に沿って現れた姿が信仰、隣人との関わりという水平次元に現れた姿が愛、そして時間軸に沿って現れた姿が希望です。
 テサロニケの人たちも、キリストの福音を信じて受け入れたとき、聖霊によって新しい命を受け、その人間としての在り方、生き方に新しい姿が出てきたのです。その新しい命が、人間存在の三つの次元に沿って、信仰と愛と希望という三つの姿となって現れてきたのです。これは、それまでにはなかった姿です。御霊による変容は、具体的にはこの三つの新しい姿が人間に現れることによって示されます。そのそれぞれについて、ここで簡単に見ておきます。

神の子の信仰

 「信仰」は意味の広い用語です。普通わたしたちは人間の宗教的営み全般を「信仰」と呼んでいます。そして、自然の人間性から出てくる宗教は、大体献げ物とか献身的奉仕など、人間の側の行為によって神々の好意を得るための活動です。それに対して、キリスト信仰は、キリストにおいて成し遂げられた神の側の行為に自分を委ねる在り方、人間が自分を無にして神に委ねる姿を指します。わたしたちはこのキリスト信仰によって、聖霊を受け、神に属する者、神から生まれた者、神の子とされます。
 パウロが「信仰と愛と希望」と並べて語るときの「信仰」は、このようなキリスト信仰の「信仰」ではなく、このようなキリスト信仰によって新しく生まれる結果の一つです。神との関わりという人間の宗教的次元に引き起こされた変化の結果を指しています。
 キリスト信仰によって、あるいは「キリストにあって」わたしたちの信仰は、人間の側の行為によって神の好意を受けようとする質の信仰心から、キリストの十字架に合わせられて自分が死ぬところに降る聖霊の働きに身を委ねる信仰になります。その聖霊によって、神の子としての身分と実質を与えられて、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ(ローマ八・一五)、父にすべてを委ね、父からすべてを受ける生き方になります。この父への全面的な信頼と交わりに生きる生き方が、ここでいう「信仰」です。
 実は、このような質の信仰によって、神の子として、父との完全な交わりに生きた人間の原型が、イエスご自身です。イエスは、神の霊によって神との深い交わりの中に歩まれ、ご自分の神の子としての在り方を、簡潔な言葉で明確に語り出されました。それで、イエスのお言葉を集めた「山上の説教」(マタイ福音書五〜七章)は、イエスに従う弟子たちに高度の倫理を要求する説教ではなく、父への全面的な信頼に生きる神の子としての生き方を指し示す、イエスご自身の告白なのです。
 ですから、「山上の説教」は、わたしたちを神の子として父への全面的な信頼に生きるように招く、恩恵の招きなのです。父は、わたしたちが願い求める前から、わたしたちに必要なものをご存じですから、わたしたちは安心して、「父よ、・・・・・」と「主の祈り」を祈ることができます。子として歩まれたイエスの後に従って、神の子として生きることができます。「野の花、空の鳥を見よ」と言われたイエスの境地に歩むことができます。
 このように、ここでいう「信仰」は、人がそれによって義とされるキリスト信仰そのものと区別して理解しなければなりませんが、さらに、聖霊の賜物の一つである「信仰」とも区別しなければなりません。パウロは、キリストの民の集会に与えられる「聖霊の賜物《カリスマ》」の中に、知恵と知識の言葉や預言・異言と並んで「信仰」をあげています(コリントT一二・四〜一一)。この「信仰」は、続いてあげられている「病気を癒す力」、「奇跡を行う力」とほぼ同じ賜物を指しており、「山を動かすほどの信仰」(コリントT一三・二)とも言われている信仰です。
 この聖霊の《カリスマ》としての「信仰」は、すべての人に与えられるものではなく、《エクレーシア》の形成のために、選ばれた特定の人に与えられるものであり、必要な時期だけに与えられるものとして、「部分的、一時的」です。それに対して、ここにいう信仰については、「信仰と希望と愛、この三つは永遠に残る」と言われています(コリントT一三・一三)。このように、父への全面的な信頼と交わりに生きる生き方としての「信仰」は、聖霊によってすべて信じる者に与えられる新しい命の質であり、永遠に残るものです。この点で、《カリスマ》としての「信仰」とは区別されなければなりません。

敵を愛する愛

 人間は他の人間との交わりの中に生きています。人間は他者との関係の中ではじめて人間でありえます。人間は社会的存在と言うことができます。そして、この人と人との間のつながりは、ふつう「愛」という言葉で表現されます。人は誰も、人間として生きる上でもっとも大切なものは愛であることをよく知っています。
 しかし、愛にも様々な種類と段階があります。人間は生まれながら、親は子を愛し、子は親を慕う親子の情愛があります。また、男と女には本性的に異性を慕い求める情愛があります。また、友人を大切にして慈しみます。このような親密な間柄の人間に見られる本性的な情愛を、ギリシア人は《フィリア》と呼びました。また、ギリシア人はより高い価値の事物への愛着を指す《エロース》という語も用いていました。それは、官能の満足を求める性愛から、究極の存在との合一を慕う神秘的な愛までを指す広い範囲の愛を指しています。しかし、新約聖書には、《フィリア》は少し出てきますが、《エロース》は出てきません。
 そのような生まれながらの人間に本性的な愛《フィリア》とは違う別種の愛が、キリストにある者たちに聖霊によってもたらされました。キリストに属する者は、キリストにおいて示された神の愛に圧倒されて生きています。キリスト者は、キリストの十字架の出来事に神の愛が示され(ローマ五・六〜八)、聖霊によってその神の愛が自分に注がれていることを体験しています(ローマ五・五)。それは、それまでは知らなかった種類の愛でした。キリストは、神に背く罪人であるわたしたちを愛して、わたしたちのために命を捧げてくださいました。キリストにおいて示された神の愛は、相手の価値とか資格を問わず、無条件に愛する愛、「絶対の愛」(相手の価値に絶した愛)です。イエスはすでに地上におられるとき、この父の愛を、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言い表しておられました(マタイ五・四五)。聖霊によって、わたしのために十字架されたキリストに直面するとき、わたしたちはこの無条件絶対の神の愛に圧倒されるのです。
 人間の本性的な愛《フィリア》とは異なる、このような神の無条件絶対の愛を体験した人たちは、この愛を《アガペー》と呼びました。この語は、ギリシア語世界ではあまり用いられず、七十人訳ギリシャ語旧約聖書でイスラエルに対する神の慈愛を指すのに用いられた用語であったので、この新しい愛を指すのに用いられるようになったものです。パウロは、愛を語るときはもっぱら《アガペー》を用いています。ヨハネも、神は《アガペー》であるという使信を中心に据えています。キリストにあって神の愛を身に受け、聖霊によって新しい命を生き始めるとき、わたしたちの内に今まではなかった別種の愛《アガペー》が始まります。
 その愛はどのような姿で現れるのかを、パウロはこのように描いています。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」。  (コリントT一三・四〜七 一部私訳)

 また、パウロはこの愛に生きる者に、「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい」と説き、「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい」と勧めています(ローマ一二・九〜二一)。このように善をもって悪に報いる愛は、人間の本性からは出てこない愛です。人間の本性からすれば、自分によくしてくれる相手は愛せますが、自分に敵対し、悪をなす相手を愛することはできません。しかし、キリストにあって神から受ける新しい愛《アガペー》は、相手の価値と無関係に、すなわち自分に対して善をなしてくれる価値ある相手か、自分にとって悪をなす無価値またはマイナスの価値の者かを問わず、無条件に受け入れて、その相手のために善を行うという性質の愛、無条件・絶対(相手の価値に絶して)の愛となります。
 このような質の愛を、イエスは端的に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と表現されました(マタイ五・四四)。このイエスの言葉は、人間の本性に反することを求めているので実行不可能だと言われます。たしかに、敵を愛することは人間の本性に反しています。しかし、イエスは不可能なことを求めておられるのではありません。父の恩恵の場に生きる者に当然の生き方を求めておられるのです。
 イエスは「父が慈愛深いのだから、あなたたちも慈愛深くあれ」と言っておられます(ルカ六・三六)。わたしたちは父の慈愛の中に、父の恩恵の場に生きています。父は、背いていたわたしたちをキリストの十字架のゆえに赦し、無条件に受け入れ、子として慈しんでくださっています。この父の慈愛を受け、その慈愛によって生かされている者は、同じように隣人に対しても無条件の愛に生きないではおれません。もしわたしたちが隣人を赦さないならば、父の赦しの場、無条件の恩恵の場にとどまることはできません(マタイ一八・二一〜三五)。このように、十字架のキリストを通して与えられた神の無条件の愛は、聖霊によってわたしたちの内に働き、わたしたちが隣人をこの無条件の愛に生きるようにします。わたしたちの内に「敵を愛する愛」が始まります。
 わたしたち人間の内実において最も中心的な愛の質が、キリストにあって変容されていきます。この新しい質の愛は、人間の本性から出るものではなく、聖霊の賜物であり、神から恩恵として賜る新しい命の質です。

希望の構造

 このように、わたしたちを主の栄光と同じ形に造り変えていく過程が、聖霊によってわたしたちの内に始まっています。しかし、この過程は、わたしたちの生まれながらの人間本性の中で進んでいるのです。キリスト信仰に入ったからといって、この生まれながらの人間本性が一挙に別の本性に変わったのではありません。聖霊によって始まった新しい別種の命が、変わることなく続いている生まれながらの人間本性のただ中に生き始めたのです。この二つの命は性質が異なり、むしろ反対の方向に向かう質のものですから、二つの命は混じり合うことなく、互いに相手を呑みこもうとして戦いを挑みます。
 パウロは、この生まれながらの人間本性を「肉」と呼びました。パウロのいう「肉」は、けっして肉体とか身体だけではありません。内面の心とか精神も含み、わたしたちが生まれながらの本性をもって生きている命の全体を指しています。その「肉」の中に、それとは別種の、むしろ反対方向に向かう御霊の命が始まったのです。パウロの書簡には、この肉と御霊の相克が生き生きと語られることになります(ガラテヤ書五章やローマ書七〜八章)。
 こうして、キリストに属する者の命は戦場にあります。しかし、もしわたしたちが「キリストにある」という場に踏みとどまるならば、キリストにあって神から賜った御霊の命は必ず勝利します。わたしたちが時間の中にある限りは、その戦いは続きます。時間の中にあるということは、わたしたちが生まれながらの人間本性の中に生きていることですから、御霊の命は戦い続けなければなりません。しかし、時間が果てるとき、キリストにある者の命は主の栄光もって現れます。「栄光から栄光へ、主の栄光と同じ形に造り変えていく」過程は完了します。いま時間の中にあって、この戦いの場にあるわたしたちは、首を伸ばして、その時の到来を待ち望まざるをえません。この待望を、パウロはローマ書八章(一八〜二五節)で見事に表現しています。この箇所こそ、キリストにある者の希望の最高の表現です。

 18 今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています。 19 被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいます。 20 被造物は虚無に服させられていますが、それは自分からではなく、希望の中に虚無に服させた者によるのです。 21 すなわち、被造物自身もまた、滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です。
 22 すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます。 24 わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです。ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。 25 わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです。
(ローマ八・一八〜二五 市川訳)

 パウロの視野は全被造物に及んでいます。しかし、中心にあるのは「神の子たちの顕現」、また「神の子たちの栄光への解放」です。神の子たちが栄光の中に現れるとき、被造物も「滅びへの隷属から解放されて」、神の子たちの栄光への解放にあずかるという、宇宙的な壮大な希望です。
 最初期の共同体は、現在の時が果て、全く別の栄光の時が到来することを、「主の来臨」《パルーシア》という用語で語ってきました。パウロも、この待望を共有して、同じように黙示思想的な《パルーシア》(来臨)という用語を用いて語ってきました。しかし、パウロはここで、もはや《パルーシア》という語を用いることなく、現在の時が果てるときのことを語っています。それは、現在すでに始まっている「栄光から栄光へ、主の栄光と同じ形に造り変えられる」過程を、時が果てる終末へ投影したものです。時が果てるときのこと自体は、時の中にいることしかできないわたしたちには描写することはできません。しかし、現に体験していること、進行している過程を、終末的完成というスクリーンに投影することはできます。それが「神の子たちの栄光への解放」であり、「神の子たちの顕現」です。
 時が果て、終わりが到来するとき、現に進行中の過程は完成に達します。その完成が、ここで「神の子たちの栄光への解放」と呼ばれています。その過程が進行している間は、神の子の栄光は生まれながらの人間本性(パウロがいう「肉」)の中に隠され、あるいは肉を通して働く罪(神に敵対する支配力)に拘束されています。しかし、その時には、キリストに属する神の子たちは、そのような敵対的な力から解放されて、神の子としての十全な栄光に輝いて、その姿を現します。これが「神の子たちの顕現」です。

 この箇所で用いられている《エレウセリア》は、普通「自由」と訳されますが、「解放」と理解すべきことは、先に48頁で述べたとおりです。

 パウロは、すでにこの箇所の直前で、わたしたちキリストにある者は御霊によって神の子とされていることを明言しています(ローマ八・一五〜一六)。わたしたちはすでに神の子です。現に神の子であるゆえに、その栄光が完全に現れるのを待ち望むのです。待ち望まざるをえないのです。「御霊の初穂」(御霊という初穂)をいただいているわたしたちは、この御霊の命に敵対する生まれながらの人間本性の中でうめきながら、子としての姿が完全に現れること(パウロはここでこれを「子とされること」と呼んでいます)を待ち望むのです。そして、パウロはこの解放を「体の贖い」と呼んでいます。「贖い」は、聖書用語で「解放」を意味します。命を表現するべき体が、現在の朽ちる体、死に定められた体から、朽ちることのない霊の体に変えられて、罪と死の支配から解放されることを指しています。これは、黙示思想の用語で言うと、「死者の中からの復活」ということになります。パウロはここでも黙示思想的な用語や枠組みを用いないで、キリスト者の希望の内容を語っています。
 このようなキリスト者の姿を、パウロは「わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです」と表現しています。ここも、ほとんどの日本語訳は「わたしたちは、この希望によって救われたのです」と訳していますが、これは正しくないと考えます。わたしたちは希望によって救われるのではなく、信仰によって救われ、聖霊の働きによって現に救いの過程にあるのです。その結果として、このような希望をもって生きるようになったのです。
 希望は「見えないもの」を待ち望みます。神の子の栄光は、わたしたち時間の中にいる人間には見えないもの(理解することができないもの)です。しかし、それが現に進行中の救いの過程を将来に投影するものである限り、現在の体験に確かな根拠をもっています。それで、わたしたちは、目に見える状況がいかに反しようと、忍耐をもって待ち望むことができるのです。
 このように、キリストにある者の希望を、もはや黙示思想の用語をもって語ることなく、御霊の現実から発する告白として語る語り方は、パウロの後継者の時代になっていっそう進みます。パウロ以後の時期に、パウロのキリスト信仰を継承し言い表した著者たち(コロサイ書やエフェソ書の著者たち)は、パウロが場合によってはまだ用いていた「主の来臨」《パルーシア》とか「死者たちの復活」という黙示思想的な用語をもはや用いることはありません。キリストにあって抱いている希望はこのように語られることになります。

 さて、あなたたちはキリストと共に復活したのであるならば、上にあるものを追い求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのです。あなたたちは上にあるものを志向し、地上のものを志向すべきではありません。あなたたちは死んだのであり、あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されているのだからです。あなたたちの命であるキリストが現れるとき、その時にはあなたたちもまたキリストと共に栄光の中に現れることになるのです。 (コロサイ三・一〜四)

 終末の事態を、ここにおられないキリストが突如来臨されるという形ではなく、今すでに隠された姿で来ているものが現れることだとする理解は、すでにパウロにあります。パウロは、「キリストの来臨《パルーシア》」だけでなく、「キリストの顕現《アポカリュプシス》」という表現で終わりの日のことを語っています(コリントT一・七)。そして、ここで見たように、ローマ書八章では終末を「栄光の顕現」という観点から語っています。その希望の形は、パウロの後継者たちの段階でいっそう明確な形を取るに至ります。パウロ以後の書簡には、このような形で希望が表明されるようになります。

 パウロ以後の書簡における希望の表現については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』365頁の「終末の内在」の項を参照してください。

 キリストにあって生きる者が抱く希望は、以上のような構造をしています。その希望は「時が果てる」ときの栄光を待ち望む希望です。わたしたち人間が抱く希望は、たいてい時の限界内の希望です。時が果てるとき、たとえばわたしたち自身が死ぬとき、その希望も消え果てます。しかし、このキリストにある希望は、時が果てるときに実現する希望ですから、死の彼方にあります。現実世界の彼方にあります。わたしたちが死んで体が灰になろうと、世界が火で燃え尽きようとも、消えることのない希望です。

結び ― 永遠の命

 以上に見てきましたように、キリストにあって働く神の御霊は、わたしたち人間の内実を造り変えていきます。この御霊による人間の変容の過程こそ、救いの中身です。それは、わたしたち人間の生まれながらの人間本性の中に、新しい別種の命の働きとなって現れてきます。それは、人間存在の三つの次元に沿って、信仰と愛と希望という形をとって現れることを見ました。
 この生まれながらの命とは別種の、キリストにあって御霊の働きによってわたしたちの内に始まる命を、新約聖書は《ゾーエー》と呼んで、他の自然の命と区別しています。ギリシア人は、命を様々な用語で指しましたが、新約聖書に現れる三つの用語を検討することで、命の質の違いを見て、この新しい命《ゾーエー》の質を見ておきましょう。
 ギリシア語で、命を指す語に、まず《ビオス》があります。これは、身体的生命を指しています。この生命は、運動し、呼吸し、食べ、産むなどして、その命の質を現しています。これは生物学的な生命であり、このギリシア語から「バイオロジー」(生物学)とか、「バイオ」で始まる生命科学的な用語が造られ、現代でも多く使われています。また、この《ビオス》という語は、人生とか生涯という意味にも用いられます。「バイオグラフィー」は、《ビオス》の記録という意味で、伝記ということになります。
 ギリシア語には、他に《プシューケー》という語があります。これはもともと気息を意味する語ですが、そこから魂とか精神を含む人間の生命全体を指すようになります。七十人訳ギリシャ語聖書では、神が土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられたので、人は「生きる者」となったというところに《プシューケー》が用いられています。こうして、この語は精神活動を含む人間の生命全体を指し、その人自身を指すことにもなります。《プシューケー》は、先の《ビオス》の活動に加えて、考え、語り、創作し、愛したり憎んだりします。
 命を指すもう一つの用語《ゾーエー》は、一般社会ではそれほど用いられませんでしたが、新約聖書の著者たち(とくにパウロとヨハネ)は、キリストにあって新しく与えられた御霊の命を指すのに、先の二つの用語ではなく、この《ゾーエー》を用いました。すでにユダヤ教で、来るべき世での命を指すのに「永遠の命《ゾーエー》」という形で用いられていましたが(マルコ一〇・一七)、パウロやヨハネは、現在御霊によって賜っている命を《ゾーエー》と呼んで、本講で見たように、「永遠の命」を現在の体験とし、現在賜っている救いの中身として提示したのです。
 この御霊の命である《ゾーエー》は、ここで見た「信仰と愛と希望」という形で、その姿を現します。逆に言えば、信仰と愛と希望という形に表れる命こそが「永遠の命」なのです。「永遠の命」とは、将来の別の時代とか世界、または死後の世界における命ではなく、現在わたしたちがキリストにあって御霊によって生きている命であり、わたしたちの人生に信仰と愛と希望という形で現れ、わたしたちを「栄光から栄光へ、主の栄光と同じ形に造り変えていく」命です。この命こそ、「救いに至らせる神の力」の中身です。