市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第4講

第三節 神の力としての福音

福音の言葉の質

 「福音」については、その使信の内容と共に、それがどのような性格の言葉であるかが重要です。パウロはローマ書冒頭の挨拶のところで、自分が使徒として宣べ伝えている「神の福音」は「御子に関するもの」であるとして、その内容を要約していますが、その後、本論に入る前に、「福音」とはどういう質の言葉であるのかを語っています。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者にとって、救いに到らせる神の力だからです」。(ローマ一・一六 私訳)

 パウロは「わたしは福音を恥としない」と宣言します。この一語の背後には苦難に満ちた使徒としての全生涯があります。パウロはこの福音のために非難、中傷、陰謀、鞭打ち、投獄など、数え切れない苦難を受けてきました。十字架につけられた者を救い主として宣べ伝える福音に対する世の(とくにユダヤ人の)軽蔑と憎悪を、パウロは矢面に立って一身に受けてきました。福音が世からこのように扱われるからといって、福音を引っ込めてしまうようなことはしない。あくまで、福音を公に言い表し、宣べ伝えていく決意をここで宣言しているのです。「恥じる」という表現は、キリスト宣教の初期の時代では、キリストを「(公に)言い表す」の反対として、キリストを否認する意味で用いられました(マルコ八・三八参照)。
 パウロがこのように福音を恥としないで命がけで宣べ伝えるのは、「福音は救いに到らせる神の力だから」だと言うのです。この一句にパウロの福音理解の核心が語られています。これが福音の本質だというのです。福音は言葉です。主イエス・キリストを告げ知らせる言葉です。しかし、この言葉はただ事実に関する情報を伝える言葉ではありません。それは信じる者を現実に救いに到らせる神の力なのです。福音という言葉の質は、「救いに到らせる神の力」です。救いに到らせる神の力としての言葉、それが福音の本質です。
 パウロは「わたしは福音を恥としない」と宣言した直後に、「福音は神の力だからです」と、その理由を説明します。そして、この「神の力」に二つの修飾句が続きます。一つは「救いへの」という句で、もう一つは「すべて信じる者にとって」という句です。
 力には大きさ(強さ)だけでなく方向とか向きがあります。どの方向に向かう力であるかが重要です。福音という神の力は「救いへ」という方向に向かっている力だというのです。新共同訳はここを「救いをもたらす神の力」と訳しています。もちろん、これは間違いではありません。しかし、原文が「救いへの」という表現で力の方向を説明する句であること、また、神の力は信じる者の内に働いて救いに到達させるものであるとのパウロの救いの理解(フィリピ二・一二〜一三)から、ここは「救いに到らせる神の力」と訳す方が適切であると考えます。神の力はどこか外で働くものではなく、信じる者の内に働くものですから、「救いをもたらす」という、どこか外から救いが来るような印象を与える表現は避けた方がよいと判断したわけです。
 福音は「すべて信じる者にとって」救いに到らせる神の力となります。この「すべて信じる者に」という句(ギリシア語の与格)は、「救いに到らせる神の力」が働く場を示しています。福音は言葉です。神からの語りかけの言葉です。語りかけられた言葉を拒否しては、人格間の関係は成り立ちません。語りかける方の言葉を信じ受け入れて初めて、人格間の結びつきが成立し、その場において霊的な力が働くことができるようになります。神の力は霊的な力であり、人格間で働く力ですから、「信じる」という場において働くことができるのです。魚が水の中という場でしか生きられないように、神の力は「信じる者に」働くのです。
 これは一般論ですが、ここで重要なことは、「信じる者」に「すべて」という語がついて、「誰でも信じる者は」という意味が強調され、それが「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」と、具体的に説明されている点です。ここでの重点は「ギリシア人にも」の方にあります。「ギリシア人」というのは、当時の表現ではユダヤ人以外の人々を広く指す用語でした。ユダヤ人は自分たちを神に選ばれ、神と契約関係にある特別の民として誇り、ユダヤ人以外の民を「諸民族」とか「異邦人」と呼んで、神と救いに関わりのない民と軽蔑していました。その「異邦人」が福音を信じることによって、「救いに到らせる神の力」を受けて救われるというのです。
 それまでも「異邦人」が救いに入る門がないわけではありませんでした。すなわち、異邦人も割礼を受けてユダヤ教徒になって律法を守れば、ユダヤ人として神との契約関係に入り、救いに与ることができるとされていたのです。事実、多くの「ギリシア人」がユダヤ教の神に引かれてユダヤ教会堂で教えを聴き、「神を敬う者」となり、さらに進んで割礼を受けてユダヤ教に改宗する者もありました。ユダヤ人の立場からすれば、神からの救いの使信は当然ユダヤ人に来なければならないのです。いや、ユダヤ人だけに来るのが当然です。
 たしかに福音はまずユダヤ人に来ました。イエス・キリストは聖書の約束を成就する方としてイスラエルに現れ、ユダヤ人は「あなたがたはモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(使徒一三・三八〜三九)という使信を聴くことになったのです。ところが福音は同時に「ギリシア人にも」同じように語るのです。ユダヤ教徒でない者も、この福音を聴いて信じるならば、ユダヤ教徒でないままで、「救いに到らせる神の力」に与るのだというのです。ユダヤ教の立場から見れば、これはユダヤ教の存在意義を否定しかねない革命的な宣言です。
 ユダヤ人であるパウロはこのことの重大さをよく自覚しています。それで、異邦人が異邦人のままで、福音を信じることによって「救いに到らせる神の力」を受ける根拠を説明してこう言います。

 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。(ローマ一・一七)。

 一七節は《ガル》という理由づけの小辞で一六節と結ばれていますが、これは「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者にとって」と言うことができる根拠を説明するためです。ギリシア人も福音を信じることによって救いに到ることができるのは、福音には神の義が信仰によって実現するものとして啓示されているからだというのです。
 では「神の義」とは何かという問題は、パウロの福音の根幹にかかわる問題であって、ローマ書など適当な機会に取り上げて詳しく論じなければならない大きな問題です。ここでは一七節が一六節の理由を説明する文であること、しかも、一六節全体の説明ではなくその一部の説明であること、すなわち福音がなぜ神の力であるのかという理由ではなく、なぜ「すべて信じる者にとって」神の力であるかの説明であることを指摘するに止めます。それは、一七節で語られている「信仰によって義とされる」という主張、いわゆる「信仰義認」の主張が、ほとんどの注解書(とくにドイツ語系の神学書)においてローマ書の中心主題、したがってパウロの福音の中心主題とされているのに対して、福音が「救いに到らせる神の力」であることを掲げる一六節こそ、パウロの福音の中心主題であることを明らかにしたいからです。一六節が中心主題であって、一七節はそれに従属する主題であることを言いたいからです。

福音とは

 こうして、福音とは何かという問いに対して、ここまでに見てきたところから、とりあえずこう答えることができます。
 「福音とは、それを信じる者にとって救いに到らせる神の力となる、御子イエス・キリストに関する神からの告知の言葉である」。
 「福音」という語はギリシア語の《エウアンゲリオン》の訳語です。《エウアンゲリオン》は《エウ》(よい、幸福な)と《アンゲリオン》(おとずれ、音信、使者のメッセージ)が一つになった用語です。ここに掲げた定義の文で、「御子イエス・キリストに関する神からの告知の言葉」という部分が《アンゲリオン》に相当し、それがなぜ《エウ》なのかを、「それを信じる者にとって救いに到らせる神の力となる」という部分が説明していることになります。

力学としての神学

 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者にとって、救いに到らせる神の力です」という主張は、ローマ書の主題であるだけでなく、パウロの福音のもっとも基本的な性格、パウロの福音の本質を示す一文です。本シリーズで「パウロによるキリストの福音」を探求していきますが、それは福音を「救いに到らせる神の力」として理解する立場からなされます。従って、本シリーズはパウロの神学思想を体系的にまとめることが目的ではなく、パウロ書簡を通して「救いに到らせる神の力」がどのように働くのかを跡づけて、わたしたちが福音に生きる際の道しるべとしたいのです。
 わたしは神学を一種の力学と考えています。文献学、歴史学、解釈学、言語学、哲学などの一種ではありません。そのような視点からの探求も必要であり有益ですが、最終的には現実に働く神の力についての学になります。もちろん、この神の力は人格的・霊的な場に働く力ですから、自然界に働く力とは様々な面で違います。自然科学の力学で用いられる概念や法則をそのまま持ち込むことはできません。しかし、自然科学の力学は、神の力についての学としての神学に有益な象徴やイメージやヒントを提供してくれるはずです。神学の中で力学的な概念や法則を用いるとしても、それは象徴です。神学の言語はどうしても象徴的なものにならざるをえません。その象徴が指し示している現実の力の場に入っていくこと、その現実に生きることこそ重要です。神学という言語の上の営みは、そのための指針であり助けとなろうとする努力です。このことをパウロはこう言っています。

 「神の国は言葉ではなく力にある」。(コリントT四・二〇)

 本シリーズでパウロ書簡を用いて「救いに到らせる神の力」を描こうとしていますが、それが何らかの体系を備えた「学」としての体裁をなすかどうかは分かりません。素材を並べるだけのものに終わるかもしれません。「パウロの神学」を提示するためではなく、パウロが提示する「救いに到らせる神の力」としての福音を、読者と共に身をもって理解するようになることが本著作の祈りです。