市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第5講

第一章 ユダヤ教徒パウロ

        ―― ガラテヤ書から(1) ――


        (本章で書名のない引用箇所はすべてガラテヤ書の章節を指しています)

はじめに

 「パウロによるキリストの福音」シリーズの第一巻をなす本書では、まず「ガラテヤの信徒への手紙」を取り上げます。この手紙は、キリストの福音とユダヤ教との関係という、初代教団の最も緊迫した問題を正面から取り扱っている重要な文書であり、後世のキリスト教の歴史にも計り知れない影響を及ぼしました。この講解でも当然その問題を主題として論じていくことになります。しかし、この「ガラテヤの信徒への手紙」には、パウロ個人の伝記と初代教団の歴史について、当事者であるパウロ自身が証言し資料を提供しているという、第一級の歴史文書としての側面があります。それで、本題に入るに先だって、この書簡が提供している資料に基づいて、パウロの生涯と働きを、最初期の教団の歴史を背景として見ておこうと思います。それは、この書簡の主題である福音とユダヤ教との関係の問題に深く関わっているからです。この書簡がパウロの自伝的な内容を含んでいるので、成立年代順という本講解の原則にとらわれず、最初に取り上げます。
 次に「テサロニケの信徒への手紙T」を取り上げます。この手紙は、現存するパウロの手紙の中では最初に書かれたと見られていますので(年表参照)、成立年代順という原則からすれば最初に取り上げるべきものですが、パウロの生涯の資料として、またユダヤ教との緊迫した関係を見るためにガラテヤ書を先に取り上げたために、二番目に扱うことになります。ガラテヤ書がユダヤ教との対立とその克服を主題としているのに対して、テサロニケ書Tは異邦人への使徒としてのパウロがユダヤ教の遺産を継承している面が強く出ています。このガラテヤ書とテサロニケ書Tという初期の二つのパウロ書簡によって、パウロによるキリストの福音がユダヤ教を継承している面と、ユダヤ教を乗り越え克服している面とを見ることになります。



第一節 ユダヤ教時代のパウロ

ディアスポラのユダヤ人

 パウロはガラテヤ書の中でこう証言しています。

 「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。
(一・一三〜一四)

 パウロがイエスを信じる者たちを激しく迫害した人物であることは、初期の教団では周知の事実でした(一・二三)。ここでパウロは、その事実をみずから認めた上で(一・一三)、その行動の背景となっている、若き日のユダヤ教への熱情を証言しています(一・一四)。そこでまず、パウロの青年期までのユダヤ教への関わりを見ておきましょう。
 パウロがキリキヤのタルソスで生まれたことは、パウロ自身の証言にはありませんが、使徒言行録の著者ルカが伝えています(使徒言行録九・一一、二一・三九、二二・三など)。このことは広く受け入れられており、疑う理由はありません。タルソスはキリキヤ州の州都として、経済的に豊かであっただけでなく、文化的にもアテネやアレキサンドリアに並ぶギリシア文化が栄えた都市でした。パウロがこのヘレニズム都市で育ったのは何歳ぐらいまでであったかについては議論があります。しかし、パウロがギリシア語を母語として育ち、ギリシア語の初等教育を受けたことは確かと見てよいでしょう。

タルソスはキリキヤ州の州都で、アウグストゥス帝の時代にもっとも栄えた屈指のヘレニズム都市でした。その歴史は紀元前二〇〇〇年以前のヒッタイト帝国時代に遡り、アッシリアやペルシャの支配下にあった時代のオリエント宗教や文化の香りを残しながら、アレクサンダー大王以後ヘレニズム世界の重要都市として発展します。肥沃なキリキヤの平野を後背地とし、シリアとアジアの交易の要衝として栄えます。前67年にポンペイウスが東方を征服したとき、キリキヤ州の州都とされます。前51〜50年にはあの有名なキケロが総督としてタルソスに来ています。カエサルの暗殺後、タルソスはカエサルの後継者の側に立って支援したため、アウグストゥス帝は免税特権を与えるなど政治的に優遇しただけでなく、自分の教師であったストア哲学者アテノドロス(タルソス出身)を派遣して、市の行政改革を行わせ、多くの文化教育施設を造らせ、活発な文化教育活動を行わせています。その結果、当時の地理学者ストラボンが、「タルソスの人々が哲学および教養一般に向ける熱心さは大変なもので、アテナイやアレクサンドリアさえ凌駕されるほどだ」と記述するほどでした。パウロがこのようなストア哲学を土台とするヘレニズム思想が盛んな土地柄に育った事実が後のパウロの思想に全然影響がなかったとは考えられません。しかし、厳格なユダヤ教の家庭に育ったからか、またはタルソスで育ったのがごく幼少の時期だけであったからか、パウロにギリシアの古典文学の素養を見ることはできません。おそらく異教への嫌悪感からギリシアの演劇などは見なかったのでしょう。

 パウロはこのタルソスのユダヤ人を両親として生まれた血統正しいユダヤ人です。このことはパウロ自身が誇りをもって証言しています。

 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」。(フィリピ三・五)

 両親は父祖の宗教(ユダヤ教)に忠実なユダヤ人であって、生まれた男の子に割礼を施し、自分たちが属するベニヤミン族の英雄サウロ王にちなんで、「サウロ」と名付けました。「生まれて八日目に割礼を受け」たというのは、生まれは異邦人であるが成人してから改宗して割礼を受けてユダヤ教徒になったユダヤ人ではなく、ユダヤ人を両親として生まれた血統正しいユダヤ人であることを誇る表現です。生まれや血統から、神に選ばれて契約にあずかる民イスラエルに所属するだけでなく、受けた教育と生活習慣においても厳格なユダヤ教徒であるとして、彼は「ヘブライ人の中のヘブライ人」と誇ることができたのです。

パウロの家族は、パウロの父親または祖父の時代にパレスチナからタルソスに移住した可能性があります。当時タルソスは(前述したように)アウグストゥス帝から優遇されており、多くの市民がローマ市民権を与えられていました。パウロの父または祖父が解放奴隷として資産をなし、ローマ市民権を与えられ、またタルソスの市民権(使徒二一・三九)も獲得したと推定されます。ローマ市民権をもつ者の子は自動的にローマ市民権を持つことになります。パウロのローマ市民権については、フィリピでの投獄を扱うところ(本書284頁)で詳しく見ることになります。父親の職業は天幕布織りであったと考えられますが、どの規模のものかは分かりません。パウロが後に独立伝道を支えるためにキリキア特産の天幕布織りを職業とすることから推測されることですが、パウロの父親はパウロをラビ(律法の教師)にしようとして、当時ラビには無報酬で教えることができるようになるため手仕事を習得することが求められていたので、息子に自分の職業を教えたと考えられます。

 このように、パウロは異邦人地域に住むユダヤ人、すなわちディアスポラ(離散)のユダヤ人です。ヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人の通例として、「サウロ」というユダヤ名の他に、「パウロ」というギリシア語の名前を用いていました。ディアスポラのユダヤ人は、ユダヤ名に近い発音のギリシア語名(またはラテン語名)を持つのが通例でした。二つの名前が象徴するように、パウロの一身にユダヤ教とギリシア文化という二つの世界が沁み通っているという事実が、パウロをしてパウロならしめているのです。

先祖からの伝承

 ところで、パウロ自身はユダヤ教との関わりについてこう証言しています。

 「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。(一・一四)

 原文の順序では、まず「ユダヤ教に徹しよう」としたことが語られ、続いてそれが「先祖からの伝承を守るのに熱心で」という文で説明されています。ここでまず、パウロが回心前の自分のことを「ユダヤ教にいた時のふるまい」(一三節私訳)とか、「ユダヤ教に徹しようとした」(一四節)というように、「ユダヤ教」という語で表現していることが注目されます。この語が用いられるのはここだけで、他では用いられていません。他の箇所では、回心前の自分を表現するのに「律法」という語が用いられています。たとえば、このガラテヤ書の箇所と同じことを語るのに、フィリピ書ではこう言っています。

 「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。(フィリピ三・五〜六)

 この並行例からも分かるように、パウロにおいては多くの場合、「律法」と「ユダヤ教」はほぼ同じ内容を指す語として用いられています。ユダヤ教に徹するとは、モーセ律法を徹底して厳格に守り行うことです。そして、ユダヤ教に徹するとか、律法を行うというのは、さらに具体的に言うと、「先祖からの伝承を守る」ことなのです。これはとくに、パウロもその一員であったファリサイ派のユダヤ教徒にとって重要な表現です。ファリサイ派とは、まさに「先祖からの伝承を守るのに熱心」な人々の運動なのです。
 このことを説明するには、歴史を少し遡らなくてはなりません。紀元前四世紀のアレキサンドロスの征服以来、地中海世界の諸民族の生活や文化は、ギリシア文化の強い影響の下にギリシア化してゆき、ギリシア文化と東方の宗教文化が融合して形成された独特のヘレニズム文化の波に押し流されるようになります。パレスチナのユダヤ人も例外ではなく、宗教はモーセ律法とエルサレムの神殿祭儀を保持しながらも、実際の生活はギリシア語を話し、ギリシア風の生き方をする人たちが多くなっていきます。ギリシア風の都市が建設され、そこでギリシア風の学校教育や競技が行われるようになります。
 このヘレニズム化の波が王の権力によって強制されるに至ったとき、父祖伝来の宗教と慣習を守り抜こうとするユダヤ人との間に戦いが起こりました。紀元前二世紀の半ば、当時パレスチナを支配していたセレウコス王朝の王アンティオコス・エピファネスは力ずくでエルサレムをギリシア化しようとして、勅令を発して神殿の祭儀を廃し、異教の祭壇を築き、ユダヤ人に割礼を受けることやその宗教規定を守ることを禁じます。このギリシア化政策に反対して、「先祖からの伝承」としての「律法」を命がけで守ろうとしたユダヤ人が蜂起して戦争が起こります。この戦争は、代表的な指導者であった「マカベヤ」(鉄槌の意、新共同訳では「マカバイ」)と呼ばれるユダにちなんで、「マカベヤの反乱」とか「マカベヤ戦争」と呼ばれています(この戦争については旧約続編の「マカバイ記T」に詳しく語られています)。
 このような戦争が起こる底流として、とうとうたる時代のギリシア化の流れに反抗して、「先祖からの伝承」を守ろうとする信仰深い人々の運動が、すでにこの時代以前からありました。このような人々は「ハシディーム」(敬虔な人たち)と呼ばれました。ダニエル書はこのような「ハシディーム」がマカベヤ戦争の時代に生みだした文書です。「ハシディーム」の一部の人は武器をとってマカベヤ戦争に参加しました(マカバイT二・四二、新共同訳ではギリシア語読みで「ハシダイ」)。
 このマカベヤ戦争は「律法のためには命を惜しまない」人々の勇敢な戦いによって勝利を収め、エルサレム神殿は異教の汚れから清められて、再び律法に従ったヤハウェ祭儀が行われるようになります。その後、ユダの一族ハスモニア家は大祭司の職を占め、独立を回復したユダヤ神殿国家の実質的な王として君臨し、ハスモニア王朝時代を築きます。しかし、権力の常として、このハスモニア王朝も周囲のヘレニズム世界への妥協、力ずくの領土拡張、内部の権力闘争、反対派の弾圧など、世俗化し堕落していきます。
 このような時代に、「ハシディーム」たちは権力者ハスモニア家とは一線を画し、父祖から伝えられた宗教(律法)を純粋に守る運動を進めていきます。そして、この「ハシディーム」の運動の中から、ハスモニヤ時代に二つのグループがそれぞれの特色をもって形をとって現れてきます。すなわち、ファリサイ派とエッセネ派です。
 ファリサイ派は、当時すでに権威が確立していた「モーセ五書」に記されている律法の規定を、自分たちの時代と生活の中に適用して実践しようとした一般信徒の信仰運動です。そのために律法とその解釈を研究した学者たちの教えが口頭で弟子たちに伝えられ蓄積されて、律法を行う際の実際的な細則を形成します。そして、この律法学者たちの口伝伝承が、モーセ五書に記された成文律法と同じ権威をもつ神の律法として扱われるようになります。ファリサイ派のユダヤ人にとっては、モーセ律法と並んで、このような学者たちの伝承も「昔の人の言い伝え」として「父祖からの伝承」に属したのです(マルコ七・三〜五を参照)。パウロもファリサイ派の一員として、この父祖の伝承を守ることに人一倍熱心であったわけです。「ファリサイ」(分離した者たち)という呼び名は、このような口伝伝承の権威を認めない祭司階級から、正統教理から逸脱する異端者という意味で用いられたと見られます。
 一方エッセネ派は、エルサレム神殿を支配するハスモニア家の大祭司を非正統の祭司と批判して、正統的な祭司の下で祭儀的な清浄を実現しようとした信仰運動です。この運動の指導者は「義の教師」と呼ばれ、その厳密な律法解釈からハスモニア家の大祭司を正統でないと批判したため迫害され、ユダの荒野に逃れて、エルサレム神殿に対抗する祭司制をもつ「ハシディーム」の集団を形成したと見られます。このグループがエッセネ派と呼ばれ、ヨセフスの歴史書にも詳しく紹介されています。死海北西岸の荒野にあるクムランの建造物遺跡は、このエッセネ派の本部ないし拠点であり、その近辺の洞窟から発見された古代写本群(死海写本)はエッセネ派の文書であると見られます。エッセネ派は、このクムランで修道院的な共同生活をした中核的な集団の他にも、イスラエルの各地にいわば在家のままで生活したエッセネ教徒も多くいたことが報告されています。

エルサレムのパウロ

 パウロが最後のエルサレム上京のさい騒乱に巻き込まれて逮捕されたとき、エルサレムの住民に向かってヘブライ語で次のような弁明をしたと、ルカは伝えています。

 「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都(エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」。(使徒言行録二二・三)

 パウロが若い時からエルサレムで律法の教育を受けたとするルカのこの報告は、現代では論争されています。しかし、M・ヘンゲルがその著『回心前のパウロ』で説得的に論証したように、少なくともパウロがエルサレムでファリサイ派の律法教育を受け、律法の教師として活動したことは認められるべきであると思われます。七〇年の神殿崩壊以前のファリサイ派ユダヤ教においては、聖都エルサレム以外の地でのラビ教育は考えられないからです。パウロがエルサレムで律法教育を受けたとすると、当時エルサレムで最高の律法学者であったガマリエル(使徒言行録五・三四のガマリエル)の弟子となったというルカの記事(使徒二二・三)も疑う理由はありません。

本章の「ユダヤ教時代のパウロ」については、ここに挙げた M.Hengel, The Pre-Christian Paul, SCM Press 1991 の論証に負うところが多くあります。ガマリエルがエルサレムで律法の教授活動をしたのは20年〜50年頃と考えられるので、パウロがガマリエルの門下で律法教育を受けたことは、年代的に十分可能です。パウロがフィリピ三・五〜六で自分のユダヤ教における優位を列挙するさい、ガマリエルの門下であったことに言及していないことを根拠にして、このルカの記事を疑う(佐竹『使徒パウロ』も)のは、沈黙からの論証として根拠が弱いと考えられます。ガマリエルはヒレルの後継者ですから、パウロはヒレル派のファリサイ派ユダヤ教を継承したことになります。後に見るように、パウロは黙示思想やエッセネ派などからも影響を受けていますが、パウロの基本的な素養はファリサイ派のラビ・ユダヤ教であることは確実で、後のパウロ書簡の議論には、ラビの論法が繰り返し用いられます。

 当時のエルサレムのユダヤ教の状況について重要なことは、エルサレムがすでにギリシア語を話す世界有数のギリシア都市の一つであったという事実です。もちろんユダヤ教の聖地として、エルサレムは聖書の言語であるヘブライ語と日常語であるアラム語を用いるユダヤ人の都市であり、アラム語を母語とするパレスチナ・ユダヤ人が多数を占めていました。しかし、彼らの中にはギリシア語もよくする人たちが多くいました。その上、ディアスポラのユダヤ人でエルサレムに住むようになった人たちやその子孫のように、ギリシア語を母語とするユダヤ人もかなりの割合(一〇〜一五パーセント)であったと推定されます。エルサレムとその近郊で発見された第二神殿時代の碑文の四割がギリシア語の碑文であるとも報告されています。
 さらに、巡礼としてエルサレムに滞在するディアスポラのユダヤ人や外国人が、いつも狭い街にひしめいていました。エルサレムは規模でこそローマやアレキサンドリアには及びませんが、当時のヘレニズム世界では、多くの巡礼者を引きつけた最も魅力ある国際都市の一つであったのです。とくにディアスポラのユダヤ人は、晩年には聖地エルサレムに住み、律法の学びに専念し、そこに葬られて復活の日を待つことが憧れでした。
 このようなバイリンガル(二言語)の状況から、ユダヤ人の日常の宗教生活の中心をなすシナゴーグ(会堂)も、アラム語を用いる会堂とギリシア語を用いる会堂に分かれていました。ギリシア語を用いるシナゴーグには、エルサレムに住んだり滞在したりするディアスポラのユダヤ人が出身地別に集まったものが多くありました(使徒言行録六・九はこのような会堂を指していると見られます)。
 パウロはエルサレムで、ガマリエルの門下で律法を学び、「先祖からの伝承」を受け継ぐと同時に、ギリシア語を話すユダヤ人の会堂で教師となるために上級のギリシア語教育を受け、資格を得てからはギリシア語系ユダヤ人の会堂で「律法を朗読し、定めを解きあかす」教師の働きに従事したと考えられます。その教師としての働きの中には、さらに深く律法を学ぼうとしてエルサレムに帰ってきたディアスポラのユダヤ人に聖書を教えるだけでなく、ユダヤ教に引かれて集まってくる異邦人に律法(ユダヤ教)を教え、改宗に導き割礼を受けるに至らせるという伝道的な面もあったわけです。このような働きをパウロは「割礼を宣べ伝える」と言っています(ガラテヤ五・一一)。

エッセネ派の影響

 回心前のパウロがエルサレムで律法を学び教える活動をした時期については、パウロの思想形成に大きな影響を及ぼしたと見られるもう一つ注目すべき事実があります。それはエルサレムにおけるエッセネ派の存在です。この時代の歴史家ヨセフスが、エルサレム城壁の南西部に「エッセネ門」と呼ばれる城門があったことを報告していますが、これはその近くにエッセネ派の居住地があったことを示唆しています。この時期はクムランの居住地が紀元前三一年の地震によって放棄されていた時期であり、エッセネ派に好意的なヘロデによってエルサレムに居住地が与えられていたと推定されています。これは最近の考古学的発掘によってかなり確実な事実と見られています。
 そうだとすると、律法を学ぶことに熱心で徹底的であったパウロが、律法のもっとも厳格な実践者として尊敬されていたエッセネ派と何らかの形で接触をもち、かなりの影響を受けたことは十分考えられます。エルサレムの街の狭さと当時のユダヤ教の熱気からすると、影響がなかったと考えるほうが困難です。事実、パウロ書簡に見られる思想、とくに黙示思想の枠組みには、エッセネ派の文書と見られる死海文書との共通面が多くあり、用語や表現にも同じものや並行関係が見られます。もっとも、当時(70年以前)のファリサイ派はかなり終末的・黙示思想的傾向もあったようですから、パウロの黙示思想的な側面をすべてエッセネ派の影響と考えることはできません。エッセネ派をはじめファリサイ派なども含め、当時のユダヤ教に深く浸透していた黙示思想は、若いパウロの神学的思考の枠組みをかなり強く決定していたと見られます。黙示思想に見られる古い現在のアイオーンと来るべき新しいアイオーンの対立、終末の間近な切迫、終末時における霊の賦与、不信仰者には隠された救済の奥義《ミュステーリオン》、人間の自由意志ではなく神の選びによる救済など、黙示思想の枠組みの中でパウロはキリストの出来事を理解し告知していると言えます。

エルサレムのエッセネ派居住区については、ベッツ/リースナー『死海文書ーその真実と悲惨』(清水宏訳、リトン社)第十章を参照してください。わたしが一九九四年にパレスチナに旅行し、城壁に囲まれたエルサレムの旧市街を歩いたときに持った第一印象は、エルサレム旧市街の狭さでした。このような狭い市街に世界の各地からやって来たユダヤ人や巡礼者がひしめいていた様子を想像すると、パウロが当時エルサレムに居住して活動していたとされるエッセネ派から強い影響を受けたことが実感されました。
 パウロの用語と死海文書との並行表現は、次のようなパウロ思想の中心的な用語にも見られます ―― パウロの「神の義」とクムランの「あなたの義」(感謝の詩篇四・三七)、「光の子ら」(宗規要覧などに多数)、「罪の肉」(宗規要覧一一・九)、「悪い時代」(ハバクク書注解五・七)、「新しい創造」(感謝の詩篇一三・一一)など。もちろん、用語は同じでも、パウロはクムランの「律法の行いによる義」に対して「信仰による義」を激しく主張している点で、根本的に違います。「死海文書」については、日本聖書学研究所編『死海文書』(山本書店)がテキストの翻訳と解説を提供しています。死海文書についての研究書は、M・バロウズ『死海写本』やM・ブラック『死海写本とキリスト教の起源』など多く出ていますが、その中でJ・H・チャールズワース編・山岡健訳『イエスと死海文書』(三交社)が、学術的に信頼でき、興味深い情報を提供しています。その第7章に「イエス、原始共同体、そしてエルサレムのエッセネ派居住地」があります。
 なお、黙示思想とパウロの関係は、本書で後にテサロニケ書簡を扱うとき、詳しく触れることになります。