市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第12講

第三章 ほかに福音はない

        ―― ガラテヤ書から(3) ――


        (本章で書名のない引用箇所はすべてガラテヤ書の章節を指しています)




第一節 ガラテヤ書の執筆事情

パウロのガラテヤ伝道

 アンティオキアでの衝突事件でバルナバと対立するにいたり、アンティオキア教団から去ったパウロは、独立の異邦人宣教活動を開始します。そのさい、シラスを同行します。シラスは衝突のとき、パウロの側にとどまった例外的なユダヤ人キリスト者でした。
 ルカによると、シラスはエルサレム教団の有力なメンバーであり、「使徒教令」をアンティオキア教団に届けるために、バルサバと呼ばれるユダと一緒に派遣された使者の一人です(使徒一五・二二)。しかし、先に見ましたように、「使徒教令」そのものがアンティオキアでの衝突事件の後に成立したものと考えられますので、シラス派遣の記事も問題です。むしろ、シラスはもともとはエルサレム教団の有力信徒であるとしても、すでにアンティオキア教団で相当の期間パウロと一緒に働き、パウロの律法から自由な福音を最もよく理解していた、アンティオキア教団のユダヤ人キリスト者と見るほうが自然です。シラスはパウロと同じく、あるいはパウロ以上にギリシア語に堪能なギリシア語系ユダヤ人で、後にはペトロの名による手紙を自分の手で書いています(ペトロT五・一二)。彼はパウロの手紙の発信者に名を連ね(テサロニケT一・一)、彼がパウロの口述を筆記した可能性もあります(パウロは書簡の中ではラテン語名を用いて「シルワノ」と呼んでいます)。
 パウロはシラスを伴い、先に伝道したデルベやリストラなどのガラテヤ州南部の諸都市の集会を訪れ励まします。そのときリストラでは、その地で評判のよい若い信徒テモテをチームに加えます(使徒一六・一〜三)。テモテは、先に見たパウロのガラテヤ州南部の諸都市での伝道(第一次伝道旅行)のさい信仰に入ったと考えられます。
 テモテは信者のユダヤ人女性の子ですが、父親がギリシア人でした。ラビの原則によれば、ユダヤ人女性の子はユダヤ人として扱われるのですが、父親の反対のためか、テモテは割礼を受けていませんでした。ところで、「パウロはテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方のユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた」と、ルカは報告しています。この報告の歴史性については、研究者の意見は分かれています。
 ある人たちは、テモテの場合は特別なケースであって、必ずしも割礼に反対するパウロの原則と矛盾しないとして、この報告の歴史性を擁護しています(NTD)。この理解では、パウロは(異邦人への割礼は厳しく拒否していますが)テモテをユダヤ人として扱い、これからのユダヤ人伝道にさいしてユダヤ人社会に制限なく入って行くために伝道の方策として(コリントT九・二〇)、テモテに割礼を施したことになります。
 一方、パウロの割礼に対する原則(ガラテヤ二・三〜五、五・一一〜一二、コリントT七・一八)からすれば、すでにバプテスマを受けて信仰を告白している無割礼の信徒に、改めて割礼を受けるように求めることはありえないとして、ルカの報告の歴史性を否定する学者も多くいます。この場合ルカの報告は、「今なお割礼を宣べ伝えている」(ガラテヤ五・一一)とするパウロの批判者たちから出た誤った噂(伝承)を、パウロを忠実なファリサイ派ユダヤ人として描こうとするルカが利用したということになります(新共同訳注解)。 歴史的事実の判断は資料が乏しくてできません。テモテの割礼の問題については、「割礼の有無は問題ではない」(ガラテヤ六・一五)というパウロの宣言に従って、判断を保留したまま進んで行ってよいと思います。
 パウロたちの一行は、ガラテヤ州南部のルカオニア地方の諸都市から西に向かい、アジア州を目指します。アジア州はエフェソを中心とする地域で、古くからのギリシア植民都市が多くあり、ユダヤ人も多数住んでいたので、パウロの伝道地としては適切な候補地でした。事実、パウロは後に第三次伝道旅行のさいエフェソに二年ほど滞在して伝道し、アジア州の諸都市に有力な教団を設立しています。しかし、この時は何らかの事情に妨げられて予定を変更し、北に向かって旅を続け、ガラテヤ州北部のガラテヤ地方を通ります。
 「ガラテヤ地方」というのはアンキュラ(現在のトルコの首都アンカラ)を中心とする小アジア中央部の内陸地域で、前三世紀以来ヨーロッパから渡ってきたケルト諸族が定住していました。「ガラテヤ人」というのは本来このケルト系の人々を指す言葉であり、彼らの居住地域が「ガラテヤ」と呼ばれたのでした。ケルト系の人々は勇猛で傭兵として活躍することが多かったようです。ケルト系の人々の居住地域として、ガラテヤ地方は人種的にも文化的にも周囲の地域とは異質の色彩が強く、ヘレニズム化も遅れていたようです。しかし、ガラテヤ王国は前二五年に滅び、ローマの支配下に入りました。ローマはガラテヤ地方と南のルカオニア地方や近隣の地域を加えて「ガラテヤ州」としました(ガラテヤ書の宛先を考えるさい「ガラテヤ州」と「ガラテヤ地方」を混同しないことが必要です)。
 パウロがなぜアジア州に向かう予定を変えて、伝道地としてはあまり適切でないと見られるガラテヤ地方に向かったのかは謎です。ルカはそれを「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(使徒一六・六)と表現しています。おそらく、パウロと一行の祈りの中で何らかの強い聖霊の迫りがあって、アジア州に向かう自分たちの計画を断念することが主の御心であると悟ったのでしょう。
 ルカはガラテヤ地方を通ったことを報告するだけですが、この時パウロは何かの事情でこの地方にしばらく滞在することを余儀なくされ、その間に福音を語り、同労者たちの働きもあって、この地方に信じる者の群れが形成されたようです。パウロがある期間滞在することを余儀なくされた事情については、後にパウロがガラテヤの人々に手紙を書いたときにこう言っています。

 「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」。(四・一三)

 パウロは決して身体頑健な偉丈夫ではなかったようです。むしろ外見は弱々しく(コリントU一〇・一〇)、何か発作を伴うような持病をかかえていたようです(コリントU一二・七)。山岳地帯の長旅で体が弱り、ガラテヤ地方ではしばらく滞在して(おそらく越冬して)休養し、体力の回復を待たなければならない状況であったと推察されます。ガラテヤ四・一五から、この時のパウロの病気は眼病であったという見方もあります。
 ガラテヤの人々はパウロが語る福音に熱心に耳を傾けただけでなく、病むパウロを温かい心で受け入れ、パウロと一行に尽くしたのです。後日パウロはこの時のことをこう表現しています。

 「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」。(四・一四〜一五)

西への旅

 ガラテヤ地方にしばらく滞在して宣教活動を続けた一行は、その地に成立した集会を後に残して出発し、西に向かいます。小アジア西端のミシア地方の近くまで来て北に向かい、ビティニア州に入ろうとします。おそらくその州の大都市ニコメディアを目指したのでしょう。ところが、再び「イエスの霊がそれを許さなかった」ので、そのまま西進し、ミシア地方を通って小アジア西端の港町トロアスに到着します(使徒一六・六〜八)。
 トロアスでパウロは夜の祈りの中で幻を見ます。その幻の中に一人のマケドニア人が現れ、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに願ったので、マケドニア人に福音を宣べ伝えるように神から召されているのだと確信し、ただちにマケドニアへ向けて出発した、とルカは伝えています(使徒一六・九〜一〇)。
 パウロの行程についてはすでに「聖霊から禁じられた」とか「イエスの霊がそれを許さなかった」と語られ、またここで幻によって目的地が与えられたとされています。このような霊的体験については現代の学者は懐疑的ですが、聖霊に導かれた歩み、聖霊に満たされた祈りにおいては実際に起こることです。パウロ自身「第三の天にまで引き上げられた」体験を証言し(コリントU一二・二)、初期の信徒が聖霊による預言や異言を体験していたことはよく知られている事実でしたし、パウロ自身他の誰よりもこうした霊の賜物に豊かに恵まれていたのでした(コリントT一二章)。パウロは実際何らかの形の幻を見たと考えられます。
ここ(使徒一六・一〇)で突然初めて「わたしたち」を用いた文体が出現します。すなわち、著者はトロアスからマケドニアに向けて出発した一行に自分を含めているのです。この「わたしたち」を用いた部分(いわゆる「われら章句」)は、フィリピでの活動を伝える一六章一七節まで続くだけで、それ以後は途絶え、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(使徒二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(使徒二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(使徒二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、著者のルカはトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後も滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます(著者が他人の旅行記を資料として用いた可能性や、著者の文学的虚構であるとする説もありますが、著者自身がこれらの旅行の同行者であるとする古代教会以来の見解を決定的に否定する根拠は乏しいようです)。
 このことからさらに、ルカはマケドニアの人で、ルカがトロアスでパウロに出会ってマケドニアの状況を語ったことが、パウロが「マケドニア人」の幻を見るきっかけとなったという推察もありえます。
 トロアスでの幻体験がどのような性質のものであれ、パウロは生涯大きなビジョン(幻)を見つづけて、福音の展開にとって決定的な時代を駆け抜けた人物であることは間違いありません。パウロは自分が「異邦人への使徒」として召されていること、すなわち世界の諸民族に福音を宣べ伝える使命を主から与えられていると自覚していました。とくにアンティオキア教団から離れて独立の宣教活動を開始してからは、パウロの眼差しは世界の中心ローマとその先にある西の果てにまで達していたのです(ローマ一五・二二〜二四)。
 パウロがアンティオキアを出発し、ガラテヤ州を経てビティニア州に入ろうとしたのも、おそらくニコメディア、ビザンティウムを経てエグネティア街道沿いに伝道し、真っ直ぐローマに至ろうとしたのでしょう。ところが、御霊によって経路変更を余儀なくされトロアスに至りますが、そこから海路ネアポリスに渡り、フィリピ、テサロニケとマケドニアの主要都市に伝道することになります。これらの諸都市もみなエグネティア街道沿いにあり、パウロはこの街道をローマに向かって西へと急ぎます。このようなパウロの姿に、パウロが内に抱いていたビジョン(幻)が見えるようです。その後もパウロは何度も経路変更を余儀なくされてローマに到達することはできませんでしたが、パウロはそれを「妨げられたので」と語っています(ローマ一・一三、一五・二二)。パウロは偉大なビジョンの人であったと言えます。

反パウロ派の活動

 ところが、パウロが西に向かって働きを進めている間に、ガラテヤの集会に重大な変化が起こります。ある人たちがガラテヤにやって来て、「あなたがも割礼を受けなければ救われない」と主張し、ガラテヤ集会の多くの信徒たちが彼らに説得されて割礼を受け、あるいは受けようとしているという報告がパウロの耳に届いたのです。
 先に見たように、ガラテヤ地方は人種的にも周囲のヘレニズム世界とは異質の地域で、大都市も少なく、ユダヤ人住民も少なかったようです。それでガラテヤの集会はほとんど異邦人から成る集会であったと見られます。その異邦人信徒に割礼を要求したのは、外からやって来たユダヤ人キリスト者であったのです。
 この構図はアンティオキア教団での出来事を思い起こさせます。そこでも、ある人々(当然ユダヤ人)がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と、異邦人信徒を説得したのでした。それは福音の真理を否定することであるとパウロは激しく反対し、バルナバと共にエルサレムに上り、エルサレム教団のおもだった人々に談判し、異邦人に割礼なしの福音を宣べ伝えることに対して了解を得たのでした。しかし、このエルサレム会議の了解を決して認めようとしない強硬派もいたのです。彼らもイエスをメシア・キリストと信じているのです。ただ、律法に熱心なユダヤ人として、神から与えられたモーセ律法の外で神の民がありうるとは考えられなかったのです。それで、異邦人でイエスを信じる人々にも、真に神の民となるためには割礼を受けてユダヤ教律法を順守しなければならないと説得しようとしたのです。
 彼らは割礼抜きでイエス・キリストを宣べ伝えるパウロの活動を黙認することはできませんでした。パウロがイエスをキリストとして宣べ伝えることは結構だが、無割礼の異邦人が自分たちと同じキリストに属する神の民であることはとうてい認められないとしたのです。それで、パウロが伝道して形成した集会にはどこまでも出向いて行って、異邦人信徒に割礼を受けるように説得したのでした。彼らの活動は執拗で、パウロは生涯彼らの妨害活動に悩まなければなりませんでした。書簡の中でも後期のものと見られるフィリピ書でも、割礼を誇る者たちを「犬ども」と呼んで、警戒するように注意しています(フィリピ三・二以下)。パウロは使徒として受けた苦難の中に、このような「偽の兄弟」から受けた苦労を数えています(コリントU一一・二六)。

パウロの反駁

 ガラテヤの集会にも異邦人信徒に割礼を要求する「ユダヤ主義者」の活動が及び、集会が動揺しているとの知らせを聞いたパウロは、ただちに彼らの主張を論駁するための激しい論争の手紙を書きます。それがガラテヤ書です。
 この手紙がいつどこで書かれたのかは特定できません。しかし、この手紙でパウロが「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」(一・六)と書いているところから、この手紙が書かれたのはパウロがガラテヤ地方を去ってからあまり時が立っていないと見ることもできます。「こんなにも早く」を数カ月の単位で見るか、数年の単位で見るかによって違ってきますし、この句を「こんなにも簡単に」と理解して時間的推定の根拠にすることを否定する見方もあります。一般には第三次伝道旅行のときエフェソ滞在中(五二年から五四年)に書かれたとされています。すると、ガラテヤ地方の伝道活動が四九年から五〇年にかけての頃とされていますので、三年は経っていることになります。しかし、ガラテヤ書の執筆をもっと早く見ることも十分可能です。 
 ガラテヤ書の宛先については「北ガラテヤ説」と「南ガラテヤ説」が対立し、長年の論争が続いています。「北ガラテヤ説」というのは、この書簡の宛先をガラテヤ州北部の古来「ガラテヤ地方」と呼ばれてきた地域の集会であると見る説です。それに対して、宛先をガラテヤ州南部の諸集会、すなわちパウロが第一次伝道旅行で設立したルカオニア地方のイコニオム、リストラ、デルベなどの諸集会であるとするのが「南ガラテヤ説」です。「北ガラテヤ説」は、使徒言行録がそこにパウロが行ったことは報告していますが、その地方でパウロが宣教活動をしたことを伝えていないことが難点です。しかし、パウロ自身の証言からすると、「北ガラテヤ説」が妥当だと考えられます。
 その根拠はまず、パウロが宛先の人々を「ガラテヤ人」と呼んでいることです。先にも見ましたように、古来の「ガラテヤ地方」は人種的にも周囲の地域とは異なっていて、そこの住民が「ガラテヤ人」と呼ばれるのが普通でした。すこし前にローマの行政上の区分として「ガラテヤ州」に入れられた南部のルカオニアなどの地方の人を「ガラテヤ人」と呼ぶことはまずなかったと見られます。さらに、パウロがこの手紙の中で「体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と言っている点です。このような状況は、第一次伝道旅行のさいのガラテヤ州南部での活動より、今回の「ガラテヤ地方」への旅行に適合します。このような理由などから、現在では「北ガラテヤ説」が有力になっています。この講解も「北ガラテヤ説」の見方で書かれています。
 「北ガラテヤ説」を裏付ける根拠として、どの注解書にもほとんど触れられていないのですが、献金の問題があるとわたしは考えます。パウロは他の手紙の中で、「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」(コリントT一六・一)と書いています。パウロはエルサレム会議での取り決めに従い、エルサレム教団に届けるために自分が設立した異邦人の諸教会から献金を集めました。「ガラテヤ地方」の諸集会も当然その中に含まれます。ところが、「ガラテヤ州」南部の諸集会は、エルサレム会議前にアンティオキア教団の活動の一環としてバルナバ主導の下に行われた伝道活動によって設立されたもので、アンティオキア教団との交わりに留まっていたと見られます。そのような諸集会に、アンティオキア教団から離れて一言も触れなくなったパウロが、献金の指示を出したとは考えられません。

他に福音はない

 ガラテヤ書はパウロの手紙の中では論争の書としての性格がもっとも激しいものです。パウロの手紙は普通、挨拶の後、あて先集会のための感謝の祈りが続きますが、ガラテヤ書ではこのような感謝はなく、挨拶の後ただちに激烈な論争の宣言が続きます。

 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」。(一・六〜九)

 ガラテヤの異邦人信徒に割礼を受けるように要求したユダヤ主義者たちは、パウロが宣べ伝えた十字架され復活されたキリストを否定したのではありません。ただ、その信仰に割礼とユダヤ教律法の順守を付け加えるように求めたのです。彼らはそうすることが真の福音であると主張したのです。彼らの説得によって割礼を受けた、あるいは受けようとしたガラテヤの信徒たちは、決してそれを福音から離れることだとは考えていなかったのです。さらに深く福音に進むことだと考えていたのです。より多くの要求に応えるほど、自分は進歩しているのだ、と人間は考えるものです。
 このような姿勢をパウロは、「キリストの恵みへ招いてくださった方から離れ」ることだと断定します。この文の重点は「恵み」にあります(「キリストの」という句を欠く有力な写本が多くあります)。割礼を受けることは恵みから落ちることです(協会訳五・二〜四参照)。福音によって「恩恵の支配」に招き入れてくださった方(神またはキリスト)から離れることです。
 パウロは続けてこの事態を「ほかの福音に乗り換えようとしている」と表現しましたが、ほかの福音があるかのような言い方を直ちに訂正します。「ほかの福音と言っても、(わたしたちが宣べ伝えた福音のほかに)もう一つ別の福音があるわけではなく」、それは「キリストの福音を覆す」ものにすぎないと断言します。それは「別の福音」ではなく福音の否定だというのです。キリストの福音はただ一つだというのです。「わたしたちがあなたがたに宣べ伝えた福音」のほかに、いかなる福音もないというのです。これ以外の福音を告げ知らせる者は「呪われるがよい」と、パウロ書簡では他に見られない激しい口調で《アナテマ》(呪われよ)が投げつけられます。
 ここで「呪われるがよい」という対象に「天使」が含まれていることが注目されます。当時の黙示文学にはしばしば、特別の啓示が天使によって与えられたことが語られています。もし「別の福音」が天使から与えられた啓示によると主張されても、「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音」を告げ知らせるのであれば、その天使が《アナテマ》だというのです。これはパウロが、自分がイエス・キリストから受けた啓示(一・一二)は天使たちよりもはるかに勝る御子ご自身からのものであることを確信していたことを示しています。天上にもこの福音のほかに福音はないのです。
 さらに、「呪われるがよい」の対象に「わたしたち自身」があげられていることに留意しなければなりません。聖霊の啓示にあずかり恩恵の支配の福音を宣べ伝えた者であっても、時の経過と共に変質し、どこか自分の知恵や善行を拠り所にするようになり、その教えが純粋な恩恵だけに立つものでなくなる場合があります。これは人間の本性とか弱さから生じるもので避けがたい面があります。それだけに、自分自身に寄り頼むところがいささかもないように、つねに厳しく自分を吟味しなければなりません。
 このことは教会についても言えます。教会はキリストの福音を保持し、それを世界に告げ知らせる機関であると称しています。しかし、その教会がパウロの告知したこの福音からずれているならば、教会自身が「呪われるがよい」となるのです。ルターの目には当時のカトリック教会はそのような状態であったのです。ルターはこのガラテヤ書によって教会自身が「恵みから落ちている」と判断せざるをえなかったのです。彼はこのガラテヤ書によって教会と闘ったのです。
 教会の歴史を見ますと、教義や礼典の違う教会が互いに「アナテマ」を投げつけ合ってきました。同じ福音に生きながらも、教義や礼典の違いは歴史的状況や時代思想、さらに個人的体験や経歴の違いから生じうることです。その時、自分を絶対化して他者に「アナテマ」を投げつけることは、福音そのものを危うくする行為です。パウロが「アナテマ」を用いているからといって、この言葉で自分と異なる立場をすべて抹殺しようとするようなことはしてはならないことです。これはあくまでも、「非福音」に対抗して自己の責任で福音を告白するさいの標識であるべきです。
 《アナテマ》というギリシア語は、七十人訳聖書では《ヘーレム》というヘブライ語の訳語です(申命記七・二六、ヨシュア七・一一以下など)。《ヘーレム》というのは神が「滅ぼし尽くすべきもの」(新共同訳)と定められたものです。この《アナテマ》を用いるとするならば、それはここでパウロがしているように、もし自分の主張が福音の真理に反するならば、自分も神から「滅ぼし尽くすべきもの」とされてもよい、という自己の存在のすべてをかけた告白でなければなりません。

涙の書としてのガラテヤ書

 ガラテヤ書はたしかに激しい論争の書です。しかし、その論争は宛先のガラテヤの信徒たちとの論争ではありません。彼らを惑わすユダヤ主義者に対する論駁の書です。ガラテヤの集会に対しては、パウロは「わたしの子供たちよ」と呼びかけ(四・一九)、子を思う親の情愛をもって心配し、苦しみ、途方に暮れています。自分が生んだ子が、せっかく与えられた自由を放棄して、再び奴隷の境遇に陥ろうとしていることを心配し(四・八〜一一)、自分とガラテヤの信徒の間にある深いきずなに訴え(四・一三〜一五)、後からやって来た者たちではなく、生みの親である自分の声に耳を傾けてくれるように懇願するのです(四・一二)。今は遠くに離れていて直接語りかけることができないもどかしさの中で、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」(四・二〇)と願うのです。四章の八節から二〇節までの段落を読みますと、そのようなパウロの切々たる心情が伝わってきます。ガラテヤ書の論争の激しさは、このようなパウロの心情の深さの裏側であると言えます。これはパウロの「涙の書」です。