市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第25講

第三節 キリストの来臨の出来事

復活の希望

 おそらくテモテがもたらした報告にあったのでしょう、パウロはテサロニケの信徒のある人たちが「既に眠りについた人たちについて」嘆き悲しみ、主イエスの来臨の希望について動揺しているのを知り、彼らを励ますために「死者の復活」について改めて書き送ります(四章一三〜一八節)。

 13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。(四・一三)

 先に見たように、パウロは福音を宣べ伝えるにさいして、復活された主イエスが栄光の中に来臨される日が近いことを語っていました。パウロをはじめ初期の宣教者は、キリストの来臨は自分たちの世代に起こると考えていたようです。初期の教団には、「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ九・一)というイエスのお言葉が伝えられ、真剣に受け取られていたことでしょう。パウロもキリストの来臨の時に地上にいる者の中に自分を入れて語っています(四・一五、一七、コリントT一五・五一〜五二)。
 ところが、テサロニケでは、主イエスが来られる前に「眠りにつく」、すなわち亡くなる信徒が出たことで、「嘆き悲しみ」、主イエスの《パルーシア》に対しても信仰が動揺する危険があったようです。なぜ身近な人が亡くなったことが信仰の動揺につながるのか、その消息は明らかでありませんが、その動揺に対処するために書いているパウロの言葉から推定することができます。テサロニケの信徒たちは、苦難の中で信仰を貫くことによって、主イエスの来臨のさい共に栄光にあずかることを待ち望んできました。ところが、その日が来るまでに亡くなる兄弟が出たとき、自分たちが地上であずかるはずの栄光のキリストの支配に、もはや地上にいない兄弟がどのような形で与ることができるのか理解できず、「眠りについた」人たちは栄光にあずかる特権を失ったのではないかと「嘆き悲しみ」、キリスト来臨の約束に対する信仰に動揺を来たしたのではないかと考えられます。
 これは、その人たちがキリストの《パルーシア》を地上でのキリストの支配の実現と見る見方に傾いていたからではないかと思われます。福音は救済の完成としてキリストの来臨を宣べ伝えましたが、その使信の強烈なインパクトは、《パルーシア》を語るさいに用いられたユダヤ教黙示思想の枠組みを実体化して受け取り、キリストの支配を地上のものとする傾向を生んだのではないかと見ることができます。それに対してパウロは、「ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言って、こう書いています。

 14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(四・一四)

 パウロはここでイエスの復活を根拠にして、「眠りについた人たち」の復活を語るのです。イエスもひとたび死んで、その上で復活されました。「同じように」、神はイエスと結ばれて死んだ人を、死の中から「導き出して」復活させてくださるのです。これは、イエスの復活が確かなのと同じように確かです。イエスを復活された主キュリオスと告白することは、イエスを信じる者の死からの復活を信じることを含んでいます。イエスに属する者の復活を信じないことは、主イエスの告白を無意味にするのです。

イエスの復活と終わりの日に起こるとされる「死者たちの復活」との関係については、次の著作『パウロによるキリストの福音U』でコリント書Tの第一五章を扱うときに、詳しく取り扱うことになります。

終わりの日に起こること

 15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。 16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。(四・一五〜一八)

 この死者の復活を語るにさいして、パウロは「主の言葉に基づいて次のことを伝えます」と言っています(四・一五)。「主の言葉」とは何を指しているのか、確定することはできません。教団に伝承されたイエスのロギオン(お言葉)か、教団で活動していた預言者を通して語られた主の言葉か、あるいはパウロ自身が聖霊によって受けた啓示の言葉か、その他の知られていない伝承とか黙示文書に基づくものか、分かりません。パウロは少し後にコリントの人たちに書き送った手紙の中で、この箇所とほぼ同じことを書いていますが(コリントT一五・五一〜五二)、そこでは「わたしはあなたがたに神秘《ミュステーリオン》を告げます」と言っています。いずれにしても、パウロは、次に述べることは人間から出た思想や願望ではなくて、主の啓示の言葉による神の約束であることを強調しているのです。

コリントT一五・五一〜五二でパウロはこう言っています。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆が眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、(地上に残っている)わたしたちは変えられます」。パウロの独立の異邦人伝道(いわゆる第二次と第三次の伝道旅行)の比較的初期のものであるテサロニケ書とエフェソ滞在中に書かれた後期のコリント書やフィリピ書(三・二〇〜二一参照)が同じことを言っている事実から、主の来臨を中心とするパウロの終末告知は、この異邦人伝道の期間を通じて変わらなかったと確認できます。

 ここでパウロはこう言おうとしているのです。「あなたがたは、キリストの来臨にさいして自分たちは栄光の支配にあずかるのに、すでに眠りについた人たちはどうなるのかと心配しているが、その心配はいらない。眠りについた人たちの方が先に復活し、その後で地上に残っているわたしたちが(彼らと同じ復活の体に変えられて)彼らと一緒に引き上げられるのだからです」。
 ここでのパウロの表現は、きわめて強く黙示思想の影響を示しています。初期の信徒たちはキリストの来臨を間近なものとして熱心に待ち望んでいましたが、その待望はダニエル書以来のユダヤ教黙示思想の用語で表現されていました。
 「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」(一六節前半)は、典型的な黙示思想の表現です。黙示思想的文書では、悪しき者が支配する現在の古いアイオーンが終わり、神が直接介入して到来させてくださる新しいアイオーンが始まる時に起こることが、このような表現で語られていました(イザヤ二七・一三、ゼカリヤ九・一四、ラテン語エズラ記六・二三など)。このような表現は、新約聖書の中にも流れ込んでおり、マタイ二四・三一でも「大きなラッパの音を合図に天使たちが遣わされ」ます。ヨハネ黙示録では、天使が次々に吹き鳴らすラッパによって、終末の出来事が地上に展開します。
 終末の到来を告げ知らせるラッパが鳴り響くとき、「主御自身が天から降って来られます」。しかし、このとき主が「天から降って来られる」のは、地上で救い主としての働きを成し遂げるためではありません。それはすでに行われました。神が遣わされたメシア・キリストはすでに地上に現れて、十字架の上に世の贖いを成し遂げ、復活して天に昇られました。次に天から降って来られるのは、先に地上で成し遂げられた贖いの御業を受け入れて彼の民となった者たちを、「空中で」迎えるためです。主御自身が天から降って来られる時、「キリストに結ばれて死んだ人たちがまず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」。キリストに所属する者たちは、すでに死んだ者も地上に生きている者も、共に新しい霊の体を与えられて、共に空中に引き上げられ、雲に包まれて(天使とか聖徒たちの群れに囲まれて)、主と出会い、復活者である主と一緒に生きるようになります。
 このようにキリストの民が復活の体を与えられて、復活者キリストとお会いし、一緒にいるようになることは、「空中で」起こるとされています。この「空中で」とか「雲に包まれて」起こるとされているのは、その出来事がもはや地上の出来事ではない、すなわち歴史の中の出来事ではないことを象徴的に表現しているのです。それは、歴史を超えた出来事、時間の枠を超えた出来事、時間と空間の枠の中でしか思考しえないわたしたちの言語表現を超えた出来事です。初期の福音宣教者はユダヤ人でしたから、その人間の言語表現を超えた終末的出来事を語るのに、ユダヤ教黙示思想の用語を用いました。現代のわたしたちは、この容器であるユダヤ教黙示思想をそのまま受け入れる必要はありません。その容器に盛られた中身、すなわち御霊によってキリストに属する者の中に溢れる復活の希望を継承すればよいのです。このテサロニケ書の箇所でも、黙示思想の容器に目を奪われないで中身を見ますと、ここでもパウロの終末的希望は死者の復活に集中していることが見えてきます。
 ここに用いられている黙示思想的な伝承はマルコ福音書にも保存されています。

 それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(マルコ一三・二四〜二七)

 これと比較すると、パウロも同じ流れの中にいることが分かります。しかし、パウロの場合は、黙示思想的な表現を用いながら、決定的な点でユダヤ教黙示思想を超えています。黙示思想においては救済はひたすら未来に待ち望まれていました。それに対して、パウロにおいては、終末的な救済を現在に生きることが中心にあります。わたしたちのために死に、三日目に復活したキリストを信じることによって、古い自分が死んで霊なるキリストと合わせられて生きる現実、すなわち「主と共に生きる」現実が、パウロにおける救済の核心になっています。

マルコ福音書に保存されている「主の来臨」《パルーシア》に関する黙示思想的伝承については、拙著『マルコ福音書講解U』の「終末の章」(109〜159頁)、とくに最後の「現在におけるパルーシア待望」の項を参照してください。

 時間の中で生きているかぎり、人間存在には未来という相があります。いま霊なるキリストと合わせられて生きるという救いの現実も、未来の相をもっています。パウロの場合、救済の未来の相は「死者の復活」に集中しています。復活されたイエスを信じ、復活者であるキリストと合わせられて生きる者は、「死者を復活させる神」を信じて、死の彼方に復活を望み見て現在を生きています。これがキリストにある者の希望です。「主と共に生きる」という救済の現実は、「死者の復活」という未来の相をもっているのです。イエスが復活された方である以上、わたしたちも復活しなければ、どうして「主と共に生きる」ことができるでしょうか。
 それでパウロは、テサロニケの信徒たちが自分たちの未来について動揺したとき、まず何よりも、わたしたちの将来の希望は死者の復活であることを思い起こさせるのです(四・一三〜一四)。神は「イエスを信じて眠りについた人たちを『イエスと一緒に』導きだしてくださるのです」。そして、「主の言葉」によってその日の出来事を描いた後、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と結びます(四・一七後半)。この結びの一文は、それまで(四・一五〜一七前半)の「主の言葉」に基づく伝承(その部分はきわめて黙示思想的色彩が強いものです)に、パウロ自身が付け加えたものではないかと見られます。そして最後に、「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」(四・一八)と、すでに眠った者について嘆き動揺している兄弟たちが互いに励まし合うように勧めて、この一段を締めくくります。