市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第1講

第一章 十字架の言葉

        ― コリントの信徒への手紙 T (1)―




第一節 ユダヤ人にもギリシア人にも

アカイア州でのパウロの福音宣教

アテネ

 マケドニア州の州都テサロニケでかなりの期間活動してきたパウロの一行は、ユダヤ人による騒乱によってテサロニケに止まることができなくなり、ベレアに脱出し、そこでもユダヤ人によって扇動された騒乱に巻き込まれ、そこからも脱出して(おそらく船便で)南のアカイア州に向かい、ギリシアの古都アテネに到着します(テサロニケとベレアでの働きと脱出については、前著『パウロによるキリストの福音T』285頁「テサロニケでの働き」を参照)。
 ルカによりますと、パウロはアテネでベレアに残してきたシラスとテモテが到着するのを待ちます(使徒一七・一六)。しかし、パウロ自身の手紙によりますと、パウロが去ってから同国人からの迫害にさらされている、成立したばかりの若いテサロニケの集会を心配して、指導と激励のためにアテネからテモテを派遣します(テサロニケT三・一〜五)。そして、テサロニケから帰ってきたテモテをコリントで迎えることになったようです(使徒一八・五、テサロニケT三・六)。
 仲間の到着を待つ間、パウロはアテネの人々に福音を語り、哲学の諸派の人たちと論じ合います。ルカは使徒言行録一七章(一六〜三四節)に、パウロのアテネでの活動とその福音宣教の内容を詳しく書いております。しかし、パウロの手紙から確認できることは、アテネでの伝道活動は何の成果もなかったという事実だけです。パウロは次の訪問地であるコリントのステファナ一家を「アカイア州の初穂」、すなわちアカイア州で最初に信仰に入った家族だとしています(コリントT一六・一五)。アテネもアカイア州の都市ですから、アテネでは一人も信徒を得なかったことになります。また、パウロはすべての手紙でアテネに触れることは、先に見たテモテを待っていた場所として触れる以外は、いっさいありません。アテネはパウロの宣教活動において何の痕跡をも残していません。
 ルカがパウロのこの時のアテネ伝道でアレオパゴスの議員ディオニシオスとダマリスという婦人が信仰に入ったとしている(使徒一七・三四)のは、おそらく、この伝道以後の時期に成立したアテネの教会を代表する人物を、この時に回心したものとして描いた結果だと考えられます。パウロは州都の大都市に長く滞在し、周辺の諸都市に仲間を派遣して伝道するという仕方で伝道活動を進めましたから、パウロのコリント滞在中にアテネに信徒の群が成立した可能性もあります。しかし、パウロはアテネについて全然触れていないので、アテネの教会の成立はパウロ以後の時期と見るほうが自然でしょう。エウセビウスの『教会史』(三巻四・一一)は、アテネ教会の初代司教としてディオニシオスの名を上げています。
 ルカは、パウロがアテネのアレオパゴスでしたとする説教を詳しく報告しています(使徒一七・二二〜三一)。この「アレオパゴス説教」は、教養あるギリシア人に福音を弁証する議論の典型として、新約聖書の中でも特異な位置を占めており、詳しく研究し講解する価値があります。しかし、この説教はパウロの説教の要約とか報告としての歴史的な資料ではなく、使徒言行録の中の他の重要説教と同じく、ルカの創作と認められます。ルカは、ギリシア思想や文化の発祥の地として認められているアテネを、福音とギリシア哲学との遭遇を描く舞台として選んだのでしょう。「アレオパゴス説教」は、異邦人への福音の告知として、偶像礼拝の祭儀から離れて天地の創造者である唯一の神に立ち帰るべきこととか、イエスとその復活を終末の救済の出来事として宣べ伝えていることなど、テサロニケ書簡で見たこの時期のパウロの異邦人伝道と一致している面もありますが、ガラテヤ書やコリント書から得られるこの時期のパウロの宣教内容から見ると違った面もあります。ここでは、書簡というパウロ自身の証言に基づいてパウロの福音を追求したいと願いますので、「アレオパゴス説教」の講解は別の機会に譲って先を急ぎたいと思います。

コリント

 アテネを去ったパウロは、当時アカイア州の州都であったコリントに向かいます。コリントは、ペロポネス半島をギリシア本土とつなぐ僅か5キロメートル足らずの地峡に位置し、北にある外港レカイオンは西(イタリア方面)に向かって開けたコリント湾に面し、南にある外港ケンクレアイは東(小アジア方面)に開けたサロニコス湾に面しています。このような地理的な位置から、東西の物流の中継点として、コリントは交易によって栄え、パウロの時代にはヘレニズム世界で最も富裕な都市の一つとなっていました。成り上がり都市の生活は華美放縦に流れ、「コリント風に暮らす」というと、贅沢と性的放縦の中に暮らすことを指すようになっていたと伝えられています。

コリントは前3世紀にアカイア同盟の盟主としてローマに対抗して戦いますが、前一四六年にローマ軍によって破壊されます。その後、前四四年のカエサルの指示でローマの植民都市として再建され、前二七年にはアウグストゥスによって新たに編成されたローマ属州アカイアの首都と定められます。そして、パウロの時代(一世紀半ば)までの百年足らずで当代随一の富裕な都市となります。急速に繁栄した植民都市として、コリントは様々な民族の移民が流入し、多くの宗教が行われ、多くの神々の神殿が建てられ、哲学諸派(とくにキュニコス学派)の遍歴教師が活動します。近年の発掘によって、コリントにはアポロン神殿の他にも様々な神々に捧げられた神殿があったことが明らかにされています。エジプトの神々の神殿や、神殿娼婦がいた神殿も語り伝えられています。ルカがアテネについて描いた宗教的状況(使徒言行録一七章)は、そのままコリントにあてはまります。

 コリントにはユダヤ人も多くいて、パウロが訪れたときには(おそらく複数の)ユダヤ人会堂がありました。パウロ以後になりますが、カリグラとネロがコリント地峡に運河を掘ることを計画したとき、ユダヤ戦争の捕虜が多数奴隷として連れてこられたと伝えられています。後になって解放されたユダヤ人も含め、コリントではある程度の自治を認められたユダヤ人の共同体「ポリテウマ」が成立しました。発掘でも、「ユダヤ人たちの会堂」と判読できる門標が発見されています。
 コリントに入ったパウロは、まず土地のユダヤ人信徒との接触を求めます。その中で、最近のクラウディウス帝のユダヤ人追放令(四九年)によってローマからコリントに来ていたアキラとプリスキラというユダヤ人夫妻と出会います。この夫妻はポントス州出身のユダヤ人で、パウロと同じテント造りを職業としていたので、パウロはこの夫妻の家に住み込んで一緒に仕事をし、自分の生活を支えます(使徒一八・一〜三)。アキラ夫妻は直前までローマに住んでいたので、ローマの事情、とくにローマの信徒の状況に詳しく、パウロは目標としているローマについて、この夫妻から貴重な情報を得ることになります。アキラとプリスキラ夫妻は、最後までパウロの忠実な協力者となり、パウロの宣教活動において重要な役割を果たします。
 アキラとプリスキラ(プリスカと呼ばれている場合もあります)夫妻は、ローマでユダヤ人の会堂に所属し、その中でキリストの福音を力強く宣べ伝えたので、激しく反対するユダヤ人との間に騒乱が起こったのでしょう。ローマの歴史家スエトニウスがその著『皇帝列伝』で「ユダヤ人はクレストゥス(これはクリストスの不正確なラテン語表記だと見られます)の煽動で絶えず騒乱を起こしたから、クラウディウス帝は彼らをローマから追放した」と書いていますが、アキラ夫妻はその騒乱の当事者の一人であったのでしょう。
 アキラ夫妻は自分の作業場と職人たちを持つ富裕なテント製造業者であるという見方(ヘンゲル)もありますが、パウロと同じように律法研究に携わるための手仕事としてテント製造をしていたという見方もあります。彼ら自身が聖書に精通し、積極的な伝道活動を進める伝道者であったこと、また、シラスとテモテがマケドニア州からコリントに到着して、マケドニア州の教会からの献金をもたらしたとき初めて、「パウロは(手仕事を止めて)御言葉を語ることに専心した」(使徒一八・五)とされていることからも、後者の見方が自然であろうと考えられます。アキラ夫妻が富裕な業者であれば、初めからパウロを福音宣教に専心させることができたはずですから。
 パウロのコリント滞在は、四九年のクラウディウス帝のユダヤ人追放令の直後であることと、後に出てくる総督ガリオンの任期(五一年〜五二年)から確定することができます(ガリオンの任期は近年発見されたガリオ碑文によって確認されています)。すなわち、パウロは五〇年の秋にコリントに到着し、一年半滞在して、五二年の春にコリントを去ったことになります。パウロの生涯の年代は、この年代を起点にして推定されます。

コリントでのパウロの宣教

 コリントでのパウロの伝道は、自然にまず会堂でユダヤ人にイエスがメシアであることを宣べ伝える活動から始まります。しかし、大部分のユダヤ人から激しい反対を受けます。そこで会堂と決別し、神をあがめる異邦人ティティオ・ユストの家に活動の場を移し、そこで異邦人に福音を宣べ伝えます(使徒一八・五〜七)。彼の家はユダヤ人会堂の隣にあったというのですから、パウロの宣教活動はユダヤ人たちを強く刺激したことでしょう。
 異邦人ユストの家でのパウロの宣教活動によって「コリントの多くの人々」が信仰に入り、コリントに異邦人を主体とする信徒の群が成立します。コリントでのパウロの福音宣教はかなりの成功を収め、パウロはコリントに一年半(五〇年秋から五二年春まで)も滞在して活動を続けます。このような長期の滞在は、一つにはコリントでの成功に促されたものでしょう。パウロは多くの異邦人が御言葉を受け入れて信仰に入ってきた事実に主の導きと御心を感じたのでしょう。ルカはそれを、パウロが幻の中で主の言葉を聴いた結果であるとしています(使徒一八・九〜一〇)。もう一つにはおそらく、パウロはマケドニアから一路西に向かいローマを目指したのでしょうが、ユダヤ人からの迫害などの事情でやむなく南に向かい、コリントに来ます。そこでアキラ夫妻と出会い、ローマの事情を詳しく知るに至ります。直前のクラウディウス帝のローマからのユダヤ人追放令によって、いまはローマ入りを強行する時期ではないと判断し、コリントに腰を落ち着けて活動することにしたのでしょう。コリントはアカイア州の州都であり、まず州都に福音を確立するというパウロの世界宣教計画にも合致します。パウロはアキラ夫妻とテント造りの職業に携わり、長期滞在の態勢でコリント伝道に臨みます。
 宣教活動の場をユストの家に移しましたが、パウロはアキラ夫妻の家に住み続けたと考えられます。しかし、第三次伝道旅行のさいコリントに滞在して、そこからローマ書を書いたとき(五六年)、パウロとコリントの教会全体がガイオという人物の家に世話になっていると言っています(ロマ一六・二三)。その時にはアキラ夫妻はもはやコリントに住んでいないのですから、パウロの一行はコリントの集会が集まるガイオの家に滞在したのでしょう。また、ガイオはパウロ自身がバプテスマを授けた数少ない人たちの中に含まれています(コリントT一・一四)。そこで、使徒言行録のティティオ・ユストとこのガイオが同一人物であって、そのローマ風のフルネームは Gaius Titius Justus であったのではないかという推定がなされます(グッドスピード)。そうすると、この人物は(もし別人であれば両者は)かなり富裕で、その屋敷はコリントの全集会が集まることができる広さがあり、パウロの一行をかなり長期に世話する資力があったと考えられます。
 なお、コリントの集会からローマへの挨拶(ローマ一六・二三)の中に「市の経理係エラスト」という名が出てきます。最近の発掘で、エラストという名の市の経理担当職の人物がこれを寄進したという銘のある、一世紀半ばの街路舗装タイルが発見されて、このエラストはローマ書のエラストと同一人物ではないかと推定されています。この人物もユストの家に集まっていた信徒であったのでしょう。その他、パウロがコリント書簡やローマ書の挨拶(一六・二二〜二三)で上げている名を見ますと、ラテン語の名前が目立ちます。おそらく彼らはカエサルによって植民された解放奴隷の子孫だったのでしょう。コリントの集会は異邦人信徒が多かったことを印象づけます。コリントの遺跡の写真を見ながら、こういう人物たちの名を思い浮かべますと、当時のコリントの集会の様子が見えるように感じられます。
 コリントのユダヤ人は全体としてはパウロに激しく反対するのですが、他の都市と違ってコリントでは、有力なユダヤ人がかなり信仰に入ります。その代表が会堂長のクリスポ一家です。このクリスポは、パウロ自身がバプテスマを授けた数少ない信徒として、パウロの書簡の中に名が上げられています(コリントT一・一四)。土地のユダヤ人社会を代表する会堂長がイエスを告白するにいたったことは、ユダヤ人社会にとって衝撃であり、ユダヤ人や神を敬う異邦人たちの回心に大きな影響を及ぼしたことでしょう。シラスやアキラ夫妻のような有力なユダヤ人伝道者の協力もあって、キリストの福音はコリントのユダヤ人社会にある程度根を下ろしたものと見られます。
 こうしてアカイア州の州都である富裕な大都市コリントに、異邦人とユダヤ人を含む信徒の集会が形成されます。コリントでは、ユダヤ人信徒と異邦人信徒は別の集会を形成したのではなく、同じ家に集まり、共同の食卓の交わりを持ちます。そのことは、パウロの福音の質から言っても当然推定できますし(この点は後にコリント書簡で検証します)、後にパウロが、コリントの「集会全体」がガイオの家に世話になっていると言っている(ローマ一六・二三)ことからも裏書きされます。
 この事実は、コリントのユダヤ人社会を強く刺激したと考えられます。会堂の隣にある異邦人ティティオ・ユスト(先に見たように、この人物はローマ書のガイオと同一人物である可能性があります)の家で、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事をして、自分たちこそ新しい神の民であり、正しい仕方で神を礼拝しているのだと主張したのですから、イエスを信じないユダヤ人にとってはとうてい見過ごすことのできない律法違反行為だったのです。異邦人と食卓を共にすることは、熱心なユダヤ教徒には許されない律法違反行為です(アンティオキア事件参照)。信じないユダヤ人にとって、パウロは十字架につけられたメシアというような馬鹿げた宣伝をするだけでなく、ユダヤ人に聖なるモーセ律法を破るように唆す、許しがたい背教者であったのです。
 それで、ガリオンがアカイア州の総督であったとき、ユダヤ人はパウロを襲い、法廷に引き立てて行って訴えます。その訴えは、これまでのようにローマの支配に反抗する者としてではなく、「律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しています」という内容であったと伝えられています(使徒一八・一二〜一三)。その訴えに対してガリオンは、「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」と言って、訴えを門前払いにし、ユダヤ人を法廷から追い出します(使徒一八・一四〜一六)。
 コリントでは、ユダヤ人がパウロをローマ支配への反逆者としてではなく、ユダヤ教と異なる宗教を宣伝する者として訴えたのは、成立して成長し始めた若いキリストの民の集会を、「レリギオ・リキタ(公認された宗教)」としてのユダヤ教から追い出して、ローマ政府の東方諸宗教に対する抑圧政策の対象としようとしたと考えられます。総督ガリオンはこの訴えを正しくユダヤ教内部の教義争いと判断して、ローマの法廷にはなじまない訴えとして門前払いにします。
 「すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけ」ます。この「群集」は、この訴訟とは関係のない異邦人の群集とは考えられませんので、パウロに対する訴えに失敗したことに憤激したユダヤ人の群集が、リーダーである会堂長のソステネに憤懣をぶつけたのだと見られます。ガリオンはそれを見ながら、制止するのでもなく、まったく無視します。この態度は、ローマ教養人から見れば野蛮なオリエント宗教に対する軽蔑を示すものでしょう(使徒一八・一七)。
 こういう事件があった後もなおしばらくパウロはコリントに滞在しますが、おそらく春の船便の再開を待って、コリントを去ります(使徒一八・一八)。
 このソステネがクリスポの後任の会堂長であったのか、他の会堂の会堂長であったのかは分かりません。おそらく騒乱のときにはパウロを訴える側にいたのでしょう。しかし、数年後にパウロがコリントの教会に手紙を書いたとき、共同の発信人として「ソステネ」という名を上げています(コリントT一・一)。このソステネは、状況から判断すると、使徒言行録のソステネと同一人物と見られますので、ソステネはある時期には信仰に入っていて、コリントの集会によく知られた人物であることが分かります。そうすると、会堂長であったユダヤ人の信徒がもう一人いたことになり、コリントでのユダヤ人社会への福音の浸透を裏付けます。

ユダヤ人への宣教と異邦人への福音 

聖書の成就としてのキリスト 

 先に見ましたように、パウロはマケドニア州で福音を宣べ伝えた後、アカイア州に入ります。古都アテネでの伝道は成果なく、新興経済都市のコリントで成功し、パウロの福音宣教活動において重要な位置を占めることになる集会がコリントに形成されます。日本で言えば、京都で失敗し大阪で成功したということになります。では、パウロはコリントで、どのような内容の福音を、どのように宣べ伝えたのでしょうか。それを、数年後(五三〜五四年)にパウロがコリントの集会に書き送った手紙を中心に、パウロ自身の証言によって見ていきましょう。
 パウロは、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」(コリントT九・二〇)と言っています。ユダヤ人に福音を宣べ伝えるときには、ユダヤ人の立場に立って語ったということです。ユダヤ人に対して語るときには、神が唯一であることや、偶像を捨てて生ける神に立ち帰るようにという勧めは必要ではありません。ユダヤ人は聖書を信じているのですから、聖書に基づいてイエスが約束されたメシアであることを論証すればよいのです。パウロは専門の聖書学者として、聖書を駆使して力強くコリントのユダヤ人たちを説得したことでしょう(そのさいどのように聖書を引用したり解釈したかは、数年後にこのコリントからローマの信徒に書き送った手紙に、その一端がうかがえます)。もちろん、聖書解釈だけでユダヤ人を説得しようとしたのではありません。パウロの宣教はいつも誰に対しても「御霊と力の証明による」ものでした(コリントT二・四)。パウロは自ら体験した「十字架につけられたままのキリスト」による救いを、御霊の力によって証言したのです。ただ、ユダヤ人に対してはそれを聖書の言葉を論拠として語ったということです。
 パウロはコリントで宣べ伝えた福音についてこのように語っています。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
(一五・三〜五)

 この福音の言葉《ケリュグマ》は、用語や内容からして、ごく初期のユダヤ人教団(おそらくは原始エルサレム教団)において成立したものと見られます。そこでは救いの出来事としてのキリストの十字架と復活が、聖書を成就する出来事として起こったことが強調されています。パウロはユダヤ人に対しては、キリストの十字架と復活という救いの出来事を、聖書の成就として、聖書の言葉を論拠として語ったのです。
 ルカは、ベレアのユダヤ人について、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じた」(使徒言行録一七・一一〜一二)と言っています。コリントのユダヤ人も、少なくとも一部の者は、ベレアのユダヤ人のように、パウロの御霊の力に溢れた証言に打たれて、パウロが解釈する聖書の論証を受け入れたのです。コリントのユダヤ人が福音を受け入れるには、シラスやアキラ夫妻というような、聖書に精通したユダヤ人伝道者の働きも、大きく貢献したことでしょう。
 ところが、大部分のユダヤ人にとっては、「十字架につけられたメシア」というような使信は、とうてい受け入れられないものでした。ユダヤ人が待望していたメシア、すなわち、終わりの日に神から遣わされる神の民の救済者は、神の民を抑圧する異教権力者の支配を覆して、神御自身の支配をその民と全世界に打つ立てる人物です。それが、こともあろうにローマ人によって十字架刑に処せられたイエスをメシアだとすることなど、とうてい受け入れることはできません。「十字架につけられたメシア・キリスト」ということは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの」以外の何でもありません(コリントT一・二三)。

唯一の《キュリオス》 

 先に見たように、ユダヤ人に対するパウロの宣教は、一部の例外はあっても全体としてはユダヤ人社会に受け入れられず、パウロは会堂と訣別して、異邦人ティティオ・ユストの家を拠点として、異邦人にキリストの福音を宣べ伝えます。異邦人は、ユダヤ人と違って、多くの神々を信じて、その偶像を拝んでいたのですから、キリストによる救いを説く前提として、キリストが万物の創造者である唯一の見えざる神から遣わされた方であることを説かなければなりません。テサロニケ書簡のところで見たように、パウロはコリントでも同じように、異邦人に向かって「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるように」(テサロニケT一・九)説いたことでしょう。 その唯一神の宣教は、書簡の中の次の言葉に痕跡を留めています。

「唯一の神、父である神がおられ、
万物はこの神から出、
わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、
万物はこの主によって存在し、
わたしたちもこの主によって存在しているのです」。(八・六)

 この一節はおそらく、コリントの集会で信徒たちが唱えた信仰告白の定型文か、集会で歌われた賛美歌をパウロが引用しているものと思われます。コリントの集会では、ユダヤ人信徒も異邦人信徒も一緒に、この信仰告白の文を唱えるか歌ったのでしょう。
 この文は、偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうかという問題に答える箇所(コリントT八・一〜一三)に出てきます。コリントはヘレニズム世界の繁栄した代表的な都市として、ヘレニズム宗教のあらゆる神々が集まり、拝まれていました。コリントの集会は多くの偶像の宮に取り囲まれていました。その状況を、パウロは「現に多くの神々、多くの主《キュリオス》たちがいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」(五節)と描き、それに続けて「しかしわたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、・・・・唯一の主、イエス・キリストがおられる」(六節)だけだと語るのです。それは、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めて、キリストにある者は、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(四節)と言えるからです。
 ここでヘレニズム世界の宗教について語るさい、「神々」と並んで「《キュリオス》たち」という称号が出てくることが、「唯一の《キュリオス》、イエス・キリスト」という信仰告白との関連で注目されます。ヘレニズム世界の人々は、人間が存在する場である宇宙を《コスモス》と呼び、その《コスモス》は支配する諸々の霊的な力で満ちていると考えていました。そのような支配力は、「支配」または「権力」《アルケー》、「権威」《エクスーシア》、「勢力」《デュナミス》などと呼ばれていました(コリントT二・六、一五・二四、ローマ一三・三、コロサイ二・一〇、エフェソ一・二一など参照)。これらの「支配力」は、人間の宗教的崇拝を要求するとき、オリエント宗教の影響もあって、「主」《キュリオス》と呼ばれたのです。後に帝政時代のローマ皇帝も、《コスモス》の支配力として、《キュリオス》と呼ばれることになります。ヘレニズム世界の人々は、このような《コスモス》の多くの支配霊を《キュリオス》として拝んでいたのです。
 このような多くの「神々」と多くの《キュリオス》たちを拝んでいるヘレニズム世界に向かって、キリストの福音は、天と地の創造者である唯一の神と、唯一の《キュリオス》であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。天と地の創造者である唯一の見えざる神を拝むことは、その神が死者の中から復活させたイエス・キリストを、万物の支配者《コスモクラトール》としてその御前に膝をかがめ、主《キュリオス》と言い表すことによってなされます。パウロはその手紙の中で、神がイエスを高く上げて万物の主《キュリオス》とされたことについて、当時のヘレニズム諸集会のキリスト賛歌を引用して、こう書いています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主《キュリオス》である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ二・六〜一一)

 そしてさらに、このイエスを主《キュリオス》と言い表すことが救いであることを、次のように言っています。

 口でイエスは主《キュリオス》であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ一〇・九)

 復活によって神の右に上げられ、万物の支配者とされたイエス・キリストを信じ、このイエスを唯一の主《キュリオス》と言い表すことによって、コスモスに満ちている諸々の《キュリオス》たちの支配から解放され、イエスを復活させた神の命、永遠の命にあずかることになるというのです。
 ここに引用したフィリピ書とローマ書は、パウロのコリントでの宣教活動から後数年の範囲内で書かれたものです。それで、パウロがコリントでもこのような言葉で福音を宣べ伝えたことは間違いないと見ることができます。この二つの言葉は、ヘレニズム世界での宣教活動において広く用いられていた定式を、パウロが引用しているものと見られています。この二つの引用からも、ヘレニズム世界での異邦人への福音宣教では、イエスを《キュリオス》として宣べ伝えていること、また、「イエスは《キュリオス》である」と言い表すことが信仰告白の中心的な位置を占めていたことが分かります(コリントT一二・三)。
 ユダヤ人に対しては、イエスが聖書に約束されていたメシア(そのギリシア語訳がキリスト)であることを示す「キリスト・イエス」とか「イエス・キリスト」という称号は十分意味を持っていましたが、聖書に馴染みのない異邦人にとっては、「キリスト」はイエスの身分を表す称号としては理解されず、「イエス・キリスト」が一つの人名のように受け取られていました(現代のわたしたちも事情は同じです)。それで、イエスの身分を表す称号として《キュリオス》が用いられるようになり、「主イエス・キリスト」《キュリオス・イエスース・クリストス》が信仰告白の最も凝縮された表現となりました(ローマ一・三〜四)。

しるしを求めるユダヤ人 

  このように、救い主としてのキリストを宣べ伝えるにあたって、ユダヤ人に対する場合と異邦人に対する場合とでは、宣べ伝え方に違いがありますが、どちらの場合もパウロが力をこめて語ったキリストは「十字架につけられたキリスト」です。パウロはこう言っています。

 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(一・二二〜二四)

 ここでは、異邦人、すなわちユダヤ人以外の人々を「ギリシア人」と呼んでいます。コリントには様々な民族の人々が集まっていましたが、どの民族の出身であろうが、ギリシア語を話し、ヘレニズム世界の宗教の中で、ギリシア風の生活をしている人たちは「ギリシア人」と呼ばれるのです。ユダヤ人もギリシア語を話しましたが、ユダヤ教という唯一神宗教をもち、その律法の定めを守って、周囲の「ギリシア人」とは違う生活習慣を貫くことで、「ユダヤ人」と呼ばれる独特の宗教共同体を形成していました。
 パウロは自分を異邦人に福音を伝えるために召された使徒であると強く自覚していましたが(ローマ一・五)、ユダヤ人に福音を宣べ伝える責任を放棄したわけではありません。むしろ、「ヘブライ人の中のヘブライ人」(フィリピ三・五)として、ユダヤ人が神に選ばれた神の民であり、福音はまずユダヤ人のところに来たことを疑わず、どの都市に入ってもまずユダヤ人の会堂に行ってキリストの福音を宣べ伝えたのでした。
 ユダヤ人がキリストの福音を受け入れることを、パウロは命がけで祈り(ローマ九・一〜五)、力を尽くして語りましたが、ユダヤ人は、少数の例外はあっても全体としては、イエスをキリストとして受け入れることを拒みました。パウロが宣べ伝える「十字架につけられたキリスト」は、「しるしを求める」ユダヤ人には「つまずき」以外の何ものでもなかったのです。
 一世紀のユダヤ人社会にはメシア待望の熱気が高揚していました。とくに「イスラエルの地」パレスチナでは、ローマの圧制から解放してくれる「神から油を注がれた者メシア」の到来が熱く待ち望まれていました。その待望に応えて、この時代には多くの自称「メシア」が現れました。それで、当時のユダヤ教の指導階級である律法学者たちは、真のメシアを判定する規準として、次の四項目を掲げるようになりました。
  (一)ダビデの家系の出身であること
  (二)メシアであることのしるしを公に現すこと
  (三)先だってエリヤが到来していること
  (四)生涯中にイスラエルの解放というメシアの使命が達成されていること
 この中で(二)の「しるし」は狭い意味の「しるし」であって、病気の癒やしなどのように普通の霊能者が行う奇跡以上の「天からのしるし」を指します。ファリサイ派の人々がイエスにこのようなしるしを見せるように求めたことが福音書に出ています(マルコ八・一一〜一二)。しかし、このような狭い意味のしるしだけでなく、広い意味ではここに上げられた四つの項目すべてがメシアであることの「しるし」だと言えます。ユダヤ人はメシアであるとされる人物には、このような「しるし」を求めたのです。
 ディアスポラのユダヤ人の間では、メシア待望がどのような形と程度で燃えていたのか、また、律法学者たちのメシアの規準がどの程度普及していたのか、不明な点もあります。しかし、パウロがディアスポラのユダヤ人会堂でイエスをメシアとして宣べ伝えるとき、いつもイエスがメシアである「しるし」を求めるユダヤ人の執拗な態度に直面して、福音に対するユダヤ人の態度を要約するさいに、「ユダヤ人はしるしを求める」と言わざるをえなかったのでしょう。
 メシアであることの四つの規準の中で、(一)については、教団はユダヤ人に福音を宣べ伝えるにさいして、イエスがダビデの家系であることを強調しました(マタイ一・一)。それが《ケリュグマ》の項目となり、異邦人への福音宣教においても用いられ、パウロもその伝統を受け入れて用いています(ローマ一・三)。(二)については、パウロはイエスの名によってなされる数々の奇跡を指し示すことができたでしょう(ローマ一五・一九)。(三)については、教団は洗礼者ヨハネをメシアに先立って現れたエリヤとして示してきました(マルコ九・一一〜一三)。このように、ある程度ユダヤ人を説得する議論もできました。しかし(四)については、どうしてもユダヤ人を納得させることができませんでした。メシアはその生涯中に使命を達成していなければならないのです。ところが、イエスはイスラエルの民をローマの支配から解放するどころか、逆にローマの権力によって十字架刑に処せられて死んだのです。「十字架につけられたメシア」というようなことは、ユダヤ人にとってはどうしても受け入れることのできない背理、「つまずき」そのものなのです。
 ユダヤ人が「十字架につけられたメシア」につまずいたという事実に、ユダヤ人が期待するメシアと福音が告知する救済者キリストとの間のギャップが見られます。ユダヤ人が期待するメシアは、神の民イスラエルを異教の支配者から解放して、地上に神の民イスラエルの支配を確立する政治的・民族主義的救済者でした。ですから、十字架の刑死は敗北であり挫折に他ならないのです。それに対して、パウロが宣べ伝える救済者キリストは、死者の中から復活することによって、死者の復活によって始まる新しいアイオーンを導入する終末的な救済者です。その復活者キリストが十字架上に死なれたのは、「わたしたちの罪のために死なれた」のであって、わたしたちを罪の支配から解放するためであったのです。十字架の死は敗北ではなく、まさに救済の業そのものであったのです。復活者キリストは十字架のゆえに人間の救済者であるのです。イエスの復活を信じることができないユダヤ人はつまずかざるをえないのです。

知恵を探求するギリシア人

 このように「しるしを求める」ユダヤ人に対して、ギリシア人は「知恵を探す」と言われています。ギリシア人にとって「知恵」《ソフィア》とは、それによって人間が苦悩や悪から解放されて本来の在り方を完成することができる、コスモスと人間の根元的・全体的理解のことです。それは、世界についての知識の集積とか、それによって生を豊かにする技術ではなく、むしろ宗教的な悟りに近いものです。そのような「知恵」《ソフィア》を愛し《フィレイン》、慕い求め探求する営みを、ギリシア人は《フィロソフィア》と呼びました。この語は、日本語ではふつう「哲学」と訳されますが、ギリシア人にとっては救済を求める宗教的求道を指すと見てよいでしょう。ギリシア人にとって「哲学」諸派の教師は、宗教的な導師であったのです。
 そのように「知恵を探求するギリシア人」に対しても、パウロは「十字架につけられたキリスト」による救済を語ります。ところが、このような救済の告知は、ギリシア人にとっては「知恵」の対極である「愚かさ」に他なりません。まず、パウロがいう救済者「キリスト」とは、復活によって神の子とされた救済者であり、信じる者をその復活に与らせるというが、ギリシア人にとって死者の復活による救済とはまことに馬鹿げた話なのです。ギリシア人は霊魂と身体はまったく別のものであり、救済とは霊魂がこの朽ちるべき卑しい身体の拘束から解放されて永遠性を獲得することだと考えていましたから、救済された霊魂が再び身体を持つというようなことは不条理なことであったのです。
 その上、世界の終末とか審判を前提にして、イエスの十字架の刑死を「わたしたちの罪のための死」であるとするなど、ギリシア人の循環的な自然観や個人的な宗教観・倫理観からすれば、理解しがたいことばかりです。「十字架につけられた救済者キリスト」の告知は、その全体がギリシア人にとっては「愚かさ」の極みなのです。パウロがギリシア人の態度を「知恵を探求する」と総括し、そのギリシア人にとってキリストの福音は「愚かなもの」であるというような言い方をしたのは、ギリシアの精神と文化を代表するアテネで、パウロが語る福音がギリシア人に嘲笑され、伝道が失敗した苦い経験が反映しているのかもしれません。