市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第6講

第三章 終わりの日に生きる

        ― コリントの信徒への手紙 T (3)―




第一節 聖霊の宮としての体

はじめに

 一章(一〇節)から三章までで、集会内の分派の問題を取り扱ったパウロは、さらに他の問題を次々に取り上げていきます。その間に、パウロは使徒としての自分に対する批判があることにも触れ、弁明しながら、使徒としての使命感やコリントの人々に対する熱い思いを吐露しています(四章と九章)。パウロとコリント集会との関係は、決して平坦で幸福なものではなく、パウロの使徒としての資格を問題にする批判者たちに弁明し、パウロの福音と異なる理解を主張する勢力と対決し、福音の真理を確立しエクレシアの一致を維持するために、論争と労苦と涙を強いるものでした。そのことはコリント書簡全体の重要な主題になっていますが、第一書簡でその主題に関連する四章と九章は、第二書簡を扱うさいにまとめて取り上げることにして、ここでは五章以下のコリント集会内部の問題に集中して進めていきます。

性的放縦の問題

みだらな者を除け

 1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。(五・一)

 まず、パウロはコリント集会の中に「みだらな行い」があることを取り上げます(五章)。これは「クロエの者たち」からや他の経路で「伝え聞いていた」ことでしょう(五・一)。「みだなら行い」と訳されている原語《ポルネイア》(「ポルノ」の語源)は、広く社会の規範に背く性行為一般を指す語です。コリントは新興の商業都市として繁栄し、「コリント風に暮らす」という表現は贅沢と性的放縦の中に暮らすことを指すようになっていたと伝えられています。そのような大都会の気風に慣れていたコリントの人たちは、家庭の外での性行為にもあまり罪悪感を持たず、信仰に入ってからも「みだらな行い」がきっぱりと断ち切られずに残っていたのでしょう。パウロは、コリント集会のこのような状況を心配して、「みだらな者たち」と交際しないように警告する手紙を、この手紙の前にも書いています(五・九)。
 「社会の規範に背く性行為」と言っても、その社会を形成する文化と時代によって規範も違ってきます。遊郭での遊びをそれほど罪悪視しなかった一時期の日本のように、コリントでも神殿所属の娼婦《ポルネー》たちと関係を持つこと(それが《ポルネイア》です。六・一六参照)は、市民として許されている行為でした。しかし、それはユダヤ人パウロにとってとうてい認めることができない罪悪であったのです。ユダヤ人から見た異邦人の根本的な罪は偶像礼拝と性的放縦でした(ローマ一・一八〜二七)。異教世界では性的放縦は偶像礼拝と結びつくのです。この二つは一体となって、甚だしい神への背きを現しています。パウロはコリントの人たちとは違った規範で《ポルネイア》を見ています。
 ところが今回、パウロをさらに驚かせる事実が耳に入ってきました。集会の中の「ある人が父の妻をわがものにしている」というのです。「父の妻」というのは、母親ではなく、父が再婚した女性または父の愛人とか妾である女性のことであり、その女性を「わがものにする」というのは、父が死亡した後、または父と離別した後、その女性と結婚または同棲することを指しています。このような結婚関係はユダヤ教でも厳禁されていましたし(レビ記一八・八、二〇・一一)、ローマ法でも禁じられていました。そのような関係はユダヤ人パウロにとって嫌悪すべき大罪であり、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」であったわけです。

 2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。(五・二〜五)

 「こんなことをする者」を自分たちの交わりに抱え込んだままで、自分たちは霊の知恵に豊かに満たされ、すべてを支配する王になっており(四・八)、「わたしにはすべてのことが許されている」(六・一二)と主張して高ぶっているのはどうしたことかと、パウロはコリント集会の思い違いを指摘します。自分たちの中に「こんなことをする者」がいることを恥じて、自分の身体の一部を切り捨てるような痛みと悲しみをもって、その人をエクレシアの交わりから除外するのが当然ではないか、とパウロは迫ります(二節)。その後に、現代の注釈者を困惑させる言葉が続きます(三〜五節)。それは、パウロが生きている霊の次元から遠いところにいることからくる困惑でしょう。
 パウロはエフェソでこの手紙を書いています。たしかに、身体はコリントの集会から遠く離れています。しかし、「このわたしは」(原文では強調)霊においてコリントの集会の中にいて、「こんなことをした者」をすでに裁いてしまっているというのです。そして、その意味を続く文で説明します。すなわち、「主イエス・キリストの名によって、あなたがたのとわたしの霊が共に集まり」、主イエス・キリストの臨在のもとで聖徒たちの会議(法廷)が形成され、パウロが議長として判決を下しているのです。その判決は、その者の霊が「主の日」に救われるために、その者の身体(パウロは《サルクス》という語を使っていますがここでは身体の意味)を「主イエスの力により」サタンに引き渡すというものです。「身体をサタンに引き渡す」というのは、エクレシアの交わりから除名して、その者を「主イエスの力による」保護の圏外に追放し、彼の身体をサタンの取り扱いに委ねるという意味であると考えられます。そうすることで、彼が悔い改め、魂が砕かれるならば、「主の日に彼の霊が救われる」可能性を残そうというのです。
 新共同訳は「主イエスの力をもって」を「共に集まる」という分詞にかけていますが、その位置から「引き渡す」を修飾する副詞と理解することも可能です。「主イエスの名により」と「主イエスの力により」の二つの句をどの動詞(裁いた、集まる、引き渡す)にかけるか、理解の仕方が分かれ、翻訳も様々です。
 なお、この一段が後に教会が異端者を処刑する根拠とされたのであれば、それはとんでもない間違いです。いかなる大罪に対しても、教会が取りうる処置は交わりから追放すること(破門)が限界です。教会が意見の異なる者や非行を犯した者を、彼の霊が救われるためと称して身体を滅ぼすことは、教会自身がサタンの役割を行うことになります。

古いパン種を除け

 6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(五・六〜八)

 異教時代の性的放縦を新しいエクレシアの交わりに持ち込まないで、それを厳しく取り除くべきことを、パウロはパン種のたとえを用いて勧告します。このパン種のたとえの背景には、イスラエルがエジプトから解放された出エジプトの出来事を記念する「過越の祭り」があります。昔イスラエルの民はエジプトから脱出するとき、種を入れないで焼いたパンを用意しました。それを記念して今もユダヤ人は過越祭の間は種を入れないパンを食べます。「わたしたち」キリストの民は、キリストによって「この世」の支配から解放され、約束の栄光の御国を目指す新しい旅に出発したのです。キリストが十字架につけられたのは、「わたしたちの過越の小羊として屠られた」ことを意味します。そのキリストに合わせられてこの世に対して死んだ(絶縁した)者は、イスラエルがエジプトのパン種を除いて旅に出たように、古い異教時代の悪い習慣を完全に取り除いて、キリストと共なる歩みを進めるべきです。少しでも残っていると、わずかのパン種が練り粉全体を膨らませるように、エクレシア全体を腐敗させる恐れがあると、パウロは警告します。
 ここでパウロは、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」という事実を根拠にして、「だから、パン種の入っていない純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と勧めていることが注目されます。わたしたちがパン種のない者であるという事実は、恩恵によって与えられた現実、恩恵の現実です。キリストに合わせられている者は、十字架の上でキリストと一緒に古い自分は死んでいるので、古い自分に属するパン種はみな取り除かれているのです。それは、わたしが取り除いたのではなく、神がキリストにおいて成し遂げてくださった恵みの出来事なのです。その恩恵の現実は、それを受けた者に、その現実に生きる責任を負わせます。その現実をわたしたちが生きることで、古いパン種がない歩みを地上の生活の中にどれだけ実現できるかが問題になってきます。恩恵の現実を生きることによって、神の恩恵は確かなものになり、霊なる神との交わりは深められ、栄光の希望が輝くようになります。もし、わたしたちが恩恵の現実を生きることに失敗するならば、せっかく受けた恩恵は無駄になり、キリストの出来事はわたしたちの現実の人生に何の効果もないものになります。パウロは恩恵を受けた者に、恩恵に留まり、恩恵に生きるように、せつに勧めるのです。そこに恩恵の場の倫理が成立します。

内部の者の裁き

 9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。13 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」。(五・九〜一三)

 ここでパウロは、今回と同じく「みだらな者」との交際について、以前に書き送った手紙が誤解されていることに対して、真意を説明します。ここの文意は明白ですから、テキストをあげておくにとどめます。「一緒に食事をするな」という表現は、この時期では主の名によって「一緒に食事をする」ことがエクレシアとしての交わりの中心でしたから、「エクレシアの交わりから除名せよ」という意味になります。最後の引用文は、申命記一七章二〜七節の最後の部分です。申命記のこの一段は、イスラエルにおいて偶像を拝むことで主との契約に背いた者を、証人と民の全員が手を下して処刑し、イスラエルの中から除くべきことを定めた規定です。パウロはこの規定を念頭に置いて、コリントの集会が「こんなことをした者」を除名することを求めているのです。
 「みだらな者」との交わりの問題で、集会は外部の人を裁く立場にはないが、内部の人を裁く責任があるという点に言及したことから、話題は自然に兄弟の間での訴訟の問題に移ります。

兄弟間の訴訟

世を裁く聖徒

 1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。(六・一〜六)

 集会がその交わりの中に抱え込んではならない「みだらな者」を除名しないでいること、すなわち内部の者を裁く能力がないことを非難したパウロは、続いて、兄弟の間の日常生活にかかわる紛争も自分たちの中で裁くことができないコリント集会の状況を批判します。先の《ポルネイア》の問題もこの訴訟の問題も、パウロが批判し非難するのは、このような行為をしないようにという勧告であるだけでなく、このような問題を自分たちの中で処理することができない集会を「恥じ入らせ」、自分たちは知恵に達しているという誇りを打ち砕くためです。この知恵の誇りが、分派の問題だけでなく、コリント集会のトラブルの源泉であるとパウロは見ているのです。その誇りを砕くために、「このようなことも知らないのですか」と畳みかけて問いかけるのです。
 コリント集会の一員が、集会に属する仲間の一人と日常生活にかかわる紛争(おそらく財産問題)を起こしたとき、その人が集会に紛争の仲裁とか調停を求めないで(または、求めたが解決しないので)、異教徒の裁判官が裁く法廷に訴訟を起こして権利を主張したことに対して、パウロは「そのようなことをなぜするのか」と、驚きと不審の思いを投げかけます。そのような訴訟は、訴訟を起こした本人も、それを見過ごしている集会も、自分たちが今どのような場にいるのかが分かっていないという基本的な無知をさらけ出しているのです。
 コリントの集会は「神のエクレシア」であり、「聖なる者たち」なのです。終わりの時に、この世から召し集められた神の民なのです。神に所属する「聖なる者たち」は、神が世界を裁かれるときに、神に直属する民として、神の裁きに参与して「世《コスモス》を裁く」のです。その時には、神に反逆して堕落した「天使たちさえ裁く」のです。

「聖なる者たちが世を裁く」という思想は、ユダヤ教黙示思想の思想です。預言者たちにも終末思想はあり、終わりの時に神が世界を裁かれることが語られています。しかし、神の民が終末審判に参加するという思想は見あたりません。時代が下って黙示思想の成立と共に、この《アイオーン》では世の支配者たちから迫害されてきた「義人」とか「聖徒」たちが、新しい《アイオーン》では世界を裁き支配する立場に立つという逆転が期待され、語られるようになります。黙示文書の終末観は一様ではなく、終わりの日の世界審判についても違った見方が並存しています。その中に、「聖なる者たちが世を裁く」という思想が見られるようになります。たとえば、「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」(ダニエル七・二二)とか、「見よ、彼(永遠の神)は一万人の聖者をひきつれて来られた。それは彼ら(すべての人)に審きを行うためである。彼は不敬虔な者たちを滅ぼし・・・・」(エチオピア語エノク書一・九)、「義人たちよ、罪人を恐れるな。主は、いつか彼らをきみたちの手に返されるから、そうしたら好きなようにやつらを裁いてやるがよい」(同九五・三、九六・一も)と語られるようになります。また、「そののち、・・・・大いなる、永遠の裁きが行われ、彼は天使たちに罰をくだされるであろう」(同九一・一五)という天使への裁きにも聖徒が参与すると理解されて、「天使たちさえ裁く」という思想が出てきたのでしょう。聖徒が裁きの座につくという思想は新約聖書のマタイ福音書一九章二八節に、終わりの日に主は裁くために聖なる者たちと共に来臨されるという思想はテサロニケT三章一三節に、その痕跡をとどめています。コリント書簡のこの箇所は、パウロが《エクレーシア》を黙示思想的な終末共同体と理解していたことを指し示すケースの一つです。

 この世を裁くはずの「聖なる者たち」が、自分たちの間の日常の生活に関する紛争一つ解決できず、この世の法廷に訴え出るのは、自分たちの知恵がこの世の知恵にも及ばないことを告白しているわけです。兄弟の間の争いを仲裁できる知恵のある者が一人もいないのに、自分たちは知恵に達していると誇るのはどうしたことか、とパウロは彼らの高ぶりを戒めるのです。
 パウロの時代の集会がどのような形で内部の紛争を裁いていたのかは分かりません。まだ集会の規模が大きくないので、それぞれの「家の集会」に集まるときに、集会の全員が問題を協議し、集会としての裁定をくだしていたと推察されます。そのさい、ステファナなど「家の集会」を世話している長老格の人物が、協議と裁定を主導したことでしょう。問題が集会全体の集まりで協議されたことは、パウロがアンティオキアでペトロと対立したとき、「皆(全員)の前で」(ガラテヤ二・一四)議論したことからもうかがえます。最初期の集会の指導体制については、正確なことは分かりませんが、エルサレム集会がエッセネ派の集会をモデルにした可能性があること、また、パウロもエルサレムでエッセネ派の影響を受けた可能性があることを考えますと、エッセネ派の文書と見られる「死海文書」の中の「宗規要覧」に、「多数者の集会に関する規律」という部分があり(日本聖書学研究所『死海文書』一〇三頁)、そこに描かれている協議の様子が参考になります。もちろん、キリストの民の集会においては、クムラン宗団のように祭司と長老というような厳格な位階秩序はなかったでしょうし、いろいろと違いもありますが、「多数者の集会」で決するという理念は共通していたのではないかと考えられます(死海文書では「多数者」は「会衆」と同じです。このことについては、ヴァンダーカム『死海文書のすべて』青土社・二九〇頁、チャールズワース編『イエスと死海文書』三交社・三七二頁を参照してください)。

聖徒と裁判

 7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。(六・七〜八)

 民事裁判というのは、市民の間の紛争を力(公権力)によって解決しようとするものです。この世は力が支配する社会です。そこでは力のある者が弱い者から奪うことがあるので、弱い立場の者は公の権力(裁判)に訴えて自己の正当な権利(人権や資産)を守らなければならないという場合があります。裁判は「正義」(弱い者の権利を守ること)の実現のために、この世では無くてはならない制度です。
 ところが、「神のエクレシア」は別の原理で構成される社会ですから、力による紛争の解決はなじみません。「神のエクレシア」は、神の絶対無条件の恩恵が支配し、構成員はお互いに無条件の愛によって受け入れ仕え合うという終末的な現実(愛の支配の現実)が聖霊によって先取りされている共同体です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」(イザヤ一一・六)という終末預言が聖霊によって成就している社会です。そこでは力ある者が弱い者に仕えるのです。
 このような共同体では、力のある者が弱い者から力ずくで奪うというようなことはあり得ないことです。もし、力をもって奪う者があれば、そのようなことをする者はこの共同体には属していないのです。そのような者は「神の国を受け継ぐことはない」のです(一〇節)。しかし、奪われた者が裁判に訴えて、すなわち公権力という力によって取り戻そうとするならば、それも恩恵の場に生きる者にはふさわしくない、とパウロは諫めます。むしろ奪われるままにし、甘んじて不義を受けるように勧めます。パウロのこの勧めの言葉は、「山上の説教」の中のイエスの言葉を思い起こさせます。イエスは言っておられます。

 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。(マタイ五・三九〜四二)

 パウロはイエスの語録を引用することはほとんどありません。しかし、同じことを言っていることが分かります。それは、イエスもパウロも同じ御霊によって同じ「恩恵の支配」の現実に生きているからです。甘んじて不義を受けるだけであれば、不義を野放しにすることになるではないか、という反問に、おそらくパウロはこう答えるでしょう。

 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる、と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。(ローマ一二・一九〜二一)

 ここで注目すべきことは、裁判ざたになったことをパウロが「あなたがたの負け」と言っていることです。訴訟を起こした個人の信仰上の欠点というだけでなく、集会がこの世の勢力に負けたことを意味すると言っているのです。集会は、「兄弟」の間の紛争を仲裁することができず、この世の力を借りなければならなくなったことで、自らの弱さを暴露したというのです。兄弟の間で争いが起こったとき、集会は両者に自分たちが今どのような場に生きているのかを教え諭して、両者を恩恵の場にふさわしい和解に導くべきであったのです。裁判は力ずくで解決しますが、和解は両者の納得と同意の中で解決します。和解に導く知恵もなく、この世の裁判になったこと自体、終末共同体としてのコリント集会の敗北だというのです。この発言は、わたしたちに「エクレシア」の場に生きることの真剣さを改めて感じさせます。
 ただ、世俗の裁判所に訴えるなとか、不義を甘んじて受けよという勧告は、あくまで「兄弟の間の争い」について、すなわち恩恵の場に生きる終末共同体の中での紛争について、まず集会が仲裁の責任を負っていることを主張しているだけで、キリスト者は裁判に訴えてはならないという規則を定めたものではありません。一般社会に生きるキリスト者は、その社会における正義の実現のために法廷に訴えることが必要な場合もあります。このように裁判に訴えた側を諭したパウロは、兄弟から力ずくで奪うようなことをする者を、「決して神の国を受け継ぐことはできません」と厳しく断罪します。

御霊による変革

 9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。(六・九〜一一)

 「むしろ不義を甘んじて受ける」ように勧めたパウロは、不義を働く者には「神の国を受け継ぐことはない」と厳しい判決を下します。これは、兄弟から力ずくで奪うようなことをする者について語っている文脈で出てくる言葉ですが、このようなことをする「正しくない者」に、パウロは先に触れた「みだらな者」も含ませます。ここに出てくる「正しくない者」のリストは、まず「みだらな者」の種類が具体的にあげられ、それからこの文脈での主題である「泥棒、強欲な者、人の物を奪う者」があげられます。その間に「酒におぼれる者」と「人を悪く言う者」が入ってきます。とくに「人を悪く言う者」があげられていることが注目されます。陰で「人を悪く言う」ことは軽く見られがちですが、重大な罪なのです。人と人との交わりを破壊する行為であって、神の愛の霊が支配する場には入れないのです。
 キリスト信仰に入る以前には、あなたがたの間にそのような者がいたが、今は「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされている」ので、そのような者はいないはずだと、パウロはコリントの人々にキリストにある者としての自覚を促します。この言葉は、「洗われ」という表現が示唆しているように、コリントの人々が受けたバプテスマ(洗礼)を思い起こさせていると言われています。そうだとしても、「神の霊によって」という句が明言しているように、水による洗礼という加入儀礼ではなく、聖霊による人間存在の変革が語られていることは明らかです。コリントにおいても、ガラテヤ(三・一〜五)の場合と同じく、パウロが聖霊の力によって語る福音を聴いて、「主イエス・キリストの名」を言い表し(イエスを主と告白し)、この御名に全存在を委ねた者は、約束の御霊を受けて、新しい次元の命に生きるようになったのです。その一つの出来事を、パウロは「洗われた」、「聖なる者とされた」、「義とされた」という三つの動詞で表現するのです。
 一一節を直訳すると、「そして、ある者たちはこのような者であった。しかしあなたがたは洗われた、しかしあなたがたは聖とされた、しかしあなたがたは義とされた、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊とによって」となります。この文章の勢いからしても、パウロは御名を信じる者に起こった御霊による変革という一つの現実を語るのに、多くの宗教的用語をもどかしげに重ねて駆使していることがうかがわれます。そこには、洗礼を受けて、義とされ、それから御霊によって清められていくというような段階的な神学はありません。ここでも「義とされる」ことは御霊によることが明言されています。

聖霊の住まいとしての体

体は主のため

 12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。13 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。(六・一二〜一四)

 パウロはもう一度「みだらな行い《ポルネイア》」の問題に帰ります。コリントの人たちの中に《ポルネイア》が行われたのは、霊の知識に到達した者は自由であり、身体の行為は霊の知識に影響することはないという考えが影響していたようです。彼らのスローガンが「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉でした。御霊によって生きる者は外からの律法の拘束からは解放されており自由であるという主張は、パウロの主張でもあり、パウロは頭から彼らの主張を否定することはしません。ただ、その福音的な主張が誤って用いられていることに抗議し、正しい方向に向けようとするのです。
 パウロは彼らの主張を引用し、「しかし」とその誤用を指摘します。「すべてのことが許されている」としても、すべてのことが主との交わりに、主の御名の栄光に、またエクレシアの形成に益となるわけではない。自由が与えられているのは、その自由を自分の欲望の充足のために用いるためではなく、このような意味での「益」のために用いるためであると諭します。たしかに「すべてのことが許されている」が、その自由を自分の欲望のために用いる者は、欲望という主人に支配される奴隷となるのであると警告します。主にある「わたしは」(原文では強調)何にも支配されてはならないのです。
 「食物は腹のため、腹は食物のため」という言葉も、霊の知識を誇る人たちの標語であったのでしょう。律法の食物規定はユダヤ人と異邦人の食卓の交わりにおいて大きな問題となっていましたが、彼らはこの標語によって一気に食物規定を無視する態度に出たのではないかと思われます。知識のある者は、食物は肉体に関わるだけで霊の次元には何の関わりもないことを知っているというわけです。パウロはこの主張そのものに対しては反対せず、その主張が身体の行為は霊に影響しないという彼らの考え方に結びつくことに反対するのです。
 「腹」は食物が養う肉体を代表しています。終末における栄光の完成の時には、たしかにこの肉体もそれを養う食物も無くなっているでしょう。しかし、「体《ソーマ》」は無くなりません。ここでパウロは、彼らが「腹」で代表している肉体と「体《ソーマ》」を微妙に区別して用いていることになります。「腹」は無くなりますが「体」は無くなりません。現在の「自然の命の体」そのままではありませんが、それが「霊の体」に変えられて、復活の栄光にあずかり、終末の完成に参与するのです(一五・四四)。ですから、「体は主のため、主は体のため」という標語が成り立ちます。主はわたしたちの体を救済の目標とされているのです。そのことは、ここに改めて死者の復活の信仰告白が引用されて確認されます(一四節)。そうであるならば、わたしたちは「体」を主のために用いなければなりません。決して《ポルネイア》のために用いてはならないのです。そこで、「体」を主のために用いることと、《ポルネイア》のために用いることは両立しないことが、続いて語られます。

キリストの体の肢体

 15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。(六・一五〜一七)

 新共同訳がここで「一部」と訳している語は、全体に対して一部というだけでなく、目や足や手のように同じ命で体につながった部分、すなわち「肢体」という意味の語です。キリストに属する信徒ひとりひとりが「キリストの体」の「肢体」として、違った役割を担って補完的に働き、《エクレーシア》という一つの体を構成するということが一二章で詳しく論じられますが、ここでは各人の体がそれぞれキリストの体の肢体であること、したがって体でする行為がキリストの体の出来事になるという、各人の行為が問題とされます。
 性の交わりは体を含む人間の全体が交わり合一する体験であり、「二人は一体となる」という世界です。《ポルネイア》、すなわち《ポルネー》(娼婦)と交わることは、その女と一つの体となるので、キリストの体の肢体を娼婦の体に結びつけてしまうことになるというのです。そんなことは決してあってはならない、とパウロは厳しく戒めます。おそらく、コリントの人々は《ポルネイア》がそのような意味をもつ行為だとは知らないで、体でする行為は霊の次元に影響しないと考え、以前の習慣から娼婦との交わりを軽く見ていたのでしょう。
 それに対して、パウロは「知らないのか」という問いを重ねて、体でする行為が霊の事態にとって決定的であるということを知らない彼らの霊的無知を突きます。パウロの知恵は、「二人は一体となる」という創世記(二・二四)の引用が示しているようにユダヤ教的背景からのものであり、同時に霊なるキリストと一体とされた深い霊的体験から出たものです。
 ここで、「娼婦と交わる者はその女と一つの体になる」と「主と交わる者は主と一つの霊となる」が対照され(両方に同じ動詞「交わる」が用いられています)、両者は両立できないことが強調されています。わたしたちの体は一つですから、どちらかと一体となるほかないのです。同時に両方と一つになることはできません。この対照から、パウロは「主と交わる」ことを性の交わりとの類比で考えていることがうかがわれます(旧約の伝統では、主とイスラエルの関係は結婚の類比で語られてきました)。性の交わりが体を含む人間存在全体の合一であるように、主と交わるということ(それが信仰です)は体を含む人間存在全体が主と一つになる体験であるというのです。ただ、娼婦は地上の体をもった人間ですので、その一体化は「一つの体となる」と表現されますが、主は霊であるので、主との一体化は「一つの霊となる」と表現されます。
 コリント集会でパウロに対立した人たちの信仰はどのようなタイプのものであったのかについては議論があります。グノーシス主義ないしはその萌芽形態のものであったという見方があり、それを否定する見方もあります。しかし、いずれにせよ、霊魂と肉体を峻別して、肉体を霊魂の牢獄として蔑視するギリシア思想の影響を受けていたことは十分うかがえます。その結果、体でする行為は霊の救いや知恵に関わりがないとして、《ポルネイア》を容認する姿勢になったと見られます。それに対して、パウロはあくまでユダヤ教の遺産を継承体現する者として、その信仰は「具体的」です。すなわち、救済の対象である人間はあくまで「体を具(そな)えた」全体です。ユダヤ教からの遺産とギリシア思想との遭遇は、初期のキリスト教形成期のもっとも根本的な問題ですが、コリント書簡はこの遭遇の発端を証言する貴重な文献となります。

聖霊が宿る神殿

 18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(六・一八〜二〇)

 このように、「みだらな行い」《ポルネイア》、すなわち《ポルネー》(娼婦)との交わりは、本来キリストの体の肢体である自分の体を、娼婦と一体となることで、背後にある偶像の支配に引き渡すという結果になり、「自分の体に対して罪を犯す」ことになります。それは自分の存在全体を主との交わりから引き離して罪(神の支配への反抗)に引き渡すことです。それに比べると、他の罪はすべて「体の外にあります」。すなわち、自分の存在全体を罪に引き渡すのではなく、キリストと一体となって生きている中で、主の御心に反する個々の失敗であることになります。このように、パウロは《ポルネイア》を他の罪とは性質の違う重大な罪であることを、コリントの人たちに明らかにして、「《ポルネイア》を避けよ」と強く迫ります。
 そもそもコリントの一部の人たちが体の行為とその結果を軽く見て《ポルネイア》を容認するのは、キリストに属する者の体は「聖霊が宿ってくださる神殿」であることを知らない(自覚しない)ことから来ています。パウロはこの事実を改めて自覚させることによって、彼らが《ポルネイア》を避けることができるようにしようとします。ここのパウロの言葉は、わたしたちキリストにある者に根本的な自覚を迫ります。
 神はわたしたちを御自身の霊を住まわせる神殿とするために、御子キリストの血という代価を払って買い取られたのです。わたしたちはもはやわたしたち自身のものではないのです。自分の願いや欲望を満たすために生きるのではなく、内に住みたもう聖霊によって、わたしたちの主であり所有者である神のために生きるように定められているのです。この体によってする行為と生き様によって、神の栄光を現すように求められているのです。
 この体が内に住みたもう聖霊と一つになって「わたし」の全体をなすという見方が、キリストにある者の自己理解であり、人間理解の基本です。「わたし」とは体なしの霊でもなく、また、神の霊なしの体でもありません。「わたし」は内なる神の霊によって生きている体をもった存在です。その「わたし」が救われて完成するのは、終末における神の霊の働きによって、現在の朽ちるべき卑しい体が、朽ちることのない栄光の体に変えられて復活するときです(一五章)。ここにキリスト信仰の「具体性」があります。
 三章では、コリントの集会全体が神の霊の住む一つの神殿であることが語られましたが、ここではキリストにある者ひとりひとりの体が神の霊の宿る神殿であることが語られています。パウロの福音においては、集会の本来の在り方も、個々のキリスト者の倫理も、すべて内なる聖霊の働きが源泉であり根拠になっていることが、ここでも改めて明らかに示されています。