市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第13講

第二節 パウロ書簡集とオネシモ

後日物語

エフェソの監督オネシモ

 ところで、パウロのこの手紙に対してフィレモンはどう対応したことでしょうか。パウロの頼みを聞いたのでしょうか、それとも断ったのでしょうか。確証はありませんが、この手紙が保存され、公開されて新約聖書正典に入れられた事実そのものが、フィレモンがパウロの頼みを受け入れたことを物語っています。もしフィレモンが断ったのであれば、この手紙がそのような取り扱いを受けることはなかったでしょう。本文の講解でも見ましたように、キリストにある者であれば、誰が牢獄にある老使徒のこのような切なる頼みを断ることができましょうか。
 オネシモのその後のことは詳しくは分かりませんが、パウロがコロサイの集会にあてた手紙に、それを届けたティキコと一緒にオネシモがコロサイに派遣されたという記事があります(コロサイ四・九)。この記事が事実を反映しているとすれば(それを疑う根拠はありません)、コロサイ書が書かれたときには、オネシモはパウロの「忠実な愛する兄弟」としてパウロと共に働いていたことになります。すなわち、オネシモは解放されて自由の身となり、パウロと行動を共にしていたことになります。
 フィレモン書以外に、新約聖書にオネシモの名が出てくるのはここだけですが、二世紀初頭のイグナティオスの手紙の中にオネシモの名が出てきます。アンティオキアの監督イグナティオスは、トラヤヌス帝の迫害の時、アンティオキア教会の責任者として逮捕され、ローマに護送されます。その途中スミルナで、小アジアの各地の教会の人々と会い、エフェソを始め小アジアの諸教会とローマの教会に手紙を書いています。そして、ローマで野獣と闘う刑に処せられて殉教します。イグナティオスの殉教は一一〇年と見られています。従って、イグナティオスの手紙はその直前ということになります。
 その時のイグナティオスの手紙の中で、エフェソの教会にあてた手紙にオネシモの名が出てくるのです。この手紙の挨拶に続く書き出しの部分を引用しておきます。

 1 あなたの名(エフェソ教会の名声)を神によって知りましたが、それはあなたがたがわたしたちの救い主キリスト・イエスにある信仰と愛により、正当な本性によって獲得されたものです。あなたがたは神に倣う者であり、神の血によって生かされ、それにふさわしい業を全うしたのです。 2 あなたがたは、わたしが共通の名と希望のゆえに囚人としてシリアから送り出されることになったと聞いて、わたしに会うことを熱望してくださっています。わたしとしては、あなたがたの祈りによってローマで獣と闘うことができ、弟子となれるように望んでいるのですが。 3 さて、わたしは神の御名のゆえに、数多いあなたがたの全集会を、言い尽くせぬ愛の人、あなたがたの監督であるオネシモにおいてお迎えしたことになります。わたしは、あなたがたが彼を愛し、あなたがたすべてが彼のようになることを祈っています。あなたがたをこのような監督を持つにふさわしい者としてくださった方を賛美します。
(イグナティオス「エフェソの人たちへの手紙」第一章―ロエブ叢書「使徒教父」Tよりの私訳)。

 エフェソの監督が数名の同行者と共にスミルナにイグナティオスを訪ねて会っているのです。ここでエフェソの監督として名をあげられている「オネシモ」は、フィレモン書のオネシモと同一人物と見られます。別人と見て同名は偶然の一致であるとするには、イグナティオスの手紙はあまりにも多くの反証を含んでいるように見られます。イグナティオスはこの手紙の中でパウロの「フィレモンへの手紙」を熟知していることを示しており、明らかにフィレモン書のオネシモを念頭においてオネシモとその同伴者のことを書いていることがうかがえます。
 全部で二一章あるこの手紙の中で、比較的短い初めの六章にオネシモが、名をあげるか「監督」という職名で14回言及されています。そして、この部分でフィレモン書の影響が色濃く見られます。念のために実例を数カ所挙げておきます。同行のブーロスに傍に留まってほしいという願いの文(二・一)とフィレモン書一三節の並行、同行のクロコスが「わたしを安心させてくれた」(二・一)という文で、パウロが七節と二〇節で用いてるのと同じ動詞を使っていること、二・二で「益を得たい」とフィレモン二〇節と同じ動詞を使っていること、三章で「偉い者のように命令するのではなく、愛によって願う」と言っていることとフィレモン書八〜九節のパウロの言葉の類似などがあります。このような並行や類似は全体としてイグナティオスがフィレモン書をよく読んでいたことを印象づけます。
 オネシモがパウロと出会った五四年に二十歳前後としますと、イグナティオスがこの手紙を書いた一一〇年には七五歳前後ということになり、同一人物である可能性は十分あります。パウロが見込んだとおり、オネシモは信仰の深さ、生まれつきの聡明さ、若さの情熱、パウロへの尊敬と傾倒から、パウロの福音を短時日で吸収して身につけ、パウロが去ってからもエフェソを中心とする福音活動に積極的に参加し、多くの人々から敬愛されるようになり、ついにエフェソ教会の監督に推されるまでになったと想像されます。

パウロ書簡収集活動におけるオネシモ

パウロ書簡とエフェソ

 ところで、エフェソはパウロの伝道活動の拠点としてもっとも重要な都市です。パウロはアンティオキア教会から離れて独立の伝道活動を開始してから、五〇年代の前半、マケドニア、アカイア、アジアの諸州に伝道活動を展開します。そのさい、それぞれの州都を拠点として周辺の地域に、弟子たちの協力を得て活動を広げるという方法を採ったようです。マケドニア州ではテサロニケ、アカイア州ではコリントに比較的長期に滞在して活動します。そして、最後のアジア州のエフェソにはもっとも長く二年以上滞在して、周辺地域へ伝道します。その中にエフェソから東へ内陸部に入ったリュコス渓谷にあるコロサイ、ラオディキア、ヒエラポリスも含まれることになります。周辺地域だけでなく、これまでの伝道で形成した諸集会のいろいろな問題に、テモテなどの協力者を派遣したり、手紙を送ったりして対応します。ときには自分で出かけて行ったりしています(コリントの場合)。先に見ましたように、エフェソはこれらの諸集会を結ぶ円周の中心の位置にあり、とくにマケドニアとアカイアの諸集会とはエーゲ海の船便で結ばれており、このような活動には至便の位置にありました。
 パウロ書簡の大部分はこのエフェソで書かれました。「テサロニケの信徒への第一の手紙」は先のコリント滞在中に書かれましたが、ガラテヤ書簡、コリント書簡、フィリピ書簡、そしてこのフィレモン書簡などはみなエフェソで書かれたものです(もっともコリント第二書簡の一部はエフェソから出てマケドニアに向かった時に書かれた可能性が高いものですが、エフェソでの活動に含まれると見てよいでしょう)。書かれた手紙は、信頼できる同労者によって宛先の集会に届けられました。当時手紙を書き、遠くの宛先に届けることは、手間のかかる仕事でしたし、不測の事態に備える必要もあったことでしょうから、写しが手元に残されたと考えられます。すなわち、パウロ書簡の大部分は書かれたときに、写しがエフェソの集会に残され、保存されたと見られます。
 ローマ書簡は、先に見たように、エルサレムの聖徒たちへの援助の募金を届けるために、パウロがエフェソを出てマケドニア州を通りコリントまで来て冬を過ごした時に書かれました。しかし、この重要な書簡は、宛先のローマに送られただけでなく、パウロが実質的な活動拠点としていたエフェソにも写しが送られたと見るのが自然です。ローマ書の一六章は、写しを送るさいにエフェソの兄弟たちにあてた挨拶であるとする見方も有力です。

ローマ書一六章が、ローマの兄弟たちにあてられた挨拶であるのか、写しを送るさいにエフェソの兄弟たちにあてられた挨拶であるのかは現在も争われています。エフェソ説が有力でしたが、最近はローマ説も強くなってきています。一六章に出てくる人名一人ひとりについて詳しく検討しなければなりません。詳細については、本書に続いて刊行予定の拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解』で取り上げる予定です。

 いずれにせよ、パウロの書簡をこれほど多くまとまって手元に所有している集会は、エフェソの他にはありません。従って、パウロが召されてから、パウロ系の諸集会が重要な信仰の拠り所として、また主にある歩みの指針としてパウロの手紙を収集しようとしたとき、エフェソがその活動の中心地となったことは、十分推察することができます。パウロ書簡の収集は、おそらく一世紀後半から二世紀初頭にかけて、熱心に進められたと考えられますが、この時期はちょうどオネシモがエフェソを中心とする地域で活躍していた時期であり、とくに二世紀初頭にはオネシモがエフェソの監督として指導的な地位にいたのですから、パウロ書簡集が二世紀初頭にまとまった形をとっていたとするならば、オネシモが収集活動の責任者の立場にあったことは、十分に推察できます。

新約正典におけるフィレモン書の意義

 この推察は、フィレモン書が新約正典の中に入れられているという事実によって確かな根拠を得ます。一人の奴隷の処遇を扱っているこのような個人的書簡がなぜ新約聖書正典に入れられているのか、という問いがフィレモン書の中心問題であることは最初に述べました。答えは、これまで見てきたパウロ書簡の収集活動におけるオネシモの立場から出てきます。収集活動の責任者であったオネシモが、パウロ書簡集の最後に自分に関わるこの書簡を置いて、パウロへの感謝を表し、かつ責任編集者としての自己紹介と署名としていると見ることができます。
 パウロはその生涯において数多くの個人書簡も書いているはずです。それらの書簡はパウロを尊敬する受取人によって保存されていたはずです。その中でフィレモン書だけが新約聖書正典に入れられた理由は、以上のような説明以外には考えられません。もちろんオネシモには自分に関わる個人的書簡を正典の中に入れようというような意図はなかったでしょう。他の同労者と一緒にでしょうが、責任者として敬愛してやまないパウロの言葉を残すために、懸命に師の書簡を収集し、編集し、「パウロ書簡集」を形成したオネシモは、その書簡集の最後に今日の自分をあらしめたあの書簡を置かないではおれなかったのだと思います。そのようにしてフィレモン書を最後に含む「パウロ書簡集」が一世紀末から二世紀初頭にかけて形成され、それが各地の集会でも使徒の勧めとして用いられるようになり、後に新約聖書正典が形成される過程でまとめて正典の中に入れられたものと見られます。
 今まで講解してきたパウロ書簡の中には、コリント第二書簡やフィリピ書簡のように、編集された形跡をとどめるものがあります。数編の手紙を一つの書簡にまとめる編集作業は、その書簡の受け取り人である集会がしたのかもしれませんし、集められた後エフェソでなされたのかもしれません。後者であれば、オネシモが重要な役割を果たしたはずです。

エフェソ書の著者 ?

マルキオン聖書とパウロ書簡集

 二世紀初頭には形成されていたと見られる「パウロ書簡集」は、どのような形をしていたのでしょうか。それを知る有力な手がかりが「マルキオン聖書」にあります。マルキオンはポントス州のシノペの生まれですが、二世紀初頭にエフェソに来て「パウロ書簡集」に接し、熱烈なパウロ主義者になります。彼はパウロが主張した信仰による義とユダヤ教およびユダヤ主義者が主張した律法の行いによる義とを峻別し、パウロだけを真正な使徒と認め、旧約聖書を拒否して、自分流に改訂したルカ福音書と「パウロ書簡集」だけを自分たちの信仰の基準としての「聖書」とします。このマルキオンの聖書を構成する「パウロ書簡」は、ローマ書、コリント書IとU、ガラテヤ書、エフェソ書、フィリピ書、コロサイ書、テサロニケ書TとU、フィレモン書の十書簡です。この事実は、二世紀初頭にマルキオンが接した「パウロ書簡集」にはこの十書簡が含まれていたことを意味します。テモテ書TとU、およびテトス書の牧会三書簡は含まれていません(牧会書簡はマルキオンに対抗するために書かれたとする説が有力です)。
 この十書簡の中で、今までにこの講解で扱った六書簡(ガラテヤ書、テサロニケ書T、コリント書IとU、フィリピ書、フィレモン書)とローマ書はパウロの真筆であることが現在ほとんど争われていませんが、テサロニケ書Uとコロサイ書、エフェソ書はその真正性が問題にされています。テサロニケ書Uとコロサイ書については、真正性について擁護派と批判派の論争がなお続いてますが、エフェソ書についてはパウロ以後にパウロ思想の継承者によって書かれたことが一般に認められています。しかし、著者が誰であるかは特定することはできません。

エフェソ書の性格と著者

 他の書簡が特定の集会の具体的な問題に対処するために書かれたものであるのに対して、エフェソ書には特定の宛先はなく(一・一の「エフェソにいる」という句は有力な写本にはありません)、また対処すべき具体的な問題もなく、もっぱら神学的・思想的な論述になっています。それまでのパウロ書簡からの影響が著しく見られ、とくにコロサイ書には強く依存していることがうかがわれます。エフェソ書はパウロ思想の要約であるという印象を受けます。このような著作を書くのは、よほど深くパウロに傾倒していた人物であることは確かです。しかし、状況の違いから、真正のパウロ書簡と違った面が出てきているのも事実です。
 エフェソ書のこのような性格から、エフェソ書を「パウロ書簡集」をまとめた人物が、その書簡集を出すにあたって、パウロ思想への案内として、いわばパウロ書簡集の「カバー・レター」として、自分でパウロ思想を要約したのではないかという推察がなされます。そうすると、第一候補としてオネシモの名が浮かびあがります。事実、E・J・グッドスピードという学者は、このような観点からオネシモを著者であると強く主張しています。しかし、彼の説は様々な批判を受けて、一般に認められてはいません。たしかに、オネシモを著者とするには根拠は十分ではありません。
 現在では著者として特定の人物の名をあげることは不可能です。どの人物をあげても推察の域を出ません。そうであれば、オネシモを著者と「想像する」ことも許されると思われます。ここで見ましたように、イグナティオスの手紙と正典中のフィレモン書の存在から、オネシモが「パウロ書簡集」の責任編集者であることはかなり確かと考えられますので、この想像は他の人物を想像するより可能性があります。
 もしオネシモがエフェソ書の著者であるならば、オネシモの物語は一段と光彩を放ちます。一人の奴隷であった青年が、エフェソ書のような深遠な神学的・思想的著作を書くに至り、それが新約聖書正典の中にあって、後世に巨大な影響を与えたことになります。著者でなくても、エフェソの監督として「パウロ書簡集」をまとめただけでもそうですが、著者であればさらに、一人の奴隷にこのような偉大な生涯を与えた神の恩恵と力の偉大さに圧倒されます。そして、過ちを起こした一人の奴隷をキリストにあって信じ抜いて「わたしの心である」とまで言い、青年の生涯を決定的に変えたパウロのキリストにある人格の偉大さを改めて実感します。

タイセン『新約聖書』(大貫訳201頁)は、エフェソ書が「初めからパウロの手紙の結集を意図して、そのために構想されたことがありうる」として、興味深い観察をしています。パウロ書簡集は分量の長いものから順に並べることを原則としていますが、最初にローマ書、コリント書T、コリント書U、ガラテヤ書の四書簡が長さの順に集められており、その元来の蒐集の第二版が作られたとき、それへの付録としてエフェソ書、フィリピ書、コロサイ書、テサロニケ書T、テサロニケ書U、フィレモン書が、やはり長さの順に並べて付け加えられたとしています。そして、エフェソ書はその付録部分への導入として起草されたと見ています。ガラテヤ書より長いエフェソ書がガラテヤ書の後に置かれている事実は、エフェソ書で始まるグループが元来の四書のグループとは別であることを示しています。その後、さらに牧会三書簡が加えられたとき、一番短いフィレモン書が最後に回されたことになります。