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第二節 エルサレムへの最後の旅

パウロに対するユダヤ人の陰謀

 コリントでローマ書を執筆したとき、その時の状況と心境を語ったのを最後に、それ以後はパウロ自身から直接状況の進展を聞くことはできません。ローマ書がパウロの最後の書簡になるからです。コリントを出てから以後のことは、すべてルカの使徒言行録の報告に頼らざるをえません。ルカの使徒言行録は、彼の執筆意図を考慮に入れて批判的に読まなければなりませんが、歴史的な出来事の報告は基本的には信頼できると考えられます。以下、ルカの報告によって、使徒パウロの最後の日々を追ってゆきましょう。
 コリントで冬の三か月を過ごしたパウロは、航路が再開する春を待って、コリントから海路でエルサレムに直行しようとします。ところが「彼に対するユダヤ人の陰謀があったので」、コリントからの乗船を断念せざるをえなくなります(使徒二〇・三)。
 パウロに対するユダヤ人の陰謀は、すでに回心直後にダマスコで活動したときに始まっていました。

 サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、篭に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。(使徒九・二二〜二五)

 その後ユダヤ人の「陰謀」について聞くことはありませんが、律法を汚す者としてのパウロに対する敵意とか殺意は何らかの形で続いていたはずです。パウロはそれを「同胞からの難」と呼んでいます(コリントU一一・二五〜二六)。これまでに見てきたように、パウロはヘレニズム世界の大都市で福音を宣べ伝えるとき、その地のユダヤ人会堂に入って、「まずユダヤ人に」イエスをメシア・キリストであると宣べ伝えましたが、彼が義とされるのはキリスト信仰によるのであって、律法の行為ではないと主張し、割礼のない異邦人もそのままで信仰によって義とされる(神の民となる)とするのを知るにおよんで、パウロを聖なる律法(ユダヤ教)を汚す者として、ユダヤ人は激しく反対し、パウロの活動を潰そうとして騒乱を引き起こします。コリントのユダヤ人は、以前裁判によるパウロの逮捕投獄に失敗したので(使徒一八・一二〜一七)、今回過激な者たちは密かにパウロを殺すことを計画します。

ダマスコの場合は、パウロ書簡(コリントU一一・三二)によって、パウロを迫害したのはナバテアのアレタ王の代官であることが分かっています。したがって、それをユダヤ人の陰謀としたのはルカの筆であることが明らかです。しかし、数年のユダヤ人会堂との紛争を経たこの時期では、実際にユダヤ人の陰謀があったことは十分可能です。なお、「律法への熱心」を標榜する原理主義的なユダヤ人にとって、律法を汚す者を殺すことが神に仕えることだとされていたことについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』55頁「熱心党の時代」の項を参照してください。

 パウロが異邦人集会の代表者たちを引き連れて海路で聖都エルサレムに上ろうとしているのを知った過激なユダヤ人たちは、船中でパウロを殺すことを計画します。ここでもその陰謀を察知したパウロは、間一髪で危機を逃れます。乗船するのを止めて、陸路マケドニア州に行き、そこから別の便を利用することにします。

ルカは「マケドニア州を通って帰ることにした」(使徒二〇・三)と、「帰る」という動詞を使っていますが、これは「エフェソに帰る」ことを指しているのかどうか確定困難です。しかし、その後のパウロの行程は、まずエフェソを目指していることをうかがわせます。ルカは、今回のマケドニア州とアカイア州への旅を、エフェソを拠点とする旅としているようです。

 「パウロに対するユダヤ人の陰謀」は、その後もますます強くなり、「陰謀団」が組織されるほどになります(使徒二三・一二)。このように、ユダヤ人のパウロに対する殺意と陰謀を詳しく語るルカの語り方は、イエスに対する「祭司長たちや律法学者たち」の殺意と謀議(ルカ二二・二)からイエスの受難物語を始める語り方と並行しているように見えます。

コリントからトロアスへ

 コリントから陸路でマケドニア州に戻ったパウロは、フィリピにしばらく滞在し、そこから(ネアポリス経由で)海路トロアスに渡ったと考えられます。使徒言行録(二〇・四)は、この時パウロに同行した七名の名前をあげていますが、彼らは献金を渡すためにエルサレムに向かうパウロに同行し、エルサレムまで行った人たちです。コリントでパウロに同行していたテモテ、ルキオ、ヤソン、ソシパトロ(ローマ一六・二一)の他に、テサロニケの二名、アジア州(おそらくエフェソ)の二名の名が加えられています(ルカは「わたしたち」の中に含まれるのか、名が出てきません。またヤソンがエルサレムまで行ったかどうかは不明です)。「この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていた」(使徒二〇・五)とあるように、彼らはコリントから直接船便でトロアスに行って、トロアスでパウロと落ち合うことにします。

銀行による送金という制度のない当時では、多額の金額を遠い土地に送ることは危険な仕事でした。ディアスポラのユダヤ人会堂が年ごとにエルサレム神殿に税を送る制度はありましたが、この公認の送金とは違い、この場合の送金はユダヤ人の敵意と盗賊の難を心配しなければならない危険な事業でした。マーフィー=オコゥナーは、献金を金貨にして同行者数名の衣服に縫い込んで、一番安全な船便を用いたと見ています。ワンゲリンの「小説聖書」も、エルサレムに着いたパウロ一行がヤコブの前で衣服を脱ぎ、布を裂いて金貨を取り出す情景を劇的に描いています。

 パウロは、陰謀をたくらむユダヤ人の目を避けておそらく単身で陸路マケドニア州に戻り、しばらくフィリピに滞在し、「除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼ら(七名の同行者)と落ち合い」ます(使徒二〇・六)。ここで注目されるのは、この文の主語が「わたしたち」となっていることです。この書き方は、この文を書いた人物がパウロと一緒に行動していることを示しています。
 パウロ一行の行程を「わたしたちは」と語り、著者がパウロ一行に含まれることを示す文章は、使徒言行録一六章九〜一〇節に突然現れます。すなわち著者は、第二次伝道旅行でトロアスからマケドニアに向けて出発したパウロ一行に自分を含めているのです。この「わたしたち」を用いた部分(いわゆる「われら章句」)は、フィリピでの活動を伝える一六章一七節まで続くだけで、それ以後は途絶え、ここで再開することになります。このことから、ルカはフィリピの人ではないかという推察がなされることになります。
 「われら章句」は、これ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(使徒二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(使徒二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、著者のルカはトロアスで第二次伝道旅行で西に向かうパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後もフィリピに残り、パウロが第三次伝道旅行でコリントから帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます。この時以後のパウロの身に起こる出来事を伝える著者の記事は、たいへん詳しく、精彩豊かなものになります。

先にも述べたように、この「われら章句」については、著者が他人の旅行記を資料として用いた可能性や、著者の文学的虚構であるとする説もありますが、著者自身がこれらの旅行の同行者であるとする古代教会以来の見解を決定的に否定する根拠は乏しいようです。ルカが五〇年代後半にパウロに同行して旅行したのが二〇歳前後とか三〇歳前後とすると、九〇年代後半(一世紀末)には六〇歳前後か七〇歳前後となり、ルカ自身がこの頃に使徒言行録を書いたことは年齢的に十分可能性があります。仮にルカが誰か同行者の旅行記を資料として用いたとしても、その同行者を著者の一部と見て、ここでは「著者」と記述していきます。

 パウロ一行はトロアスに七日間滞在します(使徒二〇・七〜一二)。その「七日間」は月曜日から日曜日までです。それは「週の初めの日」に集会をして、その翌日出発していることから分かります。信徒が「週の初めの日」(日曜日)に集会をしたことを証言するのは、新約聖書ではここだけです。その集まりは「パンを裂くために」と説明されています。イエスの死を記念する「主の食卓」が集会の中心的な行事であり、それを巡ってイエス・キリストにおける神の救済の出来事が詳しく説かれたことでしょう。著者はこの夜の集会の模様を、階上の部屋であるとか、多くの灯火がついていたと具体的に描写しています。
 出発を翌日に控え、パウロはキリストにおける神の救済史のすべてを話しておこうとしたのでしょう、その話は長々と続きます。三階の窓際に腰をかけて聴いていた若者が眠りこけて下に落ちて死亡するという事故が起こります。パウロは降りて行き、若者を抱きかかえて、「騒ぐな。まだ生きている」と言い、若者を生き返らせます。この出来事は、会堂司ヤイロの娘が死んだとき「なぜ叫んだり泣いたりするのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」(マルコ五・三九)と言って、その娘を生き返らせたイエスの出来事を思い起こさせます。ルカはパウロがエフェソで「目覚ましい奇跡」を行ったことを報告していますが(使徒一九・一一以下)、トロアスでのこの出来事は、タビタを生き返らせたペトロの働き(使徒九・三六以下)と対応させるために、エウティコというその若者の名前まで記録してとくに具体的に伝えたのでしょう。
 このような出来事に驚いて神の言葉を伝える営みは中断されてはなりません。パウロの「説教」は夜明けまで続き、パウロは翌日トロアスを発ちます。

一一節に用いられている動詞《ホミレオー》(新約聖書ではルカだけが使っています)は、後におもに聖書解説を指す「説教」(homilies)という語のもとになる動詞です。

トロアスからミレトスへ

 「わたしたち」、すなわち「著者」を含む同行者一行は「先に船に乗り込み、アソスに向けて船出」します。アソスは、エーゲ海に突き出した小さい岬(レクトン岬)の南の付け根にある港町です。その岬の北側の付け根にあるトロアスからは陸路で30キロほどの道のりです。パウロは陸路(おそらく単身で)アソスまで歩き、アソスで同行者たちが乗った船に乗り込みます(使徒二〇・一三〜一四)。これはパウロの指示によるのですが、パウロはなお「ユダヤ人の陰謀」を警戒しなければならなかったのか、それとも、トロアスに一日でも長く滞在してキリストのことを語るために、同行者を先に船で行かせ、自分は陸路でアソスで追いつこうとしたからでしょう。
 アソスからレスボス島のミティレネに寄港し、キオス島沖を経て、サモス島に立ち寄り、ミレトスに到着します。著者はその航海を体験している「わたしたち」の一員として、航路を詳しく伝えています(使徒二〇・一四〜一五)。ミレトスはエフェソから南へ40キロほどの古くから栄えた港湾都市であり、長らくギリシア文明の担い手でした。パウロがエフェソではなくミレトスに寄港したのは、船便の都合によるものか、ユダヤ人の陰謀を警戒してか、またはエフェソから追放処分を受けていたからか分かりませんが、ルカは旅を急いでいたからだとしています(使徒二〇・一六)。
 「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せ」、エフェソの集会に別れを告げます(使徒二〇・一七以下)。ルカが詳しく伝えるパウロの訣別訓話(使徒二〇・一八〜三五)は、ヨハネ福音書(一三〜一七章)のイエスの訣別遺訓ほど長くはありませんが、その内容と意義はそれに相当します。ルカはここでパウロの宣教活動を要約し、これから起こることをパウロの口を通して示唆しています。
 このパウロの訣別訓話は感動的であり、またその内容は重要ですが、その詳しい講解は使徒言行録の講解に譲り、ここでは先を急ぐために簡単に要約するに止めます。
 パウロは、まず自分がアジア州でいかに苦難の中で神の言葉である福音を残すところなく伝えたかを語ります(一八〜二一節)。そこでパウロの宣教が「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」と要約されていることが注意を引きます。続いてパウロは、これから自分の身に起こることが投獄と苦難であり、再びエフェソの兄弟たちに会うことはないであろうと告げます(二二〜二五節)。この書き方は、ルカがこの度のエルサレム行きがパウロの死という結果に至ったことを知っていることをうかがわせます。
 その上でパウロは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神のエクレシア」に、「邪説を唱えて弟子たちを(自分に)従わせようとする者」が入り込んでくる危険を警告し、「聖霊によって群れの監督者として立てられた」長老たちに、目を覚ましているように勧告します(二六〜三二節)。このような危険な状況が自分の時代に起こっていることをルカは知っていて、そのようなエクレシアの分裂の危険をすでにパウロが警告していたとします。これは、ヨハネ福音書の著者が自分の時代の共同体の状況について、イエスが「訣別遺訓」で警告されたとしているのと同じです。なお、ここの「監督者」は複数形で、「長老たち」が果たすべき役割を指しています。まだ、単独の「監督」(後に「司教」と呼ばれる)という職制上の地位を示してはいません。
 そして、最後にパウロは、自分の生活のためには自分の手で働いたことを模範として、「働いて弱い者を助けるように」勧告します(三三〜三五節)。その時に、「受けるよりは与える方が幸いである」というイエスの語録を引用しています。この語録は福音書には出てこないので、福音書に現れる以外のイエスの語録が伝承されていたことを示す興味深い実例です。
 この訓話の後、パウロが再び会うことはないであろうと語ったので、人々が皆激しく泣いて別れを惜しんだという情景が描かれます(三六〜三八節)。このような情景は、立ち寄ったマケドニア州の諸集会(テサロニケやフィリピ)やトロアスでも同じであったと考えられます。ルカは、コリントからマケドニア州を経てミレトスへ至る今回の旅を、パウロが自分が建てた諸集会に訣別を告げるための旅とし、その最後に代表的事例として、このミレトスでの訣別の訓話と情景を置いたと見られます。パウロが、コリントから陸路マケドニア州を通る行程を選んだのは、(安全のため同行者は先に船で行かせますが)自分はどうしてももう一度諸集会を堅くし、最後の勧告をする必要を感じたからではないかという可能性も考えられます。もしそうであれば、「ユダヤ人の陰謀があったので」は、ダマスコの場合のようにルカのフィクションになりますが、両方があったと見てもよいでしょう。

ミレトスからエルサレムへ

 ミレトスを船出したパウロ一行は、コス島とロドス島に寄港し、小アジア南岸の港町パタラに到着します(使徒二一・一)。ここまでは沿岸の島々を結ぶ小型船による航海ですが、ここで地中海を横断して直接フェニキアに向かう大型船(おそらく貨物船)に乗り換え、キプロス島を左に見て(すなわちキプロス島の南側を)航海し、シリア州フェニキア地方の中心都市ティルスに到着します(使徒二一・二〜三)。

使徒言行録の別のテキストによると、一行はパラタからさらに東のミラまで航海し、そこでフェニキアに直行する船に乗り換えたとされています(ミラについては使徒二七・五〜六参照)。おそらく、この方が事実でしょう。

 ティルスで貨物の陸揚げのために船が停泊している七日の間、パウロ一行は捜し出した「弟子」の家に滞在します。ティルスにも最初のヘレニストたちによるフェニキア伝道で信徒の群れが形成されていたと見られます(使徒一一・一九、一五・三参照)。集会の者たちは御霊に感じた預言によって、パウロにエルサレムでの危険を預言し、エルサレムには行かないように説得しようとします。パウロはその説得を振り切って乗船します。ここでも浜辺で、ミレトスの時のように別れを惜しむ光景が描かれます(使徒二一・三〜六)。
 ティルスを出た船は、少し南のプトレマイス(現在のハイファの北)に着きます。パウロはその地の「兄弟たち」との交わりに一日を過ごし、翌日カイサリアに向かいます。船で向かったのか、陸路をとったのかは分かりませんが、原文は陸路をとったような印象を与えます。さらに、貨物船の停泊が一日だけの可能性は少ないと考えられますので、陸路をとった可能性の方が大きいと見られます。カイサリアは南へ約50キロになります。カイサリアでは「例の七人」の一人であるフィリポの家に泊まります(使徒二一・七〜八)。
 「例の七人」とは、ルカが使徒言行録六章(一〜六節)で語っているヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を話すユダヤ人)の中から選ばれた代表者七名のことで、ステファノの次にフィリポの名があげられています。ステファノの石打事件から始まった信徒への迫害は、ヘレニスト・ユダヤ人の信徒に対するもので、アラム語を話すグループ(その代表がペトロら「十二人」です)はエルサレムに残ります。ヘレニスト信徒たちは迫害でエルサレムから散らされますが、フィリポは福音を宣べ伝えてサマリアから地中海沿岸地方に行き、カイサリアに至ります(使徒言行録八章)。その後、フィリポはカイサリアに住み、そこを拠点として伝道活動をしたようです。
 フィリポは結婚しており、四人の娘がありました。この娘たちは未婚で、預言の賜物を与えられていたと伝えられています(使徒二一・九)。フィリポ本人を含めカリスマ豊かな一家を中心に、カイサリアには霊的に活発な集会が活動していたことがうかがえます。パウロがフィリポの家に滞在しているときに、やはり預言のカリスマで著名なアガポという者がユダヤから下ってきて、パウロがエルサレムで逮捕されることを預言します。そこで、同行者たちはカイサリアの集会の人たちと一緒に、パウロにエルサレムには行かないように懇願しますが、「主イエスの名のためならば、わたしは死ぬことも覚悟しているのだ」と言って、パウロはエルサレムに向かいます。エルサレムに着いた一行は、ムナソンという人の家に泊まります(使徒二一・一〇〜一六)。パウロのエルサレム到着は、五六年の五旬節前(初夏の頃)になります。
 今回のコリントからエルサレムへの旅は、パウロにとって最後のエルサレムへの旅となります。この最後の旅では、エルサレムでのパウロの受難が繰り返し預言され、パウロも受難を覚悟して、立ち寄る先々の集会で再び会うことはないと訣別の挨拶をしています。このようなルカの書き方は、ルカがこの旅の最後にはパウロの死があることを知っていることを示唆しています。
 ルカはすでにその著作の第一部(ルカ福音書)で、三回の受難予告を含むきわめて長い形で、イエスのエルサレムに向かう受難の旅を詳しく書いています。いま第二部(使徒言行録)で、ルカは最大の使徒パウロの受難の旅を、主イエスの受難の旅と並行した形で、繰り返される受難予告を含めて詳しく物語っていくことになります。