市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第22講

終章 諸国民への使徒パウロ

はじめに ―― 「コンテキスト」について

 この「パウロによるキリストの福音」シリーズも、第3巻の本書で使徒パウロの生涯の最後、ローマでの殉教というところまで来ました。ここで、このシリーズの主題である「パウロによるキリストの福音」の内容をまとめなければなりませんが、幸いなことにその内容はパウロ自身がまとめています。すなわちローマ書です。ローマ書は、結果としてパウロの最後の著作となり、パウロの「遺言」となりました。ローマ書は、「パウロによるキリストの福音」を世界に提示する「福音書」となっています。それで、「パウロによるキリストの福音」の内容をまとめるという課題は、続いて刊行する予定の「ローマ書講解」という形で果たすことになります。
 ここでは、パウロの生涯を振り返って、その生涯と働きの全体がどのような意味内容をもっているのかをまとめて、このシリーズを締め括る「終章」とします。それをするためには、パウロの生涯とその働きを、このシリーズでしたよりももっと大きなコンテキストに置いて観察しなければなりません。そこで、この「もっと大きなコンテキストに置く」とはどういうことかを、始めに手短かに解説しておきます。

コンテキスト

 「キリストの福音」は神と人間との関わりという永遠の次元、霊的次元の現実です。しかし、それが「パウロによる」福音となるとき、その福音の担い手であるパウロによって歴史的コンテキストに置かれることになります。パウロは歴史的な存在、すなわち、ある特定の歴史的状況の中に生きた人間だからです。パウロの生涯とその働き、またパウロの手紙による発言は、それが置かれている歴史的コンテキストによって、その意味内容が決まります。
 「コンテキスト」とは、出来事や発言の起こった状況とか他の出来事との関連を指しています。「コンテキスト」という語は、文章を扱う場面では「文脈」と言われます。ある発言や文章が、どのような関連の中で言われているのか、どのような前後関係の中で言われているのかが「文脈」です。歴史的な出来事を扱う場合は適当な訳語が見当たりませんので、さしあたり「コンテキスト」という英語をそのまま用いることにします。「関連」とか「状況」が近いように思われますが、意味が限られる面もあります。
 「コンテキスト」とは、もともとラテン語の「一緒に織り込む」、「共に編み込む」または「編んで(織って)一つにする」というような意味の語から来た語で、言葉や出来事がその中に編み込まれている(織り込まれている)前後関係とか状況を指します(ラテン語でコンは一緒にという意味で、テキストとはもともと織物(テキスチュア)のことです)。ある出来事や発言の意義と内容はコンテキストによって決まるので、その出来事や発言を理解するためには、そのコンテキストを確認することが決定的に重要な作業になります。
 たとえば、「彼は眠っている」という発言を取り上げてみましょう。この発言が日常生活の場でなされたものであれば、「彼は眠っている」のだから、周囲の者に静かにするようにという命令の意味を持っていることでしょう。教室とか講演会での発言であれば、真面目に聞いていないという非難の意味を持つ言葉となります。肉親が死んだことを嘆いている場所でイエスが「彼は眠っているのだ」と言われるとき、それは「彼は死んだのではない。やがて目覚めるのだ」という復活の約束の言葉になります。このように、同じ発言でも、それが置かれたコンテキストによって意味が大きく違ってきます。
 今回、この「パウロによるキリストの福音」シリーズでは、パウロ書簡の内容を理解するために、その書簡やその中の特定の言葉が置かれているコンテキストを明らかにする努力をしてきました。まず書簡そのものが置かれているコンテキストを明らかにするために、パウロの生涯と働きをたどりながら、各書簡をそれが書かれた場所に置いて講解しました。もともと複数であった書簡が編集されて一つの書簡にまとめられている場合(コリント第二書簡やフィリピ書簡)には、それぞれの元の書簡に分けて講解したのも、それぞれの部分をより適切なコンテキストに置くためでした。ある方から「君の講解は伝記的講解だね」と評されましたが、それは各書簡のコンテキストを明らかにするための方法が「伝記的講解」の様相を取るようにさせたのです。
 また、各段落と個々との文章を理解するために、その段落なり文章が書かれた状況を明らかにするように努めました。その状況は、書き手と読み手の両方の状況、及び両者の関わり方の性質などを含み、そのコンテキストは複雑な様相をもつ場合が多いようです。したがって、そのコンテキストをいつも正確に知ることは困難です。時には、テキストからコンテキストを推察しなければならない場合もあります。
 今回の「パウロによるキリストの福音」シリーズでは、各書簡と個々の文章のコンテキストを明らかにすることによって、パウロ書簡のテキストをできるだけ正確に理解し、その作業を通してパウロが宣べ伝えた「キリストの福音」とはどういう内容であるのか、どういう事態であるのかを追求してきました。それがどれほど成功しているかは、読者諸氏の判断に委ねなければなりませんが、そのように努力はしてきたつもりです。
 このシリーズの各巻では、各書簡や個々のテキストを理解するために、その書簡や個々の文が書かれた状況を明らかにする努力をしましたが、それは「直接のコンテキスト」を確認する作業でした。最後にこのシリーズ全体をしめくくる「終章」では、パウロの生涯とその働きの全体を「もっと大きなコンテキスト」に置いて、その意義を見たいと思います。
 歴史的出来事のコンテキストは重層的です。一つの出来事の意味を決めるコンテキストは、その出来事が起こる直接の状況を示すごく狭い範囲のコンテキストもあれば、もっと大きな範囲で見なければならないコンテキストもあります。たとえば、日米開戦という出来事は、外交交渉の失敗という直接のコンテキスト、経済的利害の衝突という次元の(中間的な規模の)コンテキスト、欧米列強の植民地支配に対するアジアの解放運動の流れという大きな規模のコンテキストに置いて観察することができます。歴史的出来事には、規模(視野)の大小とか次元の浅深が異なる様々なコンテキストが層をなして重なっています。
 さらに、歴史的出来事のコンテキストは動的です。静止し固定したコンテキストではなく、時と共に変化する流動的な様相をもっています。たとえば、ある経済問題を日米関係というコンテキストで見る場合でも、日米関係は年々変わっていきますから、その変化の中で日米関係というコンテキストを問題にしなければなりません。今年の日米関係は去年とは違います。その変化がどの方向を向いているかも重要なコンテキストです。
 パウロの場合、「もっと大きなコンテキスト」とは何でしょうか。まず、パウロは初めから終わりまでユダヤ教徒として行動し、その生涯を終えています。ユダヤ教というコンテキストでパウロの生涯と働き全体を見る必要があります。まず第一節「ユダヤ教徒パウロ」でこれを見ます。
 そして、パウロは「異邦人への使徒」として働き、その生涯を燃焼したのですから、広くユダヤ人以外の諸民族との関連で見なければなりません。世界の諸民族の歴史との関連で見るとき、パウロがどのような意義をもつのかを見ることになります。大げさに言えば、世界史という大きなコンテキストに置いてパウロを見るということです。これを第二節「諸民族の中のパウロ」で見ます。



第一節 ユダヤ教徒パウロ

パウロとユダヤ教

死ぬまでユダヤ教徒

 パウロはユダヤ人の両親から生まれ、八日目に割礼を受けた「生まれながらのユダヤ人」です。成人してからユダヤ教に改宗してユダヤ人になったのではありません。彼の家族が属していたベニヤミン族から出た初代の王サウルにちなんで、サウロと名付けられていました。彼はタルソに住むディアスポラのユダヤ人家族の一員でしたが、若い時からエルサレムで高度な律法教育を受け、ファリサイ派に属する律法学者であり、ユダヤ教への熱心さでは他の同輩のユダヤ教徒よりも抜きん出ていました。パウロは晩年にも、このようなユダヤ教徒であることを誇りをもって自覚しています(フィリピ三・五〜六)。
 ダマスコ体験以前のユダヤ教徒パウロの姿は、このシリーズ第一巻『パウロによるキリストの福音T』の第一章「ユダヤ教徒パウロ」で見ました。しかし、ダマスコ途上で復活者イエスに遭遇するという体験をした後も、ユダヤ教から離れ、ユダヤ教徒であることを止めたわけではありません。あくまでユダヤ教徒として生き、最後までユダヤ教徒であり続けました。その死もユダヤ教徒であるがゆえの死です。パウロのユダヤ教の在り方が、生かしておくわけにはいかないユダヤ教徒として、周囲のユダヤ教徒から憎まれたからです。
 このように死に至るまでパウロはユダヤ教徒であったのですから、パウロの生涯とその働き、そしてパウロの信仰とか思想も、ユダヤ教というコンテキストで見なければなりません。すでにこのシリーズの各巻で、書簡を資料にして、パウロの福音がいかに深くユダヤ教の土壌に根ざしているか、また同時にパウロのユダヤ教がいかに当時のユダヤ教と激しく対立するものになっていたかを見てきましたが、ここでそれをパウロの生涯の全体についてまとめておきましょう。その前に、パウロの生涯のコンテキストを形成するユダヤ教がどのようなユダヤ教であったのか、その特質を一瞥しておきます。

ヘレニズム・ユダヤ教

 当時のユダヤ人(ユダヤ教徒)は、「イスラエルの地」と呼ばれるパレスチナに住むユダヤ人と、異邦諸国の大都市にユダヤ教共同体を作って住むディアスポラ(離散)のユダヤ人との二種類がありました。パレスチナに住むユダヤ人はアラム語を用いるユダヤ人ですが、ディアスポラのユダヤ人はヘレニズム世界の共通語であるギリシア語を用いていました。しかし、パレスチナか離散の地かという居住地の区別は必ずしも使用言語の区別と重なっていません。パレスチナに住むユダヤ人も、上層階級にはギリシア語を用いるユダヤ人が多かったからです。庶民はほとんどシリア地域の共通語であるアラム語を用いていました。
 パウロはディアスポラのユダヤ人家庭に生まれ育った者として、ギリシア語を母語として育ち、ギリシア語で初等教育を受けていました。当時のユダヤ人の通例として、サウロというヘブライ名だけでなく、パウロというギリシア名も持っていました。しかし、若い時からエルサレムで律法を学び、その言語であるヘブライ語と日常語であるアラム語にも十分通じていたはずです。このバイリンガル(二国語)の状況が、パウロの働きと思想の両面で重要なコンテキストになります。
 パウロの時代のユダヤ教は、ギリシア思想の影響を深く受けたユダヤ教、ヘレニズム・ユダヤ教になっていました。前四世紀のアレクサンドロスの東征と彼の融合政策によって、オリエント諸国にギリシア文化が浸透し、オリエントの宗教と文明がギリシア語とギリシア思想とによって深く影響され変容しつつありました。いわゆる「ヘレニズム時代」の到来です。ユダヤ人も例外ではなく、パレスチナにギリシア風の都市が建設され、ギリシア語による教育も行われるようになり、その生活にギリシア的な面が強くなります(たとえば、この時代のユダヤ人にはギリシア風の名前をもつ者が多くなります)。しかし、前二世紀中頃にパレスチナを支配していたヘレニズム王朝セレウコス家が、そのヘレニズム化政策をユダヤ人の宗教にまで及ぼし、神殿に異教の偶像を置いたり割礼を禁止するなど、ユダヤ教そのものを禁圧しようとしたとき、ユダヤ人は猛烈に反発して武力闘争に立ち上がり、ついに神殿を回復し、ユダヤ教の伝統を守ります。このマカベア戦争以後は、ユダヤ教の大祭司が同時に国を支配する王を兼ねる体制を形成し(ハスモン王朝)、ユダヤ教の伝統は護持されることになります。
 しかし、このヘレニズム化に反対するユダヤ教徒の抵抗も、ヘレニズムという時代の共通の場で行われたことから、ユダヤ教は戦う相手から深刻な影響を受け、以後のユダヤ教はギリシア思想の刻印をきわめて強く受けることになります。たとえば、このヘレニズム化に反対したユダヤ教伝統主義者たちは「ハシディーム」(敬虔な者たち)と呼ばれていましたが、この「ハシディーム」からエッセネ派とファリサイ派が起こります。ファリサイ派はユダヤ教の伝統を現実の生活の中で実行しようとする運動ですから、古来の律法規定(モーセ律法)を時代の状況で解釈します。その解釈が蓄積されて口伝伝承となり、成文律法と同じ権威をもつユダヤ教の内容となります。したがって、ファリサイ派のユダヤ教は時代の影響が強く見られ、ギリシア思想の諸原理が暗黙の前提となっている場合が多くなります。たとえば、律法を守るのも、イスラエルの救いと栄光のためだけでなく、個人が永遠の命を受けるためのものとなるのは、ギリシアの人間観とか死後観の原理に立っていると言えます。本来のヘブライの宗教は、イスラエルの民が地上で栄光を受けることを主題とするものです。
 パウロは、ディアスポラのユダヤ人としてユダヤ教とギリシア文化の両方を身につけていただけではなく、パウロが熱烈に追求したユダヤ教そのものが、ファリサイ派ユダヤ教としてきわめて強くヘレニズム化したユダヤ教であることを見落としてはなりません(このことの意義は後で触れることになります)。

ユダヤ教とヘレニズムの関係は巨大な問題で、簡単に要約することはできません。この問題については、ヘンゲルの大著『ユダヤ教とヘレニズム』(長窪訳、日本基督教団出版局)、同じくヘンゲルの『ユダヤ人・ギリシア人・バルバロイ―聖書中間時代のユダヤ人』(大島訳、ヨルダン社)を参照してください。さらにディアスポラのユダヤ教だけでなく一世紀のパレスチナのユダヤ教もヘレニズム化していたことは、M.Hengel, The 'Helenization' of Judaism in the First Century after Christ を参照してください。ファリサイ派については、拙著『パウロによるキリストの福音T』46頁「先祖からの伝承」の項を参照してください。なお ファリサイ派が強くギリシア思想の影響を 受けていることについては、 Interpreter's Dictionary of the Bible, supplementary volume にある E. Rivkin, PHARISEES の項目、および J・ニューズナー『イエス時代のユダヤ教』(教文館)89頁の「ヘレニストとしてのパリサイ派」の項がよく要約しています。パウロがエッセネ派からも影響を受けていたと見られることについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』53頁の「エッセネ派の影響」を参照してください。

回心後のパウロとユダヤ教

 このようなファリサイ派ユダヤ教の熱烈な信奉者であり、その派の律法学者として指導的な立場にあったパウロが、ダマスコ途上で復活者イエスに遭遇して、イエスの敵対者から仕える者にひっくり返ります。この体験はパウロの「回心」と呼ばれますが、それは決してユダヤ教を捨てて他の宗教に改宗したのではありません。パウロは死ぬまでユダヤ教徒のままです。ユダヤ教の中にあって、イエスに対する関係が正反対になったのです。この体験の後では、パウロにおいてユダヤ教はどのようなものになったのでしょうか。この体験はパウロのユダヤ教との関係をどのように変えたのでしょうか。
 回心後もパウロはユダヤ教徒です。パウロはユダヤ教の基本信条である「神は唯一である」ことを、一瞬も疑ったことはなかったでしょう。その神が天地を創造し、アブラハムを選んでその子孫を自分の民とし、その民イスラエルに律法(モーセ律法)を与え、最終的にイスラエルを救うだけでなく、そのことによって世界をも救済完成してくださることを疑ったことはなかったでしょう。パウロはユダヤ教の基本的な信仰内容である唯一神信仰とイスラエルを中心とする救済史信仰をしっかりと継承しています。
 では、なぜパウロは彼の時代のユダヤ教徒から殺されるほど憎まれたのでしょうか。その理由を理解するために、まず当時のユダヤ教社会においてイエスをメシア・キリストと宣べ伝える運動がどのように扱われたかを見てみましょう。
 イエスの弟子であったペトロたち数人のガリラヤ人がエルサレムで、神は十字架につけられたイエスを復活させてメシア・キリストとしてお立てになったと宣べ伝えたとき、自分たちが有罪を宣告してローマ人に引き渡したイエスをメシアと公言する者たちを、ユダヤ教指導層が圧迫したのは当然です。しかし、彼らがユダヤ教徒として律法を守って生活している限り、逮捕して裁判にかけるというような弾圧はしませんでした。当時のユダヤ教社会では、誰か一人の人間をメシアとすることは死にあたる罪ではありませんでした。事実、そのような事例はしばしばあったようです。最高法院は彼らを放置する方針をとります。このような事情は、使徒言行録の最初の五章(とくに五・三三〜四〇)の記述から十分うかがえます。
 ところが、イエスをメシアと告白するエルサレムのユダヤ教徒の一部の者たちが、「聖なる場所」(神殿)と「律法」(モーセが伝えた慣習、モーセ律法)を批判している(汚している)とされて、周囲のユダヤ教徒から激しく非難されるにようになるに至って、状況が変わります。神殿やモーセ律法を汚すことは神を汚すこととして死罪に相当します。このグループの一人であるステファノが逮捕されて殺されます。裁判の判決があったのかどうかは確かではありませんが、激昂したユダヤ教徒たちによって石打にされて殺されたと伝えられています。そして、このグループのユダヤ教徒は激しく追及されてエルサレムから追い散らされます。このような新しい状況は使徒言行録の六〜七章に見られます。
 このように迫害されてエルサレムから追われたのはヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を用いるユダヤ人)のキリスト教徒でした。使用言語の違いから、エルサレムのユダヤ人会堂はヘブライ語を用いるユダヤ人の会堂とギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の会堂に別れていましたが、論争と迫害が起こったのはヘレニスト・ユダヤ人の会堂であって、ヘブライ語会堂では問題は起こっていません。ペトロたちアラム語を用いる者たちはヘブライ語会堂に属していて、迫害の圏外でした。パウロはこのヘレニスト・ユダヤ人の会堂で指導的な立場にあり、律法に熱心な律法学者として、ステファノらのグループを容赦することはできず、先頭に立って彼らを探索し逮捕するなど迫害します。
 このグループを探索するためにダマスコへ向かう途上で、パウロは復活者イエスの顕現に遭遇して回心するのです。したがって、パウロの回心には律法をめぐるユダヤ教徒の間での激しい対立が背景にあり、パウロの新しい信仰は初めから律法問題に直面せざるをえないのです。パウロは回心によってユダヤ教から他の宗教に改宗したのではなく、復活者イエスを主キリストとして体験することによって、律法順守を原理とするユダヤ教から「律法を超えたユダヤ教」(これがどういう意味かは後で詳しく扱うことになります)に回心したのです。パウロにとって「キリストは律法の終わりとなった」のです。
 パウロも自分が体験した復活者イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるさい、このイエス・キリストの出来事においてイスラエルに与えられていた約束は成就したのだという確信を、ペトロや他の弟子たちと共有しています。このように十字架につけられたイエスをメシア・キリストとすることは、イエスを信じない周囲のユダヤ教徒からは、馬鹿げたこと、愚かなこと、気違い沙汰として、冷笑され、軽蔑されたかもしれませんが、死罪の判決を受けたり、殺されたりする事柄ではありません。パウロが周囲のユダヤ教徒から「生かしておけないユダヤ人」とされたのは、パウロの律法に関する言動が神を汚すものとされたからです。パウロは、まさに自分が迫害したのと同じ理由で迫害される側になるのです。それで、律法をめぐるパウロの言動を少し詳しく見ることにします。

「律法」という用語

 律法をめぐるパウロの言動を見る前に、「律法」という用語の意味内容を明らかにしておく必要があります。パウロは「律法」という用語を一義的には使っていません。この用語を様々な意味合いで使っていますが、ここでの議論のために必要なかぎりの最小限の区別として、次の二種類の用例を区別しておきます。
 日本語聖書で「律法」と訳されているパウロの用語(ギリシア語)は《ノモス》(法、法律、習慣、規範)です。そして、《ノモス》はヘブライ語《トーラー》のギリシア語訳です。ユダヤ教徒は、モーセによって与えられたとされる神の啓示と戒めを《トーラー》と呼んで、自分たちの信仰の最も基本的で重要な拠り所としていました。ユダヤ教徒が《トーラー》というときは、まず「モーセ五書」を指し、またその中に記されている「十戒」を中心とする神の戒めの体系、すなわちモーセ律法を指しています。それは、シナイで神との間に結ばれた契約の条項でした。それを守ることによって契約が有効とされる諸規定の体系です。その中には、生活上の行為だけでなく、祭儀の仕方についての規定も含まれ、それらの規定の根拠となるイスラエルの民の歴史物語も含まれていました。したがって、ユダヤ教徒が《トーラー》というときは、生活と祭儀を律する規定(個々の規定とその全体)だけでなく、神の民イスラエルとしての存在を基礎づける根拠の総体、「ユダヤ教」という宗教そのものを指すことになります。パウロが「ユダヤ教」という用語を用いるのは二箇所(ガラテヤ一・一三と一四)だけですが、そこで言っていることと同じことを「律法(ノモス)」という用語を用いて表現している(フィリピ三・五〜六)ことからも、「律法(ノモス)」がユダヤ教全体を指すことがあることは理解できます。
 このように《トーラー》が神の戒めという限定された意味と、ユダヤ教全体という広い意味で用いられていることに対応して、パウロが《ノモス》というときにもこの二面があります。日本語で「律法」というと、戒めという狭い意味に限定されがちですが、パウロが《ノモス》というときはユダヤ教という宗教全体を指している場合も多く、「律法」という訳語を「ユダヤ教」と読みかえると文意が分かりやすくなる場合があります。さしあたりここでの議論には、この二つの意味の違いに留意して、パウロのテキストを読まなければなりません。
 一例をあげると、パウロはローマ書三章の「信仰による義」を論じる重要な箇所でこう言っています。「では、誇りはどこにあるのですか。誇りは排除されてしまっています。どのような律法(ノモス)によるのですか。行いの律法(ノモス)によるのですか。そうではありません。信仰の律法(ノモス)によるのです」(ローマ三・二七私訳)。《ノモス》を律法と訳すと、「信仰の律法」という句が理解できなくなるとして、この節の《ノモス》を「法則」と訳す場合が多いようです。たしかに、《ノモス》というギリシア語には「法則」という意味もありますから、こう訳すのは誤りではありません。しかし、ユダヤ教の律法と信仰の関係を議論している流れの中で、急にギリシア的な思想を援用して、ここだけを「法則」と訳すことには慎重でなければなりません。ここの「律法(ノモス)」をユダヤ教全体を指すと理解して読めば、「律法」という統一した訳語を用いても十分理解できます。「行いの律法(ノモス)」とは、すべての規定の実行を要求し、その実行に対して義を約束すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)を指しています。ファリサイ派だけでなく、当時のユダヤ人はすべて自分たちの宗教《トーラー》をこのように理解していました。このように理解された《トーラー》は明確に否定され、代わって「信仰の《トーラー》」が登場するのです。「信仰の律法(トーラー)」とは、信仰を要求し、信仰によってはじめて真意が開示され、信仰によって義が実現すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)です。パウロは《トーラー》(ユダヤ教)をこのように理解したのです。彼はキリストに出会うまでは「行いの《トーラー》」のチャンピオンでした。ところが、キリストに出会うことによって、このような《トーラー》の本質、すなわち「信仰の《トーラー》」を見出したのです。

律法をめぐるユダヤ教徒パウロの言動

パウロの異邦人伝道と割礼

 律法をめぐるパウロの言動がユダヤ教徒の間だけでなく、イエスを信じるユダヤ教徒の間でも問題になったのは、パウロが異邦人にキリストの福音を宣べ伝えるさいに、信仰に入った異邦人に割礼を受けてモーセ律法を守ることを求めなかったことが原因です。初めに、パウロが異邦人信徒に割礼を受けることを求めなかった事情を見ておきましょう。
 パウロは復活者イエスの顕現に遭遇して、キリストであるイエスに仕える僕になった時から、ユダヤ教徒以外の民、すなわち異邦人にこの復活者イエス・キリストを伝えることを自分の使命と自覚したようです。それは、パウロがこの回心体験の直後からアラビアに出て行ってキリストを伝える活動を始めている事実からもうかがえます。この自覚は当然のことではありません。ユダヤ教徒は、異邦人(すなわち異教徒)は汚れているからとして、できるだけ接触を避けるのが普通でした。イエスをキリストと信じるようになっても、ユダヤ教徒であるかぎりユダヤ教徒の中で伝道するのが当然です。ところが、パウロは初めから異教徒に自分が体験したキリスト・イエスを告げ知らせようと決意しているのです。
 これはなぜでしょうか。パウロがそのような決意をした背景としては、次のような事情が考えられます。まず第一は、パウロがディアスポラのユダヤ人であって、ずっと異邦人に囲まれて生きてきたので、異邦人の間で活動することが当然と感じられていたという事情があります。
 第二は、回心前も異邦人をユダヤ教に導くための教師としての活動をしていたという経験も背景にあると考えられます。パウロは回心前エルサレムのヘレニストの会堂で教師として働いていました。それは、エルサレムに来るディアスポラ・ユダヤ人に聖書を解き明かして律法を教えると同時に、ユダヤ教に惹かれる異邦人をユダヤ教の信仰に導き、「神を敬う者」とし、さらに割礼を受けてユダヤ教徒になるために指導する働きでした。
 第三に、パウロが迫害したステファノらのヘレニスト・ユダヤ人が、自分たちの律法から自由な信仰を命がけで証言したことに強烈な印象を受けていたと推察されます。ステファノは、神殿祭儀と古来の慣習に固執する(すなわち律法に固執する)ユダヤ教徒の「かたくなさ」を痛烈に告発しています(使徒七章)。
 これらは背景であって、直ちに決意を形成するものではありません。しかし、このような背景があったので、パウロは復活者イエスに遭遇して回心し、この方を救い主として宣べ伝えることを使命として受け取ったとき、それを異邦人に宣べ伝える使命だと自覚したのだと考えられます。パウロ自身、このダマスコ体験を語るとき、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」(ガラテヤ一・一五〜一六)と、復活者イエスの顕現に遭遇した体験と異邦人への使徒とされた召命を一息に語っています。おそらくパウロはこの体験と自覚を周囲の人たちに語ったことでしょう。その内容を用いてルカはパウロの召命物語を書いていますが、それはパウロの宣教の生涯を要約する内容になっており、復活者イエス御自身がパウロに顕現された時に、「ユダヤ人と異邦人に」福音を伝えるように語られたとされています(使徒二六・一二〜二三)。
 このような使命感に燃えて、パウロは回心以後異邦人にキリストの福音を宣べ伝える活動を熱心に進めますが、そのさいパウロは信仰に入った異邦人に割礼を受けることを求めていません。そのことは、アンティオキアの集会でユダヤ人信徒が無割礼の異邦人信徒と食卓を共にしていたことからも分かります。パウロはバルナバらと共にアンティオキア集会で異邦人への伝道に励みますが、信仰に入った異邦人には割礼を受けることを求めず、異邦人のままでキリストの民として受け入れていました。パウロはなぜ異邦人信徒に割礼を受けることを求めなかったのでしょうか。

異邦人に割礼を求めなかった理由

 その理由を探ることはパウロの福音理解の根幹に触れることになります。パウロは、異邦人信徒に割礼を受けることを求めなかっただけでなく、他のユダヤ人の宣教者たちが異邦人信徒に割礼を受けるように要求したとき、割礼を受けることはキリストの恵みから脱落すること、福音を覆すことだとして、断固割礼を受けることに反対しています(ガラテヤ書)。この異邦人信徒に割礼を要求する勢力との戦いが、パウロの伝道生涯のもっとも顕著な様相となります。パウロはなぜこれほどまで強硬に割礼に反対したのでしょうか。
 割礼を受けることはユダヤ教に改宗すること、ユダヤ教徒になることを意味しています。割礼を受けた者はユダヤ教徒として、モーセ律法の規定を守ることが求められます。それに違反することは、場合によっては死をもって罰せられる厳しい規定を課せられます。当時のユダヤ教では、とくに安息日の規定を守ること、食物に関する規定を守ることが、異教徒と区別するユダヤ教徒の標識として重視されていました。異邦人信徒に割礼を要求することは、ユダヤ教徒にならなければキリストに属する者になれない、救われないとすることです。福音はユダヤ教徒への救いの告知となります。福音はもはや異邦人に与えられた救いの告知ではなくなります。異邦人が異邦人のままで救われることが、異邦人への福音です。
 ユダヤ教徒にならなければ救われないとすれば、福音はユダヤ教徒だけに与えられたものになります。キリストを宣べ伝える活動は、ユダヤ教への改宗活動になります。イエス・キリストを信じる民はユダヤ教の一派になります。福音はユダヤ教の枠の中に閉じこめられます。自分を「異邦人への使徒」と自覚するパウロは、このような意味をもつ割礼の要求に、文字通り命がけで反対するのです。先に第七章「使徒パウロの最後の日々」で見たように、このように強硬に割礼に反対したことが、パウロを死に追いやるのです。割礼を求めないということはユダヤ教を救いにとって絶対に必要なものとしないこと、ユダヤ教を不必要なものとすることです。ユダヤ教こそ唯一の神の啓示に基づく宗教であって、人が救われるためにはユダヤ教徒でなければならないとするユダヤ教徒には、ユダヤ教の否定であり、絶対に許すことができない冒?です。

「福音と律法」の問題

 ここに見たように、パウロが割礼を求めなかったことは、ユダヤ教徒パウロ自身からは出てくるはずのない革命的な姿勢です。それは(後で見るように)上から与えられた回心による結果です。パウロは、ユダヤ教徒でありながら、割礼を伴わない福音、すなわち割礼がなくてもイスラエルの神に属する民、神の国に入ることができるとする福音を異邦人に宣べ伝えるのです。そして、割礼を必要とするユダヤ教徒の主張と生涯をかけて戦うのです。ここでパウロの割礼を必要としない福音、割礼を伴わない福音を、簡潔に「無割礼の福音」と呼ぶならば、「無割礼の福音」こそパウロの福音理解の根幹を示す呼び方になります。
 割礼を必要としないということはユダヤ教を必要としないということですから、当然これはユダヤ教徒の間で大問題にならざるをえません。保守的なユダヤ教徒からは命を狙われるほどの非難を受けることになりますが、それだけでなくキリスト・イエスを信じる同信のユダヤ人からも厳しい批判を受けることになります。当然パウロの側からも反論と弁証が行われます。パウロも、自分が宣べ伝えるキリストの福音においてユダヤ教がどのような意味をもつのか、どのような位置を占めるのかを明らかにする努力がなされます。それが、パウロ書簡の重要な主題の一つである「福音と律法《ノモス》」の問題です。
 パウロは、その書簡で繰り返し《ノモス》という用語を用いて、この福音とユダヤ教との関係を論じています。先に《ノモス》という用語の二重の意味を見ましたが、パウロはこの《ノモス》でユダヤ教という宗教全体を指して、それがキリストの福音においてどのような位置を占めるのかを語っています。ところが、この《ノモス》がいつも「律法」と訳されることによって、本来の「福音とユダヤ教」との関係という問題が、「福音と戒律」、あるいは「信仰と戒律」の関係にすり替えられ、とくに現代では「福音と道徳」の関係の問題になってしまっています。これは、《ノモス》を law, Gesetz, loi というような語で訳した欧米諸語の聖書でも事情は同じです。
 パウロが「福音と《ノモス》」で福音とユダヤ教との関係を論じていることが見失われた結果、それが福音と戒律の問題とされ、パウロは福音によって祭儀律法は廃棄されたとしたが倫理的律法は成就されるとしているとか、信仰は道徳の原動力であることを主張しているとか、的はずれの解釈が行われることになります。パウロは《ノモス》を祭儀律法と倫理律法に分けて議論をしているのではありません。パウロにとって《ノモス》、すなわち《トーラー》はユダヤ教の全体です。それは道徳とか倫理ではなく、ユダヤ教という宗教の全体です。パウロが《ノモス》と言っているところは、少なくとも《トーラー》という用語に戻して、この語に対して当時のユダヤ教徒がもつ理解に即して、パウロの言葉を理解するようにしなければなりません。
 たとえば、パウロが「しかし今や、律法とは無関係に神の義が現されています、しかも律法と預言者によって立証されて」(ローマ三・二一私訳)と言うとき、この「律法と無関係に」という箇所の原文は《コーリス・ノムゥ》です。「《ノモス》なしで」とか「《ノモス》と無関係に」とか「《ノモス》の外で」というような意味です。この時の《ノモス》はユダヤ教全体を指しており、福音においては神の義(それは救いを指します)が、ユダヤ教とは無関係に、ユダヤ教の外で現されていることを宣言しています。これは「無割礼の福音」の内容そのものです。しかし、同時にパウロは、その出来事が「律法と預言者によって立証されて」と付け加えています。「律法と預言者」という言い方も、当時ではユダヤ教の全体を指す表現でした。したがって、パウロはここでキリストにおいて与えられる神の義は、ユダヤ教の外で、ユダヤ教と無関係に与えられるものであるが、同時にそれはユダヤ教によって基礎づけられ立証されている出来事だとしているのです。ここに福音とユダヤ教との関係が要約されていると言ってよいでしょう。

ガラテヤ書とローマ書

 このように、パウロの福音提示において重要な主題をなす「福音とユダヤ教」との関係は、とくにガラテヤ書とローマ書において中心主題となり、徹底的に議論されています。そのことは、この両書において《ノモス》という用語の使用回数が圧倒的に多いことにも示されています。

パウロ書簡における《ノモス》の使用回数は、テサロニケ第一書簡に0回、ガラテヤ書に32回、コリント第一書簡に9回、コリント第二書簡に0回、フィリピ書に3回、フィレモン書に0回、ローマ書に74回です。 ガラテヤ書とローマ書は長さに対する頻度ではほぼ同じになり、他の書簡に比べて圧倒的に使用頻度が高くなります。なお、「パウロの名による書簡」を見ますと、コロサイ書は0回、エフェソ書に1回、テモテTに2回出てくるだけで、もはや《ノモス》(ユダヤ教)が問題になっていないことがうかがわれます。

 この両書簡で「福音とユダヤ教」の関係がどのように論じられているか、その内容はそれぞれの書簡の講解に委ねなければなりませんが、ここでは両書簡の関係について、少し考察しておきます。とくに《ノモス》に対する見方や扱い方が両書簡においてかなり違うことが研究者に注目されて、両書簡の関係が様々に議論されています。
 たしかに、ガラテヤ書では「律法(ノモス)」は限定的に、あるいは否定的に扱われています。信仰によって受け継がれるべきものとしてアブラハムに与えられた約束に比べて、モーセによって与えられた律法(ノモス)は、「後から付け加えられたもの、期限がある過渡的なもの、仲介者(天使たち)によって制定されたもの、罪のためのもの、養育係にすぎないもの」などと描かれ(三章)、「奴隷の子を産む契約」とさえ言われています(四章)。それに対してローマ書では、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰によるのだという福音の原理は明確に主張されながらも、「律法(ノモス)」の肯定的、積極的意義が強調されるようになります。たとえば、この信仰による義は「律法(ノモス)によって立証されている」とか「信仰は律法(ノモス)を無効にするのではなく、律法(ノモス)を確立する」というような面が強調され、「律法(ノモス)は聖なるもの」とされます。
 この違いの大きさに注目して、パウロはガラテヤ書でした律法についての行き過ぎた発言を修正するためにローマ書を書いたのだとする見方も出てきます。たとえば、ガラテヤ書の内容がエルサレム教団に伝わっていること(それは十分ありうることです)を知ったパウロが、エルサレム訪問を前にしてガラテヤ書の発言を修正し、自分のユダヤ教に対する態度を弁証するためにローマ書を書いたのだと見る研究者(ヒュブナー)もいます。
 しかし、この違いはパウロの律法に対する見方が変わったのではなく、両書簡が書かれた動機とか意図から説明できます。先に見たようにローマ書は、自分が建てたのではないローマの集会との交わりを確立するために、パウロは自分の福音理解の全体を提示しようとして書いています。ローマ集会には指導的な立場のユダヤ人信徒も多く、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の交わりが問題になっていることを聞いているので、福音におけるユダヤ教の位置を明確にしておく必要があります。ローマ書において、パウロはこの福音におけるユダヤ教の位置づけを冷静に、体系的に行っています。それに対してガラテヤ書では、外からやって来た「ユダヤ主義者」が異邦人信徒に割礼を受けることを要求し、ガラテヤの異邦人信徒は割礼を受ける方向に傾いていることを伝え聞いて、パウロは自分の「無割礼の福音」が危機に瀕していると感じています。書簡という形でこの危機を乗り切るために書いていますから、パウロの発言は激烈になり、割礼要求の根拠である律法(ノモス)の意義を限界づける表現も、一面的になり、激しくならざるをえません。この状況の違いがローマ書とガラテヤ書における律法の扱い方の違いになっています。
 ガラテヤ書においても、パウロはユダヤ教を否定しているのではありません。たしかに、異邦人信徒に割礼を受けさせ、モーセ律法の諸規定を守るように要求することは福音からの脱落であるとして強硬に反対しています。それは、当時のユダヤ教の体質となっている「律法主義」を否定しているのです。すなわち、割礼を受けてモーセ律法を守らなければ救われないとするユダヤ教絶対化の体質を否定し、乗り越えているのです。しかし、先にガラテヤ書(とくに三章)を論じたときに見たように、キリスト信仰によってイスラエルに対する約束の真の継承者となり成就する者となるとし、ユダヤ教の根幹をなす聖書の救済史をしっかりと継承しています。

パウロがガラテヤ書においても聖書の救済史をしっかりと継承していることについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』200頁の「パウロにおける救済史」を参照してください。なお、パウロがユダヤ教の根幹を継承していることについては、同じ『パウロによるキリストの福音T』の第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。

異邦人のように暮らす

 パウロはユダヤ教徒でありながら、異邦人のように生きて、モーセ律法の規定に拘束されていないように見える場面があります。その典型的な事例は、異邦人との食卓の交わりです。ユダヤ教とは神の前での清さを追求する祭儀と生活の体系であると言ってよいほど、ユダヤ教徒は「清さ」を重視しました。ユダヤ教徒から見れば、異邦人(異教徒)は律法が汚れたものとしているものを食べ、汚れたものに接触して暮らしているのですから、汚れた人間です。そのような異教徒と食卓を共にすることは自分を汚すことであり、ユダヤ教徒としてはあるまじき行為として禁止されていました。ところが、「無割礼の福音」に立つパウロは、アンティオキアの集会の交わりにおいて、進んで異邦人信徒と食卓を共にし、ユダヤ人信徒もそうするように指導したので、ユダヤ人と異邦人が一緒に食事をすることが実現していました。この食事は、単なる会食ではなく、主イエス・キリストを礼拝する行為でしたから、この共同の食事においてユダヤ人と異邦人との信仰における一致が具体的に実現していたのです。
 ところが、エルサレムから来たヤコブ一派のユダヤ人たちの追及によって、それまで異邦人と食卓を共にしていたペトロやバルナバはこの異邦人との共同の食事から身を引きます。パウロはその行為を、福音を否定する行為として激しく批判します。その時、パウロはペトロに向かって、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」と非難しています(ガラテヤ二・一四)。ペトロも、パウロの「無割礼の福音」の原理を受け入れるだけでなく、自らも異邦人と食卓を共にして「異邦人のように生活する」ようになっていたのです。ところが、ユダヤ人にはモーセ律法を厳格に守ることを要求する厳格派ユダヤ教徒からの圧力に屈することになります。
 パウロはこの圧力に屈したアンティオキア集会から離れて、福音宣教のための独立の活動を進めます。パウロは「無割礼の福音」の原理に立ち、異邦人には割礼とモーセ律法の順守を求めませんでしたが、ユダヤ教徒に律法順守を止めるように求めたわけではありません。パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになった」と言っています(コリントT九・一九〜二三の要旨)。パウロは、異邦人に福音を伝えるときは、律法を持たない者のように、食卓の交わりを共にしました。そして、ユダヤ教徒に福音を語るときは、律法に支配されている者の一人として(すなわちユダヤ教徒の立場で)語りかけました。パウロは、キリストにあって賜っている自由により、律法の中にいることも律法を超えて生きることも、両方ができたのです。
 パウロが設立した集会でユダヤ人と異邦人との交わりが問題になったとき、すなわち律法に支配されている人たちと律法に支配されていない人たちの交わりが問題になったとき(ユダヤ人の中にも両方がありました)、パウロ自身は律法の中にいることも律法を超えて生きることも両方ができる「強い人」であるのですが、それができない「弱い人たち」に愛の配慮をもって対するように、強い人たちに求めています(コリントT八章、ローマ一四章)。

結び ― ユダヤ教の相対化

相対化

 以上に見たようなパウロのユダヤ教とのかかわり方は、一見矛盾しているように見える二面があります。パウロは、死ぬまでユダヤ教徒としてユダヤ教の中にいます。パウロはユダヤ教徒として、律法(ユダヤ教)の下にある者として生きています。ユダヤ教の聖典である聖書を神からの啓示として、すべての議論の論拠にしています。同時に、時にはユダヤ教を批判し、ユダヤ教を否定するような発言をし、もはや律法(ユダヤ教)には拘束されていない者として行動しています。このようなユダヤ教とのかかわり方は、どこから来るのでしょうか。それは何を意味しているのでしょうか。
 一言で言えば、パウロはユダヤ教を相対化したのだと言えます。ユダヤ教を「相対化」するとは、ユダヤ教自体の価値(神の啓示によって与えられた宗教としての価値)を認めながら、ユダヤ教を救済に必要な絶対的条件としないということです。人が救われて神との正しい関係(義)に至るためには、ユダヤ教が欠くことができない条件であるとすることを、ユダヤ教の「絶対化」と言うならば、パウロはこのユダヤ教の「絶対化」を否定したのです。どの宗教にも、その宗教を絶対化する体質があります。ユダヤ教の場合、その絶対化は「律法主義」(モーセ律法の順守が義とか救いの条件であるとする立場)や「ユダヤ主義」(異邦人も割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ救われないとする立場)という形で現れています。パウロは、このユダヤ教の絶対化を否定するのです。
 パウロは、ユダヤ教そのものを否定したのではありません。ユダヤ教はそれ自体としては価値あるものとして否定されてはいません。ユダヤ教にはそれ自身の価値があるとしても、ユダヤ教はもはや救いに至る絶対的な条件ではないとしたのです。パウロはユダヤ教以外に救いの道があるとしたのです。それがユダヤ教の「相対化」です。

「回心」の意義

 パウロがユダヤ教を相対化するようになったのは、ユダヤ教の外に救いの原理があることを体験して知ったからです。それがパウロのダマスコ体験、回心体験です。パウロはダマスコ途上で復活者イエスの顕現に遭遇するという体験をして、それまでの神とのかかわり方が根本的に変わってしまいます。それが、パウロの「回心」体験の内容です。それまでパウロの神は、律法を与え、律法を守る者を義とし、律法に従わない者を裁く神でした。ところが、この回心体験によって、神はもはやそのような律法授与者の神ではなく、イエスを死者の中から復活させた神となります。「(復活者)キリストは律法の終わりとなった」のです。「イエスを死者の中から復活させた神」は、復活者イエスをキリストとして立て、このキリストにおいて成し遂げられた神御自身の業によって、このキリストに結びつく者に義を与える神です。パウロは、この回心体験によって、この復活者イエス・キリストにおいて成し遂げられた神の救いの働きを「福音」として世界に宣べ伝える者となります。
 「回心」という用語は、人が心を入れ替えて別の生き方をするようになるという意味に理解されがちです。しかし、パウロの場合はまったく違います。パウロが心を入れ替えたのではなく、神の側からの働きかけによって、パウロの全存在がひっくり返ったのです。パウロは上からの働きを受けるだけの立場です。そのパウロをひっくり返した神の働きとは聖霊の働きです。パウロのダマスコ体験は、聖霊体験の重要な典型です。
 聖霊、すなわち神の御霊が、いつどのように働かれるのか、その働き方は、わたしたち人間が決めたり、知ったりすることができません。その働きの結果は体験しますが、その働きの仕方を描くことはできません。「風(プニューマ)(原語の《プニューマ》は霊という意味もあります)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊(プニューマ)から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ三・八)と言われています。パウロの場合、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに」(ガラテヤ一・一五)このような形で働いてくださったとしか言えません。

恩恵体験

 パウロがダマスコ体験を振り返って語るとき、ここで引用したガラテヤ書(一・一五)で「選び」と「恵み」という語を用いて語っていることが重要です。この二つの用語は、実は同じ事実を表現しようとしています。それは、イエスに敵対し、イエスを信じる者たちを迫害していたパウロには、このイエスをキリストとして宣べ伝える神の使徒となる資格とか根拠は何もないのに、自分が今そうなっているのは、神が選ばれたからと言う外はない、また、資格のない者に無条件に与える恵みによって神が自分に使徒の資格とか実質を与えてくださったからだとしか言いようがない、ということです。
 同じことを語っているので、どちらか一方でこの事実を語ることもよくあります。たとえば、復活者イエスの顕現に接して使徒とされた出来事を語るとき、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントT一五・一〇)と言っています。この文は直訳すると、「神の恩恵によって、わたしは今あるわたしです」となります。わたしがわたしであるのは神の恩恵による、というのです。これはダマスコ体験についてだけでなく、パウロが全生涯にわたって自己の存在そのものが神の恩恵によるものであることを自覚していたことの表現です。聖霊によるキリスト体験は恩恵体験です。このように自己の存在そのものが神の恩恵によるものであることを知る体験です。
 この恩恵体験がパウロの福音理解(それを神学というのであれば、パウロの神学)の基礎です。パウロは、「キリストにある」という場を恩恵が支配する場として描いています(ローマ五・一二〜二一)。キリストにあるという場で、聖霊の働きにより、「わたしがわたしであるのは神の恩恵による」という自覚で生きるのが、「パウロによるキリストの福音」の根幹です。わたしたちキリストにある者にとって、恩恵こそ絶対です。
 ここで「絶対」という表現には二つの意味を含ませています。一つは、神の恩恵が相手の価値とか資格に絶しているという意味で、恩恵は「絶対」です。すなわち、相手が善ければ善いものを与え、悪ければ悪を報いるという、相手の価値に対応して働くのではなく、相手の価値に絶して無条件に善いものを与えるという意味で「絶対」(相対する者に絶している)です。もう一つの意味は、恩恵がなければわたしがわたしでありえない、他の何がなくても恩恵だけは絶対に欠くことができないという意味で「絶対」です。

絶対恩恵による宗教の相対化

 このような意味で、神の恩恵を絶対的なものとして体験し、その恩恵の絶対性に生きるとき、他のすべてのものが相対化されます。このキリストにある神の恩恵以外のものは、それぞれに意味とか価値があるとしても、わたしがわたしであるために絶対必要なものではなく、あってもよいしなくてもよいという位置に置かれます。これが「相対化」です。
 パウロは、この絶対恩恵の場に生きることで、生きるもよし死ぬもよしとして生と死を相対化し、生と死という人間にとって最後の矛盾を乗り越えています(フィリピ一・二一〜二四)。そして、パウロにとって唯一の価値であったユダヤ教そのものをも相対化するのです(フィリピ三・四〜七)。キリストという価値、キリストにおける神の恩恵という絶対価値の前に、それまでは絶対としてきたユダヤ教徒としての自分の価値などは塵あくたとして捨ててもよいものになってしまいます。
 このように神の恩恵を絶対として律法(ユダヤ教)を相対化することにおいて、イエスとパウロは同じである、とわたしは理解しています。イエスは、父の無条件絶対の恩恵に生きることで、ユダヤ教律法を相対化されました。イエスはユダヤ教律法を順守して生活できない取税人や遊女などの階層の人たちと食卓の交わりを共にして、彼らがユダヤ教律法を守れないままで、父の恩恵によって子とされていることを宣べ伝え、子としての信頼に生きるように教えられたのでした。イエスは決してユダヤ教を否定されたのではありません。ユダヤ教律法を順守しなければ救われないとするユダヤ教の絶対化を否定されたのです。イエスは、義とされて神の民であるためには、ユダヤ教律法の順守が絶対に必要であるとするユダヤ教の絶対化に挑戦されました。イエスの死の直接の理由となった神殿崩壊の預言も、ユダヤ教の根幹である神殿祭儀を相対化されたことを意味します。神殿祭儀がなくても、父を礼拝し、神の子として生きることはできるとされたからです。このようなユダヤ教律法の相対化が、ユダヤ教を絶対とするユダヤ教指導層から、神聖な律法を汚し神を冒?する者として告発されることになったのです。
 このようにパウロは、キリストにあって、聖霊の働きにより、父の絶対恩恵の現実を体験し、その場に生きることによって、ユダヤ教を相対化しました。その結果、パウロはユダヤ教徒でありながらユダヤ教を乗り越える者となりました。ユダヤ教の中にありながら、ユダヤ教の枠の外に出た者となりました。この事実が、パウロを「異邦人への使徒」とし、諸国民の間に福音を確立するための第一の使徒としました。パウロの他にも異邦人にキリストの福音を宣べ伝えた使徒はいます。しかし、パウロのように福音がユダヤ教を乗り越えており、ユダヤ教の外で成立するものであることを明確に自覚し、その原理に従って生き抜き、その原理を明確に告知した使徒は他にありません。こうして、パウロはユダヤ教の外で、諸民族からなる世界の中で活動する使徒となります。次節では、この世界との関連というコンテキストでパウロの意義を見てゆくことになります。

「相対化」については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。