市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第3講

第二章 神に背く人間

第一節 異邦人の罪

4 神への背きとその結果 (1章 18〜32節)

 18 おおよそ、不義によって真理を押さえつける人間のあらゆる形の不信心と不義に対して、神の怒りが天から現れます。19 神について知りうる事柄は、彼らには明らかであるからです。神が彼らにそれを示しておられるのです。20 見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物によって理解され、神は明らかに認識されるのですから、彼らには弁明の余地はありません。21 彼らは神を知りながら、神としての栄光を帰することをせず、感謝することもなく、かえって、彼らはその思考において空しくされ、理解なき心は暗くされたのです。22 彼らは自ら知者であると称しながら、愚かになり、23 不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えたのです。
 24 そこで神は、彼らが心の欲望のままに、互いにその体を辱めるという汚辱に、彼らを引き渡されたのです。25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、創造者に反抗して被造物を崇拝し、また礼拝したのです。創造者こそ永遠に誉め讃えられるべきです。アーメン。
 26 それゆえ神は、彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。彼らの中の女たちは、自然な性の交わりを自然に反するものに変え、27 同じく男たちも、女との自然な性の交わりを捨てて、互いに情欲に燃え、男と男の間で恥ずべき行為をして、その迷いにふさわし報いを自分たち自身に受けているのです。
 28 そして、彼らは認識の中に神を入れようとしなかったので、神も彼らを無益な思いに引き渡し、してはならないことをするにまかされたのです。29 その結果、彼らはあらゆる不義、邪悪、貪欲、悪意に満たされ、妬み、殺意、争い、欺き、邪念にあふれ、中傷する者、30 そしる者、神を憎む者、人を侮る者、高慢な者、大言を吐く者、悪事を企む者、親に逆らう者、 31 無感覚な者、不誠実な者、非情な者、無慈悲な者になっています。32 このようなことを行う者が死に値するという神の正しい定めを知りながら、彼らは自らそのようなことを行うだけでなく、それを行う者たちを是認しているのです。

創造者への背き

 パウロの議論は「神の怒りが天から現れます」(一八節)という言葉で始まります(原文ではこの文が最初に来ます)。これは明らかに、先行する主題提示の文「福音に神の義が現れており」(一七節)に対応しています。福音が告知する主イエス・キリストの出来事の中に人を義とする神の働きが現されているのに対して、キリストの外においては神の怒りが普遍的に現れているというのです。「天から」というのは、天の下にあるすべての者にという意味で、神の怒りが向けられない場は天の下のどこにもないことを意味しています。以下の文は、人間の普遍的な状況を描きます。
 「神の怒り」という表現は、旧約聖書にしばしば見られる神の擬人的描写の一つですが、神が背く者を断罪し、拒否し、交わりの道を断っておられる姿を表現しています。神の怒りが現れるのは、「不義によって真理を押さえつける人間のあらゆる形の不信心と不義に対して」です。何が真理であるかは定義されていません。しかし、神の怒りがそれに対して現れるとされる「不信心と不義」という表現は、不信心と不義が同格で並んでおり、パウロが不義というのは不信心、すなわち神を認めない心と生き方であるとしていることが分かります。従ってここで真理というのは、神を認め、神の前に生きる人間の在り方を指しているとしてよいでしょう。一八節は、神と人間の対立と断絶の普遍的現実を描いています。
 続いてパウロは、この断絶が人間の側の責任であることを明らかにします(一九〜二〇節)。たしかに神は直接見ることはできません。しかし、「見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力と神性」は、神が人間に示しておられ、「世界の創造以来、被造物によって理解され」るのです。人間には肉眼で見ることができない事柄でも、理解する能力が与えられています。神は人間のその能力に「神について知りうる事柄」を示しておられるので、人間は被造物を見れば、それを造られた方の超越性や永遠の力を理解できるのです。こうして「神は明らかに認識されるのです」から、人間が神を認めない不信心は、人間の側に責任があり、「弁明の余地はありません」。

このパウロの議論は、「知恵の書」一三章(一〜九節)に強く影響されています。総じてこの段落のパウロの議論は、ヘレニズム期ユダヤ教の知恵文学の線上にあると見られます。ヘレニズム期ユダヤ教の知恵思想は、神がそれによって世界を創造された「創造の言葉」を知恵と同一視して、知恵によって創造されたすべての被造物には創造者を認識する感覚が植え付けられていると考えていました(箴言三・一九、八・二七以下、知恵九・九、シラ二四・一以下など)。
 ヘレニズム期のユダヤ教は、ギリシア思想から大きな影響を受けつつ、ギリシア思想や哲学という手段を用いて、ギリシア思想と対決しようとしました。「シラ書」(「ベン・シラの知恵」とも呼ばれる)や「知恵の書」(「ソロモンの知恵」とも呼ばれる)などに代表される知恵文学は、このようなギリシア思想と遭遇した時期のユダヤ教思想の典型です。ギリシア語を母語とするパウロは、七十人訳ギリシア語聖書にも通じており、この聖書には「シラ書」や「知恵の書」が含まれているので(新共同訳聖書では続編に入れられています)、パウロは日頃このような文学に接し、よく読んでいたはずです。パウロの思想を理解するためには、このような知恵文学をよく理解しておく必要があります(七十人訳ギリシア語聖書に含まれる黙示文書についても同じように言えますが、黙示思想とパウロの関係については別の機会に触れます)。

 このように人間が普遍的に神に背いている現実を、パウロは人間の意志の問題とします(二一節)。これは人間に神を認識する能力が欠けているから生じた結果ではなく、「彼らは神を知りながら、神としての栄光を帰することをせず、感謝することもなく」、すなわち、神を神として認めることを拒否したというのです。意志の問題というのは、人間の向きの問題です。神に向かうのではなく、神に背を向けているのです。この拒否は、人間の自我主張の本性がさせるのです。人間は、神ではなく自分自身が自分の主人でありたいのです。この拒否の結果、「彼らはその思考において空しくされ、理解なき心は暗くされた」のです。
 創造者を認めることを拒否した結果は偶像礼拝です。「彼らは自ら知者であると称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えたのです」(二二〜二三節)。パウロは、ギリシア哲学に代表される人間の知恵の成果を知っています。人間は自分の知恵によって高度の文明を造り上げてきました。ところが、人間が誇りとするその知恵は、創造者なる神を認めないという一点で真理の核心を見損ない、「愚かになった」のです。その結果生じた偶像礼拝は人類に普遍的な現象であり、人間の知恵の愚かさを示しています。
 パウロが説く福音は、まさにこの神からの福音ですから、パウロは異邦人に福音を伝えるときはいつも、まず異邦人が偶像礼拝からこの創造者なるまことの神に立ち帰るように説かなければなりませんでした(テサロニケT一・九、使徒一四・八以下を参照)。この段落には、パウロが異邦人に福音を語るときに用いた伝道説教が反響していると見られます。

ユダヤ教の異邦人の偶像礼拝に対する非難については、「知恵の書」の一三〜一四章を参照。パウロの表現には、預言者(たとえばイザヤ四四・九〜二〇)以来の伝統を展開させたヘレニズム期ユダヤ教の偶像礼拝非難が背景にあります。

性の乱れ 

 偶像礼拝の結果は道義の退廃です。偶像は人間が造った神ですから、人間はその神を自分の欲するままの姿にすることができます。すなわち、自分を規定するのは自分自身であり、人間は自分の欲するままに生きることができます。自分を造り存在させている方、創造主なる神の定めに従う必要はありません。このような偶像礼拝の結果を、パウロは「神は彼らを(彼らの心の欲望、情欲、空しい思いに)引き渡された」という表現を繰り返し用いて語ります(二四、二六、二八節)。人間が自分の欲望のままに勝手に生きるように放置されている状態が、神の裁きであり、神の怒りの現れだというのです。
 偶像礼拝の最初の、そしてもっとも典型的な現れが、性的な秩序の混乱です。人間は「不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えた」(二三節)ので、「そこで神は、彼らが心の欲望のままに、互いにその体を辱めるという汚辱に、彼らを引き渡されたのです」(二四節)。「互いにその体を辱めるという汚辱」とは性的な乱れです。その内容は二六〜二七節で具体的に語られますが、その前に、このような混乱が起こるのは人間が創造者に反抗しているからだという主張が、創造者への賛美という形で繰り返されます(二五節)。
 性的な乱れを具体的に語る部分(二六〜二七節)では、「自然な性の交わりを自然に反するものに変え」たことが非難されています。男の場合は、「女との自然な性の交わりを捨てて、互いに情欲に燃え、男と男との間で恥ずべき行為をして」(二七節)と明確に描写されていますが、女の場合は「自然な性の交わりを自然に反するものに変え」というだけで、それがどういう性行為を指すのか明確には語られていません。男の場合から推定すれば、女の場合も女性同士の間の情欲に燃える性行為を指すと理解しなければなりません。パウロは異邦人の間に見られる同性愛を、自然に反する行為、創造の秩序に反する行為として非難しているのです。事実、ギリシア人の間では、とくに男性の間の同性愛が多く行われ、非難されないで、むしろ高尚な愛情とされていたようです。ユダヤ人はこのような同性愛を創造者の定めに反する行為として嫌悪していました。
 「その迷いにふさわしい報いを自分たち自身に受けている」というのはどういうことを指しているのか明らかではありませんが、不自然な性関係から生じる人間関係の軋轢や社会の退廃を指していると見られます。

ここで「自然に反する」性行為だけが非難されていて、婚姻関係を乱す性行為が取り上げられていないことが注目されます。その理由はおそらく、婚姻関係を乱す性行為は異邦人社会でも非難されているのに対して、同性愛関係は非難されず、異邦人社会の体質のようになっている事実にユダヤ人は嫌悪感を持っていたからでしょう。
 この箇所(二六〜二七節)は同性愛を断罪する根拠とされ、教会は同性愛者を追放してきました。しかし、最近の生物学の成果によると、少数ながら同性しか愛せないように生まれついた人もあることが明らかにされています。そのような人にとっては、同性を愛することが「自然」となります。このような特別の場合には、多数派の「自然」で少数の人たちの「自然」を断罪することはできません。むしろ少数の特殊な人たちの人間としての尊厳を擁護しなければなりません。パウロの伝道説教の言葉を一般化・教条化して、教会法とすることは避けなければなりません。現代の学問の成果は、「自然」とか「創造の秩序」とは何かについて問いを突きつけています。
 少数の人たちの「自然」を尊重しなければならないとしても、それは多数の人たちが「自然に反して」情欲にふけることを認めることを意味するのではありません。「その迷いにふさわし報いを自分たち自身に受けている」(ここでは身体を意味する語は使われていません)という言葉を、最近のエイズの流行に直ちに結びつけることはできませんが(エイズの原因には母子感染や血液製剤からのものなど同性愛以外のものが多いのですから)、エイズの流行は少なくとも性的無秩序に対する警告として真剣に受け止めなければなりません。コンドームを配布するとうような姑息な手段ではなく、人間関係における性の在り方という根本問題として、反省と自覚を深める機縁としなければならないと思います。

人間性の退廃

 創造者なる神を拒否して偶像を礼拝した最初の結果として性的混乱をあげたパウロは、続いて偶像礼拝が引き起こした悪一般を列挙します(二八〜三一節)。「認識の中に神を入れようとしなかった」というときの「認識」《エピグノーシス》とは、コスモス(宇宙・存在界)全体についての根本的な認識を指し、現代の用語では「哲学」に近いでしょう。人間は自分のコスモス理解の中に、そのコスモスを創造した方を認めなかったので、神は人間をそのコスモスの中に閉じ込め、「無益な思いに引き渡し、してはならないことをするにまかされた」のです(二八節)。「無益な思い」と訳した語は、「承認されない、資格のない、無価値の、腐敗した《ヌース》(理性)」というような意味の語で、人間が(真理に到達するのに)役立たずの思考に引き渡されていることを言っています。
 したいことをするように放置されていることを、人間は「自由」と称し、それを喜び、懸命に追求していますが、人間がしたいことをするとき、人間の内側から出てくるものは、お互いを傷つける悪(してはならないこと)ばかりです(マルコ七・二〇〜二三参照)。その結果は以下(二九〜三一節)に列挙される悪であり、人間の悲惨を生み出すのです。してはならないことをするように放置されていることは、神の怒りの現れであり、神の裁きなのです。
 ここ(二九〜三一節)に列挙されている人間の悪は、すでにヘレニズム期のユダヤ教が偶像を礼拝する異教世界に見ていたものですが(知恵一四・二二〜三一)、パウロはそれを生まれながらの人間本性(肉)から出るものとして扱い(ガラテヤ五・一九〜二一)、ここでそれを神に背いた人間がその中に放置されている諸々の悪として、一覧表にしてあげています(性的な乱れは先にあげたのでここには含まれていません)。この悪の一つ一つについて述べる必要はないと思いますが、全体として見ますと、殺人や盗みというような実際の行為ではなく、人間の意志や心情など内面の悪、そこから出る言葉の悪、また性格的な悪が列挙されていることが目立ちます。人間性そのものの退廃が描かれていると見られます。新約聖書の著者たちは当時のヘレニズム世界の家庭訓や悪徳表を利用したと言われますが、ここの悪徳表を見ると、パウロが悪をより深く人間の内面と本性に巣くっているものと見ていることがうかがわれます。おそらくこの一覧表は、パウロが長年の伝道生活の中で体験した人間性の悪を並べ上げたものでしょう。
 このように神に背いた人間が陥っている悪の現実を描く部分を、パウロは「自らそのようなことを行うだけでなく、それを行う者たちを是認している」という弾劾で締め括ります(三二節)。悪を悪と自覚しているかぎり、悔いて悪から離れる可能性が残りますが、悪を是と認める者は、自らが悪となり、もはや悪から離れる可能性はありません。しかも、人間は「このようなことを行う者が死に値するという神の正しい定めを知りながら」、悪を是認するのです。「神の正しい定め」というのは、すぐ後でパウロ自身が詳しく解説しているように(二・六〜一一)、善を行う者には命が、悪を行う者には最終的には死が、報いとして臨むという神的原理を指しています(この場合の命とか死は、肉体の命とか死ではなく、永遠の存在としての魂の命とか死を指しています)。人間はこの根本原理を生得的な感覚で知っているにもかかわらず、悪を行い、悪から離れられないで、悪を是認しているのです。このような人間の現実は、「原罪」と呼ばれる人間の根元的な背神の結果です。

「正しい定め」と訳した《ディカイオーマ》は、新約聖書ではパウロだけが用い、しかもローマ書だけで用いています(ここと二・二六、五・一六と一八、八・四の五箇所)。《ディカイオシュネー》と同じ系列の「義」という意味の語ですが、パウロにおいて「神の《ディカイオシュネー》」が人を義とする神の働きを指しているのに対して、「神の《ディカイオーマ》」は神の正しい要求ないし定め、またその内容をさしています。ローマ書における個々の用法については、それぞれの箇所で解説します。