市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第5講

第三節 罪の支配

8 義人は一人もいない (3章 9〜20節)

 9 では、どうなのか。わたしたちには優れたところがあるのでしょうか。全くありません。わたしたちはすでに、ユダヤ人もギリシャ人もすべて罪の下にあると告発しました。
 10 次のように書かれているとおりです。
  「義人はいない。一人もいない。
 11 悟る者はなく、神を求める者もいない。
 12 すべての者は迷い出て、共に無益な者となった。
   慈愛を行う者はいない。一人もいない。
 13 彼らののどは開いた墓であり、
   彼らは舌で人を欺き、
   彼らの唇の下にはまむしの毒がある。
 14 その口は呪いと苦さに満ち、
 15 彼らの足は血を流すのに速く、
 16 彼らの道には破壊と悲惨ばかりがあり、
 17 彼らは平和の道を知らない。
 18 彼らの目には神への畏れがない」。
 19 ところで、律法が言うことはすべて律法の下にいる者たちに向かって語っているのだということを、わたしたちは知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです。20 それゆえ、律法の実行によっては、だれ一人神の前に義とされることはないのです。律法によって罪の認識が生じるのですから。

罪の支配下にある人間

 このようにユダヤ人からの抗議に反論したあと、改めて「では、ユダヤ人の優れた点は何か」(一節)というユダヤ人からの抗議を取り上げます。今回は、パウロは自分もその仲間の一員として、「では、どうなのか。わたしたち(ユダヤ人)には優れたところがあるのでしょうか」と自ら設問して、「全くありません」と全面的に否定します(九節前半)。前段ではユダヤ人の救済史的な特権が認められていましたが(三・一〜二)、それがあるからといって「では、どうなのか。そういう特権を与えられたユダヤ人は、異教徒より優れた者となっているか。全然そうではない」として、パウロがすでに指摘し告発したように(一・一八〜二・二九)、神に背いている点ではユダヤ教徒も異教徒とまったく変わらないと断定します。そして、「ユダヤ人もギリシャ人(異教諸民族)もすべて罪の下にある」という結論を掲げます(九節後半)。これが第一部前半(一・一八〜三・二〇)の結論です。
 ここで、ローマ書では初めて「罪」という用語が現れます。ここの「罪」は単数形です。ユダヤ教では罪とは律法の規定に違反する行為ですから、様々な罪、多くの罪があるわけで、普通複数形で現れます。ところがパウロは、聖書や定型的な信仰告白文を引用する場合の僅かな例外を除いて、いつも「罪」を単数形で用いています。これは、パウロが罪を個々の律法違反の行為ではなく、一つの力として理解していることを示しています。パウロがここで「罪の下にある」というのは、罪という一つの力の支配下にあるという意味です。そういう理解で、RSV(改正標準訳)はここを「罪の力の下にある」と訳しています。
 パウロは、罪とは何かを定義したり説明したりしていません。パウロ書簡全体から、パウロは罪を一つの支配力、人間を神に敵対する方向に支配する力であると見ていることが分かります。パウロにとって、救いとはこの罪の支配力(とその支配の結果である死)からの解放です。それで、「救いに至らせる神の力」としての福音を提示するためには、まずすべての人間が罪の力の支配下にある事実を明らかにしなければならないのです。パウロはここまでの議論(一・一八からここまで)でそれをしてきました。その中でとくに、ユダヤ人も例外でないことを強調してきました(二・一〜三・八)。罪という語を用いないで、罪の支配の結果、ユダヤ教徒も異教徒も区別なく、すべての人間が神に背いている事実を明らかにしました。そして今、結論としてそれが罪の支配の結果であると明言するに至ります。これまで背後に隠れていた黒幕が名指され、表面に現れるのです。

ローマ書における「罪」《ハマルティア》の用例を調べると、複数形は四・七と七・五の二カ所だけです。他はすべて単数形ですが、その分布はローマ書理解にとって重要な点を示唆しています。第一部(一・一八〜五・一一)では僅か四回しか用いられていませんが、第二部(五・一二〜八・三九)では四一回に及んでいます。第一部の四回は、この結論を述べる段落での二回(三・九、三・二〇)と聖書引用の二回(四・七、四・八)です。この分布は、パウロが救いの本体である「罪と死の支配からの解放」を扱っているのは第二部であることを示しています。罪の正体とその力(働き)については、第二部を詳しく見なければなりません。第一部では、すべての人間を神に背かせているのは罪という隠れた支配力であると、最後に黒幕が名指されて、第二部での主役としての登場を準備するのです。今回、この結論を主題として「罪の支配」という標題をつけましたが、「罪の支配」の実態は第二部で詳しく論じなければならない問題です。

律法からの証明

 次にパウロは、この「ユダヤ人もギリシャ人もすべて罪の下にある」という結論を、聖書からの引用で論証します(一〇〜一八節)。パウロは詩編とイザヤ書から次々に引用して、「義人はいない。一人もいない」(一〇節)ことを、聖書自身が証言していることを示します。その内容を一つ一つ解説する必要はないと思いますが、概略だけ見ておきます。
 最初に人間の無知無明、愚かさ、かたくなさがあげられ(一一〜一二節)、続いてのど、舌、唇、口、足、目など身体の器官の働きという比喩で「罪の支配下にある」人間の言葉と行動が象徴的に描かれます(一三〜一八節)。そして、そのような結果から、すべての人間は「平和の道を知らず」(一七節)、「神への畏れがない」(一八節)と結論づけられます。全体のバランスからいうと、のど、舌、唇、口など言葉を発する器官が多いのが目立ちます。これらの器官の働き、すなわち言葉に現れた人間の退廃が強調されています。それは、言葉を発する源である心が腐敗していることを示しています。人間を人間ならしめている心と言葉が腐敗しているのです。その結果、足で象徴される人間の行動がすべて破壊と悲惨ばかりとなり、平和《シャローム》を実現することができないのです。人間性の奥底に殺人に走る傾向(血を流すのに速い)という根元的な悪があるのです。こうして、「罪の支配下にある」人間の悲惨が、聖書の言葉によって描写されます。

参考のために引用箇所をあげると、一〇〜一二節は詩編一四・一〜三から(七十人訳ギリシア語聖書一三・一〜三のテキストが一部変更されて引用されています。パウロが「善を行う者はいない」の章句を「義人」に変更して、全体の標題にしたと見られます)。一三節は詩編五・一〇から。一四節は詩編一〇・七から。一五〜一七節はイザヤ書五九・七〜八から。一八節は詩編三六・二から。それぞれ七十人訳ギリシア語聖書を少しづつ変更して引用しています。
 パウロはこの書簡を口述しながら、このような聖書の箇所を次々に思い浮かべて引用したのではなく、すでにこのようにまとめられた「証言集」があったと見られます。パウロの時代すでに「証言集」という種類の文書があったことは、死海文書によって証明されています(たとえば4QTestimonia)。死海文書のような黙示文学はすでに、終末的な神の裁きを前にして、例外なくすべての人間の罪責を認め、告白していました。たとえば『感謝の詩編』には、「このわたしは知っている、人間には義はなく、人の子に全き歩みのないことを」(四・三〇)という意味の告白が数多く出てきます(他に七・一七、九・一四〜一五、一二・三一〜三二など――訳文と引用箇所は日本聖書学研究所編「死海文書」による)。ただ、パウロがここに引用しているような「証言集」がエッセネ派などのユダヤ教の中にあったのか、原始キリスト教の宣教の中で形成されたものかは決定することは困難です。ユダヤ教時代のパウロが死海文書を生み出したエッセネ派と接触があったことについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』「第一章 第一節 ユダヤ教時代のパウロ」、とくにその中の「エッセネ派の影響」の項を参照してください。

律法の働き

 このように聖書を引用して、「義人はいない。一人もいない」ことを論証してから、「ところで、律法が言うことはすべて律法の下にいる者たちに向かって語っているのだ」(一九節前半)と、ユダヤ教徒に止めを刺します。そもそも《トーラー》は異教徒にではなく、ユダヤ教徒に語りかける書です。神はユダヤ教徒に向かって「(お前たちの中には)義人はいない」と断定しておられるのです。これまでパウロは、神に背いている点ではユダヤ教徒も異教徒と何ら変わることがないと主張してきましたが、最後にユダヤ教徒が神からの語りかけとしている《トーラー》(詩編も預言者も《トーラー》に含まれます)の言葉そのものが、はっきりと「《トーラー》の下にいるユダヤ教徒に」そう語っていることを示して、ユダヤ教徒も例外でないことを確認します。こうして「(ユダヤ教徒も含めて)すべての口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(一九節後半)のです。
 このように律法自身が、律法の下にいるユダヤ教徒に向かって「義人はいない」と断定しているのですから、「律法の実行によっては、だれ一人神の前に義とされることはない」ということが結論されます(二〇節前半)。そもそも律法は、それを実行することによって義とされるために与えられたものではなく、「律法によって罪の認識が生じ」、罪の認識によって悔い改めと信仰に至らせるために与えられたものですから、この結論(律法の実行によっては、だれ一人神の前に義とされることはないという結論)は律法の本質からしても当然です(二〇節後半)。ここには、パウロがすでにガラテヤ書(三章、とくに一九節)で表明している律法観が簡潔にまとめられて、ユダヤ教徒も例外でないことを論証するのに用いられています。

二〇節は《ディオティ》という接続詞で始まっています。 この接続詞は、 (1) 原因や理由を示す文節を導く場合(because)、(2) 推論とか結果を示す文節を導く場合(therefore)、(3) 確認を示す《ホティ》の代わりに用いられる場合(for, because)があります。ほとんどの翻訳は (1) または (3) をとって、「(なぜならば)〜だからである」と訳していますが、僅かながら (2) をとって、「それゆえ」とする有力な訳もあります(たとえばカルヴィン、ケーゼマン)。多数訳は、律法の実行によっては義とされないことがここまでの議論(2章)で確立されているとして、それを理由にユダヤ人も断罪されているという聖書の引用(10〜18節)を根拠づけることになります。「それゆえ」という訳は、逆に、聖書がユダヤ人に向かって語ること(10〜18節)を根拠にして、律法の実行によっては義とされないという主張を根拠づけることになります。これまでの議論の流れからして、「それゆえに」と理解する方が適切であると考えます。
なお、パウロの律法観については、拙著『パウロによるキリストの福音T』194頁の「律法の役割と位置」の項を参照してください。

 こうして、信仰による義を提示する前提として、人間は誰一人として神の前に義ではありえないことを論証したのですが、その議論を見ていますと、パウロがとくにユダヤ教徒に対して律法の実行による義を否定するのに力を入れていることがうかがわれます。二章一節以下の全体がそのために当てられています。この事実は、ローマ書がおもにユダヤ人を念頭に置いて書かれているということを改めて確認させます。