市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第2講

第六章 神の恩恵の選び




第一節 イスラエルの特権

23 パウロの痛み (9章 1〜5節)

 1 わたしはキリストにあって真実を語り、偽りは言っていません。わたしの良心も聖霊によってわたしに証をしています。 2 すなわち、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶えざる痛みがあります。 3 わたしの兄弟、すなわち肉による同胞のためであるなら、わたし自身は神に呪われた者となり,キリストから離されてもよいとさえ願っているのです。 4 彼らはイスラエルの民であり、子としての身分も、栄光も、諸々の契約も、律法授与も、礼拝も、諸々の約束もみな彼らのものです。 5 父祖たちも彼らのものであり、キリストも肉によれば彼らから出られたのです。すべてのものの上にいます神は、永遠に誉むべき方である。アーメン。

同胞ユダヤ人のための執り成し

 第二部の最後に高らかに歌い上げた勝利の凱歌とは打って変わった沈痛な調子で、第三部が始まります。おそらくパウロは日を変えて口述を始めているものと思われます。
 パウロは、モーセ律法を冒?しユダヤ民族を裏切る者として、ユダヤ人から非難され、迫害され、命を狙われてきました。そのような同胞ユダヤ人に対してパウロは、彼らへの愛の真情を吐露します。愛するゆえに、神が遣わされたメシアを拒み、かたくなに神の御計画に背を向ける同胞の将来を、パウロは悲痛な思いで心配します。この同胞ユダヤ人に対するパウロの悲痛な思いが、「深い悲しみ、絶えざる痛み」と語られます(二節)。
 自分の心に「深い悲しみと絶えざる痛み」があることを語る自分の言葉は、真実であって偽りでないことを、「わたしの良心も聖霊によってわたしに証をしています」と言って保証します(一節)。人間のもっとも内面の声である「良心」だけでなく、聖霊によって保証された真実の言葉として、同胞に対する「深い悲しみ、絶えざる痛み」(二節)と自分のいのちをかけた執り成し(三節)を述べるのです。これが偽りであれば、自分の良心を裏切るだけでなく、神の霊を欺くことになるとして、その確かさを保証します。

 ここの「証をする」《シュンマルテュレオー》は、「良心がわたしと共に証をする」ではなく、「良心がわたしに証をする」と理解すべきです。この場合、接頭辞《シュン》は「共に」ではなく、強調の接頭辞と理解すべきです。この動詞の用法については、八章一六節の注を参照してください。なお、この文で「わたしに」という与格は、「わたしのために」という意味に理解してよいでしょう。

 そして、自分を迫害する同胞ユダヤ人のために、自分の命を捧げるだけでなく、神からの祝福をも犠牲にして執り成しをします。その気持ちを吐露して、パウロはこう言います。「わたしの兄弟、すなわち肉による同胞のためであるなら、わたし自身は神に呪われた者となり,キリストから離されてもよいとさえ願っているのです」(三節)。
 「神に呪われた者」の原語は《アナテマ》です。「アナテマ」というのは、旧約聖書の《ヘーレム》(聖絶)のギリシア語訳で、神から完全に断ち滅ぼされることを意味します。これは、自分が「アナテマ」になっても、同胞が「アナテマ」にならないように祈る究極の執り成しの祈りです。
 パウロは「キリストから離されてもよいとさえ願っている」と言っています。パウロにとってキリストはいのちそのものです。キリストを失うことは全世界を失うことよりも深刻です。このような命がけの執り成しの先例としては、金の子牛を造って罪を犯したイスラエルの民のために祈ったモーセの場合(出エジプト記三二・三一〜三二)があります。モーセは、民の罪が赦されないのであれば、自分の名が神の書から消し去られることを求めました。パウロは、キリストを拒否して神の救済に背を向ける同胞に対する執り成しを、モーセと同じように命がけで祈るのです。
 パウロは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われたイエスの言葉を、そのままには伝えていません。しかし、パウロは自分がそのように迫害する者のために執り成しをすることで、身をもってイエスの心を世に伝えています。
 パウロはここで同胞ユダヤ人を「イスラエル」という名で呼び、「彼らはイスラエルの民であり、子としての身分も、栄光も、諸々の契約も、律法授与も、礼拝も、諸々の約束もみな彼らのものです。父祖たちも彼らのものであり、キリストも肉によれば彼らから出られたのです」と、イスラエルの民としての特権を列挙します(四〜五節)。
 八章までは「ユダヤ人」と呼ばれてきましたが、この第三部(九〜一一章)では、数カ所の例外を除いてすべて「イスラエル」という名で呼ばれています。「イスラエル」とは、神と特別な契約関係にある民であることを示す名であって、ここではユダヤ人は神と特別な契約関係にある民としての面から取り扱われます。ただ、異邦諸民族と対比される場合は、八章までと同じく「ユダヤ人」と呼ばれます(九・二四、一〇・一二 、一一・一一、二〇)。
 パウロは、神と特別な契約関係にある民イスラエルとしてユダヤ人に与えられている特権を列挙します。
 「子としての身分」とは、神がイスラエルをご自分の子として扱っておられることを指しています(出エジプト記四・二二、 イザヤ一・二、 ホセヤ一・二、 その他詩編などに多数)。
 「栄光」とは、神が民の中に臨在して顕わされる栄光を指しています(出エジプト記四〇・三四、 列王記上八・一〇〜一一など)。幕屋や神殿に神の栄光が現れただけでなく、歴史の中で驚くべき出来事(たとえば紅海の出来事)を体験し、その中に神の栄光を拝してきました。イスラエルは神の栄光を宿す民としての歴史を歩んできました。。
 「諸々の契約」とは、アブラハム契約、モーセ契約(シナイ契約)、ダビデ契約など、イスラエルの歴史の中で神から与えられた様々な契約を指します。イスラエルの歴史は、神が立てられた多くの契約によって形成されてきました。なお、「契約」を単数形で伝える写本もありますが、その場合はモーセ契約で諸々の契約を代表していると見らます。
 「律法授与」は、モーセによって神がイスラエルに律法を授けられたことを指しています。ユダヤ人はモーセ律法に「知識と真理が具体化している」として、モーセ律法が与えられていることを、他の異邦諸民族にはない特権として誇っていました(ローマ三・一七〜二〇参照)。
 「礼拝」とは、神を礼拝するための祭儀制度の全体を指しています。モーセ律法に基づき形成された祭儀は、異邦諸宗教のように偶像によって汚されていない純粋な祭儀としてユダヤ人は誇っていました。
 「諸々の約束」とは、アブラハムに与えられた子孫と土地の約束、ダビデに与えられた王権の永続の約束、預言者たちに与えられた終わりの日の栄光の約束などを指し、イスラエルはこのような神の約束に基づいて歴史を形成してきました。
 「父祖たち」とは、イスラエルが自分たちの父祖として仰ぐアブラハム、イサク、ヤコブを指し、ユダヤ人はこの「父祖たち」の直系の子孫として、「父祖たち」に与えられた約束と特権を受け継ぐ民であることを誇りにしていました。
 このようにイスラエルが神に選ばれた民であるしるしを列挙してきて、最後に最高のしるしとして、キリストもイスラエルの民から出た事実があげられます。「キリストも肉によれば彼らから出られた」のです。神の子として全世界の救い主とされたキリストも、人としてはイスラエルの民の出身です(ローマ一・三参照)。
 このように神の民としての特権を列挙してきて、パウロはイスラエルの歴史に思いをいたし、そのような特権を与えてその歴史を導かれた神の栄光を賛美しないではおれなくなります。「すべてのものの上にいます神は、永遠に誉むべき方である。アーメン」(五節)。

 「すべてのものの上にいます神」という句は、直前の「キリスト」に続けて、「キリストはすべての上にいます神、永遠に誉むべき方である」と読む読み方と、直前のキリストと切り離して、この私訳のようにイスラエルに以上の栄光を与えた神を讃美すると読む読み方が対立し、議論が続いています。日本語訳では、文語訳と新共同訳が前者(頌栄をキリストにかける訳)、協会訳と岩波版青野訳が後者(キリストと切り離す訳)を採っています。英訳もKJVが前者、RSVが後者、NRSVが前者と揺れています。ここでは頌栄としての文体と、パウロのキリスト論の全体から判断して後者を採ります。