市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第6講

第二節 イスラエルの不信仰

28 イスラエルの拒否 (10章14〜21節)

 14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたこともない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができよう。 15 遣わされることがなければ、どうして宣べ伝えることができよう。「良いことを告げ知らせる者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
 16 しかし、すべての者が福音に聴き従ったのではありません。イザヤも「主よ、わたしたちの聞いたことを誰が信じたのでしょうか」と言っています。 17 実際、信仰は聞くことにより、しかも聞くことはキリストの言葉によるのです。 18 だが、わたしは言います。彼らは聞かなかったのでしょうか。そんなことはありません。「その声は全地に至り、その言葉は世界の果てに及んだ」のです。 19 だが、わたしは言います。イスラエルは理解しなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。「わたしは民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、悟りのない民のことで、あなたがたに怒りを起こさせる」。 20 イザヤも大胆で、こう言っています。「わたしは、わたしを捜さなかった者たちに見出され、わたしを尋ねなかった者たちに現れた」。 21 しかし、イスラエルについてはこう言っています。「わたしは、従わず反抗する民に、一日中手を差し伸べた」。

信仰の前提としての福音

 パウロは、「律法による義」に対して「信仰による義」を掲げ(九・三〇〜一〇・四)、その「信仰による義」とは「口で主イエスを言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら救われる」ことであると、もっとも基本的な信仰告白で説明し(一〇・五〜一三)、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という結論に達しました。それを受けて、この「主の名を呼び求める」ことができるようになるためには、福音の宣教が前提として必要であることを語ります。
 「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたこともない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされることがなければ、どうして宣べ伝えることができよう」(一四節〜一五節前半)。
 出来事としては、遣わされる→宣べ伝える→聞く→信じる→呼び求めるという順序になりますが、それを救われる者の側からたどって、信仰によって救われるためには福音が宣べ伝えられていることが必要であると、詩的なリズムを感じさせる文を連ね、最後に「良いことを告げ知らせる者の足は、なんと美しいことか」という預言者イザヤ(五二・七)の言葉を引用して締めくくります(一五節後半)。
 パウロがここでイザヤ書の言葉を引用したのは、そこに「福音」という用語の元になる表現が用いられているからです。「良いことを告げ知らせる者」という表現は、捕囚期の大預言者(第二イザヤ)が捕囚からの解放という「良いことを告げ知らせる」行為を描くのに用いた表現です。この句は、第二イザヤの預言の冒頭に置かれている解放の告知(イザヤ四〇・一〜一一)の中で用いられ(四〇・九)、五二章で再び美しい詩文の形で現れます。

 「いかに美しいことか、
 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、
 救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、
 シオンに向かって呼ばわる」。(五二・七)

 パウロはこの預言の文を簡潔にして引用していることになります。この「良いことを告げ知らせる」または「良い知らせを伝える」という表現は、第二イザヤを継承した捕囚後の預言者(第三イザヤ)に受け継がれ、イエスが宣教を開始されるときにナザレの会堂で引用されたとルカ(四・一六〜一九)が報告しているあの有名な預言になります。

 「主はわたしに油を注ぎ、
 主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣わして、
  貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み、
 捕らわれ人には自由を、
 つながれている人には解放を、
 主が恵みをお与えになる年を、
  告知させるために」。(イザヤ六一・一〜二)

 ところで、このようにイザヤ書に繰り返して用いられている「良い知らせを伝える」という動詞は、七十人訳ギリシア語聖書では《エウアンゲリゾー》です。これは文字通り、《エウ》(良いことを)《アンゲリゾー》(告げ知らせる)という意味の動詞です。この動詞の名詞形が《エウアンゲリオン》です。世俗のギリシア語では、この語は皇帝の即位や戦勝の告知などに用いられましたが、初期にギリシア語を用いて宣教した教団は、イエス・キリストの出来事を神の救いとして宣べ伝えるさい、その告知をイザヤ書に従って《エウアンゲリオン》と呼ぶようになります。

 この用法はパウロ以前に始まっていると見られますが、パウロはこの語を自分の宣教の中心に据えます。この語は新約聖書に78回用いられていますが、その中の約三分の二はパウロ書簡に出てきます。

 《エウアンゲリオン》は、日本語では「良い音信」という意味で、「福音」という語が当てられることになります。この名詞は、良いことを告げ知らせる行為を指す場合と、良い知らせの内容を指す場合があります。両方が区別しがたく重なっている場合もあります。
 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ようになるために、神はすでに「油を注がれて」遣わされたイエスによって「貧しい人に福音を伝え」、さらに復活者イエス・キリストは使徒たちを遣わして世界に福音を告げ知らされました。先に語られた救いが実現するのに必要な段階(一四〜一五節)の前半、遣わされる→宣べ伝える→聞くという段階はすでに神によって成し遂げられているのです。後は、その告知(福音)を聞いた者が、それを信じて「主イエス」の名を呼び求めさえすれば、救いが実現するのです。

イスラエルの福音拒否

 ところが、神の救済の御計画の中心にいるはずのイスラエルが、この神の福音に聴き従わなかったのです。イスラエルは「主イエス」という名を呼び求めることを拒否したのです。パウロはこの事実を悲痛な思いで受けとめつつ、その事実が聖書に預言されているところであり、神の御計画の一部であることを、やはり聖書を引用して語ります。
 パウロはイスラエルの拒否を念頭に置いて、「しかし、すべての者が福音に聴き従ったのではありません」と言って、それも預言されていることだとして、イザヤ書(五三・一)の「主よ、わたしたちの聞いたことを誰が信じたのでしょうか」という言葉を引用します(一六節)。ここで、これまで「良い知らせを伝える」という動詞で語られていた内容が「福音」《エウアンゲリオン》という名詞で登場します。
 引用されているイザヤの言葉は、その苦難と死によって神の御旨を成し遂げる「主の僕」を歌った有名なイザヤ書五三章(正確には五二・一三〜五三・一二)の初めの部分に出てくる言葉です。「主の僕」によって成し遂げられる救済があまりにも人間の思いと異なることから生じる驚きを、預言者は「主よ、わたしたちの聞いたことを誰が信じたのでしょうか」と表現しています。

 ヘブライ語聖書イザヤ書五三・一の翻訳は、「わたしたちの聞いたこと」と「わたしたちの説いたこと」とに分かれています。七十人訳ギリシャ語聖書の「わたしたちの《アコエー》」も、どちらの解釈も可能です。新共同訳はイザヤ書五三・一を「わたしたちの聞いたこと」と訳し、ここ(ローマ一〇・一六)のギリシャ語を「わたしたちから聞いたこと」と訳しています。ここでは《アコエー》の本来の意味である「聞くこと」に素直に従って、「わたしたちの聞いたこと」と理解します。どちらの訳を採っても、大意は変わりません。

 「福音」が告げ知らせる神の救いの仕方があまりにも人の思いを超えているために、「すべての者が福音に聴き従ったのではありません」という結果になります。しかし、ここではとくにイスラエルが福音を拒否したことが、この預言の成就として起こったとされています。その上で、パウロは改めて「信仰」とは「福音」という神からの語りかけに聴き従うことだと、信仰の本質を語ります。
 「実際、信仰は聞くことにより、しかも聞くことはキリストの言葉によるのです」(一七節)。
 「キリストの言葉」とは「キリストが語られた言葉」ではなく、「キリストを内容とする言葉」、「キリストを告げ知らせる言葉」、すなわち福音を指します。究極的には、キリストご自身が神の言葉ですから、「キリストの」を同格の二格として「キリストという言葉」という意味になります。この「キリストの言葉」すなわち「福音」に聴き従うことが信仰、詳しく言えば「キリスト信仰」なのです。この信仰によって、人は主の名を呼び求める者(主であるイエス・キリストに自分を投げ入れる者)となり、救われるのです。
 こうして、人を救う信仰は福音と表裏一体の関係であり、福音がなければ信仰はありません。では、イスラエルが不信仰であるのは、イスラエルが福音を聞かなかったからであるのか、とパウロは自ら設問し、そうでないと応えます。
 「だが、わたしは言います。彼らは聞かなかったのでしょうか。そんなことはありません」。彼ら(イスラエル)は福音という神の語りかけの声を聞いているのです。というのは、「その声は全地に至り、その言葉は世界の果てに及んだ」からです(一八節)。
 この節の「彼ら」がイスラエルを指すことは、同じ問題を扱う次の節ではっきり「イスラエル」と名指しされていることから明らかです。イスラエルは「キリストの言葉」すなわち福音を聞いているのです。詩篇(一九・五)が歌っているように「その声は全地に至り、その言葉は世界の果てに及んだ」のです。
 詩篇一九編での意味は、全宇宙が神の栄光を讃美していることを歌うものですが、パウロはそれを、福音が全世界に響きわたっており、イスラエルは福音を聞かなかったという弁解は成り立たないことの根拠として引用します。イスラエルは福音を聞いたのにそれを拒否したのである、という主張です。パウロは、自分の時代には福音が全世界に響き渡っていると考えています。実際には使徒たちがまだ足を踏み入れていない地域があるとしても、原理的はすでに世界のすべての民族に福音の声は届いていると、パウロは自身の宣教活動の質からも考えています。しかも、神の言葉は「最初にユダヤ人に、そしてまた異邦人にも」与えられたのです。イスラエルはその声を聞かなかったとは言えません。では、聞いていながら拒否したのはなぜか。理解しなかったからであるかと設問します。

モーセの証言

 「だが、わたしは言います。イスラエルは理解しなかったのでしょうか」(一九節前半)。この自ら立てた問いに、パウロは自分の言葉で答えず、聖書を引用して、聖書に答えさせます。実は、パウロはすでにはっきりと自分の言葉で答えているのです。イスラエルは福音を聞いていながら、その福音の中に啓示された神の義を理解しなかったのです。たしかに、イスラエルは義の律法を熱心に追求しました。しかし、その熱心は知識(正しい理解)に従っていなかったのです。イスラエルは神の義を理解せず、自分の義を立てることを追求して、神の義に従わなかったのです(一〇・二〜三)。
 しかし、ここでは聖書に答えさせることで、先にパウロ自身がイスラエルの無理解について語ったことを根拠づけます。そのさい、律法(モーセ五書)と預言者の両方から引用する当時の律法学者たちの議論の仕方に従っています。
 「まず、モーセがこう言っています」と言って、モーセ律法の書の一つである申命記から三二章二一節の、「わたしは民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、悟りのない民のことで、あなたがたに怒りを起こさせる」という言葉を引用します(一九節後半)。
 申命記では「彼らは神ならぬものをもってわたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもってわたしの怒りを燃え立たせた。それゆえ」という文の後に、ここで引用されている言葉が続いています。すなわち、申命記ではイスラエルの偶像礼拝が主の怒りを招き、その結果、イスラエルが主の民でない者たち(異教徒たち)に辱められようになることを警告しています。その預言を、パウロは福音によって異邦人が招き入れられ、イスラエルが退けられる現在の状況の預言として引用するのです。
 パウロがこのローマ書を執筆している時点(五六年)での状況を見ますと、パウロ自身が先頭に立っている異邦人伝道は進展して、多くの異邦人が信仰に入り、異邦人を主体とする集会がパレスチナ以外の各地に形成されるようになっていました。しかし、パレスチナでは律法に対する「熱心」、すなわちユダヤ教原理主義的な運動が激しくなり、ローマの支配者およびそれに協力するユダヤ人への敵意が強くなり、ユダヤ戦争への道を突き進んでいました。その中でイエスを信じるユダヤ人に対する迫害も激しくなり、イスラエルはイエス・キリストの福音を拒否する姿勢を一段と強めていました。
 このように福音が異邦人に受け入れられイスラエルには拒否されるという状況は、すでに聖書が語っているところだとして、パウロは申命記の言葉を引用します。パウロは申命記の言葉を用いてこう言っているのです。
 「わたしは、民でない者(主に属するイスラエルではない異邦人)のことで、あなたがた(イスラエル)に、(自分が退けられ異邦人が受け入れられているのを見て)ねたみを起こさせ、悟りのない民(律法を持たず神の知識がない民としてユダヤ人から軽蔑されている異教の諸民族)のことで、(そのような民が受け入れられている事実によって)あなたがたに(そんな馬鹿なことがあるものかと)怒りを起こさせる」。
パウロはこの申命記の言葉を、福音が異邦人に受け入れられイスラエルには拒否されるという出来事を予告する言葉として引用するだけではなく、その中の「ねたみ」という語を梃子にして、このような事態も結局はイスラエルを救いに至らせるための神の計画の中にあるという次章(一一章)の議論を展開することになります。「ねたみ」は、イスラエルの救いを論じる一一章の中で重要な意義を担うことになります(一一節、一四節参照)。

イザヤの預言

 続いて預言者から、「イザヤも大胆で、こう言っています」と言って、イザヤの言葉を引用します(二〇節)。
 「わたしは、わたしを捜さなかった者たちに見出され、わたしを尋ねなかった者たちに現れた」(イザヤ六五・一前半)。この預言を語った捕囚後の預言者(第三イザヤ)の状況では、「わたしを捜さなかった者たち」とか「わたしを尋ねなかった者」というのはイスラエルの中の不信な者たちを指しています。しかし、パウロはそれをイスラエルの神が異邦人に現れて、異邦人をご自分の民とされることの預言として引用します。このように解釈されたイザヤは、ユダヤ人にとってはずいぶん「大胆で」あることになります。
 しかし、実はこの六五章一節のイザヤの言葉を異邦人に関する預言と解釈することは、この節自体の中にきっかけがあります。パウロが引用している言葉の後に次のような言葉が続いています。
 「わたしの名を呼ばない民に、わたしはここにいる、ここにいると言った」(イザヤ六五・一後半)。ここに用いられている「民」という用語は、七十人訳ギリシア語聖書では《エスノス》です。この語は、パウロ時代のユダヤ教では普通異邦の民を指しています。それに対して、イスラエルを指して「民」と言う場合には普通《ラオス》という語が用いられます。次節の引用文の「従わず反抗する民」の「民」は《ラオス》です。そうすると、パウロがイザヤ書六五章の一節を異邦人について、二節をイスラエルについての預言として引用することは、当時のユダヤ人には説得的な議論になります(パウロが引用にさいして、この対照をいっそう明確にする一節の後半を引用しなかったことについては後述)。
 イスラエルの神を捜すこともなく尋ねることもなかった異邦人が神に受け入れられているのに対して、「しかし、イスラエルについてはこう言っています」(二一節)と言って、パウロは先のイザヤ書の次の節を引用します。「わたしは、従わず反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(イザヤ六五・二)。
 その名を熱心に呼び求めて捜してきたイスラエルが退けられている現実は、預言者が預言しているところだというのです。預言者はイスラエルが最後まで神の語りかけを拒否することを見通して、「従わず反抗する民」としているのです。
 しかしここでも、パウロは預言者の言葉を、たんにイスラエルが福音を拒否することの預言として引用するのではなく、同時に「従わず反抗する民」にも「一日中手を差し伸べ」て、ついには彼らを最終的には救われる神の限りない慈愛と忍耐を示唆して、イスラエルの最終的な救いを論じる次章を準備します。「一日中手を差し伸べた」という言葉は、主が最後まで反抗するイスラエルを見放すことなく、その慈愛を貫かれることを見た預言者の言葉ですが、その理解をパウロも継承していると言えます。

パウロの聖書引用

 ところで、パウロはこのローマ書を書くにさいして多くの聖書の言葉を引用して議論を進めていますが、とくにこの第三部(九〜一一章)には多い感じがします。ほとんど聖書の言葉で自分の議論を組み立てていると言えます。この講解でもパウロの聖書引用を聖書のテキストと比較して、パウロは「簡潔な形で引用している」とか、ある部分を「削除している」あるいは「省略している」とか、この語を「付け加えている」とか説明してきました。このような引用の仕方は、現代の神学者が聖書を用いて議論するときの仕方とはかなり違います。現代では、パウロのような引用の仕方をすれば、聖書の勝手な改変だとか解釈だと非難されることになりかねません。
 しかし、パウロはこのローマ書簡を口述するに際して、目の前に聖書のテキストを置いているわけではありません。旅先で口述しているパウロは、巻物とか羊皮紙の聖書の本文を持ってはいなかったでしょう。現代の説教者とか学者が、机の上に聖書全巻を一冊の書として置いて、それを見ながら語ったり書いたりするのとは、事情が全然違います。
 パウロは、律法学者としてこれまでに師の膝下で学び身につけてきた聖書の内容を、その記憶の中から呼び出して引用しているのです。そのさい、キリストにあるパウロは、もはやユダヤ教律法学者のようにではなく、御霊によって「キリストにある」事態を語り出すのに、聖書を縦横に駆使します。その結果、聖書の言葉はキリストを語るのにふさわしい形になって、自然にパウロの口からほとばしり出てくるのです。その結果を聖書のテキストと比較すると、「略した」とか「付け加えた」とか「転釈した」というようなことが言われるようになります。しかし、パウロにとってはごく自然に溢れ出てくる形なのです。
 パウロの聖書引用がこのように記憶の中から、あるいは身についた知識の中から自然に溢れ出るものであるならば、むしろその正確さに驚嘆します。ユダヤ教律法学者とは、実にこのようなことができるように訓練を受けたプロであることを感じさせます。パウロが聖書から、とくに律法の書(モーセ五書)と預言者の書から、自分が語ろうとする御霊のキリストの事態を表現するのにふさわしい言葉を正確に取り出し、しかも大胆で自由に用いる仕方を見ますと、驚嘆するばかりです。現代に神学する者は、この点においてもパウロに学ばなければならないと思います。