市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第7講

第三節 イスラエルの回復

29 イスラエルの残りの者 (11章 1〜10節)

 1 そこで、わたしは言います。神は御自分の民を捨てられたのでしょうか。決してそうではない。わたし自身もイスラエル人であって、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。 2 神は、前もって知っておられた御自分の民を捨てることはなさいませんでした。それとも、あなたがたは聖書がエリヤについて言っていることを知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えて、こう言っています。 3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています」。 4 しかし、神のお告げは彼に何と言っていますか。「わたしは、バールに膝をかがめない者七千人を自分のために残しておいた」。 5 同じように、現に今も、恵みの選びによって残りの者が残されています。 6 恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。恵みが恵みでなくなるからです。
 7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者が得たのです。他の者はかたくなにされたのです。 8 こう書かれている通りです。「神は彼らに、今日にいたるまで、麻痺の霊、見えない目、聞こえない耳をお与えになった」。 9 ダビデもまたこう言っています。「彼らの食卓は罠となり、網となるように。また、つまずきとなり、仕返しとなるように。 10 彼らの目は暗くされ、見えなくなるように。彼らの背はいつも曲がっているように」。

残りの者

 パウロは第三部に入って、深い心の痛みをもってイスラエルがキリスト・イエスを拒否している現実を取り上げ(九・一〜五)、それは憐れみの器としてイスラエルではなく異邦人を選ばれた神の自由な主権的選びの結果であることを述べ(九・六〜二九)、また、律法の義に固執して神の義に従わなかったイスラエルのつまずきの結果であることを論じました(九・三〇〜一〇・二一)。この先行部分の全体を受けて、ではその結論として神は御自分の民を捨てたことになるのかという反論を、パウロが自ら取り上げて、「そこで、わたしは言います。神は御自分の民を捨てられたのでしょうか」と問い、「決してそうではない」と、きっぱり否定します(一節前半)。

 この問いは七十人訳ギリシャ語聖書の詩篇九三・一四(新共同訳では九四・一四)を疑問文にした形を用いています。

 詩篇にこう書かれています。

 「主は御自分の民を決しておろそかにされず、
  御自分の嗣業を見捨てることはなさいません」。(詩篇九四・一四)

 神が御自分の民を見捨てるというようなことはありえない、これがイスラエルの確信です。パウロも、「神は御自身の民を見捨てられたのであろうか」という疑念を、「そんなことはありえない」ときっぱり否定することで、この確信を言い表しています。この確信を共にすることにおいて、自分も生粋のイスラエル人であることを改めて強調します。
 「わたし自身もイスラエル人であって、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です」(一節後半)。
 それだけでなく、イスラエルが拒否しているイエス・キリストの福音を命がけで押し進めているパウロ自身が生粋のイスラエル人である事実(フィリピ三・四参照)をあげて、この事実は神がイスラエルを見捨てておられないことのしるしであるとします。これは同時に、この段落の主題である「残りの者」の実例として、まず自分自身を取り上げることにもなります。
 「神は、前もって知っておられた御自分の民を捨てることはなさいませんでした」(二節前半)。
 この文の動詞は「捨てなかった」と過去形です。パウロは、神が御自身の民を見捨てなかった証拠として自分自身を差し出しましたが、すぐイスラエルの歴史そのものを証拠として取り上げます。イスラエルはエジプトから導き出された直後から繰り返し主に背いてきました。それにもかかわらず、神は「前もって知り、前もって御自身の御計画のために召された御自分の民イスラエル」を見捨てることはなく、ここまでイスラエルの歴史の中で働き、民を導いてこられました。民が背くのに見捨てないでその中に神が働かれるのは、すでに述べたように(九・六〜一八)、背く民の中に恩恵の選びによって神の働きの担い手が残されているからです。その原理がここで、エリヤの場合を実例として(二節後半〜四節)、明白な言葉で宣言されます(五〜六節)。
 まず実例として、イスラエルの歴史の中からエリヤの場合が取り上げられます。
 「それとも、あなたがたは聖書がエリヤについて言っていることを知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えて、こう言っています。『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています』。 しかし、神のお告げは彼に何と言っていますか。『わたしは、バールに膝をかがめない者七千人を自分のために残しておいた』」。(二節後半〜四節)
 パウロは、「それとも、あなたがたは知らないのですか」と言って(当然知っているはずだとして)、ユダヤ人であれば誰もがよくよく知っている列王記上一九章のエリヤ物語を要約して引用します。この時パウロは、「わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています」と神に訴えたエリヤの姿に、キリストの福音を宣べ伝えることによってユダヤ人たちから命をねらわれている自分の姿を重ねていたことでしょう。

 四節は列王記上一九・一八のやや自由な引用です。列王記では「残すであろう」(七十人訳ギリシャ語聖書では未来形)と約束になっていますが、パウロは過去形にして引用しています。なお列王記の文の現代語訳は多くは未来形で訳していますが、一部完了形を用いるものもあります。

 「残りの者」の思想、すなわち背く多数者の中に神の働きを担う少数者を神が残されるという思想は、旧約聖書の中に底流としてずっと流れています。人類のはじまりからイスラエルの成立までを物語るモーセ五書においても、増え広がる多数の人間が神に背く中で、少数の者が選別されていって、ついにアブラハム一人が御計画の担い手として選ばれます。そのアブラハムの子孫もすべてではなく、その一部の者が選ばれて、彼らの中で神の働きが進められることになります。このことは、王国時代に国全体がヤハウェに背く傾向を強くするようになり、預言者たちの厳しい審判の預言が語られるようになったとき、「残りの者」という形で明確になってきます。エリヤの場合はその典型ですが、その後もアモス(五・一五)を経て、イザヤに至って預言の中で重要な位置を占めるようになります(一・九、六・一三、一〇・二〇以下など多数)。

恩恵の選び

 「同じように、現に今も、恵みの選びによって残りの者が残されています」。(五節)
 エリヤの場合と「同じように、現に今も」残りの者が残されている事実を、パウロは指摘します。エリヤの場合は、「バールに膝をかがめない者七千人」でした。今はキリスト・イエスを信じる少数のユダヤ人たちです。大祭司と最高法院に代表されるイスラエル全体は、イエスをキリストと認めず、律法を行う自分の義に固執して、キリストであるイエスにおいて差し出された恩恵を拒否しています。その中で少数のユダヤ人は、キリスト・イエスを信じて、神の終末的な救済の働きにあずかっています。
 なぜ神の民であるイスラエルの大多数がキリストを退け少数の者だけが残されたのかについては、パウロはすでに(九・六〜二九で)詳しく論じました。それは、神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるからです(九・一八)。神は、「わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう」と言われる神です。「従って、意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神によるのです」ということになります(九・一五〜一六)。このことを、パウロはここで「恵みの選びによって」と一句に要約します。
 この「恩恵の選び」、すなわち「恩恵による選び」こそ、救済史の秘義の扉を開く鍵です。救済史は秘義に満ちています。地上における(歴史における)神の働きは、わたしたちの目には理解しがたく、謎だらけです。しかし、わたしたちがキリストにあって神の恩恵の支配を悟るとき、その謎を解く光が差し始めます。パウロはこの光によって、この第三部で悲痛な思いで取り上げたイスラエルの拒否という謎を、神の恩恵への賛美で終わることができるのです。
 「恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。恵みが恵みでなくなるからです」(六節)。
 パウロはここで改めて「恩恵の選び」を説明します。キリストを拒否する大多数のイスラエルの中に、キリストを信じる少数のユダヤ人が「残りの者」として残されているのは、彼らの意志や努力、総じて彼らの側の「行いによる」のではありません。人間の側の行為とか資格とかに関係なく、神が無条件に恩恵によって彼らを御自分の民として選ばれた結果です。もし、すこしでも彼らの側の行いとか資格とか功績が問題になっているのであれば、彼らが「残りの者」として選ばれたのは「恩恵による」ものではなくなります。「行いによるのであれば、恵みは恵みでなくなります」。
 このようにパウロが改めて「行いによるのではない」ことを強調しなければならなかったのは、クムランとの対比が念頭にあったからではないかとも推察されます。実は、パウロの時代に、イスラエル全体は神に背いているが、その中で自分たちこそ終わりの時に神に選ばれて残された「残りの者」であるという自覚をもつユダヤ人の群れが別にあったのです。すなわち、クムランのエッセネ派共同体です。
 捕囚後のユダヤ教においては、イザヤなどに強烈であった「残りの者」の思想は後退し、ユダヤ教団全体が「選ばれた神の民」であるという思想が支配的になります。しかし、そのユダヤ教が時代のとうとうたるヘレニズム化の波に押し流されるようになったとき、父祖たちのヤハウェ信仰を純粋に保持しようとする「ハシディーム」(敬虔な者たち)の運動が起こり、その中からファリサイ派とエッセネ派が生まれます。彼らは、律法を忠実に守ることによって、自分たちはヤハウェに背く周囲のユダヤ人とは違うのだという自覚をもって結束します。
 その「ハシディーム」の運動からダニエル書のような黙示文書が生まれ、黙示思想はそれ以後のユダヤ教に大きな影響を及ぼすことになります。黙示思想においては、宇宙的な破局を経て神の支配が実現する新しい時代(アイオーン)が到来するとされていましたから、もともと全面的な破滅を通過して生き延び、次の時代を担うようになる少数者を指す「残りの者」の思想は、黙示思想の中で重要な位置を占めることになります。
 パウロの時代のユダヤ教諸派の中でも、エッセネ派は黙示思想的傾向が強く、モーセ律法を厳格に実行する義人の集団として新しいアイオーンの到来を待ちます。そして、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教を、正統でない大祭司によって導かれる滅びの民であると断罪して、クムランに別の祭司制をもつ共同体を形成します。そして、自分たちこそ終わりの時に神の救済計画を担うために選ばれた「残りの者」であると主張します。

 クムランの「残りの者」の思想は死海文書の中で繰り返し表明されています。たとえば「戦いの書」三・八、一四・八〜九、「感謝の詩篇」六・八 、「ダマスコ文書」一・四、二・一一などを参照。

 クムランのエッセネ派共同体が、自分たちこそ選ばれた「残りの者」であるとする根拠は、自分たちだけが律法を正しく理解し、厳密に実行している者であることです。すなわち、彼らは律法の厳格な実行という「行いによって」選ばれているとするのです。それに対して、パウロはキリスト・イエスを信じるユダヤ人こそ、イスラエルの中の「残りの者」だとしますが、それは行いの原理によって選ばれた「残りの者」ではなく、恩恵の原理によって選ばれた者たちです。パウロの福音の根底である「恩恵の支配」の原理は、この救済史の核心部である「残りの者」の思想にも貫かれています。

イスラエルはかたくなにされた

 「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者が得たのです。他の者はかたくなにされたのです」(七節)。
 イスラエルは律法を順守することによって義に達し、神の選びの民であることを実証することを追求しましたが、その義を得ることはできませんでした(このことはすでに九章三一節で語られています)。ただ「選ばれた者」だけが義を得ました。イスラエルの中の少数の者(残りの者)だけが、キリストの福音を信じて「信仰による義」を得ましたが、それも彼らの功績ではなく、神がそのように選ばれた結果、「恩恵の選び」の結果に他なりません。
 他の者はかたくなにされました。「かたくなにされた」という受動態の隠された主語は神です。「神が彼らをかたくなにされた」のです。神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです(九・一八)。少数の「残りの者」を除くイスラエルの大多数は、イエス・キリストを拒否しました。それは、神が彼らをかたくなにされた結果です。そのことをパウロはここでも聖書を引用して論証します。
 最初に「こう書かれている通りです」と言って、パウロは申命記とイザヤ書の言葉を合わせた形で聖書を引用します。「神は彼らに、今日にいたるまで、麻痺の霊、見えない目、聞こえない耳をお与えになった」(八節)。
 申命記(二九・三)では「主はそれを悟る心、見る目、聞く耳をお与えにならなかった」とありますが、イザヤ書(二九・一〇)の「主は麻痺の霊(新共同訳イザヤ書では「深い眠りの霊」)を注いだ」を構文の基本形とすることで、パウロはそれを「神は麻痺の霊、見えない目、聞こえない耳をお与えになった」と変えて引用しています。そうすることで、申命記の「悟る心を与えなかった」より、、現在のイスラエルのイエス拒否が神の計画から来るものであることがいっそう強調され、「神が彼らをかたくなにされた」という主張の論拠としてふさわしい形となっています。
 さらに、「ダビデもまたこう言っています」と言って詩篇六九編二三〜二四節を引用します。「彼らの食卓は罠となり、網となるように。また、つまずきとなり、仕返しとなるように。彼らの目は暗くされ、見えなくなるように。彼らの背はいつも曲がっているように」(九〜一〇節)。
 この詩篇の言葉はもともとダビデが自分を迫害する敵たちを呪った言葉です。「目は暗くされ、見えなくなれ」は、先の申命記の引用を補強します。「背は曲がっている」(七十人訳ギリシア語聖書の表現)というのは奴隷の境遇を象徴する表現です。詩篇は、信仰者を迫害する者たちが食卓でめぐらす策略がかえって彼ら自身の破滅となるようにと願って、「彼らの食卓は罠となり、網となるように」と言っていますが、パウロはこの言葉を神殿祭儀に対する預言として引用している可能性があります。
 古代宗教においては「食卓」は神的存在と地上の人間との交わりの場であり、宗教的祭儀を意味します。その用法は新約聖書まで続いており、パウロは「主の晩餐」を「主の食卓」と呼んで、「サタンの食卓」と対比しています(コリントT一〇・二一)。「食卓」をこのように理解しますと、この詩篇の言葉は、キリストにある贖いが成就した今、それを認めないで神殿祭儀の贖罪に固執するならば、その祭儀自体が罠となり、つまずきとなって、その祭儀に固執する者たちを滅びに至らせるという預言になります。

30 救済計画におけるイスラエルと異邦人 (11章 11〜24節)

 11 そこでわたしは言う。彼らはつまずいて倒れてしまったのでしょうか。決してそうではない。かえって、彼らの過ちによって救いが異邦人に及び、彼らを奮起させるためであったのです。 12 もし彼らの過ちが世の富となり、彼らの脱落が異邦人の富となったのであれば、彼らの数が満ちることはどれほどの富となることでしょうか。
 13 だが、わたしは異邦人であるあなたがたに言います。たしかに、わたし自身は異邦人への使徒であるかぎり、わたしの務めを誇りにしていますが、 14 それは何とかしてわたしの骨肉を奮起させて、彼らの中の幾ばくかを救いたいからです。 15 彼らが捨てられることが世の和解となったのであれば、受け入れられることは死者たちからの命のようではありませんか。16 初穂が聖であれば練り粉も聖であり、根が聖であれば枝も聖なのです。 17 ところで、一部の枝が切り取られて、野生のオリーブであるあなたが代わりに接ぎ木され、オリーブの根の養分にあずかる者になったとしても、 18 その枝に対して誇ってはなりません。誇っても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
 19 あなたは言うでしょう、その枝が切り取られたのはわたしが接ぎ木されるためであったと。 20 その通りです。彼らは不信仰によって切り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。高ぶった思いを持つことなく、恐れなさい。 21 神が自然の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたを惜しまれることもないからです。 22 ですから、神の慈愛と峻厳を見なさい。倒れた者に峻厳が向けられ、あなたには神の慈愛が向けられています。それはあなたが慈愛に留まるかぎりであって、そうでないなら、あなたも切り取られます。 23 しかし、彼らもまた不信仰を続けなければ接ぎ木されることになります。神は彼らを再び接ぎ木することができる方です。 24 もしあなたがもともと野生オリーブの木から切り取られて、自然の性質に反して栽培オリーブに接ぎ木されたとすれば、まして、もともとからの枝は元のオリーブに接ぎ木されないことがあるでしょうか。

イスラエルを奮起させるため

 本章の初め(一一章一節)で、イスラエルが全体としてキリスト・イエスを拒否している現実が何を意味するのかという問題を、パウロ自らが取り上げて、「そこで、わたしは言います。神は御自分の民を捨てられたのでしょうか」と問いました。その問いを、今度はイスラエルの立場から見た形で繰り返し、「そこでわたしは言う。彼らはつまずいて倒れてしまったのでしょうか」と問いを発し、再び「決してそうではない」と、きっぱりと否定します(一一節前半)。
 この一一〜二四節の段落で、パウロは「イスラエル」とか「ユダヤ人」という名詞は用いず、「彼ら」で通しています。この段落の「彼ら」は、先行する部分の続きからして、また異邦人と対比されていることからして、少数の「残りの者」を別にして全体として福音を拒否しているユダヤ人を指していることは明らかです。

 新共同訳は一一節と二〇節で、異邦人と対立する名称として「ユダヤ人」という名詞を補って訳しています。岩波版新約聖書も一一節で「ユダヤ人たち」と名をあげています。

 「彼ら」イスラエルは、自分の義を立てようとして神の義に従わず、「つまずきの石につまずいて」しまいました(九・三〇〜一〇・四)。それは「彼らは倒れてしまった」こと、すなわち神から最終的に見捨てられたことを意味するのでしょうか。「決してそうではない」とパウロは断言します。では、イスラエルがキリスト・イエスを拒否したことは何を意味するのでしょうか。それは「かえって、彼らの過ちによって救いが異邦人に及び、彼らを奮起させるためであったのです」(一一節後半)。
 「過ち」は単数形です。「彼らの過ち」とは、律法違反の諸々の罪過ではなく、自己の義を立てようとして神の義に従わなかった過ち、すなわち神の恩恵を拒否し、福音を拒否したという根本的な過ちを指しています。イスラエルがこの過ちによって、キリスト・イエスを十字架につけただけでなく、復活者キリストの福音を拒否して、それを宣べ伝える使徒たちをイスラエルから追い出したために、キリストの福音は異邦の諸民族に伝えられることになりました。パウロ自身がこの事実の証人です。パウロはユダヤ人たちから石を投げつけられて追われ、異邦人の世界に向かったのでした。ルカはこのような見方でパウロの異邦人伝道を描いています(使徒一三・四四〜五二など)。
 このように「彼らの過ちによって救いが異邦人に及ぶ」ようになったのは、異邦諸民族がイスラエルの神の祝福にあずかる事実を見せて、イスラエルを「奮起させる」ためであったのです。

 「奮起させる」と訳した動詞は、「ねたみを引き起こす」(新共同訳、岩波版新約聖書)とも訳せます。しかし、この動詞の核になっている《ゼーロス》は、本来「熱心」とか「熱情」という意味ですから、ここでは「熱意を起こさせる」という意味に理解する方が適切でしょう。イスラエルが、神の異邦人への扱い方(信仰による義)を見て、その道で神への熱情を持つようになることを意味します。「奮起させる」(協会訳)は適訳と考えられます。他者の扱われ方を見て刺激を受けるという意味では、「ねたみを引き起こす」という訳も成り立ちます。この訳は、一〇・一九の聖書引用との関連を分かり易くするという有利な点もあります(その節の講解を参照)。なお文語訳は「励ます」です。この動詞は一四節でも同じ意味で用いられています。

 「奮起させるため」という言い方は、イスラエルがやがてキリストの福音を受け入れるようになることを確信している者の言い方です。パウロは、これまで二〇〇〇年間にわたって神の救済計画の担い手であったイスラエルがその完成に参加できないということは考えられない「イスラエル人の中のイスラエル人」です。イスラエルはあくまで神の救済計画の中心的な担い手です。今イスラエルがキリストを拒否してその御計画から締め出されているのは、決して「神が御自分の民を見捨てられた」からでもなく、「彼らは倒れてしまった」のでもありません。イスラエルが今は救済計画から締め出されているのは一時的な出来事であって、それは異邦の諸民族をこの救済計画の中に取り入れるための神の計らいです。パウロは、イスラエルのキリスト拒否をこのように神の目的の視点から理解しています。その結果、次のように語ることになります。
 「もし彼らの過ちが世の富となり、彼らの脱落が異邦人の富となったのであれば、彼らの数が満ちることはどれほどの富となることでしょうか」(一二節)。
 「彼らの脱落」と訳した箇所は、直訳すると「彼らの損失」です。この「損失」(単数形)はイスラエルが何かを失ったという意味ではなく、イスラエルがこの時点で神の御計画から「失われた」という意味であるので、「脱落」と訳しています。イスラエルは、神が遣わされた終末的な救済者であるイエス・キリストを拒否するという「過ち」によって、神の救済史の担い手としての地位から「脱落」しましたが、それは一時的な出来事であり、時が来れば(その時については二五節の講解で扱うことになります)、イスラエルは福音を受け入れて、全イスラエルが救われるに至ると、パウロは確信しています。このイスラエルが全体として救われることが、ここで「彼らの数が満ちること」と表現されています。

 「数が満ちる」というのは黙示思想の表現です。たとえば『シリア語バルク黙示録』(二三・五)では、「その数(神が定められた数)が充ちない限り被造物は救われない」とあります(その他、ラテン語エズラ記四・三三〜三七を参照)。その思想は、民数記において神の民の数が正確に数えられたことから来ているのかもしれません。この思想はヨハネ黙示録において、神の刻印を押された者の数が正確に一四万四千人とされていることにもつながるのでしょう(黙示録七・四)。なお、この「数が満ちる」ことは、二五節で「異邦人の数が満ちる」という形でも取り上げられています。

 イスラエルがその過ちによって脱落したことが、福音が異邦諸民族に伝えられる機縁となり、異邦諸民族が神の救いと祝福にあずかるという時代が現出し、世界全体の「富」となりました。そうであれば、ましてイスラエル全体が救われることは、世界にとってどれほど豊かな祝福になることかと、その日を望み見てパウロはこの秘義を熱く語ります。

異邦人への警告

 「だが、わたしは異邦人であるあなたがたに言います」(一三節前半)。
 ここでパウロは、イスラエルの「過ちと脱落」を見て、異邦人がユダヤ人を軽蔑して驕り高ぶらないように、異邦人に向かって警告を語ります。ローマの集会はユダヤ人と異邦人の両方を含む集会であり、両者の交わりは(一四章から一五章にかけて見られるように)微妙な問題をはらんでいました。パウロがここでユダヤ人の「過ちと脱落」について語ったことによって、異邦人信徒がユダヤ人信徒に対して優越感を持つようなことになると、両者の交わりに重大な亀裂が入ります。
 「たしかに、わたし自身は異邦人への使徒であるかぎり、わたしの務めを誇りにしていますが、それは何とかしてわたしの骨肉を奮起させて、彼らの中の幾ばくかを救いたいからです」(一三節後半〜一四節)。
 パウロは自分を直接主イエス・キリストから異邦諸民族に福音を伝えるように任命された使徒であると自覚し、その使命を誇りとして、命がけで福音を異邦人に伝えてきました。しかし、それは決してイスラエルの民を忘れたとか、その救いに無関心であったからではありません。パウロは自分の「骨肉」、すなわち自分の同族であるユダヤ人の救いを切に祈ってきました。それはこの第三部の冒頭(九・一〜五)で熱く語られています。今パウロが異邦人に福音を宣べ伝え、彼らを救いに導いているのは、それを見て自分の骨肉であるユダヤ人が奮起して、たとえ数は少なくとも、キリストにある救いに入るようにしたいからだと、自分の気持ちを異邦人信徒に訴えます。そして、一二節で言ったことを違う表現で繰り返します。
 「彼ら(イスラエル)が捨てられることが世の和解となったのであれば、受け入れられることは死者たちからの命のようではありませんか」(一五節)。
 神はキリストにおいて世と和解し、その和解を伝える務めを使徒たちに委ねられました(コリントU五・一八〜二一)。ところが、その使徒たちのキリスト宣教をユダヤ人が拒否したので、和解の福音は異邦人世界に向かい、神に背いていた異邦人世界が神との和解を受けるにいたりました。この救済史的な出来事を、パウロは「彼らが捨てられることが世の和解となった」と表現します。偶像を拝み、「生けるまことの神」から遠くに離れていた異邦諸民族が、キリストにある神の和解を受けて、終末的な救いにあずかり、神の民となっているのです。

 「和解」とか「和解する」という用語は、新約聖書ではパウロだけに見られます。パウロは、ユダヤ人には「義」とか「義とされる」という聖書の用語で語りますが、異邦人には同じことを一般社会で用いられている「和解」という用語で語ります。このことについては五章九〜一〇節の講解を参照してください。

 このように、イスラエルが一時的にせよ捨てられることによって世界が神と和解して、神の祝福にあずかるようになったとすれば、ましてイスラエルがイエス・キリストへ回心し、最終的に神に受け入れられるようになることは、死んでいた者が生き返る奇跡のようではないか、とその意義を強調して異邦人信徒に訴えます。
 パウロはイスラエル全体が救われることを望み見ていますが、それは死んだ者を生かす神(四・一一)だけができることであると見ています。この表現はエゼキエル書(三七章)の「枯骨の谷」の幻を思い起こさせます。枯れ果てて谷に散らばっている骨に、神の霊風が吹き込まれて、骨と骨がつながり、肉と皮が生じて、枯れた骨が立ち上がって生きた人間になります。この幻は、終わりの日に神の霊の働きによって倒れ伏しているイスラエルが起こされて、再び神の民として生きるようになることを預言しています。パウロはエゼキエルのように、今は倒れ伏しているイスラエルがやがて死者たちから生き返る者のように立ち上がる日を望み見ています。そして、その出来事はイスラエルに起こる奇跡であるだけでなく、世界に起こる奇跡でもあります。世界は今イスラエルの脱落を機縁として神との和解を受けていますが、イスラエルが回復するときには「あたかも死者たちからの命のように」様相を一変して、平和と祝福に満ちた世界となるのです。
 なお、この文は「あたかも・・・・のようである」という文であることに注意しなければなりません。パウロは、イスラエルが全部救われることが、福音の告知している「死者の復活」であると言っているのではありません。「死者の復活」にたとえられるような奇跡的な出来事であると言っているのです。イスラエルの回復はなお歴史の中の出来事として待望されていますが、「死者の復活」は歴史を超えた終末の希望です。両者は別の次元の事柄です。

接ぎ木のたとえ

 ここでパウロは、異邦人の兄弟たちに救済史における自分たちの立場を理解してもらうために比喩を用いて語ります。
 「初穂が聖であれば練り粉も聖であり、根が聖であれば枝も聖なのです」(一六節)。
 ここには二つの比喩が語られています。一つは初穂と練り粉であり、他の一つは根と枝の比喩です。初穂と練り粉の比喩はユダヤ教の祭儀から取られています。ユダヤ教においては、新しい穀物の収穫にさいして初物《アパルケー》(初物の麦粉で作った輪型のパン)をヤハウェの祭壇に捧げることになっています(民数記一五・一七〜二一)。初物が主に捧げられて聖別されることによって、その年のパンの練り粉全体が聖別されるのです。このような祭儀はユダヤ教だけに限らず、日本の神事でも初穂を捧げる祭事があります。
 パウロはこの《アパルケー》という語を用いて、死者の復活を論じる重要な箇所で、イエスの復活は終わりの日における死者たちの復活の「初穂」であると語っています(コリントT一五・二〇)。これも、同じ祭儀を背景とした比喩的表現です。しかし、ここでの初穂と練り粉は、イスラエルと異邦諸民族(世界全体)の関係の比喩として用いられています。すなわち、初穂が聖別されて神に捧げられるとき、その初穂によって代表されるその年の練り粉全体が聖別されるように、イスラエルが神に聖別されることによって、イスラエルに代表される全世界が神に聖別されるという関係です。世界の異邦諸民族は、イスラエルの聖別(神への所属)に参与する形で聖別されるのです。
 パウロはユダヤ教祭儀を背景とした比喩を用いた後すぐに、ユダヤ教祭儀を背景としない分かり易い比喩を続けます。それが根と枝の比喩です。木の枝が根の性質にあずかることは、誰でも納得できる事実です。この事実を背景として、世界は枝として根であるイスラエルの聖(神への所属)にあずかるのだと語ります。
 根と枝の比喩を取り上げることによって、パウロは現在のイスラエルの脱落と異邦諸民族の救済の関係をさらに正確に説明することができるようになります。それが以下に語られる接ぎ木の比喩です。
 「ところで、一部の枝が切り取られて、野生のオリーブであるあなたが代わりに接ぎ木され、オリーブの根の養分にあずかる者になったとしても、その枝に対して誇ってはなりません。誇っても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(一七〜一八節)。
 イスラエルをオリーヴ、いちじく、ぶどうの木などにたとえて描く語り方は、預言者以来パウロの時代のユダヤ教にいたるまで連綿と続いてきました。イスラエルは、アブラハムを初めとする父祖たちを根とし、自分たちは枝として根である父祖たち(とくにアブラハム)の選びにあずかる民であるとしていました。ところが、今イスラエルは神が遣わされたメシア・キリストを拒否するという過ちによって神の救済計画から脱落しています。すなわち、枝が根から「切り取られた」のです。
 しかしパウロは、その脱落は「一部の者たち」であるとします。たしかに、イスラエルの中にイエス・キリストを信じて救済にあずかっている「残りの者たち」がいる以上、「切り捨てられた」のは全員ではなく、イスラエルの中の「一部の者たち」になります。「切り捨てられた者」と「残りの者」とどちらが多いか、数は問題になっていません。「残りの者」がイスラエルの一部であるように、切り捨てられた者も一部です。
 イスラエルの「一部の者たち」(実際は大多数)がその過ちによって脱落したことが、異邦諸民族への福音の招きとなり、異邦人が神の終末的な救済の祝福にあずかるようになったことを、パウロは「一部の枝が切り取られて、野生のオリーブであるあなたが代わりに接ぎ木され、オリーブの根の養分にあずかる者になった」という接ぎ木の比喩で語ります。
 普通、接ぎ木は頑健な野生の台木に、良い果実をつける品種の枝を接ぎ木するものです。パウロがここで用いている接ぎ木の仕方は逆になります。これは、パウロは都市生活者で園芸技術について正確な知識がなかったのか、あるいは、知識はあったが、一六節の根と枝の比喩に合わせるためにあえてこのような接ぎ木法を語ったかでしょう。おそらくは後者であると考えられます。実際の接ぎ木法がどうであれ、「根が聖であれば枝も聖である」という比喩の適用としては、イスラエルを聖なる根とし、異邦人を野生の枝とせざるをえません。なお、「接ぎ木される」という受動態は、行為者として神を含意しています。神が元の枝の一部を切り取って、野生のオリーヴの枝を接ぎ木されたのです。

 一世紀のローマの園芸書に、古くて疲れたオリーヴの木に野生のオリーヴの枝を接ぎ木して活性化する技法があったという報告もあります。パウロがそのような特殊な園芸技術を知っていたかどうか確認できませんが、パウロがここで用いている接ぎ木の比喩は、必ずしも無知の結果とは言えません。

 主が垣根をめぐらして(律法を与えて)養い手入れし、「美しい実の豊かになる緑のオリーブ」と呼ばれたイスラエル(エレミヤ一一・一六)は「もともとからの枝」です。それに対して、自分の道を勝手に歩むにまかせられた異邦諸民族は野に放置された野生のオリーブです。この野生のオリーヴである異邦人の兄弟たちに向かって、パウロは「野生のオリーブであるあなた」と呼びかけて、自分たちの立場をわきまえるように注意をうながします。
 一三節の「だが、わたしは異邦人であるあなたがたに言います」で始まるこの段落では、パウロは異邦人信徒に語りかけています。しかし、本節以降二四節まで、単数形の「あなた」を用い、エクレーシア内のユダヤ人と対立する異邦人全体を視野に入れ、全体を一人の人に代表させて呼びかけます。
 野に放置されて何のよき実を結ぶこともなかった「野生のオリーブであるあなた」が、切り取られた一部の元の枝に代わって接ぎ木され、「オリーブの根の養分にあずかる者」になりました。異邦人はもともと野に放置された野生のオリーブであり、イスラエルの歴史に接ぎ木された枝です。異邦人信徒はイスラエルの歴史の中に与えられた啓示と信仰を吸収することで、そのキリスト信仰を保持しうるのです。異邦人キリスト教がイスラエルの聖典である旧約聖書を正典として受容する根拠がここにあります。
 接ぎ木された野生の枝は、切り取られた元の「その枝に対して誇ってはなりません」。それは「誇っても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えている」からです。
 イスラエルが根であり、異邦人キリスト教はその根に接ぎ木された枝として生きることができるのです。根がなければ枝は生きることができません。そのように、イスラエルにおける神の救済の出来事がなければ、異邦人キリスト教は存在しえないのです。預言者たちによる創造者なる唯一の神と人間との関わり、この神による歴史の支配、約束の成就としてのキリストの出来事、使徒たちの派遣による福音の宣教など、これらの救済の出来事はすべてイスラエルの中で起こり、イスラエルを通じて世界に及んでいるのです。異邦諸民族は、このイスラエルの聖(神への所属)にあずかることによって、聖なる者(神に所属する者)となるのです。割礼を受けてユダヤ教徒になる必要はありませんが、キリストにあって神の民となったことは、無割礼のままでアブラハムの選びにあずかっているのです。
 ところが、異邦人キリスト者の中に、ユダヤ人が切り捨てられたのは自分たち異邦人が神の救済計画の中に取り入れられるためであり、そのことが起こった今はユダヤ人はもうその役割を終えて救済史の舞台から退場するのだという考えが芽生えていることを察知してか(あるいはそういう思いが生じることを警戒してか)、パウロはそのような高ぶった考えを打ち砕きます(あるいは予め防ぎます)。
 そのような考えを、「あなたは言うでしょう、その枝が切り取られたのはわたしが接ぎ木されるためであったと」(一九節)と、接ぎ木の比喩の延長として取り上げ、「その通りです」と認めた上で、「彼らは不信仰によって切り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。高ぶった思いを持つことなく、恐れなさい。 神が自然の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたを惜しまれることもないからです」(二〇〜二一節)と、やはり接ぎ木の比喩を用いて警告します。
 ユダヤ人は自分の義を立てようとして、キリストにおいて差し出された神の恩恵を拒否しました。彼らはその不信仰によって「切り取られた」のですが、「あなたは(恩恵を恩恵として受け取る)信仰によって立っています」と、異邦人信徒が神の民として立っている根拠を改めて思い起こさせます。それは、自分が立っているのは自分の価値とか資格によるのではなく、神の無条件絶対の恩恵によるのであることを思い起こさせて、「高ぶった思いを持つことなく」させるためです。
 ただひたすら恩恵によって立っているのであれば、少しでも不信仰の思いが入ってくるならば、すなわち自分の価値を主張する高ぶった思いが少しでも入ってくるならば、自分も切り取られるのだと「恐れなさい」と警告されます。その警告が、「神が自然の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたを惜しまれることもないからです」と、接ぎ木の比喩で確認されます。
 「自然の枝」とは、もともと父祖たち以来のイスラエルの歴史に連なっていたユダヤ人を指します。「神が自然の枝を惜しまれなかった」ことは、すでにバビロン捕囚の歴史が示しています。神は御自分に所属する民であっても、契約に背く場合は厳しく処断されます。この歴史を知るパウロは、今キリストを拒否しているユダヤ人がさらに厳しい審判に遭うことを予想していたのではないかと思われます(パウロがエルサレム神殿の破壊を予想していたかどうかについては後で取り上げます)。
 このように、「神が(もともとから根につながっている)自然の枝を惜しまれなかったとすれば、(まして後で接ぎ木された野生のオリーヴの枝である)あなたを惜しまれることもないからです」と接ぎ木の比喩で警告し、その比喩が次の「神の慈愛と峻厳を見なさい」という警告(二二〜二四節)に展開します。

神の慈愛と峻厳

 「ですから、神の慈愛と峻厳を見なさい。倒れた者に峻厳が向けられ、あなたには神の慈愛が向けられています。それはあなたが慈愛に留まるかぎりであって、そうでないなら、あなたも切り取られます」(二二節)。
 「神が自然の枝を惜しまれなかった」事実に、神の峻厳さが現れています。慈愛は神の本質として繰り返し正面から讃美されますが、神が神である以上貫徹せざるを得ない義の厳しさが見過ごされやすいものです。ここで慈愛の陰に隠れがちな峻厳に注意が向けられることになります。
 神はキリストを拒否したイスラエルに対しては厳しい面を現されましたが、キリストを受け入れた「あなた」には限りない慈愛を示されました。すなわち、もともと神に背き、神を求めることもしない異教徒であった「あなた」を、キリストにあって御自身の子として受け入れ、神の栄光を受け継ぐ者としてくださったのです。しかし、その神の子としての資格は、「あなたが慈愛に留まるかぎりであって」、「あなた」が信仰から離れるならば、すなわちもはや恩恵を恩恵として受け入れ、自分を無として神の慈愛にひれ伏すのでなければ、「あなたも切り取られます」ということになります。
 この恩恵の支配の原理は、今は不信仰によって切り取られているイスラエルにも適用されます。
 「しかし、彼らもまた不信仰を続けなければ接ぎ木されることになります。神は彼らを再び接ぎ木することができる方です」(二三節)。
 ユダヤ教は福音に対する不信仰のシステムとして否定され、ユダヤ人は神の救済計画から切り捨てられました。しかしユダヤ人が「不信仰を続けなければ」、異邦人と同じように「信仰によって」、再び救済史の担い手として神に受け入れられることになります。現在のユダヤ教の頑固な律法主義からすると、ユダヤ人がキリストの恩恵にひれ伏すようになる「回心」はあり得ないように思われます。しかし、人間には不可能に見えることも、神は成し遂げることができます。「神は彼らを再び接ぎ木することができる方です」と、ユダヤ人の回心をパウロは神の奇跡として待ち望んでいます。
 「もしあなたがもともと野生オリーブの木から切り取られて、自然の性質に反して栽培オリーブに接ぎ木されたとすれば、まして、もともとからの枝は元のオリーブに接ぎ木されないことがあるでしょうか」(二四節)。
 「栽培オリーブ」とは、人手によって手入れされ改良されて良い実をつけるようなったオリーブのことです。イスラエルは、神が喜ばれる実を結ぶように預言者たちによって教えられ、長年の歴史の中で鍛えられてきた神の民です。それに対して、異邦人はずっと偶像を拝むままに放置されてきた民です。現在の異邦人信徒は、そのような偶像に満ちた異教の世界から、キリストの福音によって突然切り取られて、生ける神の救済史に組み入れられ、神の民の一部となりました。このことが、「自然の性質に反して栽培オリーブに接ぎ木された」と表現されています。このように、異邦人が「自然の性質に反して」接ぎ木された(これは奇跡です)神の恩恵の働きを根拠にして、「まして、もともとからの枝は元のオリーブに接ぎ木されないことがあるでしょうか」と、ユダヤ人がキリストに回心することをパウロは確信することができるのです。
 ここでユダヤ人の救いが「再び接ぎ木する」ことと語られていることが注目されます。ユダヤ人はユダヤ教の継続とか完成の中で救われるのではなく、いったん切り取られた後、異邦人と同じく、神の恩恵によって接ぎ木されて救われると見られているのです。これは後に三〇〜三二節で、ユダヤ人も異邦人も同じく、一度は不従順のゆえに切り取られた後、神の恩恵によって救われるのであると明言されることを、接ぎ木の比喩で示唆していることになります。
 このように、現在のユダヤ教が神への不従順として否定され、ユダヤ教徒としてのユダヤ人はいったん切り捨てられて、改めて神の恩恵によって聖なる根に接ぎ木されなければならないとすると、この接ぎ木の比喩の出発点となった「根が聖であれば枝も聖なのです」という比喩の「根」が何を指すのかを、さらに厳密に考えなくてはならなくなります。
 この段落全体(一一〜二四節)は、異邦人の兄弟がユダヤ人の兄弟に対して高ぶらないようになるために、異邦人の兄弟たちに向かって書かれています。それで、「根」とは(異邦人に対して)イスラエルを指すと理解して、「世界は枝として根であるイスラエルの聖(神への所属)にあずかる」と書きました。しかし、現在(パウロの時代)のユダヤ教徒としてのユダヤ人がいったん切り取られて改めて接ぎ木されなければならないとすると、その「根」は現在のユダヤ教を含む全イスラエル史を指すことはできません。現在のユダヤ教とは区別される神の契約の民としてのイスラエルでなければなりません。
 両者がどこで区分されるのか、歴史的に正確に分けることはできませんが、ほぼ捕囚を境目にして、それ以前は預言者たちに導かれてヤハウェに所属する民として歩んできたイスラエルが、捕囚後はモーセ律法(トーラー)を基準とするユダヤ教団となっていったと見られます。歴史的に区分することは難しくても、原理的には、神に選ばれたアブラハムの子孫としてヤハウェとの契約に結ばれて生きたイスラエルと、現在のモーセ律法によるユダヤ教とは別のものとして区別することはできます。たしかに、ユダヤ教はイスラエルの歴史から生じました。しかし、パウロの時代のユダヤ教は、アブラハムの選びのゆえに神に所属するイスラエルの歴史とは違ったものになっていました。それだから、切り取られなければならなかったのです。
 そこで、この「根」を、地上のすべての民の祝福の源(根)として選ばれたアブラハム(創世記一二・二〜三)を指すと理解すれば、分かりやすくなるでしょう。アブラハムの信仰に従っている限り、イスラエルはこの根に「自然に基づいて」(二四節で「もともとからの」と訳している句の直訳)つながっている枝でした。しかし、一部のイスラエルは不信仰によって切り取られ、彼らに代わって「自然の性質に反して」野生のオリーヴである異邦人が、信仰によって、アブラハム(およびその選びを継承する真のイスラエル)という根に接ぎ木されました。今や異邦人を含むキリスト信仰の民が、ユダヤ教に代わってアブラハムの正統な継承者となったのです。

31 イスラエルの回復 (11章 25〜36節)

 25 兄弟たちよ、あなたがたが自分で自分を賢い者であるとすることがないように、この奥義について無知でいてもらいたくありません。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、入ってくる異邦人の数が満ちるまでであり、 26 こうして全イスラエルが救われることになるのです。こう書かれているとおりです。「あがなう者がシオンから来て、ヤコブから不信心を取り除くであろう。 27 そして、これは彼らに対するわたしからの契約となる、わたしが彼らの罪を取り除くであろうときに」。
 28 福音については、彼らはあなたがたのために敵となっていますが、選びについては父祖たちのゆえに愛されている者たちです。 29 神の賜物と召しは取り消されることはないからです。 30 あなたがたはかって神に対して不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けました。 31 それと同じように、彼らは今はあなたがたが受けている憐れみに対して不従順になっていますが、それは、彼らもまた憐れみを受けるようになるためです。32 神はすべての者を不従順の中に閉じこめましたが、それはすべての者を憐れむためであったのです。
 33 ああ、神の富と知恵と知識の深さよ。なんと神のさばきは究めがたく、その道は探りがたいことか。
34 「だれが主の思いを知っていたか。
   または、だれが主の助言者になったか。
35 または、だれがまず主に与えて、
   その報いを受けるであろうか」。
36 すべては神から出て、神により、神に向かう。栄光が永遠に神にありますように! アーメン。

神の救済計画の秘義

 パウロは引き続いて異邦人の兄弟たちに呼びかけます。「兄弟たちよ、あなたがたが自分で自分を賢い者であるとすることがないように、この奥義について無知でいてもらいたくありません」(二五節前半)。
 パウロはここで、これまでに述べてきたこと、とくにイスラエルの回復について語ったことを「この奥義」と呼んでいます。「奥義《ミュステーリオン》」は、もともと黙示思想の用語で、パウロはこことコリントT二・一、一五・五一の三箇所で用いています(コロサイ書とエフェソ書では計六回用いられるようになり、中心的な位置を占めることになります)。
 黙示思想においてこの《ミュステーリオン》という語は、人間の目には隠され、神の御旨の奥に秘められた救済計画を指しています。また、人間には通常知ることが許されていない天界の実相を指しています。普通、このような隠された計画とか天界の実相が、選ばれた特別の個人に天使によって啓示されたのだとして、それが文書に書き記されて、ダニエル書とかエノク書のような黙示文書となります。

 新共同訳は《ミュステーリオン》を「秘められた計画」と訳しています。ここやコリントT一五・五一ではぴったりの訳語ですが、コリントT二・一やコロサイ・エフェソ書ではもう少し広い意味で用いられていますので、「奥義」とか「秘義」という訳語が適切であると考えます。なお、当時のヘレニズム世界では、《ミュステーリオン》は、それにあずかることによって救済が保証される秘密の儀式(密儀、秘儀)、またはそのような儀式をもつ宗教を指していましたが、パウロが用いる《ミュステーリオン》は、このような密儀とは関係がなく、あくまでユダヤ教黙示思想の用語としての《ミュステーリオン》です。

 パウロも「第三の天にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」という体験をしています(コリントU一二・二〜四)。この体験は、わざわざ「十四年前」と日付を特定していることからも、パウロにとって忘れることができない(おそらくダマスコ体験と並ぶ)重大な出来事であったと推察されます(コリント書執筆の十四年前というとパウロがアンティオキア集会で指導的な宣教活動をしていた時代です)。この体験によって、神の御旨の奥に秘められた救済計画がすべて設計図を渡すように示されたのではないでしょうが、パウロがダマスコ体験以来復活者キリストとの聖霊による交わりの中で深めてきたキリストの奥義《ミュステーリオン》が確認され、それが後にパウロ書簡に語られるようになる革命的なキリスト理解を命がけで主張するようにさせる原動力となったのではないかと、わたしは推察しています。
 このような形でパウロに与えられた「奥義」の啓示の中に、ここに語られているイスラエルの最終的な回復とか、テサロニケ書T(四・一三〜一七)やコリント書(T一五・五一〜五二)で語られている主の来臨にさいして起こる出来事など、終末に関する神の御計画が含まれることになります。パウロは、イスラエルの将来に関する異邦人の兄弟たちの思い違いや思い上がりを防ぐために、イスラエルの回復について自分が示された「奥義」《ミュステーリオン》を提示します。
 その「奥義」とはすなわち、「イスラエルの一部がかたくなになったのは、入ってくる異邦人の数が満ちるまでであり、こうして全イスラエルが救われることになる」ということです(二五節後半〜二六節前半)。

 パウロはテサロニケT二・一五〜一六で厳しくユダヤ人を断罪しています。それとこのローマ書の箇所が矛盾するので、パウロの考えが変わったのだとか、テサロニケ書の箇所は後の挿入であるとか説明されます。しかし、これは矛盾ではありません。ローマ書一一章ではイスラエルと異邦人の対比における救済史について、パウロの基本的な理解が述べられているのに対して、テサロニケ書では異邦人への福音宣教を妨害する(一部の)ユダヤ人勢力に対する弾劾を表現しているだけです。両者は次元が違います。

 現在イスラエルがキリスト・イエスをかたくなに拒否しているのは、「御自身が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」神が、彼らをかたくなにされたからだ、とパウロは言いました(一一・七)。しかし、かたくなにされたのはイスラエルの一部の者であって、イスラエルの中にも少数ながら「残りの者」が残されて、キリスト・イエスにおいて与えられている神の救済の働きを担い続けています。「イスラエルの一部がかたくなになった」のは一時的な(過渡的な)現象であり、彼らをかたくなにされた同じ神が、時が満ちると、今度はイスラエルを憐れみ、イスラエルの全員を救われる時が来る、というのです。そして、その時とは「入ってくる異邦人の数が満ちるまで」と規定されます。
 先に見たように、「数が満ちる」というのは、黙示思想の考え方です(94頁の注を参照)。パウロは、イスラエルが神の救済計画の変わることのない担い手であることをつゆ疑っていません(一一・二九)。異邦諸民族は、そのイスラエルを担い手とする神の救済計画に外から「入ってくる」ことによって、その御計画にあずかるのです。パウロは、自分の異邦人伝道を、「異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる献げ物となるために」祭司の務めを果たしているのだとしています(一五・一六)。パウロが異邦人伝道に励むのは、(先に述べた同胞を奮起させるためだけでなく)神が定められた異邦人の数が満ちて、イスラエルが憐れみを受ける時が早く来るようにという願いからです。
 異邦人の数が満ちるとき、今はイスラエルの一部の者だけが憐れみを受けて救われているのが、その時には「全イスラエルが救われることになる」のです。ただ、「全イスラエル」が救われるというのは、民族の全員という意味ではなく、「イスラエルの数が満ちる」ことを意味します。先にパウロは、「もし彼らの過ちが世の富となり、彼らの脱落が異邦人の富となったのであれば、彼らの数が満ちることはどれほどの富となることでしょうか」(一二節)と言いました。その「彼ら(イスラエル)の数が満ちること」を指します。
 イスラエルの場合も異邦諸民族の場合も、「すべてが救われる」というのはその全数が救われるという意味ではなく、神が定められた数が満ちることを指しています。ところで、その数はわれわれ人間は定めることも知ることもできません。神だけがいつその数が満ちたかを定められます。わたしたちにできることは、福音を宣べ伝えることによって「数が満ちる」ように励むことだけです。いつ満ちたか、その時は誰も知ることはできません。神がこれで異邦人の数が満ちたとされる時に、イスラエルは憐れみを受けて、彼らに定められた数が満ちるように導かれ、イスラエルと異邦人の両方を含む神の救済計画は完成することになります。

異邦人の時代

 この「全イスラエルが救われることになる」という出来事は預言されているとして、「こう書かれているとおりです」と、ここでも聖書が引用されます。
 「あがなう者がシオンから来て、ヤコブから不信心を取り除くであろう。そして、これは彼らに対するわたしからの契約となる、わたしが彼らの罪を取り除くであろうときに」(二六節後半〜二七節)。
 これは、(七十人訳ギリシア語聖書の)イザヤ書五九・二〇〜二一とイザヤ書二七・九からの混合引用です。この引用は、神ご自身がイスラエルのかたくなな心を打ち砕いて回心させてくださる時が来ることを強調しています。イスラエルの一部が切り取られたのは不信仰によるのですから(二〇節)、神が「あがなう者」を遣わして、イスラエルの民から罪を取り除かれる、すなわち不信仰を取り除かれるとき、イスラエルは信仰によって再び元の根に接がれることになります。パウロはここで「不信心」という預言者の語を、パウロが言う「信仰」の意味で理解して用いています。

 この聖書引用で、「あがなう者がシオンから来て、ヤコブから不信心を取り除くであろう」は、七十人訳ギリシア語聖書のイザヤ書五九・二〇からの引用ですが(ヘブライ語聖書は少し違います)、イザヤ書の「シオンのために」が「シオンから」に変えられています。当時のユダヤ教では、イザヤ二・二以下やミカ四・一以下の預言により、メシアはシオンから来ると信じられていました。この待望は黙示思想にも引き継がれています(ラテン語エズラ記一三・三五以下など)。パウロは時代のメシア待望の用語を用いて、自分の聖書理解を自由に表現しています。

 パウロは、自分の異邦人伝道により「異邦人の数が満ちる」時が来て、イスラエルが回復すると考えていたのではないかと推察されます。パウロはキリストの来臨《パルーシア》を語るとき、いつも自分をその時地上に残っている者の中に入れています(コリントT一五・五二)。パウロは、自分の世代の中にイスラエルの回復を含む救済史の完成が起こると確信して、異邦人伝道に励んだのではないかと見られます。この手紙を書いている時から僅か十数年後にエルサレム神殿が破壊され、ユダヤ人が異邦諸民族の中に散らされるようになることは予想していなかったようです。

 パウロが終末に関するイエスの語録伝承を用いていることを示唆する箇所は僅かながらあります(たとえばテサロニケT五・二〜三)。しかし、パウロはエルサレム神殿の崩壊を予言されたイエスの語録を知らなかったのか、知っていて触れることをしなかったのかは確認できません。パウロとイエスの語録伝承との関係は未開拓の分野のようです。

 ところで、この「異邦人の数が満ちるまで」という事柄が言及されている重要な箇所がもう一つあります。それは、イエスがエルサレム神殿の崩壊を預言し、それに重ねて世の終わりのことを語られたとして伝えられている「イエスの終末預言」(マルコ福音書一三章とその並行箇所)の中で、ルカはエルサレム滅亡の様子を具体的に描いた後、次のように書いています。
 「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」(ルカ二一章二四節後半)。
 この言葉はルカだけにある語録で、マルコとマタイの並行箇所にはありません。この語録にはルカの時代の教団の救済史理解が反映しているとみられます。ルカがその福音書を書いたのは、エルサレム神殿が崩壊してからすでにかなりの年数(短くて十数年、長ければ数十年)が経っています。シオンは荒廃し、イスラエルの民は四散しました。ルカはその出来事をかなり以前の過去の出来事として見る立場にいます。もはやパウロのように、自分たちの世代の中にイスラエルが回復されるという希望を持つことができない状況です。そのような状況で、「異邦人の数が満ちるまで」の時期は、世界の諸民族に福音が宣べ伝えられて、すべての民族がイスラエルの神に帰すようになるまでのかなりの期間が予想されるようになり、その期間は「異邦人の時代」と呼ばれることになります。その呼び方は、救済史の担い手がもはやイスラエルではなくて異邦人に移ったことを意識しています。そして、その「異邦人の時代が完了する」までは、イスラエルは救済史の担い手としての地位から除外され、その聖都エルサレムは異邦人の勢力下に置かれることになると預言されます。エルサレムが異邦人の支配下に置かれることは、異邦人が救済史を担う「異邦人の時代」を象徴することになります。

 このルカの一節を根拠にして、現在のイスラエル国家がエルサレムをアラブ人の手から奪回することが「異邦人の時代」を完了させ、キリストの来臨を促進することになるのだとして、現代のパレスチナ紛争において政治的・軍事的にイスラエルを援助するべきであると考えるキリスト教の人たちが(とくにアメリカに)いるようです。このような聖書の原理主義的理解は危険であり、霊的信仰によって克服しなければなりません。しかし、この問題はローマ書講解の枠を超えますので、別の機会に触れることにします。

 このように、七十年のエルサレム神殿の崩壊を境として、その前のパウロとその後のルカでは、救済史におけるイスラエルと異邦人の関係の見方が変わってきていることがうかがわれます。しかしパウロは、イスラエルの現状がどうであっても、あくまで救済史の担い手の中核はイスラエルであり、異邦人はイスラエルを核とする救済史に外から「入ってくる」ことによって、救済にあずかるという基本路線を変えることはありません。そのことが次の一段(二八〜三二節)で改めて取り上げられ、それを実現する原理としての「恩恵の支配」が賛美されます。現代のわたしたちも、このパウロの原理をしっかりと受け継いで、異邦人キリスト教世界がユダヤ人に対する対応を誤らないようにする必要があります。

救済史の原理

 「福音については、彼らはあなたがたのために敵となっていますが、選びについては父祖たちのゆえに愛されている者たちです。神の賜物と召しは取り消されることはないからです」(二八〜二九節)。
 ここで改めて、イスラエルが神の遣わされたメシア・キリストを拒否している事実が、二つの別の視点から見られて、その意義が語られます。同じ事物や事実も、それを見る視点とか視角が変わると、別の様相を呈し、別の意義を示します。
 まず「福音については」と言って、福音の視点からこの事実が見られます。この場合の「福音」は、(福音という語の二つの意味の中で)キリストにおける救いを告知する言葉の内容ではなく、救いを告知する働きを指しています。神が使者を遣わして世界にキリストの救いを告げ知らせる働きを進めるという視点から見ると、「彼らはあなたがたのために敵となっています」、すなわち、異邦人にその使信が及ぶようになる機縁となるために、イスラエルはキリストの敵となっているのです。これはすでに先の段落(一一〜一五節)で繰り返し語っていました。
 それに対して「選びについては」、すなわち神の選びという視点から見ると、イスラエルはその「父祖たちのゆえに」、すなわち彼らがアブラハム・イサク・ヤコブらの子孫として、神から特別に目をかけられている選ばれた民である事実は変わらないのです。ここでの「愛されている」は、他の民とは違う仕方で特別に目をかけられ、取り扱われている(九・四〜五)という意味に理解してよいでしょう。
 神は多くの民の中からアブラハムを選び、彼の子孫に特別の使命を与え、それに伴う祝福をお与えになりました。その「神の賜物と召しは取り消されることはない」のです。神がひとたび約束の言葉をアブラハムにお与えになった以上、神の約束は取り消されることはありません。神の言葉は無効になることはありえません(九・六〜八)。イスラエルが現実にどのようにかたくなにキリストを拒否していても、イスラエルが神の救済史の担い手であり続けることに、パウロはいささかの疑念も持っていません。それは、神の信実に基づいているからです。
 このように見てきますと、イスラエルと異邦人は結局救済史においてどのような関係に立つのでしょうか。ここまでに述べたことを総括して、パウロは、イスラエルと異邦人との区別の中で進められてきた神の救済史の根本的原理を見事に取り出します。
 「あなたがたはかって神に対して不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けました。それと同じように、彼らは今はあなたがたが受けている憐れみに対して不従順になっていますが、それは、彼らもまた憐れみを受けるようになるためです。神はすべての者を不従順の中に閉じこめましたが、それはすべての者を憐れむためであったのです」(三〇〜三二節)。

 三〇節の「彼らの不従順」は三格の名詞で、手段を示す三格と理解できます。三一節の「あなたがたが受けている憐れみ」も同じ三格の名詞だけですが、ここを同じように「彼らが受けている憐れみによって」とすることは、文意の上からできません。NRSVは、その意味で訳した上で、後続の「彼らも憐れみを受けるようになるため」という目的節を修飾させていますが、これは構文上かなり無理です。ここの三格は「に向かって」とか「に対して」という意味に理解すべきです。パウロはここ(二八〜三二節)で、イスラエルと異邦人について、同じ前置詞(二八節の《ディア》)や構文を使いながら、微妙な意味の違いを含ませ、緊張感のある文を書いています。なお、三一節には「今」という語がある写本とない写本があり、底本は括弧に入れています。入れるとすれば、「今やイスラエルが憐れみを受ける番だ」という意味に理解できるでしょう。

 「あなたがた(異邦人)はかって神に対して不従順でした」。イスラエル以外の異邦諸民族は、これまでイスラエルの神とは無縁のままに歩むように放置されてきました。彼らはおのれの好むままに偶像を拝み、イスラエルの神を知らず、その御旨を求めることはありませんでした。イスラエルの神を唯一のまことの神とする立場からすれば、これは「神に対する不従順」です。その不従順の異邦人が、今はキリストにあって無条件で与えられている神の恩恵を受けて救われ、神の民となっています。そのことをパウロは、聖書の伝統に従って「憐れみを受けた」と表現します。何の資格も功績もないのに、神の恩恵によって無条件に救われたのです。それは、先にも見たように、イスラエルの不従順が機縁となって、福音(キリストの救いを告げ知らせる神の働き)が異邦人のところに来た結果でした。
 「それと同じように」、すなわち不従順のあなたがた異邦人が恩恵によって救われ神の民となったのと同じように(三〇節)、「彼らイスラエルもまた」、不従順の民として神の恩恵によって救われ神の民となるのです(三一節)。異邦人が恩恵の原理で神の民とされたのと同じく、イスラエルもまた恩恵の原理で神の民となるのです。三〇節と三一節は、「それと同じように」という句で結ばれて、正確に対応しています。
 ただ、異邦人の不従順は自明のこととして、何の説明もなく「あなたがたはかって神に対して不従順でした」と記述されましたが、イスラエルの不従順は「今はあなたがたが受けている憐れみに対して不従順になっています」と、説明がついています。イスラエルは、神の御旨を示す律法を与えられて、その律法を順守することによって義を追求し、神の民であることを追い求めました。その立場に固執したために、キリストにおいて提供された無条件の恩恵による義に対して反発し、それによって神への不従順に陥ったのです。まさに、異邦人が受けている質の恩恵に対して不従順となったのです。「憐れみを受ける」、すなわち恩恵を受けるとは、自分の価値、資格、功績をすべて否定することですから、「律法の義」を追い求めた当時のユダヤ教は、恩恵の支配を受け入れることができなかったのです。
 たしかに「イスラエルは今は不従順になっています」。しかし、イスラエルが「今不従順である」のは、「彼らもまた憐れみを受けるようになるため」です。すなわち、イスラエルがもはや自分の律法の行いという価値とか資格によるのではなく、恩恵の原理によって神の民となるためです。不従順の民として神の民としての資格が否定されなければ、「恩恵による」という原理は成立しないからです。
 異邦人が恩恵によって神の民とされたこと(三〇節)と、イスラエルもまた恩恵によって神の民となること(三一節)をまとめて、パウロは救済史の原理を喝破します。
 「神はすべての者を不従順の中に閉じこめましたが、それはすべての者を憐れむためであったのです」(三二節)。
 神はかってアブラハムとその子孫イスラエルを御自分の民として選び、その他の諸民族を無知と不従順の中に放置されました。今はそのイスラエルを頑なにすることによって不従順の中に閉じこめておられます。パウロは(これまでに見てきたように)現在のイスラエルのキリスト拒否を、神が彼らをかたくなにされた結果であると見ています。こうして神は「すべての者」、すなわち異邦人もイスラエルも等しく「不従順の中に閉じこめました」。それは、異邦人もイスラエルも、世界の万民を恩恵によって救うためです。神は恩恵によって人を救う神であることを示すためです。救済史を形成する原理は「恩恵の支配」であることを示すためです。
 こうして、八章までの第一部と第二部で、人間の救済の原理として明らかにされた「恩恵の支配」は、イスラエルと異邦人との対比の中で進められる世界の救済史の秘義を語る第三部(九〜一一章)においても貫かれ、パウロの福音の根本原理であることがいよいよ明らかになります。

結びの賛美

 ここまで書いて、パウロは世界の創造者としての神が、その神から離反している世界を救い完成される仕方が、いかに人の思いを超えたものであるか、この救済史の秘義《ミュステーリオン》の前に、「神の富と知恵と知識の深さ」に感嘆・賛美の声をあげて第三部(九〜一一章)全体を締めくくります。ここの賛歌(三三〜三六節)は、御霊に溢れてパウロの唇から自然に溢れ出た賛美の歌であり、霊歌の一種です。かたくなにキリストを拒むイスラエルに対する悲痛な心情の吐露から始まった第三部は、イスラエルの回復の希望に達して大いなる賛美の歌で閉じられます。パウロは御霊によって叫びます。
 「ああ、神の富と知恵と知識の深さよ。なんと神のさばきは究めがたく、その道は探りがたいことか」(三三節)。
 ここで、神の富と知恵と知識の「深さ」が感嘆賛美されていることが注目されます。すでにヘレニズム期のユダヤ教は、ギリシア思想との遭遇によって知恵思想を深めていましたが、その中で真の知恵を獲得することの難しさや、神の知恵が人間には及びがたいことが、「深さ」の表象で語られていました(たとえばヨブ記二八章)。とくに知恵思想の流れ中で預言者たちの終末的希望を救済史的理解に変容した黙示思想において、「神のさばきは究めがたく、その道は探りがたい」ことが、神の知恵の深さとして強く意識されるようになっていました(たとえばシリア語バルク黙示録一四章、とくに八〜九節)。パウロもユダヤ教の知恵思想や黙示思想の流れに棹さす者として、このような賛美を共有していますが、今キリストにあって与えられた救済史の秘義を語ることで、改めて神の富と知恵と知識の深さに驚嘆し、賛美の声をあげます。神の奥義は、その中の僅かでも啓示を与えられて理解するようになると、ますますそれが人間には及びがたい知恵であることが強く意識されるようになるという性格のものです。
 パウロの賛美は、おのずから聖書にある主への賛美の言葉を用いて溢れ出ます。
 「だれが主の思いを知っていたか。または、だれが主の助言者になったか。または、だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(三四〜三五節)。

 三四節の「だれが主の助言者になったか」は、イザヤ書四〇・一三(七十人訳ギリシャ語聖書)からの引用です。三五節の「だれが・・・・受けるであろうか」は出典不明ですが、ヨブ記三五・七、または四一・三が考えられます。

 「まず主に与えて、その報いを受ける」というのは、ここでは知恵との関連で語られています。すなわち、主に助言を与えて、それにより行動される主の働きの実を受け取ることですが、そんなことができる者は人間の中にはいません。この言葉は神の恩恵の豊かさを示す表現にもなります。人間は誰も、まず神への奉仕とか自分の善行を神に捧げて、その報酬として祝福を受けることはできません。神はその豊かさの中から、資格のない者に一方的によいものを与えてくださる方です。この恩恵の原理は、知恵との関連でも同じで、人間は誰も神に知恵の助言を与えて、その報いにあずかるのではなく、神が一方的に知恵を与えて下さる分だけ、すなわち啓示された分だけ、知恵を受けることができるのです。
 このように神の知恵に対する驚嘆と賛美の声を上げた後、神への大賛美によって、この救済史の秘義に関する論述(九〜一一章)を閉じます。
 「すべては神から出て、神により、神に向かう。栄光が永遠に神にありますように! アーメン」。(三六節)。
 「すべて」というのは、天にあるものと地にあるもの(霊界と自然界)のすべてというだけでなく、歴史上の出来事と歴史を越える出来事のすべて、すなわち救済史上の出来事のすべてという面を含むことを見逃してはなりません。とくにここでは、存在するものすべてが「神から出て、神により、神に向かう」というような存在論的な宣言とか賛美ではなく、時間の中で世界に起こる出来事のすべてが、「神から出て、神により、神に向かう」と賛美しているのです。これは救済史的な賛美です。たしかに「神のさばきは究めがたく、その道は探りがたい」のです。しかし、神を信じるとは、いっさいの出来事が「神から出て、神により、神に向かう」と信じて、神を賛美すること、その信仰と賛美の中に生きることです。
 パウロの場合、そしてわたしたちの場合、いっさいは「キリストにあって」起こります。この賛美はやがて、コロサイ書、エフェソ書、さらにヨハネ福音書の序詩において、すべてがキリストから出て、キリストによって成り、キリストに帰してゆくというキリスト賛歌という形を取ることになります。